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リアリズムの仮面を被った感傷癖

私の持っている別ブログに書いた文章だが、「リアリズムの仮面を被った感傷癖」という言葉は、政治的発言やネット言論においても汎用性がある便利な言葉(概念)だと思うので、紹介しておく。とにかく、「リアリズム」とか「リアリスト」というのが、理性的とか客観的という仮面を被った感傷癖(底の浅い、幼児的な主張)であることは非常に多いと思う。ネトウヨが論敵に言う「お前のカーチャンで~べそ」という発言は事実を指摘しているかもしれないが、だから何だ、という話である。
ネットの「リアリスト」たちは、なぜか強者(権力)を擁護し、弱者への同情をこき下ろすのがリアリズムだとしているが、その心性の下品さに自ら絶望しないのが不思議である。
理想は、現実に合致していないからこそ理想なのであり、政治が理想を捨てたらその存在意義はない。


(以下転載)


リアリズムの仮面を被った感傷癖



筑摩書房「現代日本文学大系」の「小林秀雄集」のパンフレットに松原新一という評論家が寄稿した「小林秀雄氏に学んだこと」の中に面白い言葉がある。それは、

「リアリズムの仮面を被った感傷癖」

という言葉だ。
これが小林秀雄の言葉の引用かどうかは定かでないが、小林秀雄がリアリズム思想の持つ欠陥をその詩人的体質から鋭く見抜いて批判していることは確かだろう。
「リアリズムの仮面を被った感傷癖」というのは、それ自体の説明はそこ(松原新一の文章)では書かれていないが、おそらく、「リアリズムは人生における感傷性の持つ非理性性を指弾するあまり、感傷性の豊富な宝をすべて否定するという、非理性的態度(感傷的態度)に堕している」ということではないかと思う。
その例示を小林秀雄自身の文章から摘出してみる。オスワルドは芝居の登場人物だろう。

「ゾラはオスワルドに言ふ。『舞台どころではないぞ、さっさと下り給へ、君には親父の遺伝がある』。イプセンが、やって来る。『成る程廃人だ、もう口も利き度くはあるまい、だが、もう一つぺん出てみるんだな、台詞は何んとか工夫しよう』」(「ヘッダ・ガブラー」より)


要するに、リアリズムとは現実の合理的集約の思想であり、集約の常に漏れず、常に多くの細部を取り落としていくわけである。思索という行為そのものが現実の捨象による抽象作業なのであるから、それがリアリズムを旗頭にしたら、どれほど多くの粗漏が生じるか、明白だろう。
ついでに言えば、私は自然主義文学が大嫌いなので読まないままで言うが、自然主義文学のリアリズムとは、要するに、現実の汚い部分醜い部分を主に取り上げることから来る「現実的だ」という錯覚を利用した印象操作にすぎないのではないか。






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