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宗教と戒律

「谷間の百合」さんのブログの、数日前の記事だが、宗教における「戒律」への疑いという、非常に根源的な疑問を呈している貴重な文章だと思う。
もともと、仏教(一番最初の仏陀の教え)に戒律があったとは私は思わない。仏教というのは、個人の悟り(成仏)を求めるのが主眼であって、他人から何かを言われて無批判にそれに従う、つまり戒律を守らせるのは、「集団を維持するための方便」以上の意味は無かったのではないか。その意味では、谷間の百合さんの疑問は正しいと思う。その戒律にしても、たとえば坊主は肉食妻帯をしてはいけない、というのがいつのまにか(親鸞からだろうか)無くなって、今では肉食妻帯をする坊主のほうが主流派だろう。人間の自然に反した戒律はいずれ消えるのである。
戒律と言うと宗教語になるが、それは校則に類した、つまり「組織内だけの規則」にすぎない。それが問題になるのは、その「組織内の規則」が世間の常識や良識とぶつかる場合である。新興宗教の問題はだいたいそこにある。その宗教の内部では人を殺すことが「相手を成仏させる善行である」とされていても、その宗教の外部の人間としてはそんな理由で殺されてはたまらない。
旧来の仏教やキリスト教などはそうした世間との軋轢をうまく調整して現在に至っているわけだが、それでもまったく軋轢が無いわけではないし、世間的観点からは非常識と思われる決まり事は多いだろう。正直言って、坊主の坊主頭や袈裟を着た姿そのものを胡散臭く思う人間(私などはそうである。あれは生臭い本性を隠すための舞台装束ではないかと思っているwww)も多いと思う。
話が逸れたが、人間は本来、当人が覚悟したら(物理法則の範囲内では)何をすることも可能なのであり、社会秩序を破壊する「自由な」行動を防止するためにはすでに法律があり、自らを律するためには倫理的常識がある。そこにわざわざ戒律を作って、それに縛られて生きるというのは、まあ、当人がそれで満足なら他人がとやかく言うことではないが、哀れな生き方だな、と思う。(もちろん、その戒律の内容が非常に立派なもので、それを守るのが当人の幸福なら批判の限りではない。だが、戒律の多くは、校則でスカートの長さを決めるとかに類したもののような気がするのである。)



(以下引用)



ネットゲリラさんによると、タイ北部の山間部に住む少数民族の中にはまだ行政の目が届かない人々がたくさんいるそうで、タイの国民はそういう貧しい人たちを助けるのが好きなのだそうです。
仏教が生きているのかなと思いました。
布施や喜捨の精神が連綿と受け継がれているのかなと思いました。
タイのことはまったく知らなくて印象だけで言うのですが、そういう日常と共にある自然な宗教の姿をわたしは美しいと思いました。
わたしが宗教が嫌いなのは、戒律で人を縛ることです。
戒律があるから偽善が生まれ、嘘をついたり隠し事をする信者がでてくると思うからです。
戒律なんかなくても、人はしてはいけないことくらい知っています。
あえて、戒律を設けるのは、管理して従わせるためなのだろうと思います。
権力構造と同じです。
タイにはそれが感じられません。
どこまでも自然で明るく伸び伸びしているように見えます。
どこぞの宗教のように、戒律で縛ったり、罪の意識を植え付けたりということがないように見えます。
もちろん仏教にも戒律はありますが、それこそ守るのも守らないのも自己責任ということではないでしょうか。

オウムのことで感じるのは、集団が社会から断絶して集団の論理で生きようとすると必然的に疑心暗鬼が生まれ権力闘争が生まれ、果ては人を殺すところまで行くのかなということです。
「新撰組」や「赤軍派」がそうでした。
社会や日常から遊離するということはいいことではないようです。
宗教なんでほんとうは単純なことなのだと思います。
困っている人を見かけたら声をかける、手を差し伸べる、それだけでいいのではないでしょうか。
優しくて明るくて自由な宗教があればいいなと思います。



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学校の意義

学校なんてものは、その程度の緩さでいいのではないか。
学校で学べる程度のことは自学できるし、本当は自学が一番効率がいいと思う。自分で勉強して理解できなかったところを質問するための場が学校であるべきだろう。とすれば、毎日朝から晩まで学校に行く必要などまったく無い。

私など、高校に上がってからの授業で覚えているのはほとんど無いし、当然
、理解できたのもほとんど無いし、理解しようと思ったこともほとんど無い。理解できたのは、参考書などを見て、自分の頭で考えたことだけである。それでも、一応は大学に入学するまでは行けた。まあ、当時の沖縄には国費制度があって、それで下駄を履かせてもらっての合格だったから、入ってから苦労して、落第を重ねた末に結局退学したが。
高校では教師の無駄話が少し思い出に残っている、という程度の記憶しかない。それ以外だと、まあ、ほんのかすかな接触しかなくても、異性が近くにいるのが学校のメリットだったとしか思わない。恋愛妄想の場、というわけだ。それと、若いころの友人を作る場でもある。高校の友人たち(主に高校を卒業してからの友人だが)が少しはいたから、コミュ障の私もその尻馬に乗って二十代にはなかなか面白い経験もできた。(ほとんどが酒飲み仲間だったが、その友人たちには今も深く感謝している。)


