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学者とは何か



本物の学者とは、その対象とするものを愛し、それをとことん学ぼうとする人間のことです。真の「学ぶ者」は、意識、無意識を問わず、四六時中、学びの対象を愛し、追い求め、選んだ対象についての知識を、真理を、求めて積み上げます。そうしたディープ・ラーニングを実行する頭脳の持ち主こそが、真の学者の名に値します。(藤永茂)


つまり、学者の本質とは、文字通り「学ぶ者」であり、職業や肩書や地位ではない、ということである。




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社員選考段階から正しい企業と間違っている企業

出版社の社員募集としては、実に正しいやり方だと思う。逆に、ほかの出版社はどんな募集の仕方をしているのか、興味がある。
ある種の職業(特に創造に関わる職業)の社員募集は、その職業に対する適性や嗜好や愛着というものが何より優先されるべきだが、単にその職業に付随するもの、たとえばカネが得られる、美女に縁が多い、恰好がいいなどの動機でその職業を志望する人間を簡単に受け入れると、その会社や業界は衰退する。これがかつて日本映画界に起こり、テレビ界に起こったことではないか。
もっとも、オタクだけ集めても衰退する、ということはある。





竹熊健太郎《一直線》 @kentaro666 3時間前

確かに。これで選考の九割はキマリだな。残りは履歴と面接の心証。


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祝「この世界の片隅に」キネ旬2冠獲得!

これで「この世界の片隅に」は批評家投票、読者投票どちらもベスト1になったわけで、これは素晴らしいことだ。映画にうるさい層にも一般大衆にも支持される、という作品は稀ではないか。あの黒澤でさえ、長い間、大衆からは支持されながら、日本の映画評論家からはけなされ続けていたのである。まあ、当時の映画評論家は、「本物」の数人を除いて、映画やくざとでも言うべき疑似インテリ(スノッブ)が多く、飲み仲間の三流監督を持ち上げるために、大物監督をけなすことが普通だった、と私は思っている。
キネマ旬報でも、読者投票と批評家投票では結果が大違いであることが多かった記憶がある。一般大衆(キネ旬読者)は爽やかな映画、面白い映画を好むが、評論家は深刻な、エロと暴力の描写が露骨な、文学思潮における「自然主義」的な映画を高く評価することが多かったのではなかったか。つまり、そちらを「文学的」だと思っていたのだろう。
まあ、御託を並べすぎた。要するに、「この世界の片隅に」は、文句の無い名作として日本映画史に名が刻みこまれた、ということである。
なお、日常生活の細部を淡々と描くことで人生の喜びや悲哀を見るものに感じさせる、という点で、小津安二郎の映画と「この世界の片隅に」はよく似ている、と思う。だが、その日常性の背後に常に戦争という最大の暴力が存在している、というのがこの映画の特異さである。そういう点ではルネ・クレマンの名作「禁じられた遊び」のほうが近いかもしれない。


(以下引用)

【映画】2016年キネマ旬報・読者ベスト10が発表!1位『この世界の片隅に』2位『シン・ゴジラ』、4位『君の名は。』

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読者ベスト・テン|2016年 第90回キネマ旬報ベスト・テン

キネマ旬報 この世界の片隅に シン・ゴジラ 君の名は。に関連した画像-02

■読者ベスト・テン(日本映画)

1位 この世界の片隅に
2位 シン・ゴジラ
3位 怒り
4位 君の名は。
5位 リップヴァンウィンクルの花嫁
6位 64-ロクヨン- 前編
    64-ロクヨン- 後編
7位 湯を沸かすほどの熱い愛
8位 永い言い訳
9位 海よりもまだ深く
10位 淵に立つ

■読者ベスト・テン(外国映画)

1位 ハドソン川の奇跡
2位 キャロル
3位 スポットライト 世紀のスクープ
4位 ルーム
5位 レヴェナント:蘇えりし者
6位 オデッセイ
7位 ブリッジ・オブ・スパイ
8位 スター・ウォーズ/フォースの覚醒
9位 ブルックリン
10位 トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

