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いつのまにか作られた「権威」を疑うこと

私は、「世界反ドーピング機関(WADA)」のような、得体の知れない団体が、いつのまにか権威を持って、世界的に影響力を有していること自体を不審に思うものである。
これまで、反ドーピング機関がやってきたのは、ロシアのスポーツ選手を国際大会から締め出すことだけではないか。それ以外の国の選手は「主目的」ではなく、「ついでに」検挙されただけだろう。
そして、下の記事では「のど飴」の成分が「禁止薬物」となっているが、いったい、のど飴を使用することが、運動能力を不正に向上させるとでもいうのか。馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
いったい、なぜ、こんな愚劣な通達が、世界のスポーツ界ではそのままに承認されてしまうのか。そこには、「権威を作り上げて支配する」システムがあるだけだ、と私には見える。
もちろん、ある種の男性ホルモンを使用することで、異常な運動能力の向上があるのは確からしいから、禁止薬物を指定することには意味があるだろう。だが、そもそも、どこからどこまでが「正常な競争」なのか、分かったものではない。競争があるかぎり、ルールの裏をかいてでも勝利を得たいという欲望が無くなることはないだろう。
少なくとも、「のど飴」まで安心して使えないようなスポーツ界がまともだとは、私には思えない。(日本人が普通に食している食べ物の成分が「禁止薬物」にいつのまにかされていたら、日本は国際大会に出られないことになるわけである。薬物と言っても、漢方薬など、自然の植物が大半であり、それは食品の一種ともみなせるのである。)
いずれにしても、「逆らうことのできない権威」がいつの間にか作られ、それに従うことが当たり前のようになっている、ということ自体が私には不快でならない。
なぜ、スポーツ選手たちはこうしたことへの疑問の声を上げないのだろうか。



(以下引用)

のど飴の成分、禁止薬物に 不使用の龍角散名指しデマも




 世界反ドーピング機関(WADA)の禁止薬物リストに今月1日、市販の「のどあめ」に使われる生薬「南天」などに含まれる物質で、気管を拡張するなどの効果がある「ヒゲナミン」が加わり、ネット上で話題になっている。スポーツ選手にも愛用者が多いため、「のど飴(あめ)に注意」と通達を出す競技団体もあるなか、SNS上では同成分が含まれないメーカーの製品まで誤って「禁止薬物」扱いするデマ情報も拡散し、混乱している。


 「ヒゲナミンを含む生薬、南天を用いたのど飴は使用を避けて――」。先月28日付けで全国の指導者に向け、いち早く使用禁止を通達したのは、日本卓球協会だった。今月16日から、東京体育館で全日本選手権が開幕するため、同協会のドーピングコントロール委員会が周知徹底を急いだ。


 通達では「ヒゲナミン」のほか、以前から禁止されている物質「エフェドリン(麻黄)」についても触れ、その成分が含まれる「浅田飴」も使用不可、と改めて念を押している。


 「南天」を製品名に冠した発売50周年のロングセラー「南天のど飴」を販売する常盤薬品工業は、「ヒゲナミンが製品に含まれていることは事実。気管を拡張し、せきを鎮める効果がある。該当する方(選手)には、十分注意して取り扱いいただきたい」とコメントし、お客様相談室の態勢を拡充する考えを示した。


 浅田飴も公式ツイッターで、エフェドリンについて「以前より禁止物質として、指定されております」と、周知徹底した。


 一方、ヒゲナミンが含まれていないにもかかわらず、含まれているかのような誤った情報が広がった龍角散の担当者は困惑した。「当社の『龍角散ののどすっきり飴』には、ヒゲナミンは一切含まれておりません。ご安心ください」と、ホームページ上で発表した。(原田亜紀夫)






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乳酸菌サプリメントは本当に効果があるのか

まあ、考えれば、そうなるのが当然だろうなあ、と思う。
実は、私自身、加齢による胃腸の衰弱に悩んでおり、非常に下痢をしやすくなっていて、胃腸の老化の対策は何かないか、と探しても、見つかるのはたいてい「乳酸菌サプリメント」のステマサイトばかりなのである。だが、下に書かれているように、乳酸菌は胃液で死んでしまうのなら、これはイワシの頭を信心する類いの迷信を利用したインチキ商売なのではないか。
ヨーグルトやヤクルトなどは「美味いから飲む」、というならいいが、それが健康にいいと信じて愛用している人が大半だと思う。医学界は、この疑問に誠実に答える義務があるはずだ。


(以下引用)



乳酸菌は、胃液でほとんど全滅するのではないのですか?









greed_jarさん

2010/12/1008:12:55
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乳酸菌は、胃液でほとんど全滅するのではないのですか?




