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人間の獣性と、「獣性の否定」

「混沌堂主人雑記(旧題)」所載の「プレジデントオンライン」記事の一部だが、非常に面白い問題提起である。私はかなり昔に「勝つってそんなにいい事か」という小論を書いて以来、何かに勝つという事自体に疑いの目を向けているのだが、そうすると人生のほとんどすべてにおいて勝利を放棄し、世捨て人になるしかないwww だが、「敗北主義」とは別だ。「勝負自体の否定」なのである。社会には、実は「協同作業」という、より重要な要素があって、そこでは勝利は関係がない。その代わり、当然「勝利の報酬」も無くなるわけだ。現代社会の9割くらいは「勝利への報酬」が行為の動機になっているわけで、そうすると「獣の世」になるのは当然である。

で、ここでは逆に「獣でなぜ悪い」という、臍曲がりな思考をしてみる。つまり、人間の獣性は完全否定していいのか、という考察だ。考えるまでもなく、人間の獣性を否定したら社会は成り立たない。スポーツやセックスは言うまでもなく、実は文学も映画も闘争と恋愛(セックス)が土台なのである。それを禁止したのが多くの宗教であり、儒教である。(儒教は宗教ではない。社会哲学である。)だから、宗教や哲学は一般人から敬遠される。恋愛やセックスが教祖や教義より大事となれば宗教は成り立たないわけだ。勝負事が元になっての争いや殺人もある。それほど勝負事というのは「血を沸かす」、つまり人間の獣性を解放するのである。
議論が面倒くさくなったので、結論を言うと、要するに、「獣性」は完全否定されるべきではなく「飼い馴らす」のが正解ではないか、という「当たり前すぎる結論」が私の主張である。「飼い馴らす」ためには、その対象の「獣性」の認識が大事で、要するに、スポーツやセックス(恋愛)やフィクション(文学・映画・漫画など)の持つ危険性を十分に世間(特に若者、特に若い女性)は認識していないのではないか、ということである。
私はフィクションが無いと生きる意味も生きがいも無い、という人間だが、フィクションで自分の獣性を解放する営み自体に或る種の危険性があることは知っているつもりである。もちろん、哲学的考察のようなものも(獣性の要素は少ないし、たいていは獣性を否定する結論になるが)フィクションへの耽溺である。そして、ニーチェが言うように、深淵を見つめる者は深淵に見つめ返されるのである。

(以下引用)

 哲学者である川谷茂樹は、スポーツは日常の倫理との緊張関係にあり、ほとんど不可避的に倫理的問題を引き起こす、危険な代物であると指摘しました。スポーツは日常生活で禁止される行為が許容される、独特のスポーツ倫理(対戦相手の弱点を攻める、対戦相手の嫌がることをする、殴る・蹴る・絞める・体当たりといった身体的攻撃をする)が存在するためです。
 日常生活で殴る等の行為によって他人に怪我を負わせれば、暴行罪や傷害罪が適用されます。しかしながら、ボクシングやラグビーでは、他人を殴ったり体当たりをしても、暴行罪や傷害罪には問われません。なぜなら、刑法第35条には「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とあり、スポーツは「正当な業務による行為」とされるためです。つまり、日常生活で禁止されている殴る・体当たりという行為は、スポーツの世界で例外的に許容されていると言えます。
■スポーツは「えげつない行為」が求められる
 スポーツの本質は、誰(どのチーム)が優越しているかを決定する試みであり、勝利の追求が求められます。対戦相手(チーム)が敗北することによって伴う痛みや苦しみをおもんぱかっていては勝てません。
 川谷は、アスリートとして純粋に勝利を追求するためには、普通の人間としては「えげつない」行為を遂行する能力・技能が必要になると主張しました。同感です。Strandらによる調査は、川谷の主張を補強する結果になっています。




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