ファッション雑誌『ヴォーグ』(USA版)3月号に載ったアメリカの白人スーパーモデル、カーリー・クロスの芸者風ファッションが大炎上し、カーリーが謝罪する騒ぎとなった。この件は日本でもいち早く取り上げられ、各記事に「人種差別」「日本をバカにしている?」などといった見出しが踊ったが、多くはアメリカの人種と文化の歴史と現状を説明し切れていなかった。そのせいか日本人読者からは「何がいけないのか分からない」の声が上がっている。
問題となった写真は、日本の伊勢志摩で撮影されたもので、本来は金髪のカーリーが黒髪のゲイシャ風ウィッグと着物風デザインのドレスを着ているというものだ。一流雑誌だけあって写真自体の質は高い。しかし近年のアメリカ文化シーンは”cultural appropriation”(文化の盗用)に厳しく、今回の写真は多くのアメリカ人の眉をひそめさせることになった。
“文化の盗用”とは端的には、特定の人種や民族または国や地域特有の文化、特に衣装・髪型・肌の色や顔立ちなど外観を他のグループに属する者が模倣することを指す。ここで重要なのは、なぜ“文化の盗用”が問題なのか、だろう。
多様性と盗用の違い
まず、今回の件はカーリーのゲイシャ写真だけを見ても問題の本質を把握できない。写真を掲載した『ヴォーグ』3月号が「多様性特集号」であること、そして『ヴォーグ』が主張する多様性とは何かを知らなければならない。
今号の『ヴォーグ』は多様性の象徴として、表紙に人種・民族・宗教・体型の異なる7人のモデルを起用した。中のひとり、中国生まれのリウ・ウェンはアジア系として初めて『ヴォーグ』の表紙に登場したモデルだ。
特集のトップページには、金髪で整った容姿など特定の外観の女性のみを美しいとするのはもはや時代遅れであり、様々な外見の女性がそれぞれに美しいといった主旨の文がある。
様々な外観の女性がそれぞれに美しいのであれば、アメリカ白人にはアメリカ白人の、日本人には日本人の美があるはずだ。ひとりのモデルにファッション七変化させる企画ではなく、女性それぞれの美を追求する企画なのだから、カーリーを起用するのであれば彼女の本来の姿であるアメリカ白人性を表すべきだった。そして日本人女性の美を追求するのであれば日本人か日系人のモデルを抜擢するべきだった。しかし『ヴォーグ』はカーリーを日本に送り込み、ゲイシャ・ファッションを纏わせた。いまだに「ジャパン=ゲイシャ」のイメージを使うことの是非はここでは敢えて置くが、人選は完全に特集の趣旨に反してしまっている。これがカーリーのゲイシャ写真が非難された理由だ。
人種差別の歴史
日本の読者からは「では、どのモデルも自分のルーツに基づく服装しか出来ないのか」という声もあった。現代の日本は和服ではなく洋装が標準となっているが、日本人が西洋由来の服装をするのは良くて、アメリカ人の着物がタブーなのは何故だろうか?
答えはアメリカに今も根強くある人種差別だ。アメリカのマジョリティは白人であり、白人は社会的にも経済的にも優位な立場にある。対してマイノリティ(黒人、ラティーノ、アジア系、ネイティヴ・アメリカン他)は今もそれぞれに差別の対象であり、社会的または経済的に不利を被っている。
白人が顔を黒く塗って黒人の扮装をする“ブラックフェイス”はアメリカでは“文化の盗用”を通り越し、完全な人種差別として絶対的なタブーとなっている。日本でも2年前に、『ミュージックフェア』(フジテレビ系)で黒塗りをしたももいろクローバーZとラッツ&スターに対して、人種事情に詳しい人たちが反対運動を行い、該当部分が放映中止となる事件があった。あの時も「黒人音楽へのリスペクトとしての黒塗りなのに、なぜダメなのか」という声があり、結局、日本では理解がなされないままに終った感があった。
アメリカの黒人はかつて奴隷だったことから、当時から現在まで、時には死にも至る人種差別を受け続けている。黒人は黒人であるというだけの理由で蔑まれ、「肌が黒い」「唇が分厚い」「髪が縮れている」と外観を揶揄されてきた。昔は白人芸人による“ミンストレル・ショー”と呼ばれる黒塗り芸が実際にあり、黒人は「歌と踊りは上手いがマヌケ」なキャラクターとして侮蔑的に演じられた。そのイメージは今も執拗に残っている。たとえ「リスペクトゆえ」と言われても黒塗りを許容できない理由だ。
ネイティヴ・アメリカンも同様の問題を抱えている。北米の先住民でありながら後からやってきた白人に駆逐され、居留区に押し込められ、今も貧困と精神的な苦痛に苛まれている。かつて白人と闘った際に「野蛮」「獰猛」というステレオタイプを貼られ、そのイメージは未だに残っている。メジャーリーグのクリーヴランド・インディアンズは「赤い肌」「かぎ鼻」「剥き出しの歯」「羽飾り」の「インディアンの酋長」をマスコット・キャラクターとしており、ネイティヴ・アメリカンたちは、マスコットを変更するよう長年訴え続けている。