■キネマ旬報ベスト・テンとは

『キネマ旬報』は、1919(大正8)年に創刊され、現在まで続いている映画雑誌として、日本では最も古い歴史を誇ります。

以下、全文を読む




<この記事への反応>

読者ベストテンでも2位だった『シン・ゴジラ』。永遠の2位w 一方、気になっていた『君の名は。』は4位。キネマ旬報の読者層的にはこんなもんなんだろうか (´・ω・`)

う~ん、やはり読者ベストテンはわかりやすい結果だなぁ。キネ旬ベストテンでベストテン外だった「君の名は。」が4位にランクインしてる代わりに、8位の「クリーピー 偽りの隣人」が入ってない。

キネマ旬報読者ベストテンも発表に。こっちの方が自分が予想したのに近いな

1位は納得として、「シン・ゴジラ」が「君の名は。」より上になったのがうれしかったり。

読者が選ぶほうのベストテンでは圏外だった君の名は。が4位か。






『この世界の片隅に』おめでとう!
審査員が選ぶ方のキネ旬でも1位で今回の読者が選ぶのも1位とかすごいお
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『シン・ゴジラ』もおめでろう!
これも審査員も読者が選ぶのも同じく2位って十分凄くないか
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『君の名は。』が入ってるけどまさか『怒り』に負けるとは・・・
映画のランキングは奥が深いお
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嘘つきを見分ける方法

面白い記事である。人を見る目の無い人間でも企業のトップにはなれるが、そんな企業は長続きはしないだろう。人間の本性など、少し観察すれば分かるはずだが、忙しい人間はそうした観察をしている暇が無いから、人間の口先と本性の区別がつかない。だから、自己アピールの上手い口先人間がどんどん出世する。で、組織は腐敗していく。
誠実な人間なら、自分の言う内容が全面的に正確かどうか気にするのが当然なのだから、自信たっぷりな発言などできるはずはない。自信たっぷりな発言をする人間は嘘つきだと考えて、9割は当たっているだろう。
もちろん、正直なだけが取り柄の、無能な人間もまたたくさんいるwww
私の場合を言うならば、うまく嘘をつける自信が無いから、しかたなしに正直でいるだけである。嘘をつくにが苦手な人間は職人(研究者もその一つ)になるか肉体労働者になるのが一番だ。



(以下引用)

会社の有望な若手が次々に辞めていきます。食い止める方法は?


会社の有望な若手が次々に辞めていきます。食い止める方法は?© PRESIDENT 会社の有望な若手が次々に辞めていきます。食い止める方法は?

――せっかく育ってきた若手が辞めてしまうので、会社の未来が心配です。

事業の将来性がそれほどなくても、楽しくて毎日、笑い声があふれるような職場なら辞めないと思います。風通しのいい職場ですか?

――それほど悪くはないと思います。給料も平均以上ですし……。

それでしたら、原因は明確です。辞めてしまった若手の上司に問題があるのではないでしょうか。

――確かに、この前辞めた子は、直属の上司にパワハラを受けていたそうです。そういった場合は、黙っていないで声をあげたほうがいいのでしょうか。

ガンガン言ったほうがいいです。管理職は忙しいので、細かな人間関係まで目が届かないものです。ゴマすりをしてくる人が、よく見えてしまう。


僕自身の話をすると、昔に直属の優秀な部下3人と飲みに行ったとき、つい気を許して「隣の部のA君、なかなかいいヤツやな」と話してしまいました。「僕が何かを頼んだら、走ってくるんだよ」と言ったら、部下が「出口さんは人を見る目が甘いし、アホな上司と思っていましたが、ここまでアホとは思っていませんでした。明日から僕ら仕事をしませんよ」って。

――出口さんにも、そんな過去があったんですね。

「なんで?」と尋ねたら「Aさんは、出口さんが偉くなると思っているからゴマすりをしているんです。僕らが頼んだって何もしてくれませんよ」と。


自分の目で確かめようと思い、次の日からA君を注意深く観察したら、部下の言う通りでした。管理職は忙しくて目が届かない。そういう意味で、会社で一番アホなのはトップでしょうね。

