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思考手段としての「空」

仏教には膨大な経典があるらしいが、そのうち釈迦自身の教えだけを書いた経典は何があるのだろうか。それとも、仏教において釈迦はキリスト教の「預言者(言葉を預かった者:神の教えを伝えた人)」に相当するだけなのだろうか。そういう根本への疑問を仏教徒は持たないのか、不思議である。創価学会など、釈迦より日蓮を上位に置いているというのだから、これはもはや仏教ではないのではないか。
私は仏教の経典は「般若心経」以外は読んだことはないが、これは素晴らしい「哲学」だと思っている。仏教の経典がこれだけでも仏教は素晴らしい。しかし、「宗教」としての仏教はまったく信じていない。まあ、教えを知らないのだから信じようがない。宗派がありすぎてどの宗派が「正統的仏教」なのかの判断すら素人には無理である。

で、ここで書こうと思っているのは「思考手段としての空」というもので、これは前にも似たようなことを書いてはいる。つまり、西洋の学者の中には「仏教とはニヒリズムではないか」と考える人間がいると聞いたことがあるが、それは「般若心経」の「空観」を指しているのだろう。で、「空観」はニヒリズムか、というのが私がここで論じることだが、もちろん、「そうではない」という主張だ。その主張は「空という観念は悟りに至る手段としての観念だ」というものであって、「この世界はすべて空しい」というニヒリズムとはまったく別だ、ということである。


「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」

つまり、「色即是空」は即座に「空即是色」になるのであり、この世界のあらゆる現象(色)は「見方によって空となり、また見方によって色(現実存在)になる」というだけのことだ。
この世界に自分という者が存在しなかった場合、その世界はあなたにとって意味があるか、と考えれば、世界は即座に灰色の虚無的な世界になるだろう。その視点を経由して改めて「自分が今存在する、その世界」を眺めると、すべては色彩と輝きと生命に満ちているのが分かるわけだ。その世界に「価値がない」などとはとうてい考えられないはずである。とすれば、あらゆる人あらゆる生命にとって、この世界がかけがえのないものであることも分かるだろう。ここにはニヒリズムのかけらも無い。これが「思考手段としての空観」である。

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酔生夢人
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男性
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仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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