数字は前回の「モーセ篇」からの続き。
7)「モーセ」は、言わばユダヤ民族の「父」であり、ユダヤ民族は「父殺し」をしたわけである。そして、「唯一神」と「父」のイメージは重なっている。(夢人注:旧約聖書でも「父」は子供に祝福を与え、あるいは呪いを与える存在である。)
8)ユダヤ民族は「神に選ばれた民族」であるにも関わらず、他民族にしばしば征服され、不幸な境遇を経験した。「神」のユダヤ民族へのこの対応にはユダヤ民族の何かの「罪」が存在するはずである。罪があるから「処罰」があるのでなければ理不尽である。その「罪」は何か、と考えた時に、大昔のユダヤ民族は「父殺し」すなわちユダヤ人を生み出した「神」に等しい存在である「モーセ」を殺したことが思い出され、その罪悪感が深層心理の中に生まれた。これが「原罪」観念の最初の芽生えである。
9)イエスという人物がユダヤ民族の歴史に登場し、そのイエスは「罪なくして」殺された。その言行はまさに「モーセ」の思想と同一であった。つまり、イエスはモーセの精神的な子供であり、ユダヤ民族の「モーセ殺し」は繰り返されたのである。
10)「被害者(夢人注:イエスのこと)が罪なくしていけにえとなったというのは、明らかにある歪曲を含む考え方であり、論理的には理解しがたいものである」(フロイト「同書」より)「いったいどうして、殺人の罪のない者が、みずから死を迎えることで、殺人者(夢人注:ユダヤ民族のこと)の罪をひきうけることができるというのだろうか」(同書)
11)「キリスト教」という新しい思想、すなわちパウロが旗振りをした「ユダヤ教の改革」は「表向きは、父なる神との和解のために行われたとされているが、実際には父なる神を王座から追放し、亡きものとすることであった。」(同書)「ユダヤ教は父の宗教であったが、キリスト教は息子の宗教になった。古い父なる神はキリストの背後に退き、息子であるキリストが父の位置についた」(同書)
12)「パウロはユダヤ教を発展させるとともに、ユダヤ教を破壊することになった。パウロがこれに成功したのは何よりも、救済という観念を作り出して、人類(夢人注:キリスト教発生当時の救済の対象は「ユダヤ民族」だけだが、過去の歴史での「父殺し」の潜在的罪悪感はすべての民族にある、というのがフロイトの思想であるようだ。)の罪の意識を鎮めることができたことによる」(同書)
以上、フロイトによる「原罪という観念の発生機序」であるが、もちろん、私の主観による読み取りであり、かなり歪曲されたものだ。