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抑圧された秩序と秩序無き自由(2)

 


 


Ⅱ 戦後民主主義のダブルバインド


 


 日本は敗戦によって戦前の社会がいったん滅び、アメリカ的民主主義の洗礼を受けて再生した、というのが戦後日本社会に対する世間一般のイメージ(私に言わせれば一つの神話だが)だろう。確かに「焼け跡の青空」のイメージは、それまであったものが消滅したという印象を与える。だが、実際には、戦後の社会を作ってきたのは戦前と同じ人間である。なぜなら、敗戦後の日本においても社会の上層部にいたのは「戦争に行かなくて済んだ人間たち」であったからだ。確かに戦争協力者の一部は公職追放などの罰を受けて、一時的に社会の表舞台から退場した。しかし、ほとんど全部の成人男子が戦争協力者であった以上、この措置が形式的なもの以上になるはずはなかったのである。むしろ、「私は貝になりたい」のような映画に描かれたように、真の戦争犯罪者はその地位を利用して罪を逃れ、不運な下っ端が処刑されたことも多かっただろう。小佐野賢治などがその代表だが、戦争によって利益を得た実業家や、国民を戦場に追いやり、死に至らしめた政治家や官僚のほとんどは、そのまま戦後の日本社会で新たな富や地位を作る競争に有利なスタートを切ることができたのではなかっただろうか。


 太宰治の「斜陽」に描かれたような華族の没落などもむろんあっただろうが、それも単に一部の人間の贅沢な特権が奪われただけのことに過ぎない。もともと根拠の無い世襲的特権を剥奪されたことに、同情するには及ばない。国民全体の悲惨な運命の中で、何も彼らだけが理不尽な運命にさらされたわけではないのである。むしろ真の悲惨は、何も持たない下層階級の中にあったはずである。最初から何も持たなかった貧民階層の多くの人間は、戦後の飢餓状態の中で無数に死んでいったのではないだろうか。そして、そうした人々は、日本人の体質として、「お上」に向かって不満の声を上げることも無く、従順に死んでいったのである。この体質は、現在でも変わってはいない。日本人は、政治を自分の問題として考える習慣が無いのである。それが諸悪の根源なのであるが。


 日本の戦後社会は表面的には「日本国憲法」や「民主主義的教育」によって大きく様変わりしたように見える。しかし、権力と経済の実態面ではほとんど戦前の利権構造を残したままだったのではないか、というのが私の推測である。戦後五十数年もたてばだいぶ様変わりはしただろうが、現在の政治家、官僚の家系の中にも戦前からの政治家、官僚の家系も多いはずだ。問題は、戦前からの有力者は、戦後の時代でもやはり有利なスタートを切っていたことに、多くの人が気づいていないことである。そして、現在の「階級」の土台は、その時期に形成されているのである。実業の世界はそれよりはもう少し実力主義的世界ではあるだろうが、やはり主要銀行を始めとして、戦前の財閥と関係の深い所も多いだろう。つまり、日本は見えない身分社会なのである。学歴競争の勝利者の中から日本の上層部に入り込む人間も多少はいるかもしれないが、それも会社で言えば係長クラス、相撲にたとえれば、せいぜい十両くらいまでであろう。彼らは、確かに日本の社会を動かす主要な歯車になるが、しかしあくまでそれは道具的な存在でしかないのだ。


なぜ敗戦によっても日本の社会構造が変化しなかったか、というと、第一には戦前に社会の支配的立場にいた人間の多くは戦場に行くことなく、そっくりそのまま生き残ったということ。次に、戦後の産業の復興もまずは戦前から存続した産業を元にして始まったことが原因である。この状況では当然、戦前から指導的立場にいた連中が主要な地位を占めたはずである。仮に表向き権限委譲がされても、実際には院政的支配が行なわれていたのではないか。官僚の中でも公職追放されたのは運の悪い一部の人間だけで、多くは官僚としての技能やキャリアを買われて、そのまま戦後の政府や地方自治体の中で地位を見つけただろう。というのは、日本社会は縁故社会であり、戦後、職を失った人間は、まず自分の元の職場の知り合いに頼んで元の職に復帰させてもらったと思われるからだ。つまり、日本社会の基本構造は、戦争によっては何も変わらなかったのである。戦争で死んだ無数の兵士たちは、戦場に行かなかった老人や、その縁故者たちの犠牲になっただけの死に損だったのであり、彼らの死によって今の日本があるなどと賛美するのは、お門違いもいいとこだ。むしろ、あの戦争を美化することによってあの戦争への反省が消えてしまう事こそが、彼らの死を犬死ににしてしまう事になるだろう。