(以下引用)




さんがリツイート

↓なんと!友人宅に居候に行ってた息子に確認したら、ヒッツフライ/Hitzefrei(暑気休み)は午前11時時点で28度(!)だったら休校とのこと。さらにハードルが低かった〜。といっても欧州北方の気候に慣れた身体には28度でも辛い。生まれ育ちがここなら尚更でしょう。毛穴の開きが違うし。。。


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本当に、「自分の身は自分で守れ」るか?

「野球の記録で話したい」という妙なタイトルのブログの読者コメント欄の一部を転載。
話題にされているのは、朝日新聞記者が、高校スポーツに関して、「自分の身は自分で守ろう。危険を感じたら自分から声を上げよう」という、偽善的な(つまり、一見、子供たちを心配しているように見せながら、実は「スポーツにおける病気や怪我は自己責任」、という主張をしているわけだ。)記事を書いたことである。言うまでもなく、朝日新聞は甲子園野球(夏の全国高校野球大会)の主催者で、これは甲子園で何か事故が起こった時のための、責任を回避する布石だろう。
高校スポーツのように指導者の権力が絶大なところで、はたして高校生(勉強と自分の周囲の狭い世界しか知らず、精神年齢は子供である。)が監督の指示に抗議したり逆らったりできるものか、想像してみればいい。それこそ、「お前は二度と試合に出さん」となるのがオチだろう。

なお、朝日が槍玉に上がっているが、金儲けのためなら何でもやるのはどの新聞社もどのマスコミも同じことである。読売や産経は安倍政権の売国政治亡国政治の片棒担ぎであるのはご存知のとおりだ。



(以下引用)




    • 3. tobata
    • 2018年07月15日 16:28
    • 記事を読んでいてまったく同じことを考えてました。
      朝日として「おかしい」と思うなら、まず一番身近な場所から始めるべきです。
      それに体育会系の中で指導者に逆らうことの難しさを放置して、異論を上げる重荷を生徒に負わせるべきではありません。

      伝統だから変えられない、変えてはいけない、と思うなら、死者が出ようが続けるのもひとつの道でしょう。
      それはもうスポーツと呼ぶべきものではありませんが。
    • 4. けうもぺら
    • 2018年07月15日 17:17
    • 野球人口の減少を憂う記事をよく拝見します。
      しかし真夏の甲子園への憧れが、子ども達が野球を始める、続ける原動力の面も大きいのでは?
    • 5. 広尾 晃
    • 2018年07月15日 17:21
    • けうもぺらさん

      「甲子園」は、野球少年を幸せにはしません。多くの子供が甲子園やその前の段階で潰れています。甲子園は、日本の野球と言う競技を極めていびつで不健全なものにしています。
      「甲子園」でしか野球少年が集められないのだったら、野球なんて潰れてもいいと思います。
    • 6. 椎名次郎
    • 2018年07月15日 20:46
    • 悲しむべきは野球少年達が「そこ」に多幸感を感じてしまっている事でしょうか。

      そうか、原理主義か………
    • 7. みやびの
    • 2018年07月15日 21:05
    •  正直、もう「甲子園」なくしてもいいとは思いますね。
      夏の全国高校野球じゃなくて甲子園です。
      甲子園って言葉があるから、このくそ暑い夏に1球場で延々やらないといけないわけで、

      だいたい最初は甲子園でやってたわけじゃないですし、
      吹奏楽だって「吹奏楽の甲子園」と呼ばれた普門館での大会を
      耐震問題でとりやめることができたのですから。
      そういや吹奏楽も朝日新聞絡みでした。

      何が大切かを考えるなら、できるはず。

      >真夏の甲子園への憧れが、子ども達が野球を始める、続ける原動力の面
      夢は呪いに似て。


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30度以上の気温の下でスポーツをやること自体がキチガイ沙汰

  1. 私は高校野球が大好きなのだが、別に高校生の暑熱残酷ショーを楽しんでいるわけではない。なぜ炎天下の屋外球場でやる必要があるか。まあ、すべて「甲子園」のブランドのためである。高校球児たちだって、フライパンの上でフランベされたいわけではないだろう。甲子園に屋根が無く空調設備も無いのが甲子園残酷ショーの根本原因だ。人道的見地からは、もう、甲子園開催をやめるか、甲子園をドーム球場に改装すべきだろう。
  2. オリンピックに関しては、真夏の東京での開催を決めた時点でキチガイ沙汰である。
  3. さんがリツイート
  1. 7月14日
  1. 屋外でタブレット開いてたら5分でノックアウト。 あのさ、これ東京オリンピック無理じゃない?
  2. 23件の返信 6,552件のリツイート 6,576 いいね
  3. 取り消す
    1. さんがリツイート
    1. 11時間前
    1. 灼熱地獄で高校生に野球をさせている朝日新聞が書いているという地獄感。指摘の通り、まずは朝日新聞が >「積極的に水分、塩分を補給する」、28~31度だと「激しい運動や持久走は中止」 試合を中止にすべきであり、この編集委員が会社や甲子園に声を上げていくのが先。話はそれからだ
    2. 1件の返信 308件のリツイート 170 いいね













