国会答弁で「東日本大震災のとき、検察官は最初に逃げた」などと事実に反する発言をした森雅子法相は12日、安倍晋三首相から厳重注意を受けた。記者団に「不適切だったと真摯(しんし)に反省して発言を撤回し、深くおわびする」と述べたが、民主党政権の2011~12年、国会質問の中で、少なくとも5回は同趣旨の発言を繰り返し、当時の法相は事実関係を説明していた。今回の発言は質問ともかみ合わず、あまりにも唐突なので、何らかの意図があったのか、あるいは、黒川弘務東京高検検事長の勤務(定年)延長問題で連日追及され、頭の中が混乱していたのかもしれない。(共同通信編集委員=竹田昌弘)
■定年延長が必要になった社会情勢の変化を問われ…
まず9日の参院予算委員会で、問題の発言が飛び出すまでのやりとりを再現してみよう。立憲民主党などでつくる会派の小西洋之氏(無所属)が①国家公務員の定年を60歳から65歳に引き上げる国家公務員法(国公法)の改正に伴い、法務省は検事総長以外の検察官も定年を63歳から65歳にする検察庁法の改正を検討した、②その際、今回黒川氏に適用された国公法の勤務延長制度は必要ないと決定し、昨年11月に内閣法制局の審査も終わった、③ところが、12月に黒川氏の勤務延長の検討が始まり、1月には、勤務延長を含む国公法の定年制は「検察官に適用されない」とする従来の法解釈変更を法制局に相談した、④検察庁法改正案に勤務延長制度が追加される-という経過をたどったと指摘した。
その上で小西氏は、②までは検察官に必要ないとされていた勤務延長制度が④で必要であるに変わった理由を尋ねた。これに対し、森氏は「(改正案の)通常国会提出に向け、改めて勤務延長制度などをどのように取り扱うかを考える前提として、昨年12月頃から国公法と検察庁法との関係を検討する中で、社会情勢の変化または法律の文言の有無、法律の趣旨などを検討した結果、勤務延長制度(導入方向)への解釈をした」と答弁。そこで「昨年11月、内閣法制局で担当部長の審査が終わった段階で、勤務延長は一言も条文にはなかった。そこからどのような社会情勢の変化があって、日本中の検察官に勤務延長が必要になったのか。聞いたことだけに答えてください」 と小西氏がただした。
■「震災当時の個人的見解」と認め発言撤回
法務省の川原隆司刑事局長がいったん答弁に立ったが、委員会室が紛糾し、与党の理事に促される形で答弁に立った森氏はこう答えた。
「社会情勢の変化とは(国公法に定年制の規定が加わった)昭和56(1981)年当時と比べどのように変わったかということで、例えば、東日本大震災のとき、検察官は福島県いわき市から、国民が、市民が避難していない中で、最初に逃げたわけです。そのときに身柄拘束をしている十数人を理由なく釈放して逃げたわけです。そういう災害のときも大変な混乱が生じる。国際間を含めた交通事情は飛躍的に進歩し、人や物の移動は容易になっている上、インターネットの普及に伴い、捜査も多様化、複雑化していることを申し上げておきたい」
森氏は「検察官が逃げた」という発言部分では、手元の答弁書から目を上げ、早口で勢いよく言い立てた。
11日午前の衆院法務委員会。森氏は立憲民主党の山尾志桜里氏から「9日の発言は事実か」と質問されると「事実だ。自然災害が頻発している例として挙げた」などと答えた。山尾氏が「検察官が最初に逃げた」と「理由なく釈放した」も事実かと畳みかけても「当時は民主党政権で、いわき市民には避難指示が出ていないのに、福島地検いわき支部の検察官は郡山へ移動した」とかみ合わない説明で、山尾氏がさらに「最初に逃げた、理由なく釈放したというのが法務省の、安倍政権の認識か」と確認すると、森氏はようやく「当時の個人的見解」と認めた。
11日午後の参院予算委員会では、自民党の小川克巳氏から9日の発言について釈明するよう求められ、森氏は「私個人の見解を申し上げた。検察官の活動について不適当」として、発言を撤回した。しかし、立憲民主党の石橋通宏氏が衆院法務委で当初、9日の答弁は「事実です」と述べた趣旨を尋ねられると「9日の参院予算委で答弁したことは事実という意味だった」と言い返した。 こうした森氏の態度に野党が反発。12日は朝から夕方まで国会審議を拒否し、安倍首相が同日夕、森元党官房長に氏厳重注意でようやく正常化した。
■野党時代、少なくとも5回質問
参院のホームページによると、森氏は1964年、福島県いわき市生まれで、東北大法学部卒。参院議員当選3回(福島選挙区)。弁護士でもある。11年3月の東日本大震災と東京電力福島第1電発事故の後、野党議員として何度も被災地福島に関する質問をしていた。国会会議録検索システムでは、福島地検いわき支部に関する質問は少なくとも5回見つかった。全て参院法務委員会だった。
最初は11年6月16日。森氏は福島地検の管内で被疑者が31人も処分保留のまま釈放されたことやその中に暴力団組員も含まれていたこと、福島地検いわき支部が3月16日以降、福島地検郡山支部で一時業務をしていたことなどを指摘し「住民の不安は大きかった」などとして、江田五月法相の見解をただしている。江田氏は釈放について「個別に勾留の理由、必要性を判断し、あるいは、その地域の状況、捜査の状況などを判断して検察官が釈放を指揮した。それ自体が違法ということにはなっていない」と説明しつつ「全体として見て、地域の皆さんに心配をかけたことは大変申し訳なく思っている」と陳謝した。
