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生命と理念

「罪と罰」その他のドストエフスキーの作品に一貫しているのは、私見だが、「生命とイデオロギーの対立」であり、「イデオロギーの、生命への敗北」ではないか。これは「カラマーゾフの兄弟」でも「悪霊」でも同じだろう。流刑にされたラスコリニコフが、同僚囚人たちに嫌われたのは、他の囚人たちは「必要に迫られて」罪を犯した、分かりやすい存在であるのに対し、ラスコリニコフは「イデオロギーのために罪を犯した」(それが彼の外貌や言動から感じられる)得体の知れない、気味の悪い存在だったからだろう。
そしてドストエフスキーは「生命と結びついた思想」としての宗教は肯定しているようだ。だが、その他の「作り物の理念や理想」としてのイデオロギー(主に政治的イデオロギー)は否定しているわけだ。(私自身は、「宗教こそイデオロギーの中のイデオロギーだが、有益なものと有害なものがある」、という考えだ。)
ここで勘違いされると困るのだが「新自由主義」も「自由主義」も「共産主義」も、あるいは私が常に共感している「社会主義」も、あるいは「資本主義」も「拝金主義」も「テロリズム」もすべてイデオロギーだということだ。ただ、我らの生活や社会はそれらのイデオロギーの要素をほとんど必須成分として持っているのであり、それらがどれほど邪悪な「病原菌」であっても、消し去ることは不可能だし、それを消し去ることも別のイデオロギー(ファッシズム)になるのである。
要は、「社会や人間にとって有益の度合いの大きいイデオロギー」と「有害さの大きいイデオロギー」があるわけだ。そして、何かのイデオロギーに根底から憑りつかれた人間は一種の狂人になる。これは一部の酷薄な大企業経営者やある種の政党政治家から無政府主義者まで同類だ。

ここで「イデオロギー」という言葉自体を考察するなら、「イデオ」はギリシャ語の「イデア」つまり「理想」であり、「ロギー」は「学問」や「論理」を意味するかと思う。つまり、人間が頭で作り上げた「空中楼閣」であるが、それが現実に実行されると「バベルの塔」のような巨大な、しばしば「巨大さ」しか価値の無い、壮麗な建築物を世界に生み出すわけだ。もちろん、その中で「現実との密着度」の高い理念は、現実に対して有益な奉仕をする。
これは、工学、理学、あるいは科学の一部、あるいは文学や歴史学にも有用なものは様々ある。文学ですら、「源氏物語」や「枕草子」「三大和歌集」は、一部特権階級のお遊びだったものが、日本では平民すらそれを楽しんでいるのである。これは他の国には稀なことである。日本のアニメが常に抒情的なのは、そうした「文学的伝統」の影響だろう。外国のアニメには、それはほとんど無い。
なお、悪しき「知識人」によって「文学」や「小説」が「学」や「説」という漢字を含んでいるわけで、それが庶民を文学や小説から遠ざけているかと思う。文学は学問ではないし、小説は「自説を述べること」を目的とはしていない。これらは単に「物語」であり「語り物」である。その中に偉大な思想を読み取るのは読者個々の勝手である。

なお、帝政ロシアは、北欧の軍隊がロシアを侵略征服して打ち立て、ロシアの民衆とはまったく無縁な貴族社会を2000年もの間続け、その間民衆の生活は貧困の中にあった。つまり、ソビエト革命は「道義的に見て」当然の出来事だった、と見るべきである。私は暴力革命否定論者だが、それは場合による。日本社会は(現時点では)革命に値するほど庶民生活は貧困ではない。まあ、「上級国民」が何か得体の知れない感じはあるが、天皇が庶民を搾取して豪華な生活を送っているというのはデマでしかないと思う。むしろ、日本を支配し搾取しているのはユダ金の部下や眷属たちだろう。天皇攻撃はある種のイデオロギストの客観的戦略としても下の下、愚の愚だと思う。



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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