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本屋が潰れていく理由

「オルタ広場」より転載。
まあ、日本中の書店はもうすぐ消滅するだろうし、出版業もかなり淘汰されるだろう。
下の記事はその理由を明確に示している。「再販制度」にあぐらをかき、書店が取次店にすべてを任せていた結果である。

しかし、本がアマゾンでしか買えない状態というのも、電子取引が嫌いな私としては来てほしくない。困ったものである。


有閑随感録(3) 本屋に欲しい本がないわけ


矢口 英佑



 手元に1冊の本がある。昨年11月に刊行され、それからわずか2カ月後に増刷された『出版の崩壊とアマゾン——出版再販制度〈四〇年〉の攻防』がそれである。出版不況がますます悪化していて、出版界の底なしの凋落事態について書かれた本が増刷とは、なんとも皮肉な現象と言えるかもしれない。
 この書籍は私が身を置き始めた論創社から出版されたのだが、出版関係者以外で、この本の存在を知る人はあまり多くないのではないだろうか。ましてや自分から、街の本屋で目にして手にした人は少数に留まるだろう。なぜならこの本が店頭に置かれている街の書店は、おそらく日本全国でもごく少数の店舗だと思われるからである。



 それにもかかわらず、なぜ増刷されたのか。単純に考えれば「売れた」からである。さらに言えば、版元(論創社)が捌ける部数の読み間違いをしたからである。
 ただし〝捌ける部数の読み間違い〟は、しばしば起きる。版元とすれば、こうした〝読み間違い〟が起きないことには、この商売、面白くもなんともないし、やってられないといってもいいだろう。ただし増刷の場合だけではあるが。その逆も残念ながらあるわけだが、〝読み間違い〟は決して恥ずかしいことではない。とはいえ、マイナスの〝読み間違い〟はできるだけ避けたいところではあるが。



 ではなぜ〝読み間違い〟が起きるのか。
 版元は何でも書籍にしているわけではない。版元の刊行趣旨や主義・主張も反映されるはずである。ただ、そうだとしても日本のあらゆる現況に目配りをし、情報を手に入れながら、売れ筋を見極めて刊行に向けて動き出す。しかし、どのような本であろうとも、必ずついてまわるものがある。それは、どのように見極めて刊行したとしても、それが売れるかどうかは出してみなければわからないということである。あなた任せの典型とも言えそうだが、出版社であれば、ジャンルに関係なく、例外なく繰り返されているはずである。
 そして、確実に言えるのは、増刷となる〝読み間違い〟はそれほど多くは起きないということだろう。〝読み通り〟であれば、なんとか利益が出るのだが、それでも完売は難しい。マイナスの〝読み間違い〟も少ないとは言えない。版元とすれば、マイナスの〝読み間違い〟から受けるダメージを極力避けようとするのは当然である。



 そのため、版元は発行部数を決める際には、かなり慎重にならざるを得ない。かりに発行部数を多くした場合には、組版代、製版代、刷版代、印刷代、用紙代、製本代といった制作費がかさむことになる。それでも〝読み通り〟に本が売れるなら、もちろん問題はない。だが、売れなかった場合には制作費さえ回収ができない上、倉庫に保管をしておかなければならず、保管料さえも発生して、大きな赤字が生まれることになってしまう。
 そしてもう1つ慎重になるのには、本の売れ行きには不透明感が漂うからである。私が言う〝不透明感〟には少々、注釈が必要だろう。



 これには出版業界に存在する「出版再販」という制度が関わってくる。冒頭に示した本の書名にこの言葉が含まれている。この著作物再販制度とは、出版社が一般の書店などに対して商品の販売価格をあらかじめ決めて、その定価で販売させる、言い換えれば、値引き販売をさせない制度をいう。そのため日本全国どの本屋でも、どの本も定価で販売されていて、値引きされないのである。これは一般的には、不公正な取引方法として独占禁止法で禁じられているのだが、本や雑誌については例外的に許されている。本屋で安売りセールがないのはそのためである。
 この著作物再販制度については、冒頭の本に詳細を極めて記述されているが、機会をあらためて、私なりに取り上げてみたい。



