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豚的生き方

見ながら編集「東海アマ」ブログ経由で、雁屋哲氏の文章の一部を引用。この前に谷岡ヤスジの漫画が引用されていて、その漫画についての文章だが、要は我々がいかに豚であるか、という話である。
まあ、上級国民から見れば家畜同然なのだろう。だから、必要以上に餌をやりたくもないから「マスク2枚」でお茶を濁すわけだ。
だが、問題は、自分たちが家畜扱いされているのにノホホンとしている国民の方なのである。
言ってみれば、生活を切り詰める必要があるほど高い税金や保険料を支払うというのは、一度で屠殺されて食肉になる代わりに、少しずつ自分の肉を上納しているようなものである。その見返りは「マスク2枚」www



(以下引用)




 私はこのマンガを、読み返すたびに心に痛みを感じる。

 この豚たちは私たちそのものではないか。

 豚たちはしまいには人間に食われると分かっていて、その日に何か食べられればそれで良いと思っている。

 「食っちゃ、寝」「食っちゃ、寝」して、満足している。

 一匹目覚めた豚がいて、その目覚めた豚が「おまえたち、しまいに食われるの知ってるのか」とたずねると、その他大勢の豚たちは「あ、それ言っちゃダメ」「それを言われちゃ、もともこもない」「ま、なんだな、先のこた考えんこったな」と言うだけである。

 豚たちはこのままでは破滅すると分かっていても、その日その日の豚の生活を安穏に送っているのである。

 2020年現在の私達の姿そのままではないか。

 無気力と諦め。惰弱にして劣弱な精神。知的な退廃。

 目覚めた豚が逃げ出すと、他の豚たちは先回りしていて捕まえる。

 「お前らも一緒に逃げよう、チャンスじゃないか」と目覚めた豚がさそっても、他の豚たちは、「何をして食って行くんだ」と居直る。

 それに対して、目覚めた豚は「畑に芋や、ナスがあるではないか」と言う。

 この目覚めた豚の誘いの言葉は、「生き方を変えよう」ということだ。しかし、

 惰弱な生活にマヒしてしまっている豚たちは、「わしら、ドロボーしてまで生きとーないんよね」と言って目覚めた豚を元の豚農場に連れ戻して、柱の天辺に縛り付ける。

 この目覚めた豚の姿は、十字架にかけられたキリストを思い浮かべさせる、と言ったら言い過ぎだろうか。

 ここのところが、私にはズキリと応える。

 権力に逆らうものは、自分たちで取り押さえ、権力に引渡す。

 自警団の精神構造である。

 キリストを十字架にかけた人達も、権威のために働く自警団だったと言える。

(中略)

 このマンガの結末は悲惨だ。

 目覚めた豚は、柱に縛り付けられて、食事も与えられないから痩せ細っている。

 目覚めた豚を売った一般大衆としての豚たちは、飼い主から目覚めた豚を捕まえたごほーび、として、1日10食べさせさてもらえるようになり、まるまると太って、飼い主たちが上機嫌で屠場に連れて行く。

 目覚めた豚は、餓死する。

 飼い主に忠誠を尽くした一般大衆としての豚は飼い主に食べられる。

 このマンガには救いがない。

 飼い主に従順にえさを食べて太り、飼い主に食べてもらうか、飼い主の手から逃れようとして、仲間につかまって、飼い主の懲罰を受けて飢え死にをするか、この二つの道しか、豚には残されていない。

 さあ、現実の私達はどうだろうか。

 私達豚である大衆は、我々の飼い主、安倍晋三氏に食われるのを待つだけなのか。

 次回は、安倍晋三が如何にして日本をドブ泥の沼に変えたか、検証する。

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酔生夢人
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男性
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仙人
趣味:
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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