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『こころ』の「先生」の自殺の理由

私は夏目漱石の作品では

1:吾輩は猫である
2:夢十夜
3:坊ちゃん
4:草枕
5:三四郎

の順に好きで、「こころ」はたぶん一度しか読んだことが無いのだが、今朝、ふと考えたのが、「先生」の自殺した理由である。
その理由について「先生」は、「畢竟、自分は時代遅れの人間だ」と思ったからだ、と主人公への「遺書」とも言うべき手紙に書いてあったのだが、この作品を読んだ当時(いつ読んだのかは覚えていない。中学か高校のころだっただろうか。)の私にはその「理由」がまったく理解できなかった。
自分が時代遅れだからという理由で死ぬことに納得できる人はいるだろうか。
しかも、その「遺書」のほとんどは友人Kへの裏切り行為と、親族に騙されて財産を失ったとか何とかいうことで人間不信になったこと、などが主に書かれていて、それは「読者に理解しやすい」自殺の原因なのだが、自殺の直接の理由は乃木大将の明治天皇の死への「殉死」にショックを受けたことだ、というように書かれていて、その中で「時代遅れ」云々は乃木大将の死が「明治の精神に殉じた」ものだ、とされ、自分もそれに倣って死ぬことにした、というわけだが、ここが分かりにくいわけである。
で、今朝考えたのは、「先生」の自殺の理由はまさに「先生」が言うとおりで、「自分は時代遅れだから」なのだと考えるべきだろうということである。

その前に少し考えたことがあって、それは、日本語の持つ婉曲さや穏やかさや含みという特質はこれからどんどん無くなっていき、誰にも理解されなくなるだろうな、ということである。国際化時代にはこういう表現方法は「欠点」としか見做されないからだ。
たとえば、「さらば」も「さよなら」も元々は「バイバイ」ではなく、「さ・あらば(そうであるならば)」とか「左様なら(そのようなら)」であって、「(別れたくはないけれど、)こういう事情なので,(ここでお別れします)」という実に婉曲で遠慮深い言い方なのである。別れの言葉をストレートに口に出さなくても、別れを惜しみ悲しむ気持ちは伝わる、ということだ。
これからの「国際化」で消えていくのはそうした「日本文化」の魂のようなものだ。
とすれば、古い人間は当然「時代遅れ」になるわけで、自分の気に入らない「新しい文化」が自分の周囲を取り囲むことになる。新しい物が好き、という人はいいとしても、ふつうは自分が慣れ親しんだものは常に古くなっていくのである。妻が年を取ったからポイ捨てして新しい若い美女に乗り換えればいいというようなものではない。その若い美女もカネだけが目当てで老人をたぶらかしているだけであるwww 好きなものへは愛着が湧くものだし、それはどんどん古くなるのである。いや、「世界や時代の流行の変化」のためにそうなるだけのことで、本当はいいものは永遠にいいのだが、とりあえず「時代遅れ」にはなる。

「先生」の場合には、自分のこれまでの人生にも生活にも自分自身にも不満感を抱えて生きてきたのだが、それは「死ぬ積極的な理由がない」から惰性的に生きてきただけにすぎないのである。ある意味では常に生と死の境目で生きてきたようなものだ。
そこに明治天皇の死と乃木大将の殉死の事件が起きて、「ああ、こういう形で死ぬということもできるのだ」という衝撃を受けたのだろう。
その死が、それまでの自分の生き方への鋭い問いかけとなり、その生は生に値せず、しかもこれからなお悪くなる(人間嫌いの人間が世間に伍して生きるのは難しいし、そもそも時代遅れ扱いされるだけである)と結論したから先生は「勇気をもって」死を選んだ、ということではないだろうか。



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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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