 さて不透明感に戻ると、現在の本の流通システムでは、版元が直接、街の書店に新刊本を持ち込むことは容易ではない。北海道から沖縄まで新刊本をくまなく届けることを考えれば、運送費と人件費が厖大になるのは明らかである。
 そこで新刊本を街の書店に届ける代行業務をおこなう取次店が登場する。その代表格が「日本出版販売会社」(通称は「日販」)や「東京出版販売会社」として創立され、1992年に改称された「トーハン」で、大手であるだけに一般の人にも知名度はあるのではないだろうか。



 版元は取次店に新刊本を卸し、街の書店は取次店から新刊本を入手するシステムである。これによって版元は「本を作る人」、取次店は「本を売る助けをする人」、書店は「本を売る人」の分業が生まれ、維持されてきていたのである。
 ただし読者となる一般の人びとは気づかれていると思うが、書店に並んだ本がすべて売れるわけではない。読者から買ってもらえなかった本はどうなるのか。返品として取次店を通して版元に戻されるのである。つまり、取次店は書店に新刊本を届けるだけでなく、回収する業務も行うことになる。



 さてここで〝不透明感〟が生じてくることになる。1冊の新刊本が書店に置かれ、買い手がつかずに版元に戻ってくる期間が最長でおよそ6カ月である。この間はその本が売れたかどうか、版元では正確にはわからないのである。言い換えれば、書店に一定の部数を取次店を通して納入しても、それが売れたことにはならないのだ。これは増刷の場合でも同じことが言える。
 1冊の新刊本製作に費やした原価に対して利益が生じたか否かは、およそ半年後にわかるわけで、この間、版元は持ちこたえなければならないし、売れ行き不振であれば、大きな損失を出す可能性もあり得るわけである。こうした連鎖の方式によって、版元は〝捌ける部数の読み〟を慎重に進めながら、新刊本の発行部数と価格を決めることになる。



 その結果、部数はおおむね低めに抑えられ、たとえ売れ行きが芳しくなくても、少なくとも損益を出さないような価格が設定されていく。たとえば、同じ原価でも〝捌ける部数の読み〟によって、価格が異なってくるのである。そして、全国の街の書店に新刊本がくまなく行き渡らないのは、書店側が売れ筋の本だけを選択して取次店に注文を出すのと、版元が発行部数を低く抑えているからにほかならない。
 日本中の書店に常に新刊本が並ぶことは先ずあり得ない事情がおわかりいただけたのではないだろうか。



 冒頭で示した本について紹介するつもりで書き始めたのだが、今回は書店に求める本がないことが多い理由の説明で終わりそうである。
 ここでの説明はあくまでも中小出版社の状況に照らしたもので、講談社、角川、集英社、小学館といった日本有数の大手出版社と異なっていることは言うまでもない(大手出版社でもあらゆる書物・雑誌類の発行部数が減少しているのは紛れもない事実だが)。
 また私の説明が十全でないことも言うまでもない。あるいは説明が細部で誤っている可能性も無きにしもあらずである。あくまでも概要だということでご容赦願いたい。



 それにしても日本におけるアマゾンの存在はあまりにも巨大化し過ぎてはいないだろうか。別に書籍だけの話ではない。およそ買うことのできる物はネットを通してアマゾンから購入できるシステムが瞬く間に、恐ろしいほどの堅実さで日本人の生活に浸透してしまっているからである。
 アマゾンを利用したことのない私などは、日本人の生活を支配してきている(と私には思える)このアマゾンに警戒心、恐怖心すら抱き始めているのだが。聞くところによると、出版界に関してだが、アマゾンは更なる動きに移ろうとしているという。それはアマゾンが1つの巨大書店として、版元から直接、新刊本を入手するという新たな流通システムの構築である。



 これが現実のもとなると、私が述べてきた従来の流通システムに大きな影響を及ぼすことは火を見るより明らかである。
 出版界に身を置き始めた私には、非常に大きな関心事となり始めている。



 (元大学教員)

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