この記事は、東大・京大・早大・慶大を出て一流企業に入社し、社内で頭角を現わしてMBA取得のために米国に派遣された4人が合同で書いたものである。
まあ、いわば、学歴エリート集団と言っていい。ここでは「英語力」についての部分だけ抜き出した。
要するに、「英語を話す」のではなく「英語で(聞き手が聞く価値のある内容を)話す」能力が大事だ、ということだ。言い換えれば、文化的教養や社会的好奇心、政治への関心などの無い人間が口先だけペラペラと英語を喋っても、本物のエリートにはなれないということである。
さて、日本の政界、官界、学界、経済界にどれだけ本物のエリートがいるだろうか。
(以下引用)
英語の教育にも疑問
日本でも英語を身に着けることの重要性が広く認識されはじめ、学校だけでなく私の働く企業でも力を入れて取り組んでいる。しかし、日本人の多くは英語の真の重要性を分かっていない気がする。
小学校時代をアメリカで過ごした後に日本に帰国した、いわゆる帰国子女の私は、日本で英語力を評価するテストとして有名なTOEIC・TOEFLはどちらもほぼ満点を取得している。TOEFLについては過去スピーキングセクションで満点以外取得したことがない。はっきりいって、英語には自信があった。
しかし、アメリカに来てすぐに、自分の英語力が世界では全く通用しないことに気づいた。それは「英語を話せる」「英語を聞き取れる」だけが英語力ではなかったからだ。そのことを、私は重要な就職面接で撃沈したことで痛感した。撃沈の理由は、英語が話せなかったことではない。詳細は長くなるので割愛するが、私が面接官がもとめるアメリカの文化や消費者の選好を理解しておらず、きちんとコミュニケーションができなかったことだ。
大切なのは相手の懐に入るための「学問では習得できない英語力」とも言えるだろうか。英語の発音や聞き取り能力だけではなく、何より大切なのは英語を「使って」のコミュニケーションなのだ。「会話をする人の環境を知ること」が英語コミュニケーションの重要ポイント」と言える。これらは机で学べる英語ではない。
自分から動いて相手を知ろうとする態度こそがここでは求められる。これがグローバル化する社会で逞しく生きるために必要な素養だとすれば、正直に言って今までの私はその重要性について意識を払えてはいなかった。日本の英語教育が悪いとか、こうすべきとだかを言いたいわけではない。ただ事実として、日本国内において間違いなく「すごいね」といわれるレベルの「英語力」をもつ私はグローバルの環境におけるコミュニケーションの場で苦戦している。
私は企業という枠組みの中で上手く生きることやテストというルールで勝負することについては間違いなく得意なほうだと思う。しかし、それだけで本当によかったのだろうか。このコラムで語られる懸念が、私の取るに足らない杞憂であり、世の多くのビジネスパーソンにとって、一笑に付すものであれば幸いである。