――だから日本は、「ヒラメ」のように上ばかり見ている社員が可愛がられるのでしょうか。

それは全世界共通です。よほど目の届く人であれば、細かな人間関係まで汲み取ってくれると思いますが、そのような有能な人はごく一部です。

――トップに直訴してもいいでしょうか。

はい。それでも状況が改善されなければ、その職場には未来がないので辞めていいと思います。


大体、立派な指導者は一番下の人の意見をよく聞きますね。後藤田正晴さんが官房長官時代に言われていました。「お茶汲みのおばさんに愛されないような人間は偉くなろうと思うな」と。


昔の官僚の世界では、女性はお茶汲みの仕事くらいしかなかった。彼女たちは失うものが何もないので、男たちのことを素直に見ている。失うものが何もない人間に愛されなかったら、人格に欠陥があるということです。いくら仕事ができても偉くなったら国のためになりません。


Answer:辞める原因はほぼ直属の上司にあります。不満があったら上層部に直訴しましょう



出口治明(でぐち・はるあき)


ライフネット生命保険会長 






1948年、三重県生まれ。京都大学卒。日本生命ロンドン現法社長などを経て2013年より現職。経済界屈指の読書家。




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人種差別より大きな差別の問題

リツィート数が凄いが、このツィートに激しく同感するオランウータン諸嬢が半分、そして、正義感からそうした差別の存在を苦々しく思いながら、ツィートの文面の素晴らしいユーモア感覚に拍手を送るリツィートが半分だろう。
何しろ、あの夏目漱石ですら、明治のウーマンリブ運動というかフェミニスト運動の連中に対して、「どんなに頭が良かろうが、御面相が良くなけりゃあ、男は惚れやしないよ」という趣旨のことを言っているくらいで、これは人類永遠の、解決困難な問題だろう。芸能人のように、整形手術に何ら罪悪感を持たないで実行する、というのも一つの賢明な解決策かもしれない。ただし、韓国のように庶民の多くがそれを実行すると、生まれた子供の顔を見て、夫婦がお互いにがっかりすることになるwww
女性の側も男性を見かけで差別するのだから、これは女性差別の問題ではなく、「美醜差別(容貌差別)」というジャンルとでもするべきだろう。もっとも、美の基準など時代と流行で変わるのだから、馬鹿げた差別なのだが、差別のほとんどは馬鹿げているのだから、(つまり、論理で解決できないから)かえって厄介なのである。
真面目に言うと、下に書かれた出来事に抗議するなら「美醜差別」の問題にするのは戦法として良くないと思う。オランウータンの嫉妬として笑われるだけだろう。そうではなく、同じ問題(クレーマー問題)に関して、以前に何度も報告したのに無視され、今回だけ聞き入れられたという、「部下待遇差別」の問題として組合(があればだが)が扱うべきである。今どき、組合のある職場や会社がどれだけ存在するか分からないが。まあ、木の枝を揺らして威嚇する、というのも案外効果的かもしれない。最低でも、その上司への対応を女子全員で結束して冷たくするべきだろう。職場の居心地が悪い、というのは、その上司にとっても大問題だから、効果はあるかと思う。 
問題の「可愛い子」にオランウータン諸嬢が冷たくするのは悪手だろう。むしろ、今回、その「可愛い子」の報告によってクレーマー問題が上司に取り上げられたのだから、これはその子の「功績」なのである。そうした子をうまく利用して、職場改善をしていくのが賢明な策士の取るべき手段である。




            

職場の新人で元ミスの可愛い子がいるんだけど、その子がクレーマーの件を上に報告したら「ストーカーになるかもしれないから警察に相談しよう!」とか上司が言い出して、今まで散々クレーマー報告してたのに無視されていた私たちオランウータンは木の枝を揺らすなど激しい威嚇行動をとった


