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対象そのものではなく、自分の幻想の存在を愛する恋愛

孔徳秋水氏のブログ記事の一節である。
スタンダールの「恋愛論」でも、真に愛する女性に対しては不能になる、という男についての記述があったが、おそらくすべての男がそうだろう。「めぞん一刻」で、五代君が響子さんと初めて結ばれようとした時に、勃起できなくて焦るという場面があったが、これも相手を「俗世間の物」ではなく「聖なる存在」としてきた結果である。(こういう場面をラブコメ作品の中に入れるのが高橋留美子の凄さだ。)まあ、キリスト教徒が、聖母マリアを性的欲望の対象にはできないようなものである。
そういう「聖なる存在に祭り上げられることの迷惑さ」を女性側の視点にも立って描いたのが武者小路実篤の「友情」で、この小説はフェミニズムの文学的記念碑だろう。
逆に言えば、女性をただの「物」として見る男こそが、女性に対しては楽々と行動でき、その結果、多くの女性を獲得できるということである。女性の側から見ても、そういう男のほうが楽に性的交渉は持てるわけで、女性に対して真面目な男は、なかなか女性には縁が無いのも当然だろう。その結果、女性全体に対して絶望し、ミソジニー(女性嫌悪症)になる男も増えていくことになる。つまり、「女性の性的開放(聖なる存在が安売り商品や肉便器になったこと)が男性をミソジニー化させた」わけだwww


(以下引用)


本当に…本当に…本当に…心底から愛してしまった女性に対しては…


 


私であれば、指一本触れられなくなる…


 


 


それは、傷つきたくないとか、そういう気持ちばかりではないんだな…


 


 


雪の降った日の朝、足跡をつけるのがもったいないと思わないか?


 


足跡をつけてしまえば、もうそれは”別”のもの…


 


 


触れるのも、関わるのも、すべてを壊してしまいそうで、できなくなってしまう…


 



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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