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moriani503さん
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2010/12/1008:23:29
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その通りです。乳酸菌の中でも最近注目されているもの、有名なものを集めてみました。摂取した乳酸菌は、そのすべてが腸に到達できるわけではありません。口から入った細菌が勝手に増殖しないように、人には胃酸と胆汁酸という2つのバリアが備わっているのです。胃酸はpH1~2の強酸性で酸に弱い乳酸菌はここで死滅してしまいます。現在、口から摂取する99%の乳酸菌が、生きたまま腸に届くことなく死滅するといわれています。もし酸に耐えた乳酸菌が腸に届いても、そこに溜まることが出来なければ効果が十分に発揮されずそのまま便と一緒に排出されてしまいます。(溜まることが出来なかった菌を通過菌といいます)つまり乳酸菌は、胃酸や胆汁(消化液)に強く、腸に定着(増殖)できる強さが必要というわけです。
ビフィズス菌、ヤクルト菌KW、乳酸菌LG21、植物性乳酸菌、コッカス菌、L29乳酸菌、L92乳酸菌、EF乳酸菌、ETF-2001、クレモリス菌、ラブレ菌
上記のように乳酸菌は、胃や十二指腸を通過するときに胃酸や胆汁によってほとんどが死滅することから、腸まで生きたまま届く乳酸菌の開発競争が熾烈に行われています。例えばY社では、乳酸菌飲料の菌数を増やし、従来、一本の容器に150億個程度だった菌の数を200億、400億に増やしたものを販売しています。乳酸菌の数を多くすれば死なずに腸まで届く乳酸菌がふえるだろうと言う考え方です。しかし、従来の乳酸菌飲料より多くの乳酸菌が死なずに腸まで届いたとしても、すでに腸内に住んでいる善玉菌の縄張りに住み着くことは出来ず腸に留る事は出来ません。そこで窮余の一策として、このメーカーは乳酸菌飲料を毎日欠かさず飲むことで効果が期待できると謳っています。また、乳酸菌は空気に当たると死んでしまいますから大きな容器に入れて長く保存することも難しいので毎日小さな容器の乳酸菌飲料を飲み続けなければなりません。それで本当に効果が期待できるのでしょうか。という疑問視する意見もあります。乳酸菌の摂取=腸内環境の維持とは限りません。

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質問した人からのコメント

2010/12/10 08:28:58


一安心 排泄物の臭いが消えてしまったのですが、乳酸菌の仕事かどうか怪しくて質問しました・・

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この世界の片隅にはこういう世界もまた存在する

映画「この世界の片隅に」で泣いて、片淵監督の他の作品をレンタルDVDで見ようと思った心やさしいお爺さんお婆さんが「ブラックラグーン」を見たら、心臓が止まるのではないかwww
何しろ、メイド服姿のターミネーターが暴れるわ、片目アイパッチの修道院シスターが銃を打ちまくるわ、可愛い銀髪の双子姉妹(?)が人を殺しまくるわ、というアニメで、弾丸消費量は全アニメの中でもトップクラスな作品なのだから。しかし、その暴力世界の中だからこそ見えてくるこの世界の真実や人間性の真実、というのも描かれているからこそ片淵監督なのである。それに、何より先に、「面白い」作品なのだ。特に「強い女性」の出る作品が好きな女性にはお勧めだ。この作品には強い女性しか出ない、と言ってもいいくらいで、一番のヘタレ(本当は芯は強いのだが、根が平和愛好者)は男の主人公なのである。
こういう作品の世界像を絵空事だと思っている人は、シリアや南スーダンなどの現状を想起してみればいい。「戦時」や「非常時」がまさしく現在である世界が、今もあちこちにあるのだ。




            

この世界の片隅にがキネ旬ベストテン授賞したので片渕監督特設コーナー出来てたが、ラッシーもアリーテ姫も無くマイマイ1本だけなのでこんなことに・・・(;・∀・)


