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名前の呪縛

アニメの「ちはや振る」の第三期がネットフリックスに出ているので、うっかり第一期から見ているのだが、今朝見た回の中で、千早たちのカルタ教室の先生である原田が非常に興味深いことを言っていた。私はこの原田というキャラが、カルタ(百人一首)に似合わないがさつさの塊のようで嫌い(それ以前にスポーツ競技としてのカルタも、和歌の優雅さの冒涜だと思うのであまり好きではない)なのだが、この原田の言葉はある種の賢人の箴言、人生訓のように思える。その言葉は

「団体戦は個人戦、個人戦は団体戦だよ」

というものである。つまり、カルタの団体戦とは、個人の勝敗の総和であって、個人個人が勝たなければ団体戦としての勝利もない。だから、団体メンバーのひとりひとりが「自分の勝利に集中すべきで、団体全体を見る余裕などないし、あってはならないのだ」ということだろう。そして、個人戦での勝敗は、団体メンバーの精神的後押しがある、ということだろうか。
これだけなら、単なる競技カルタの金言だが、私がこの言葉から考えたのは、

「我々は、団体戦、個人戦と聞いただけで、それを頭から別物だと考えている」こと、
つまり
「我々の思考は物の名前や言葉で呪縛されている」ということだ。

これは小林秀雄が言った、「我々は名前を知らない草花の名前を知った瞬間から、その草花そのものを見なくなる」という言葉に近い。つまり、その草花がたとえば「菫」だと知った瞬間から我々は「菫という名前のついた存在」としてしか見なくなるし、菫に関するあらゆる連想付きでしか見なくなるわけだ。

元の話に戻って、「団体戦とは個人戦だ」と考えられる人はほとんどいないのではないか。団体戦と個人戦とは別物と思うわけである。そして「団体の勝利」を最優先することで、自分自身の戦いとは別のものとしての戦いを戦うわけである。極端に言えば、「負けても俺の負けではなく、団体の負けだし」と思う人間も出て来るし、「自分の負けは団体の負けになるから負けられない」と自分を縛って、ガチガチになることも出て来るわけである。
そして、それは「団体戦」「個人戦」という名前の呪縛だ、と私は思う。

こうした「名前の呪縛」は我々の生活や社会の中に無数にあるだろう。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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