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人間選別社会

「混沌堂主人雑記」記事の一節だが、重要な指摘だと思う。
資本主義、あるいは工業化社会の一番凶悪な部分が、ここなのかもしれない。
人間の自然な部分がどんどん「機械的選別をされていく」ということだ。そのために、学校のテストや、あるいは医学なども(社会不適合者を「病人」と定義づけることで)機能している。
昔は、地域地域に「馬鹿」がいたもので、それで別にその地域も問題視はしなかった。馬鹿もいれば常習的酔っ払いも乞食もいる、売春宿もある、というのが昔の社会だったわけだ。
そういった人々は社会の表面から消されてきた。つまり、表面上は「無菌社会」になったわけだ。
社会に適合するかどうか(その基準は誰かが作り、それを暗黙のうちに皆了解している。)というのが人間選別のほとんど唯一の基準になった。だから、人々は自分のそういった負の側面を隠して生きる(もちろん、大金持ちや権力者は別だ。)ようになり、非常なストレスを抱えて生きるしかないわけである。
しかもこれは社会主義国家でも何でもないのである。むしろ資本主義の高度な発達の結果だ。

下に書かれたこととは直接につながらないように見えるが、「人間の点数化とそれによる輪切り、差別」もそれである。昔の身分社会は、大きな差別はあったが、士農工商の大枠の中では、たとえばAはBより2ポイント優れている、というような馬鹿な評価はしなかったはずだ。なぜなら、その2ポイントというのは、条件が違えばいつでも逆転できるものだし、ある面では優れていても他の面では劣るというのが人間だ、という当たり前のことを誰でも知っていたからだ。

宮沢賢治に「虔十公園林」という作品(童話)がある。周囲からは馬鹿呼ばわりされていた精神薄弱(この言葉はあまり適切ではない。要するに、社会的な意味で知能が低い人間だ)の男が、子供たちが遊ぶ姿を見るのが大好きで、子供たちのために小さな林を作り、そこが公園になる、という話で、その最後で、ある人が、「本当に偉い人というのは、この虔十のような人ではないでしょうか」というような言葉を言うのだが、まあ、うろ覚えで書いているので記憶違いかもしれない。とにかく、この虔十のような人間が周囲から馬鹿にされていたのは昔も今も同じではある。だが、昔はそういう人間でもちゃんと社会に居場所があり、寛容な目で見られていたのである。

たった1,2点の差で、有名高校や有名大学に行けなかったという人間は無数にいる。では、彼らがその後の人生で受ける仕打ちは、その1,2点にふさわしい些細な違いだろうか。
高校や大学入試だけの話ではない。わずかな差が残酷なまでの違いを作ることが、私は資本主義社会の本質的な欠点ではないか、と思っている。



(以下引用)





発達障害は、軽度なら障害て言うほどのモノではない・都市部や現代社会でなければ。

あまりに、農村とかの自然と近い暮らしとか、まあまあの距離を開けれる人間関係ならば、大過なのである。

それがあまりに機械化・チームワーク化かされ、大過なかった差異が、大きな「障害」になってしまう。



近代機械化社会や、それを前提にした社会制度は、人間の自然・本来のポテンシャルとは遠くかけ離れた異様なモノというのは大きな間違えでない。

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