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白い灯篭の意味

凄いね。こういうところまで神経が行き届いているのか。
なお、キネマ旬報作品賞と監督賞を獲得したらしい。作品賞受賞はアニメ映画としては「トトロ」以来という稀な例になったとか。
返す返す、クラウドファウンディングが始まったころにそれを知らないで、「喜捨」ができなかったのが残念だ。まあ、その罪滅ぼしに、自分の無名ブログで何度も書いて宣伝にささやかな協力をしてきた、というところはあるのだが。結果的には、日本映画史に確実に残る作品を宣伝してきたのだから、誰かを騙すような宣伝にならなかったのは幸いだ。

「この世界」の功績のひとつは、「真面目な映画でも面白いのだ」ということを多くの人に教えた点にもあると思う。嘘八百、荒唐無稽こそが面白い、という「娯楽作品」への固定観念は捨てるべきだろう。面白さには多くの種類がある。ドストエフスキーも筒井康隆も、イングマール・ベルイマンもマルクス兄弟も「面白い」のである。


            

「この世界の片隅に」映画のやつは広島人しかわからないゾッとするポイントがあるんだよな。お砂糖騒動で一瞬映るお墓に立ってる灯籠、あれ全部初盆なんだよ。広島では初盆の際お墓に白い灯籠をたてるの。面白い日常のなかに一瞬映る戦争の光景はほんとゾッとするから知らなかった人は2回目観に行こ。


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実写版「この世界の片隅に」のこと

前にも引用した細馬氏の論考(現在、11回まで書かれていると思う)の一部を転載。

原作漫画にあってアニメ版からほとんど消えているものが、すずをめぐる男女の葛藤である。簡単に言えば、これは2種類ある。「周作・すず・水原」の三角関係と「りん・周作・すず」の三角関係だ。前者は、初恋的な思慕の情を寄せていた相手と現在の夫の間ですずが悩む、つまり「不倫」をするべきか否かという問題で、しかもその「不倫」は、実は相手はこれから死地(戦場)に向かうということが前提されている。結果的にはすずは、死を目前にしている初恋の人とすずを一夜共にさせようとした夫周作への怒りの気持ちを水原に言うことで逆に現在の周作への愛情を水原に知らせることになり、水原も潔くすずへの思慕や未練をあきらめることになる。こちらは、アニメでも描かれていたのだが、すずと水原の精神的なつながりの描き方が希薄だったため、アニメの中に出てくる白鷺が、水原の象徴、すずの水原への思いの象徴であることが観客に伝わっていない可能性が高いと私は思う。
戦争末期にすずの家に舞い降りて去っていった白鷺は水原の魂だったのである。だから、すずはあの白鷺を追って駆け出したのだが、あの場面で観客の何人が白鷺と水原を結び付けて理解しただろうか。
一方、「りん・周作・すず」の三角関係は、りんが遊女であるために、特殊な三角関係となっている。昔の男たちにとって、独身だろうが家庭持ちだろうが、遊女を買うことはべつに問題となる行為ではなかった、ということが現在の人間に伝わるかどうか、疑問だが、それにしても、夫が遊女と関係を持っているということは当時の妻たちにとっても不愉快だったことは確かだろう。
そして、アニメでは、りんと周作の間に関係があるらしい、ということに関するエピソードはほとんどカットされ、すずが親切な遊女と仲良くなるだけの「微笑ましい」エピソードに見える形で描かれ、それはそれで家族鑑賞アニメとしては正しいやり方だと思うが、それによって原作の複雑さ、「北条すず」の「北条」ではないが、「豊穣さ」を幾分か犠牲にしているわけである。

で、以上、長々と書いたのは、実はほんの少し前にテレビドラマ版「この世界の片隅に」をHuluで見て、これが予想以上に優れた作品、いや、ほとんど傑作だったので、それをお知らせするためである。
主演の北川景子はすず役としては美人すぎるし、「ぼんやり」感にやや欠けるが、好演であり、脇役も脚本も演出もすべていい。特に、エンディングは、原作を少し変えているが、こちらのエンディングのほうが、実写版テレビドラマには合っているな、と思う。なお、篠田三郎が周作の父親役をやっているが、実にぴったりである。いい中年(もう老年か)役者になったものだ。径子役のりょうも、彼女しか適役はいないだろう、というはまり役である。
で、最初に書いた「男女関係の機微」という、アニメからはかなり抜け落ちたものが、この実写版ではきちんと描かれ、しかも、俗な改悪はされていない。見事な脚本、演出である。
なお、最後に出てくる拾い子は芦田真菜である。よく似た顔だなあ、と思ったら本人だったww 晴美をやった子役は、地味な顔で内気そうな感じが晴美役にぴったりで、これも良かった。
映画と違って、こうした「シリーズ物でないテレビドラマ」は、どんな傑作でも多くの人に見逃され、適切な評価をされない可能性があるので、ネットテレビに加入されている方に視聴をお勧めしておく。