 かくして、戦前の体制はしぶとく生き延びたが、それでも戦後しばらくの間は、GHQによって、戦争に反対した共産主義者や社会主義者の刑務所からの解放などが行われ、日本は民主主義国家としての道を歩み始めたかに見えた。しかし、ソ連の経済発展によって恐怖を感じたアメリカの資本家たちの策謀で、アメリカはすぐにヒステリックな共産主義排斥思想一色に染まり、その波は日本にも押し寄せた。日本を「反共の砦」にしようとする米政財界の意向を受けて行なわれた、朝鮮戦争前のレッドパージ(共産主義者の公職追放、弾圧)や戦争犯罪人の釈放、公職復帰などのいわゆる「逆コース」によって日本は戦前の体制に完全に戻ってしまったのである。日本を戦争に向かわせ、数百万の国民の命を奪った政治家や官僚たちがのうのうと政治の表舞台に復帰し、国民もむしろそれを歓迎するかのごとくであった。たとえば、ノモンハンや東南アジア戦線で幾万人もの日本兵を無駄死にさせた張本人である大本営参謀T.Mなどが国会議員に立候補し、当選したりしているのである。同じく戦争推進者の一人であるK.Nなどは日本の総理大臣にまでなっている。日本人がいかに忘れっぽく、大衆宣伝に踊らされ易いかは、この一事でも分かる。この時期に、日本政治のこの自殺行為について発言しなかった知識人階級の責任は重い。とは言え、他人の戦争責任を言えば、自分の戦争責任を問われかねない状況で、他人を批判できるような人間も少なかったであろうことは理解できる。しかしながら、日本社会を腐らせ、ほとんど倫理的な死を招いて無道徳社会を作る真の原因になったこの出来事に対する名称としては、「逆コース」などという言葉はあまりに軽すぎる。はっきりと「日本支配者層復活」と言うべきだったのである。かくして戦前の社会のエートス(気風)を残した人間たちが政治と経済の中枢に残ったまま、日本は表向きだけは民主主義国家を標榜し、この偽りを抱いたまま戦後五十数年を過ごすことになり、そのダブルバインド(二重拘束)が日本を神経症的国家にしていったのである。


 さて、GHQは、日本占領の初期には、日本を民主化しようという無邪気な善意に溢れていた。その作業の一つが日本国憲法であった。ここで、覚えておくべきことは、憲法は国の法律の根幹ではあるが、実施細則、すなわちその他の法律のほとんどは当時の官僚たちによって作られたということである。さすがのGHQも、そうした法律の細部までいちいちチェックしていたわけではない。そこで、当時の官僚たちは、自分たちの人民への支配権を維持するために、内閣法の中に官僚による法律提案権を忍び込ませた。これは「国会は国の唯一の立法機関である」という日本国憲法に違反するものだが、「提案」くらいならいいだろうと大目に見られたものであろう。しかし、この事が、国の進路を大きく誤らせることになったのである。行政官僚はもともと法律のプロの集団である。昨日まで町の土建屋やテレビタレントであったような国会議員たちが法律作成能力において彼らに太刀打ちできるわけがない。かくして、今では内閣提出の法律案が、議員立法の法案をはるかに圧倒して採用されているのが現実だ。つまりは、日本は三権分立の国ではなく、官僚支配の国なのである。このあたりは、宮元政於の「お役所の掟」と、「お役所のご法度」および、「お役所のご法度」の伊丹十三による解説に詳しい。ついでに言うと、この二人の死には、得体の知れない部分があるように私には感じられる。


 ともあれ、形式的には、日本国憲法によって日本国民は天皇の所有物であることから解放され、自由と人権を手に入れたと言っていい。日本国憲法の真の意義はここにあるのである。もちろん、戦前の社会で天皇が国民を奴隷扱いしていたわけではない。しかし、国の主権が君主にあるということは、国民の生殺与奪の権が君主にあるということなのである。つまり、国民すべてが君主の私有物であると言うに等しいのだ。人権と国民主権とは表裏の関係にあるのであり、民主主義以外には人権尊重の思想は無い。君主主権とは、極端に言えば政治の最終決定権が君主にあることであり、現実問題として、君主が自分の都合によって如何様にでも法律を変えられるということなのである。それが主権の本当の意味だ。その君主がいかに慈悲深く賢明な君主であろうとも、君主制は根本的に人道的に誤った政治体制なのである。


