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散華論

今朝の散歩では、近所の家の庭に咲いた、桜の花(沖縄の桜で、緋寒桜と言う。人によっては寒緋桜と言う人もいるが、緋桜は桜の種類なのかどうか。寒桜は明らかに種類名だろう。まあ、山桜の一種である。)を眺めて通り過ぎたが、見た感じはだいたい三分咲きくらいかと思う。この前は、それが2分咲きくらいの感じで、それを見て、「毎日前日の5%ずつ花が増えていったら、満開まで何日かかるか」という数学の問題を思いついたが、これは通常の計算では出せない気がする。覚えていないが、指数方程式というのがあった気がするが、それに当たるのではないか。つまり、毎日、前日の1.05倍になるので、それがN日後に100になるのだから、「1.05のN乗が100にほぼ等しいとき、Nはいくらか」、という問題だ。もちろん、1.05×1.05を数回繰り返せばいいだけだから、面倒な作業ではない(たぶん、20回かそこら繰り返せばいいという気がする)が、それを方程式として解けるかどうかだ。

で、今日は桜の花を見て「同期の桜」という歌(軍歌というか、昭和歌謡というか)を思い出したのだが、その「桜」の花が何なのか、気になった。
まあ、昭和時代には既にソメイヨシノが日本の国花扱いだったと思うが、ソメイヨシノが全国に広まったのは明治以降だったと記憶している。
ソメイヨシノは、確かに「見事に散る」花だろうが、山桜の花の散り方は、どんなものだったのか。私が見る限りでは、緋寒桜の花はなかなかしっかりした花で、完全に開花するまでは少々の風では散らないように思える。それでは、「見事散りましょう 国のため」には似合わないわけで、特攻隊賛美の歌にはならないようだ。

こういう「散華」を美化するのは日本の独自な精神性だろうと思う。
西郷隆盛も「男児玉砕すとも瓦全を恥ず」(「瓦全」はどういう字だったか覚えていないので適当に書いた。瓦として長生きする意味だったと思う。)という文句を詩の一部に書いていたが、まあ、軍隊としては、そうして兵士を鼓舞しないと戦えないだろう。そして、武士道的には、それが一般的思想だったと思う。「葉隠」も同様の思想だろう。つまり、大義のために死ぬのが男だ、ということだが、その大義がしばしば馬鹿馬鹿しいもの、馬鹿な主君の馬鹿な行動への忠義立てのための死であったのは「忠臣蔵」でよく分かる。しかし、日本人はそういう死に方を素晴らしいと思い、感激するのである。べつに武士道とは関係ない一般庶民でもだ。
本来の武士の行動原理は「御恩と奉公」であり、現代のサラリーマンと何も変わらない。ただ、その「奉公」がしばしば死という結果を伴うだけだ。そこで、死を恐れない心性を作るのが「上級国民」には大事になってくるわけである。
まあ、こうした分析は下品である、と思う人もいるだろうが、私は社会の最下層の人間の視点から見るのが好みというか、ダメ人間としての習性なので、こうした考え方になるわけである。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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