なお、幾つかの点で実写版には小さな改変があるが、それは視聴者に納得しやすくするための「合理化」であり、それはそれで、「一回きりで消えていく」のが普通であるテレビドラマとしては「あり」だと私は思う。たとえば、冒頭のすずの幼時の「人さらい」の話は完全に合理化されていて、これは上手い改変だ、と私は思った。もちろん、それによって原作漫画の持つ「不思議な味わい」も消えることになるが、視聴者に謎を残さないほうが、つまり合理性を重視するほうが、テレビドラマではいいと思う。原作ファンの中には小さな改変も許さない「原作原理主義者」もいるだろうが、この脚本は最大限に原作を尊重していることは見ればわかるかと思う。

まあ、原作漫画、アニメ、実写版すべてが傑作、あるいは名作という作品はこれまで「デスノート」くらいしかなかったが、「この世界の片隅に」もそうなったようだ。ただ、実写版の評価をほとんど聞いたことが無いので、ここに書いた次第だ。実写版も劇場公開してもいいのではないだろうか。


(以下引用)




(図1:『この世界の片隅に』 下巻 p. 19)

 だから、周作が「すずさんは小まいのう」「立っても小まいのう」と言うとき、そこに物理的な小ささ以上の意味を読み取ってしまう。それは、しゃがんでも立っても変わることのないすずの属性を指しているようであり、それはかつて径子がすずのことを突き放すように言った「放っとき、まだ子供なんよ」ということばに含まれる「幼さ」に通じているようでもある。義父の円太郎が居なくなったあとに家を三ヶ月空けることになった周作は「大丈夫かのすずさん こがいに小もうて こがいに細うて わしも父ちゃんも居らんことなって この家を守りきれるかの」とすずの手を握るのだが、ここで「細い」という女手を思わせることばと組み合わされている「小まい」にも、ある種の非大人性が表されているように思う。

 そう考えると、周作を見送るすずが唇に紅をさす行為(第7回「紅の器」参照)に、「小まい」ということばに対する対抗を見ることもできるだろう。紅は、女性を強調する化粧であると同時に、子供のような属性を否定してみせる化粧でもある。

 しかし、呉弁に多少触れたことのある人ならともかく、そうでない人にこの「小まい」の感じは伝わるだろうか。まして漢字表記を用いることのできないアニメーションで、「こまい」という音から「小まい」という意味を即座に思い浮かべることができるだろうか。


 周作の「すずさんは小まいのう」ということばをきいて、わたしたちは、確かこれと似た言い回しを前にも見たことを思い出す。それはかつて水原がすずを抱き寄せながら言った「すずは温いのう」である。そしてどちらのことばも、すずの体に触れながら言われていることにも気づく。周作の言う「小まい」は、視覚的な小ささではなく、すずに触れその感触によって実感される体性感覚を言い当てている。それが、水原の「温い」を思い出させるのだ。


(図2: 『この世界の片隅に』中巻 p. 86)

 そしてこの二人の似たことばを並べるとき、わたしたちはもう一つのことに気づく。それは周作がずっと「すずさん」とすずをさん付けしているのに対して、水原が「すず」と呼び捨てにしていることだ。周作にとってすずは「すずさん/あんた」であるのに対し、水原にとってすずは「すず/お前」である。



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雉も鳴かずば撃たれまいに

これは将来楽しみな娘である。蓮舫など足元にも及ばない言葉の破壊力www
国会で安倍総理と討論させてみたい。



            

先程マック前で見かけた父娘の会話。チビちゃん「ねえねえ、どうしてパパはこんなに太ってるの~?」太いパパ「そ…それはアータンを車から守るためだよ!」チビちゃん「うそだ!じゃあ、どうしてパパはうそつきのデブなの~?」お嬢様の言葉破壊力刺さりすぎてお父さんはプリキュアの話題に逃げてた