 日本国憲法によって我々は自分の体が自分の物になった。そして、自由と人権が一応は大幅に拡大した。だが、問題は、日本的現実の中で、日本国憲法は実効性を持ちえたかということである。我々は中学校や高校の社会科教科書の中で日本は民主主義国家だと教えられ、日本国憲法によって自由と人権が保障されていると学んできた。しかし、それと同時に、たとえば憲法第九条が自衛隊の存在によって公然と無視されていることを現実から学ぶのである。このことは、法律の根本である憲法が政府によって公然と破られていることを示している。つまり、法律とは守らなくてもいいものだと我々は暗黙のうちに教えられるのである。誰でも、こう思うだろう。政府が率先して法律を破っているのだから、法律というものは守る必要は無いのではないか、と。もちろん、法律を破れば刑罰がある。しかし、見つからないように破るならいいのではないか。その証拠に、道路のスピード制限を守っている車などほとんど存在しないではないか。見つかって罰を受けるのは運の悪い人間であり、みんな法律など破っているのだ。政治家の選挙違反にしても捕まるのはライバル政治家の策謀によるものであり、みんな選挙法違反はしているのだ。これが、日本人の大半の法意識だろう。


 このような法意識を持った人間の集合が法治国家になるはずはない。かくして日本は権威に対する信頼も無く、法律を自主的に守ろうという姿勢も無い、前代未聞のアモラル(無道徳)な社会となったのである。このような社会では自分を守るのは自分しか無い。そして、資本主義社会においての力とは金である。とすれば、小学生から老人に至るまで金の獲得に目の色を変える拝金社会となるしかないだろう。


 これははたして「民主主義」の結果なのだろうか。けっしてそうは言えないはずである。日本社会の無道徳さは、官僚、政治家、財界人、マスコミ関係者ら社会のトップたちのこの五十何年間の無道徳さを見習ったものでしかない。民主主義とは何の関係も無いものだ。


 国民の大半は、日本が動かしがたい階級社会であることを薄々感じており、そのほとんどの人間は、どのようにあがいても社会の中流以上には行けないことを感じている。その意識は特に青少年に強いだろう。学業優秀な一部の生徒は、まだ学歴競争の勝者になることを夢見て素直に努力するだろうが、国民の大半を占める凡人たちはどう生きていけばいいというのだろうか。為政者たちは彼らに果たして希望ある未来を示すことができるだろうか。現在では、もはやどんな人間でも努力次第で才能を身につけることができるなどという御伽噺を信じている青少年はいないだろう。その御伽噺を信じているのは一部の聖人君子的(または白痴的)教育関係者だけである。何の才能も無い人間でも、善良な人間なら幸福な人生を送ることができるということを果たして政府は約束できるだろうか。できるはずはない。なぜなら、資本主義社会とは冷酷な競争社会だからである。善良さによっては現代社会は生きてはいけない。善良なだけで、単純労働しかできない人間なら、ロボットに変えた方が経営者にとっては有利だろう。つまり、凡人に未来は無い。その一方では、一部の人間が時流に乗るだけで、あるいは不正な操作をするだけで巨額の金を稼ぎ出す、現代はそういう時代である。様々なコマーシャルで欲望は肥大し、しかし、自ら金を稼ぐ才覚は無いという無数の人間を日々に生み出しているのが現代社会である。これで犯罪者の数が幾何級数的に増えないほうがおかしいだろう。


 しかし、この状況を変えることがまったく不可能なわけでは無い。まずは日本の表向きの「民主主義」と、その底流に流れる「皇国思想」の現実を見抜くことである。あるいは、人間を産業奴隷としてしか扱わない資本主義の現実を見ることである。賢い人々なら、この現実の誤りに気づけばいくらでも改善の方法を提出してくれるだろう。官僚や政治家の中にもそういう優秀な人間はたくさんいるはずだ。今の彼らはけっして認めないだろうが、現在の日本の道徳的荒廃は、民主主義の結果などではなく、「資本主義」あるいは、それまでの政治を変えることを望まない強力な社会システムの結果なのである。そもそも、現実に問題があるならば、その責任は政権担当党と行政担当者にあるはずである。それはつまり、保守政党と保守政権による内閣ではないか。いったい、これまで本当には実現されてもこなかった「民主主義」に何の責任があるというのか。