10月27日にも、森氏は「震災後、福島地検いわき支部と地裁いわき支部が次々と庁舎を閉め、郡山に移動してしまった。それに先立ち、勾留していた被疑者を全員処分しないで釈放するということがあり、その中には、女性の家に押し入って手錠をはめて性的犯罪をした被疑者もいた。釈放された被疑者が再び罪を犯したということも起った」などと述べた上で、市民に避難指示が出ていないのに、国の機関が避難したのはどういうことかと追及した。
会議録によれば、当時の平岡秀夫法相は▽いわき支部管内で死者、行方不明者が多数に上り、建物にも甚大な被害があり、水道などのライフラインも途絶えた上、余震も相次いでいた、▽そんな中で、庁舎に関係者を呼び出して取り調べを行うことは事実上困難だった、▽福島地裁からいわき支部の執務場所を変更したいとの申し出を受け、それに合わせて福島地検いわき支部の執務場所も一時的に変更した、▽検察庁法2条により、検察庁は裁判所と対応してその事務を行うこととされている―などと詳細に説明している。
■何度も「逃げた」、関係者の処分迫る
森氏は11月24日にも参院法務委で資料を配布し「これは震災直後に福島地検いわき支部が、いわき市は避難地域でもないのに、市民を置き去りにして国家機関である検察庁が先に逃げ、その前提として被疑者を釈放した件数です。いわき支部で12名釈放されているが、いつ、なぜ釈放したのか」とただしている。平岡氏は「被疑者の身体の安全確保などに配慮しながら、個々の事案の内容や捜査の進捗状況などを鑑みて、身柄拘束を継続する必要性がないと各検察官が判断した者について釈放をした」と答弁した。
「ほとんど全部釈放したんでしょう。今の理由は何ですか、紙を読んだだけで、形式的なことを言って。前もそうだが、だから大臣の答弁は誠意がないというんですよ」。森氏は約9年後、自分が法相となり「答弁書ばかり読んでいる」「不誠実」などと批判されるとは、夢にも思わなかったのだろう。さらに強制わいせつの被疑者がいたことや釈放後、再び罪を犯した被疑者がいたことをまたも指摘し、再犯者の罪名などを質問。平岡氏の答えは「再犯に及んだのは覚せい剤取締法違反(自己使用、所持)が1人」だった。すると、森氏はこの日も「16名のうち12名を釈放して、そのまま自分たち(検察官)も庁舎を閉めて郡山まで逃げたんですよ」と言い放っている。
4回目は12月1日。「地検いわき支部が震災直後に避難地域でもないのに、郡山に移転し、移転する前提に12人を処分保留で釈放してしまったことについて、責任者の処分をしたのか。今後そのようなことが起きないように、1名が再犯したということだが、そういうことがないように、大臣はどんな指示をしたのか」と森氏。平岡氏は「閉庁と釈放には、事情を聴いてみれば、それぞれ相応の理由があり、国家公務員法上の処分は行っていない。ただ住民の皆さんに疑問を抱かせ、不安を与えてしまったこと、あるいは、関係機関との連絡調整が不十分であったことについては、反省点が認められるということで、既に上級庁から指導が行われている。私自身も検察長官会同の訓示で述べた」と釈明した。
■「記録に残さない隠蔽体質」と民衆党政権批判
12年3月22日の5回目は、平岡氏の訓示について、約2カ月前に就任した小川敏夫法相にかみついた。「福島地検が震災直後、退避した問題について、前の平岡大臣は大変不誠実な答弁だった。勾留中の被疑者を10人以上処分保留のまま釈放し、郡山という大変遠く、当時ガソリンがなかったので、実質上行けない場所に避難し、その結果、釈放された被疑者が再犯を犯した。これに対して、平岡大臣は自分が訓示したから大丈夫だというふうに言った」として、森氏は訓示の内容を尋ねた。
小川氏が「震災後の混乱に乗じるような犯罪には厳正に対処するとともに、今回の経験を生かし、非常時の危機管理に万全を期するよう訓示した。訓示には、森氏から具体的に指摘された、その議事録も付けている」と説明すると、森氏は「記録に残さないようにという、究極の隠蔽体質の表れだ。この訓示を後から入ってきた検事が読んで、あの福島原発の爆発のとき、検察が住民を置いて逃げて、被疑者を町の中に逃がし、その人がまた罪を犯すなんていうことをしてしまったと分かりますか」「自分たちの役所の文書には載せない。私の質問が載った議事録だけで、後世には残りませんよ、記録が」などと追及した。当時、自分が法相となり、記録のない「口頭決裁」で法解釈を変更し、繰り返し批判されるとは、思いもしなかっただろう。
この5回の議事録を読むと、福島地検いわき支部の問題について、森氏は何度説明を受けても、依然として「逃げた」「被疑者を逃がした」といった言葉で非難し続けている。それが与党に転じ、法相になっても、厳しく追及されると、口を突いて出てしまったということなのだろうか。確かに森氏は国会論戦で、向きになって反論する場面も多い。ただ今回の「検察官が逃げた」「理由もなく釈放した」はやはりあまりにも唐突だった。