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読書(文章を読むこと)について

私はツィッターをやっていない(覗くだけである)ので、ツィッターの誤読の状況は知らないのだが、下に書かれたこと自体は「速読の技法」としては非常に正しいのではないか。まあ、ツィッター程度の長さの文章を誤読するのは、誤読される文章自体に欠陥がある場合の方がはるかに多いような気がする。誤字や文法的間違いやあいまいな表現や「自分独自の言葉の使い方」などはザラにある。
そういう「誤読されて当然」な文章をなぜあえて書くのか、と言うと、「思うこと言わざるは腹膨るるがごとし」(「徒然草」)ということだろう。私があまり誰も読まない文章を幾つかのブログで書いているのも、結局は自分自身との対話(想念)を形にして明確にしたいだけである。だが、ツィッターはもともと他人との対話のための手段だろうから、自分の発言が誤解されたら自分の文章の書き方を反省するのが先ではないかと思う。

なお、速読の技法(小説を速読する意味は無いので、論文などの場合)を書いておけば、

1:最初と最後を注意して読む。ただし、最初の部分は「書いた事情」や「どうでもいい前置き」「作者の言い訳」など、読む価値が無いことも多い。しかし、「結論を先に書く」タイプもあるから、その場合はそこだけ読んで終わりにしてもいい。
2:文章の中盤は、漢字部分とカタカナ部分だけ拾いながら流し読みする。

というものである。それ以外の平仮名部分は、助詞助動詞そのほか、「思想や概念そのものではない」ので、肯定文か否定文かだけ気をつければいい。
一番の時間の節約は、「読まないでいい文章は読まない」ということで、自分の興味の無い話題や「語彙が特殊な文章(宗教関係や哲学関係)」「難読漢字だらけの文章」などは私はほとんど読まない。(読めない、というほうが正確か。幸田露伴の文章の多くは、読めたらいいなあとは思う。)
ついでに言えば、哲学書はデカルトの「方法序説」だけで十分だと私は思っている。この非常に読みやすく薄い本は思考法の基本と思索の喜びを私に教えてくれた。長い本の例で言えば、プラトンの「国家」なども部分的(トラシュマコスの発言関係など。)には面白かったが、文章全体を苦労して読む必要は無かったと思う。今ならウィキペディアで要旨だけ知ればいい。ショーペンハウエルは、彼の哲学内容(中心思想)自体は知らないが、「読書について」や「自殺について」などはとても読みやすく、文章が機智に溢れ、エッセイとして面白い。(つまり、哲学者の書いた本だからと言ってすべてが難解なのではない、という例だ。)彼の「読書について」に書いてある、「読書とは自分の頭を他人の思想の運動場にすることである」という言葉は、読書についての非常に重要な指摘だと思う。この言葉は私の読書姿勢(つまり、警戒心と批判精神を持って読む。)への有益な指針になった。



さんがリツイート

Twitterやってると「文字が読めると文章が読めるのは違うんだな」と実感することが多々あるのですが、文章を読めない人は①最初の3行くらいしかちゃんと読めない②文章に組み込まれた単語を拾って勝手に解釈をする③最初と最後だけ読んで間の文章が読めないというタイプがいるっぽいな


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酔生夢人
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職業:
仙人
趣味:
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自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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