 世の中の二重規範、つまり本音と建前、あるいは教科書的記述と現実社会との相克によってもっとも苦しむのは青少年たちである。


 公害や、過労死や、兵器の在庫整理のための戦争に見られる、利益のためには無数の人命も平気で犠牲にし、人間を使い捨てにする社会の現実と、教育関係者を中心とする口先だけのヒューマニズム。このような社会の偽善を鋭く感じた青少年は、しかし自らの思考を言語化し、表明する能力は無い。彼らのやり場の無い苛立ちは、様々な破壊的行為となって顕れるしかないのである。もちろん、破壊行為の大半は、単なる幼児的欲望を満たそうという衝動であり、同情には値しない。しかし、その心理の背景には確かに社会の病理があるのである。


 現代における教育の荒廃は、産業のための選抜試験にすぎない大学入試だけを目的としたその教育内容の無内容さへの反抗であると同時に、自分たちは資本主義社会、あるいは現体制の歯車か敗者となるしか無い事を鋭く予感した子供たちの、無意識の絶望の顕れでもある。もしもあなたが成績劣等生だったとしたら、今の教育体制の中でどのように充実した生活が送れるだろうか。そして、何の才能も無い人間にとって、あえて法律を無視して生きる以外に、今の社会の中で成功するどんな手段があるだろうか。そうした想像力も無しに、今の教育を論じるのは不毛でしかないだろう。もう一度繰り返すが、才能の無い人間でも、善良な人間なら真面目に生きても報われる、そういう社会の現実的なプログラムを示さない限り、今の社会の荒廃は救えないということなのである。そういうプログラムが現在の資本主義社会の枠組みの中で可能なのだろうか。私は、それは不可能だと考えている。これを変えるには、資本主義とも共産主義とも異なる社会システムが必要である。この事については第三章で論ずるつもりである。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


Ⅲ 抑圧された秩序と秩序無き自由


 


 この章では、第一章で提出した問題、すなわち、抑圧された秩序と秩序無き自由のいずれを我々は選ぶべきか、あるいはその両者を止揚する道があるのかについての答を出すつもりである。いや、ここまで書かれた内容から、その答はすでに予想されているだろう。日本が真の民主主義国家になることがその答である。しかし、それは政治体制の話であり、社会システムは政治と経済と文化の複合体である。そして、政治と文化はむしろ経済に従属して決まってくるものだ、というのはマルクスの述べた通りだろう。では、いかなる経済システムをとるべきか。これまでのように資本主義と共産主義しか選択の道が無いという状況では、明らかに資本主義しか選択の道は無い。なぜなら、人間の労働にはインセンティブ(誘因)が必要であり、それは基本的には労働に見合う報酬以外には無い。しかし、私有財産の許されない共産主義では、そのインセンティブが無いからである。かつては労働自体の与える喜びという間抜けな御伽噺を共産主義者は謳っていたが、労働など苦痛以外の何物でもないことなど、幼児でも知っていることだ。労働が苦痛でないのは、自ら望んで行なう労働だけであり、食うための仕事にはそんな物など無い。従って、共産主義とは、労働の義務だけがあって報酬は無いという哀れな経済システムであることになるのである。もちろん、まったく報酬が無いわけではないが、私有財産が許されない以上、その場で使える以上の報酬は無意味である。つまりは働いても働かなくても同じことであり、そんな社会で真面目に働く人間など存在しないだろう。いるとすれば、それは労働以外のインセンティブ、すなわちマイナスのインセンティブである刑罰の存在によるものである。かくして共産主義社会は「収容所群島」となるしかないわけだ。


 もちろん、現実には共産主義が実現された国は無く、生産手段は国有化するが、私有財産は認めるという社会主義国家がこれまで存在しただけである。しかし、以上に述べたことから見ても、世界は社会主義から共産主義に移行するというマルクスの予言はまったくのナンセンスであることが分かるだろう。むしろ社会の現実は、一度は社会主義革命を経験した国々が、資本主義経済体制に移行するのが歴史の流れであることを示している。


 しかし、その事が、資本主義の優越を示すものではないということを、もう一度言っておく。資本主義は確かに人間性の本質に基づいて人間を労働に向かわせるシステムである。資本主義国家の繁栄、経済的勝利は、ただその一点によるものだ。しかし、それは同時に人間性を荒廃させるシステムでもあることは、前の二章に述べた通りである。すなわち、共産主義を一種の理想主義、資本主義を現実主義ととらえるなら、現在の世界は、理想が現実の前に敗れ去った状況なのである。しかし、理想無き社会は「理想的な社会」であろうか。


