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「あの戦争」の体験者の大半が戦争を語らなかった理由



あの戦争を経験した大人たちはしゃべれなかった。僕たち子供だった世代が語り継ぐべきだったのに「ノンポリ」として過ごしてしまった。



というのは至言である。
私自身の別の記事で書いたことだが、戦争経験者たちはそのほとんどが被害者であると同時に「戦争加担者」でもあったのである。被害者(空襲などの被災者はもちろん、兵士であること自体戦争被害者でもある。)であると同時に戦争推進者(地域指導者や公務員などは自動的に戦争推進者だったはずだ。)であった人は物凄く多かっただろう。そういう人々は、敗戦後長い間あの戦争について発言できなかったはずだ。実際、「私はあの戦争でこういう悪行をした」と表立って堂々と語る人などほとんど聞いたことがない。だが、内輪の席では「俺は中国戦線で何人殺した」とか「姑娘を強姦した」と自慢する中年男や老人も結構いたことはいろいろな記録で見たことがある。
南方戦線よりは中国戦線でその手の話が多いのは、南方戦線での「敵」は米兵(白人)だったからではないか、という気がする。つまり、中国人を自分より下に見て、白人を自分より上に見る「優越感と劣等感」の結果だろう。言うまでもなく、中国人を下に見る習性は日清戦争の勝利で肥大した傲慢な自尊心のためである。白人への劣等感は「強制開国という国家的強姦」によって植え付けられたものだ、というのは岸田秀の説だが、私もそれに同意する。


(以下引用)


うかつだったと…大林宣彦監督 高畑さんは「映画で平和をつくる意思が明快だった」


高畑勲監督死去



花束を持って舞台挨拶を行った大林宣彦監督
Photo By スポニチ

 「火垂るの墓」など数々の名作を手掛けたアニメーション映画監督の高畑勲さんが5日午前1時19分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。82歳。大林宣彦監督(80)は「映画で平和をつくる意思が明快だった」と同世代の高畑さんを悼んだ。

   ××  ××  ××  

 最後に連絡を取ったのは、昨年12月の僕の映画「花筐/HANAGATAMI」の初日のころ。うちの恭子さん(妻)に連絡があり「大林さんは元気でいいね」と花を贈ってくれた。その花束を持って僕は舞台あいさつに上がったんですよ。

 思い起こされるのは2〜3年前、一緒に映画賞を受賞した。そのときに高畑さんは「あ〜大林さん、うかつだったね。僕たちがうかつだったから、日本がこんな戦争をする国に戻ってしまった」と言うんだ。今の日本を大変心配していた。僕たちは敗戦後の国造りを任された世代。あの戦争を経験した大人たちはしゃべれなかった。僕たち子供だった世代が語り継ぐべきだったのに「ノンポリ」として過ごしてしまった。それを高畑さんは悔やんでいた。

 高畑さんの作品は決して見て楽しいだけのアニメーションではなかった。つらいけどつらさを乗り越えていくことを教えてくれた。映画で平和をつくる意思が明快だった。同じ世代の大変大切なパートナーを失ったと思うと無力感が募る。(談)




[ 2018年4月7日 08:40 ]






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