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アメリカとイギリスの異常な関係

「世界史の窓」から転載。
今、「モヒカン族の最後」(正しくは「最後のモヒカン族」と訳すべき)を読んでいるのだが、「フレンチ・インディアン戦争」におけるインディアンの立場というのがよく分からないので調べて、下の記事を得たわけだ。「モヒカン族の最後」は、フランス側に属したインディアン部族へのかなり人種的偏見に満ちた記述が多いし、下の記事で見ると、インディアンは全体的に、基本的には中立の立場を取っていたようだ。
つまり、「フレンチ・インディアン戦争」という名称自体が、インディアンを悪者視することで、その後の白人によるインディアン差別と搾取を正当化するものだったのではないか。本当なら、下の記事後半から明白なように、アメリカ人が敵視すべきだったのは、イギリスだったはずなのである。しかし、アメリカ人の多くはイギリス人の子孫だったので、それができずに、精神的な誤魔化しをし続けたのだろう。それがアメリカ人を精神異常にしたのだと思う。
極論すれば、現在のアメリカ社会の崩壊は、長年の欺瞞の代償だということだ。

(以下引用)

フレンチ=インディアン戦争

1754~63年、七年戦争と同時に展開された北米大陸でのイギリスとフランスの戦争。イギリスが勝利し北米大陸植民地を拡大した。

 ヨーロッパでの七年戦争(1756~)とほぼ同じ時期の、1754年~63年まで、アメリカ大陸でのイギリスとフランスの戦争。「フランスおよびインディアンとの戦争」ともいう。フランス軍が、インディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したので、イギリス側でこのように呼ばれる。17世紀末から繰り返された、英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)の最後のものであった。
 イギリス植民地は大陸東岸にほぼ限定されていたが、フランスは北東部のセントローレンス川と五大湖地方、中南部のミシシッピ川流域を押さえていた。フランスはこの二つの植民地を結びつけるために軍をオハイオ川に進出させた。そうなるとイギリス植民地は西部への出口を押さえられる形になるので大きな脅威となった。始めフランス軍が優勢であったが、イギリス軍が本国のピット(大ピットの方)の指示で植民地戦争に力を入れるようになって形勢が逆転する。イギリス軍はフランス軍がオハイオ川上流に築いた要塞を奪って、それに首相の名をとってピッツバークと命名した。
 イギリス軍は1759年にケベック、60年にモントリオールを占領。1763年パリ条約が締結され、フランスは北米植民地のほとんどを失い、インドでも後退を決定的にし、イギリスの植民地大国としての地位が確定した。

英仏対立とインディアン


 イギリスでは、フランス軍と連合したインディアンと戦ったところから、フレンチ=インディアン戦争と言われているが、インディアンすべてがフランス側についたわけではない。インディアンの中にはフランスではなくイギリス側についた部族もいたのであり、インディアンはイギリスとフランスの戦争に巻き込まれた、というのが正確な説明である。
 当時、東海岸ではすでにインディアンはイギリス人入植者との戦いで敗れ排除されていたが、北米中部の現在のカナダから五大湖地方、ミシシッピ流域にいたる広大な地域には、イギリス植民地を取り囲む形でフランス人が進出し、彼らはインディアンとの毛皮などの取引を行い、おおむね良好な関係を結んでいた。この地のインディアンは有力な五部族がイロコワ(英語読みではイロコイ)連合を結成していた。ヨーロッパ大陸で対立が厳しくなると、この北米中部がにわかにイギリス・フランス両国の衝突する地域となり、双方ともイロコワ連合を味方に引き入れるべく、さまざまな工作を開始した。しかし、フランス側の長年にわたる努力にもかかわらず、イロコワ連合は正式には中立政策をとり、非公式にはイギリス支持に傾いた。イギリスの対イロコワ政策の成功は、イロコワ5部族の一つモホーク・インディアンと親交を結び、その中で暮らして言葉を習得し、インディアンの娘を妻としたウィリアム=ジョンソンという人物に負うところが大きい。その妻の弟ジョセフ=ブラントはイロコワの中で初めて英語の読み書きができた人とされ、イギリスに忠実な有力セイチェム(部族リーダー)になった。
 フレンチ=インディアン戦争は1759年のイギリス軍によるケベック占領によって形勢が逆転し、1763年にイギリスの勝利に終わったが、それからわずか12年後の1775年にアメリカ独立戦争が始まると、インディアンはアメリカ独立軍とイギリス本国軍の戦争に巻き込まれる。この時、イロコワ連合は二派に分裂して争うこととなり、200年にわたって続いた連合は解体してしまう。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.74-90>

戦争の意義


 アメリカ大陸でのイギリスとフランスの植民地抗争はこうしてイギリスの勝利で終わり、イギリスはカナダとミシシッピ以東などを獲得し、フランスはミシシッピ以西を残すのみとなった。しかし、ヨーロッパ本土の七年戦争と並んで、この戦争はイギリス・フランスに大きな付けを残すこととなった。
 まずイギリスでは戦争でふくらんだ支出は植民地から回収すべきだという考えから、アメリカ植民地に対する課税を増大させた。また本国産業を保護するため、植民地人の経済活動を制限しようとして国王の宣言を出した。それはインディアンの保護を口実に、アパラチア山脈以西への植民地人の移住を禁止したもので、植民地人の激しい反発を呼び起こした。
アメリカ独立革命とフランス革命 英仏の植民地戦争による財政赤字を解消するため、イギリスが植民地に対して行った経済規制や課税の強化は植民地人の怒りを呼び起こし、1770年代に独立運動を活発化させ、ついに75年のアメリカ独立戦争勃発に至ることとなる。またフランスにおいても対英戦争による支出の増大はブルボン朝の財政を苦しめることとなり、その解決のために貴族・聖職者への課税を強化しようとしたがアンシャン=レジームの矛盾に火をつけた格好となり、1789年のフランス革命の勃発となる。

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