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自分を健常者と思い込んでいる異常者たち

「いつか電池が切れるまで」というブログから転載。
「人生経験マウンティング」という言葉が面白い。
まだ読んでいないが、この記事の中で言及されている「あいつ友達いなさそう」というのがなぜ罵言や嘲笑として成立するのか、という考察も読んでみたい。何か、そこに「健常者という異常者たち」のサイコロジーのヒントがあるかもしれない。
下の考察で一番感心したのは、こういう「人生経験マウンティング」が、その被害者には今さら変えられない「過去」をネタにした強圧行為だということで、つまり「民族差別」や「人種差別」「性別差別」と同じ構造だ、ということを示唆しているところだ。自分ではどうしようもないことで攻撃を受けることは「出口なし」の苦しみだろうし、そういう攻撃は、卑怯だろう。
まあ、石田衣良という作家も、この発言で自分という人間の正体をさらけだしたわけで、まさに「口は災いのもと」である。


(以下引用)


2017-01-06

「人生経験マウンティング」したがる人たちについての一考察


www.news-postseven.com
news.biglobe.ne.jp




この石田衣良さんの言葉を読んで、僕もなんだかすごく嫌な気分になったんですよね。
君の名は。』が気に入らないのなら、作品を批判すればいいのに、なんで監督の人生経験を(勝手に想像して)揶揄するのだろう?
でも、こういう手合いに、わざわざ新海誠監督が反応してしまっているのをみると、こういう「人生経験マウンティング」みたいなのは、やられたほうには、けっこう「効く」のも事実なんですよね。
少なくとも、僕はイヤだな、それが事実であろうがなかろうが。
記憶のなかに手を突っ込まれて、かき回されるだけで不快です。
そもそも、世の中の大部分の人は、一般的に「青春時代」と言われているような年代における自分の経験に、満足しているわけではないと思うし。




まあ、こういう「人生経験マウンティング」って、石田さんの「芸風」ではあるんですけどね。


fujipon.hatenadiary.com




こういうのを読むたびに、ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」なんて言葉を思い出したりするのですが、そういうことを言いたがることそのものが、「童貞っぽい」のだろうな、うーむ。




正直なところ、こういう「人生経験マウンティング」というのは、飲み会などでのネタとして、けっこう耳にすることがあるんですよね。




「でもアイツ、学生時代モテなかっただろうな〜」
「そうそう、友達いなさそう!」




こういう会話を聞いたことがない、という人は、あまりいないのではなかろうか。




fujipon.hatenadiary.com




「恋愛」も「友達」も、本人の性格とか趣味嗜好だけでなく、環境とか運の要素が強いのですよね、基本的に。
もちろん、「恋人や友達をつくりやすい人」っていうのは存在するわけですが。




この石田衣良さんの新海誠さんに対する「楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか」というコメントって、まさに「人生経験マウンティング」ですよね。
「俺はしたけど」みたいな優越感が伝わってくる。
そして、新海さんが今、どんなに素晴らしい作品をつくって、商業的に成功していても、結婚していても、「高校時代の恋愛経験」を上書きすることはできない。
もう、いまさらどうしようもないのです。
過去は、いくらでも美化できる。
そして、そういうのって、けっこうコンプレックスを刺激されるものではある。
もちろん、「人による」のだろうけど。




まあ、これに対しては、「じゃあ、石田さん、いま、ベストセラー出してみてくださいよ」って言ってしまえばいいのに!とも思うのですが、それもまた「おとなげない」ですしね。
というか、石田さんのこの「人生経験マウンティング」って、「僕の周りにもたくさんいるオッサンの典型像」でしかない。
「俺も昔は悪かったんだぜ」みたいな。
それ自慢かよ!でも「すごいですね!」って言わなきゃいけないんだよ、こっちもそんな人といちいち喧嘩したくもないからさ。




そもそも、宮崎駿っていう、みんなが批判できないアイコンを比較対象にもってくるのが筋悪だよなあ。
宮崎監督も、「そんなにアウトドア派じゃないからこそ、自然に幻想を抱き、美化して作品に昇華している人」なのだと思うけど。
東映に入社してから、自分のすべてをアニメのために燃やしてきたような人なんだから。
本当に好きなものをつくったら、『紅の豚』とか『風立ちぬ』みたいな「戦闘機モノ」になってしまう人なのに。




押井守さんは、著書『立喰師、かく語りき。』のなかで、こんな辛辣な宮崎駿評を書いておられます。


押井:この間の『ハウルの動く城』だって、「CG使ってないんだ」って宮さん(宮崎監督)は言い張ってたけど、現場の人間は使いまくってるよ。あの人が知らないだけだよ。まるきり裸の王様じゃないか。それだったら、自分の手で(CGを)やったほうがよっぽどましだ。いや、わかりやすくて面白いから、つい、宮さんを例に出しちゃうんだけどさ(笑)。