 再度言うが、人間社会とは言っても、生活のための闘争や競争から免れることはありえない。その意味で、競争原理に基づく社会である資本主義社会は、人間を貧相な揺り籠の中で育てようとする共産主義社会よりははるかに現実的である。そして資本主義社会においては、幸運に恵まれれば、このうえない贅沢が味わえるだろう。すなわち、アメリカン・ドリームとは、資本主義社会の夢なのである。人々はその夢によって営々と働き続け、そしてやがて自分が無数の敗北者の一人でしかないことを知る。そして彼らの労働が一部の勝利者の贅沢な生活を可能にするのである。もちろん、ここには別の要素があり、それは技術革新によって社会全体の生産性が上がり、それによって底辺の人民の生活すらも底上げされていくということである。それはしかも、資本主義社会にだけ起こりうることなのである。なぜなら、前述したように社会主義国家や共産主義国家には労働のインセンティブが無い以上、技術革新のインセンティブも無いと見るのが当然だからである。誰が、何の報酬も無いのに、発明や発見に知恵を絞るはずがあるだろうか。


 そのように、資本主義の優越性を認めた上で、なおも私は、現在の資本主義は誤った社会システムであり、今の資本主義社会においては、人々はけっして本当には幸福には成り得ないと言う。それは、今の資本主義社会が無数の敗残者を作り出し、無数の弱者を不幸にしているからである。人間社会は弱肉強食のジャングルであってはならない、人間の理性は、人間を野獣以上の存在とするために用いられねばならない。別の言い方をすれば、弱者や不運な人間でも、ある程度の幸福が約束される社会を、人間は作り上げることができるはずである。「世界が全体幸福にならないうちは、個人が幸福になることはありえない」という宮沢賢治の言葉は、単なる甘ったるいヒューマニズムではない。それが可能だと信じ、正しい方向に進んでいけば、いつかは実現できる理想なのである。


 では、資本主義でも無く、社会主義や共産主義でもない、もう一つの道はあるのだろうか。私は、あると思う。それは、あまりにも簡単すぎる道である。その道とは、私有財産に上限を設けることである。その上限は、人間が豊かに暮らすには十分だが、それ以上を持つことは無意味だという程度である。年収で言えば二千万円くらいが今の日本での上限でいいだろう。ただし、この場合、住宅建設費用が国民の平均年収相応に下がることが必要であり、また、老後の保障や病気・災害の保障が完備されていることが条件である。さらに加えれば、自分の家族への遺産寄贈はほとんど認める必要は無い。ある限度以上の遺産は国が没収して、これから社会に出て行く青年全体に配分すれば良い。つまり、出発時点の不平等を無くした上での競争社会にすればいいのである。


 もしもこれでは労働のインセンティブとして不十分だとするなら、三千万円くらいを上限としてもいいが、普通の人間が普通に生きていくのに、それ以上必要なはずはない。まして、社会保障が十分な社会なら、それ以下でも十分に満足して生きられるはずである。年収二千万や三千万では、確かにゴッホの絵を買ったり、フェラーリに乗ったりすることはできないかもしれない。従って、単にステイタスシンボルとしての贅沢品を作る産業は衰退するだろう。しかし、ゴッホの絵は何億円もするだろうが、ゴッホは生きている時何億円も稼いだだろうか。いや、真の芸術家の多くは、資本主義社会でむしろ冷遇され不幸な一生を送ったのである。そもそも、大衆車とフェラーリの間に何百倍もの価値の差があると本当に言えるのだろうか。カシオの腕時計もローレックスも、時間を刻む性能の点では何も違いはない。資本主義社会の物の値段など、幾つかの情報操作と虚栄心の産物でしかないのである。そうした虚栄心の代償が、この社会の無数の悲惨と不幸ならば、誰がそれを捨てることを嫌がるだろうか。もちろん、「俺が一杯の紅茶を飲むためならば、世界が滅びようがかまうものか」というドストエフスキーの「地下生活者」の言葉は、あらゆる人間の心理を代弁しているだろう。しかし、それと同時に、人間には少しでも世の中全体の幸福の増進に役立ちたいという願いもあるのである。


 さて、以上で、「抑圧された秩序」と「秩序無き自由」のどちらを選ぶべきかという問いには答えたつもりである。答えは、「どちらでもない第三の道、秩序ある自由を選ぼうではないか」ということである。多くの人は、これを只の夢想と思うかもしれない。しかし、ジョン・レノンの「イマジン」に言うように、「いつか君がぼくと一緒になるなら」それは夢ではなくなるだろう。

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酔生夢人
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考えること
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それだけで人生は生きるに値します。

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