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思考という娯楽

筒井康隆の「大いなる助走」の主人公のモノローグに、「自分は論理的な言葉を聞くと感動する」というのがあったが、それは、日本人の会話が通常、論理的なものでないことを含意しているわけである。
私が「紙屋研究所」の筆者の文章を読むときの感じは、その「日本人には珍しい、論理的な思考に触れている」というものだ。思考がものすごく整理されていて、実に明快だ。読んでいて、こちらの頭まで良くなった感じがする。
だから、現在の自分には関係の無いPTAに関する話を読んでいても面白い。
つまり、思考という娯楽において、思考の対象は実は何でもいいのだ、ということだろう。碁や将棋でも、株の取引きでも、会社経営でも、戦争でも、科学の研究でも、学校での勉強でも、読書でも、自然の観察でも、思考という娯楽の対象にはなりうるのだが、そのうち会社経営や戦争は多くの人の生活や生命が係ってくるため、実行に移すと社会的に問題が大きいというだけである。
なお、PTA問題は、狭い意味では多くの人には無関係だが、日本的な「空気を使った支配」という問題として見るなら、誰にでも関係する問題である。


論理という問題に関して、付記しておく。
引き合いに出して悪いが、私は孔徳秋水氏のブログやツィートには非常に触発されるのだが、氏の発言にはあまり論理性を感じない。常に、雑多な思想が渦巻いていて混乱した印象を受ける。たくさんの知識があるが、それが現実認識に役だっていない感じである。
たとえば、氏が優れた思想としてよく引用する韓非子の「形名審合」(「刑名審合」かもしれない)を実際に用いるなら、オバマ前大統領は「言ったことと行動が完全に矛盾する人間」であり、トランプ大統領は「言ったことと行動が一致している人間」であるのだから、後者を高く評価すべきであるはずだが、氏はトランプを否定する言葉を言い続けている。つまり、秋水氏には論理的混乱がある。
だが、氏の文章は、こちらの思考を触発するものがあるから、非常に価値があるわけだ。非論理的なものが無価値というわけではない。むしろ、論理以前のものこそが豊穣だろう。これは、論理とは捨象と抽象の作業が土台なのだから、当然である。



(以下「紙屋研究所」から転載)



2017-02-01 PTA問題は「必要か不要か」で論じるべきではない

PTA問題は「必要か不要か」で論じるべきではないAdd Star




任意団体であれば、何をやっていても問題ない

 PTAをめぐる記事とコメントを読んで、問題の整理のために書く。


#PTAやめたの私だ 「入会しません」 ひとりの主婦の静かなる抵抗 #PTAやめたの私だ 「入会しません」 ひとりの主婦の静かなる抵抗


PTA批判について思うこと - 感想文 PTA批判について思うこと - 感想文


PTA批判について思うこと その2 - 感想文 PTA批判について思うこと その2 - 感想文


 ぼくが言いたいことは、かんたんに言えば「PTAは必要かどうか」という問題と、「PTAは任意か強制か」という問題を分けて議論せよ、ということ。それだけ。


 PTAが任意のボランティアであるという原則を承認するなら、それがどんなにくだらないことをやっている団体であっても、「廃止せよ」などという主張には、まったく道理はない。


 「任意のボランティア団体」を「廃止せよ」というのはイコール「禁止せよ」と同じことである。結社の自由をふみにじる行為だ。


 そして、PTAの活動が役に立ったという実感を持っている人たちの感情を逆なでするだけで、それこそ何の役にも立たない。




 他方で、PTAがどんなに必要な団体であっても、「任意のボランティア」であることを認めるなら、そこには一切参加の義務や強制はありえない。


 極端なことを言うけど、例えば子どもが受ける授業に、PTA役員委員・会員が講師となるしくみがあったとする。その場合当然、PTAが人を出さなければ、授業はなりたたない。子どもの教育は成り立たない。


 しかしそうであっても、PTAが任意のボランティアであるというルールを持っているなら、講師としての労働を強制することができない。学校教育が成り立たないほどの必要性を仮にPTAが抱えていたとしても、参加は強制できないのである。