 いかに中性洗剤使うのやめたって言ったところで、結局は同じことじゃない。宮さん、別荘に行くとペーパータオルを使ってるんだよ。そのペーパータオルを作るために、どれだけ石油燃やしてると思ってるんだ。やることなすこと、言ってることとやってることが違うだろう。そこは便利にできてるんだよね。自分の言ったことを信じられるってシステムになってるんだもん。


 その宮崎駿監督も、CGへの本格的な挑戦が伝えられているんですけどね。
 そして、「自分の言ったことを都合よく信じられるシステム」がないと、クリエイターっていうのは、何かを創る、というのは難しいのもわかるのだけれど。
 それは、石田衣良さんにも、新海誠さんにも、同じようなところはあるのだと思います。
 あちらもこちらも立てようとすれば、結局、みんな倒れてしまう。




 藤子・F・不二雄先生について、長年のパートナーだったA先生がこんな話をされていたことを思い出します。




fujipon.hatenablog.com




 このA先生の話、大変興味深いものなので、ぜひ読んでみていただければと思います。


 漫画は頭で考える部分と、自分の実体験をふくらませる部分とがあります。もちろん、最初から最後まで空想で描く場合もありますが、ある程度現実が基になっていると、読者もリアルに感じて納得してくれるわけです。




「途中下車」の主人公のおじさんなんて、僕が現実に見た顔を絵にして描いたから、何ともいえないリアルな感じが出てると思うんですよ。読者も、ああ、本当にこういうことがあるかも知れないと。漫画に気持ちが入るというか。


 藤本氏はおそらく、全部、彼の想像力で考えていた。これは天才にしかできないことなんです。僕も最初はそうでしたが、だんだんと体験の部分が大きくなっていきました。最初はまったく同じスタートで出発した二人でしたが、次第に路線が分かれていった。トシをとるにつれ、経験をつむにつれ、二人の個性がはっきりしてきて別々の”まんが道”を進むようになっていったのです。


 「童貞の妄想」って、よく使われる悪口なのですが、「妄想を作品にできる」というのは、「天才にしかできないこと」なんですよね。
 そういう意味では、石田さんは「経験で書く」タイプで、「想像力で作品をつくってしまう」作家のことが理解できないのでしょう。
 だから石田さんが悪い、というのではなくて、タイプが違う、というだけのことなのですけど。
 そして、この石田さんのコメントって、「経験からしか書けない人間のコンプレックス」の裏返しなのかもしれませんね。




 そういう「作家としてのタイプ」はさておき、「人生経験マウンティング」って、される側には不快なものなんですけどね。
 とくに「過去のこと」については、改善の余地がないからなおさら。
 ただ、正直なところ、そこまで自分の人生経験に自信が持てるって、うらやましいなあ、とも思うんですよね。
 僕は、これでよかったのかなあ、って考え込んでしまうことばかりだから。
 


 『読者ハ読ムナ(笑) ~いかにして藤田和日郎の新人アシスタントが漫画家になったか~』という本のなかで、藤田先生は、こう仰っています。


 もし「キミの描く女の子に魅力ないのは、女の子と付き合ったことがないからだよ」とかって言われたら、作品だけじゃなくておれの人生も人格も全部否定された、と思うかもしれない。でも、待て待て。そうじゃない。そこで質問するんだよ。「はあ……付き合ったコトないんですけど……どんなカンジなんですか?」とかね。そしたら、なにかが返ってくる。そのなにかが、編集の求めているものの片鱗かもしれない。編集者が漫画家に対して人生経験云々を持ち出すときに言わんとしていることは、キャラクターの掘り下げ、具体的なエピソードのあるある感なのだから、ほかの映画や小説で十分勉強できることしかないと言っていい。そう思ってな。キミが女と付き合ったことがないのなら、しかたがないでしょ? 体験したコトがないから描けない、なんて言ってたら、おれは妖怪退治なんかしたことないけど、妖怪退治漫画で20何年食ってんだから。「経験がないからダメ」というその理屈で言ったら、おれはアウトでしょ? ね?(笑)

 少なくとも、現時点でのクリエイターとしての勝負では、新海監督や藤田さんの「勝ち」だと僕は思います。






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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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