アジア系のステレオタイプは、外観は「吊り目」「チビ」「黄色」。他人種がアジア系を演じることを“イエローフェイス”と呼ぶ所以だ。昔はさらに「出っ歯」も加わっていた。キャラクターとしては「英語がヘタ」で、アメリカ生まれの二世であろうが「移民」扱いだ。日本女性の場合は「従順で男性に従う」、または正反対の「誰とでも寝る」が加わる。アメリカ在住の日本人は「ジャパンと言えばフジヤマ、ゲイシャ、カラテ」辺りのイメージにも辟易している。
どのマイノリティ・グループも、こうしたステレオタイプの払拭に苦労しているのである。
他方、マイノリティは白人をステレオタイプに貶め、あざ笑う立場になかった。白人は白人であるというだけの理由で外観やキャラクターを笑い者にされた経験を持たない。したがってマイノリティがTシャツやジーパンなど、アメリカ白人が生み出した服装をすることに対するクレームは出ない。そもそも現代のアメリカ社会で黒人、ネイティヴ・アメリカン、アジア系などが400年前の服装で日常生活を送ることは不可能でもある。アメリカにおける“文化の盗用”問題はマジョリティとマイノリティで作用の仕方が異なるのである。
映画の“ホワイト・ウォッシュ”
ハリウッド映画で本来は白人の役を黒人俳優が演じると、白人ファンから必ず「それはおかしい」とクレームが出る。最近では『スターウォーズ/フォースの覚醒』(2015)や『アニー』(2014)などだ。しかし、マイノリティの役は昔から白人が演じ続けている。この現象は“ホワイト・ウォッシュ”と呼ばれる。
ほとんど見過ごされ、今も延々と続くホワイト・ウォッシュだが、あまりにも行き過ぎて問題となった例がある。今年のアカデミー賞で最多ノミネートを得ている『ラ・ラ・ランド』の主役、エマ・ストーンの主演作『アロハ』(2015)だ。主人公のアリソン・ングはアジア系とハワイアンの血を継ぐキャラクターだが、金髪碧眼のエマ・ストーンが演じ、あまりのちぐはぐさ、文化的繊細さへの配慮の欠如から強く非難され、エマと監督が謝罪を行っている。
ホワイト・ウォッシュが行われる理由は、観客動員数だ。昔に比べるとマイノリティ人口が増えているアメリカだが、それでも人口の6割以上が白人であるため、白人が主役を演じるほうが観客数を増やせるという思い込みが映画会社にある。アメリカでは3月にハリウッド版の『攻殻機動隊』である『Ghost in the Shell』が公開されるが、主役の草薙素子を白人のスカーレット・ヨハンセンが演じており、“文化の盗用”として若干の物議を醸しているが、このまま公開される模様だ。
興行成績や視聴率が理由で、映画であれ、テレビドラマであれ、制作側は白人を起用するわけだが、これに対し近年はこれまでのように黙っていないのがマイノリティ団体だ。マイノリティが演じられる役はまだ少ない。そのわずかなチャンスすら白人に持っていかれてしまい、マイノリティの俳優は活動の場がますます少なくなることから抗議の声を上げるのだ。
ファッション雑誌も同様だ。『ヴォーグ』の主な読者は白人女性であり、登場するモデルは圧倒的に白人が多い。「多様性特集」と銘打ってはいても、白人読者が受け入れられる範囲での多様性なのである。今回のカーリーのジャパン企画は14ページにもわたり、カーリーが写っている写真は8点ある。これをすべてアジア系のモデルに置き換えると従来の読者には受け入れられないと編集部は考えるのである。
アートとしての葛藤
以上がアメリカの事情だ。白人と同じ国に同居せず、 対白人の人種問題があまりみられない日本人には呑み込みにくい事情かもしれない。
しかし、本質は人種そのものではない。社会的上位にあるマジョリティと下位にあるマイノリティの関係性こそに本質がある。以前、日本で日本人コメディアンが金髪のカツラに付け鼻をして白人を演じたCMを、日本ではマイノリティである白人が不快に感じたのはそれが理由だ。
こうした背景を解してもなお、「アートとしての表現が規制されるのはおかしい」「そこまで言うと異人種、異文化の融和が進まない」という意見も出るかと思われる。アメリカ国内にもそうした意見はある。
全くそのとおりである。アートとして白人が黒人を、アジア系が白人を、ラティーノがネイティヴ・アメリカンを、ネイティヴ・アメリカンが黒人を、黒人が白人を演じる……どんなパターンであれ、純粋にアートとしてなら行われて然るべきだろう。しかし、アメリカの長く複雑にして醜い人種の歴史が、今はまだそうはさせないのである。
(堂本かおる)
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