 まあ、ここまで極端なものはないけども、運動会のお手伝いがないと運動会が成り立たないにせよ、子どもたちの臨海学校にいく付き添いがなければ成り立たないにせよ、PTAが任意であることを踏まえれば、義務や強制はあり得ないのである。


 「PTA批判について思うこと」を書いた「ねむれないさかな」と言うブロガーの記事には、例えばこうある。


PTAのお手伝いがなければ、わたしのいた学校は、授業参観さえ人手不足で行えないのです。


授業中、職員室はからっぽになります。


事務員さんは数人しかいません。


それでどうして、門を開けっぱなしにした学校の安全が守れるでしょうか。


受付での名札チェックは、子供たちの安全を守るための大切な業務でした。


それはPTAの役割でした。


人手がない学校が悪い、制度が悪い、学校がやれって文句をいうのは簡単です。


でもそれを自分たちでお手伝いすれば、授業参観を開催してもらえる。


だったらやればいいじゃないですか。


http://nemurenai-same.hatenadiary.jp/entry/2017/01/30/174304

 そのあとに、わざと「だから参加を強制してもいいんです。」という一文をいれてみる。


PTAのお手伝いがなければ、わたしのいた学校は、授業参観さえ人手不足で行えないのです。


授業中、職員室はからっぽになります。


事務員さんは数人しかいません。


それでどうして、門を開けっぱなしにした学校の安全が守れるでしょうか。


受付での名札チェックは、子供たちの安全を守るための大切な業務でした。


それはPTAの役割でした。


人手がない学校が悪い、制度が悪い、学校がやれって文句をいうのは簡単です。


でもそれを自分たちでお手伝いすれば、授業参観を開催してもらえる。


だったらやればいいじゃないですか。


だから参加を強制してもいいんです。


(赤字の強調は、引用者が恣意的に挿入したもの)


 うわー。


 こういう主張にしてしまうと違和感ありまくりだな。


 世の中では、こういう論だてで、参加が強制されている。


 もちろん、この「ねむれないさかな」はそういう主張はしていない。このブロガーによれば、この人がPTA役員をやっていたPTAでは任意加入を明確にする制度改革を行い、さらにできない仕事は断れるようにもなっていたという。


 それならば、何の問題もない。


 ホント。


 任意の団体で自由に断れるようになったそうなのだから、必要だろうが不要だろうが、好きなことをやればいい。どんなにしんどいことを提起したって、任意であれば志願したい人が志願するだけなのだ。




 PTA議論が出た時に、「役に立たない」「不要」というタイプの議論をする人は、気づいていないかもしれないが、裏返せば「役に立てば・必要な団体であれば強制してもいい」というロジックを備えてしまっている危険がある。*1




 任意のボランティア(志願)でやっているものを「廃止しろ」などと誰が言えるだろうか。*2


 俳句のサークルは「役に立たないから禁止しろ」とまったく同じロジックである。




 問題の大もとの部分はこれで終わりである。


 以下は、単なる付け加え。


 読みたい人だけが読めばいい。



現実問題として考えてみると

 はい、ではこれから、読みたい人だけが読む部分が始まります。主張の主要な部分はもう終わっているので、ここから先を勝手に読んで「長い」とか言うなよ。別に言ってもいいけど。


 


 現場では、明確に強制じゃなくて、なんとなく義務にされ、いわば「半強制」にされている。断れない雰囲気があるし、やらないと差別されるんだよ、と。


 うむ。


 そうでもない事例は多く知っているが、他方でそう言う事例も確かにある。


 その場合は、必要かどうかという問題ではなく、加入・脱退自由という原則をより明確にして、厳しくそこを徹底することが問題になる。


 「こんな団体はいらないからやめちまえ」とはならない。その事業(仕事)を必要だと思う人がいるんだから。その人たちが好き勝手にやる自由を奪うことはできない。




 さらにふみこめば、「いや、例えばPTAの協力がなければ運動会サポートや登下校見守りは成り立たないんだから、義務としてやるべきだし、強制していいんだよ」という主張を本気でする人は、かなりの割合でいる(念のためくり返しておくが、先ほど紹介した「ねむれないさかな」というブロガーはこうした主張は一切していない)。


 まず原則を言っておく。


 くり返すけど、強制はできない。


 任意なんだから。


 どんなに必要でも、参加は強制できない。


 必要性を説くことはできるけどもね。


 


 次に現実問題として。


 運動会の場合は、ボランティアをそのつど呼びかければいい。「それを呼びかけるのは誰なんですか? PTAですよ」とか言う人がいるけど、そうですね、としか言いようがない。ボランティアであるPTAが、運動会の時だけのボランティアを呼びかけたらよいではないか。


 ボランティア原則を徹底してしまったPTAが呼びかけたボランティアが、例えば10人しか集まらなかったら? そうしたら、教員+10人のボランティアでできる規模の運動会をやるしかない。その結果、親子三世代がテント持ち込んで観戦するような運動会はできなくなるかもしれない。あるいは全ての保護者が締め出されるかもしれない。しかし、仕方ないんじゃないか。


 根本的には学校設置者が予算をつけて人員を確保すべきだが、予算が確保できずにその間をしのぐボランティア労働力が集まらなければ断念せざるを得ない。実際、夏休みのプール開放や休みの校庭開放がそれでダメになったケースはある。




 登下校の見守りはどうか。


 これもボランティアで10人しか集まらなかったとする。


 これまで半強制で、保護者全員が輪番で朝立っていたのに。


 どうするのか。


 うむ。


 10人でやるしかないのでは。


 子どもが車にハネられる確率が上がるかもしれない。


 しかし、だからと言って、PTAが登下校の安全に責任を持っているわけではない。あくまでPTAがやっているような登下校の見守りというのは、任意のボランティアとして、「自分にできることをやって、少しでも悪いことを減らす」という程度のものでしかないのだ。


 逆に言えば、今登下校の見守りで立っているポイントは限られているはずである。通学路すべてに立って見守ることはできない。だとすれば、今保護者が立っていないポイントはそのままにしてもいいのだろうか? もっと一つの家庭が見守り当番に立つ頻度を上げるべきではないのだろうか? さらに言えば、登校時は見守りをしているけども、下校時はしていないという地域もあろう。下校時は見守りをしなくていいのだろうか? 


 つまり、絶対に果たさねばならない責任の水準がPTAには課せられているわけではないのである。あくまでプラスアルファだというわきまえが必要だ。




 ベルマークはどうか。


 集めなければ、自分の学校の備品はより多く買えないだけでなく、へき地への支援がその分なくなる……。それはその通りなんだけど、それはベルマークを集めない人が非難されるのではなく、予算をつけない行政が責められるべき問題である。


 「予算をつけろと行政を責めるのは非生産的だ」とまで言い出すと、もはや本末転倒。学校教育法第5条で「学校の設置者は…その学校の経費を負担する」とある通り、経費を負担する責任は「設置者」、たいていは市町村である。




 それでもどうしてもPTAが強制でやらないとダメな問題があるとしたら、法律で加入を義務づけるしかないではないか。そのための法制定を提起するのが、筋というものだ。


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国際都市倶知安www

東京より先に国際都市になっているwww
まあ、スキーがやりたいからスキーリゾートで働らければ、どこの国でもいい、という人間が多いのだろう。沖縄の石垣島や宮古島にもスキューバダイビングがやりたくて移住してきた本土人(「もと土人」ではなく、「ほんど人」、ヤマトンチュー)は非常に多いらしい。



(以下引用)




倶知安外国籍住民1500人 町民の1割 「ニセコ」勤務で増加

 【倶知安】後志管内倶知安町の外国人の住民登録が昨年12月末現在で1545人と初めて1500人を突破し、過去最多を更新した。冬期間にスキーリゾート「ニセコ」で働く外国人が増加しているため。同月末の町の人口は1万6465人で、住民の1割に近い9・4%が外国人となる計算。


 町によると、国別ではオーストラリア(546人)が最も多く、英国(363人)、ニュージーランド(95人)と続く。前年同期の登録数は1045人(全町民の6・5%)で、500人増えた。



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酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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