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訓練でどうにかなることならないこと

まあ、確かに、訓練ではどうにもならないことは多い。
たとえば自分自身の精神が訓練で改善できるようなものなら、誰も精神病にはならないだろう。そもそも、精神病というのは自分でも気づかないうちに病気の領域に入っているものだろうから、改善されるはずがない。薬で安定性を得ても、それは薬を飲んでいる間だけのことで、病気自体が治ったわけではないだろう。酒も同様で、私は酒の量を自分でコントロールしているつもりだが、それは錯覚で、アル中なのかもしれない。もっとも、体力や胃の容量(胃の老化)の問題で、ビール1本くらいしか飲めなくなり、酒席に出ることもためらってしまうような人間がはたしてアル中かどうか、疑問である。
要するに、努力できる人間は努力する才能の持ち主であるわけで、努力しない人間を責めても、それは馬に生まれなかった兎を責めるようなものかもしれない。
努力しないでも生きられる境遇(猫とか犬とか王族貴族とか大金持ちとか)に生まれるのが一番であるし、それが無理なら、自分にできる努力の範囲の成果で満足して生きられればそれでいいのではないか。一番よくないのは、なぜ自分にはあれやこれができないのだ、と自分で自分を責め続け、精神病になることだろう。実に知的な人間でありながら、自責の念が強すぎて不幸な人生を送っている人は多いように思う。
なお、私は精神病という言葉にはまったく差別的な意味は籠めていない。意図的に差別する場合は、安部や橋下や小泉を言う場合のように低能とかキチガイとかサイコパスと言う。





「コミュ力」「雑談力」ってな調子で、言葉の末尾に「力」をつけることで、それらが訓練で伸ばせる資質であるかのように見せかける造語法があるけど、それウソです。「身長力」と呼んだからって背丈は伸びないし「イケメン力」を意識したところで、顔の造作がコントロール可能になるわけでもない。





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現実は想像や信念や希望という「虚妄」から生まれる

「阿修羅」に投稿された「半歩前へ」というブログ記事の一部である。
国政選挙での自民党の圧勝は不正選挙であり、マスコミで発表される自民党支持率や安部支持率は捏造だろう、と健全な政治意識を持っている人の大半は考えているだろうし、そうとでも考えないと安倍政権のような汚職まみれでかつ極右的な政権を国民が支持するはずはない、と思うだろうが、意外と国民の多くが下のような感じで安部を支持している可能性も無いとは限らない。
そもそも、私自身、中年のころに仕事上の都合で日本の近現代の政治を自分で調べながら深く考える機会が無かったら、現実政治の知識が小学生レベルのままで、下の「安部狂」と似た政治的感性を持っていた可能性もある。日本国民のかなりな割合が、下の「安部狂」と似たレベルだとしたら、日本国民を洗脳支配するのは容易なことである。
絶望的な状況に見えるが、しかし、「絶望の虚妄なること希望に相同じい」だ。では、希望も虚妄なのだから頼むに足りないか、と言えば、そうではない。何度も言うが、魯迅の「故郷」の末尾の「希望というのは道のようなものだ。歩く人が多くなれば、そこが道になるのだ」である。




(以下引用)




 強烈な『安倍狂信支持者』がまだかなりいる。そのひとりに出くわしたので、その人との会話を紹介します。
 先日投稿した、10日の四日市中心街での街頭行動《「安倍内閣支持?不支持?》のシール投票。

◎安倍狂(50歳ぐらいの女性)「もちろん支持よ。私、安倍さん大好き。」

◎ぼく「なぜですか?」

◎安倍狂「実行力があるから。他の総理大臣は、なかなか法案を通さなかったのに、安倍さんはどんどんやるから。」

◎ぼく「みんな、とっても悪い法案ですよ。」

◎安倍狂「良い悪いは関係ない。なんにも決まらないのを決めるようにしたのは安倍さんよ。」

◎ぼく「戦争が出来るようにする法律とか、過労死を増やす法律とか・・・」

◎安倍狂「そんなの考えすぎよ。それに、あの村山って首相、阪神大地震の時寝坊しとったでしょう。菅も原発事故の時、すぐ行かなかった。」

◎ぼく「ちょっと待ってくださいよ。村山さんも、管さんも、一生懸命やりましたよ。安倍首相はこのありさまですよ。」
(酒宴の写真を見せる)

◎安倍狂「ええじゃん。起きていて酒飲んでるだけだもん。ちゃんと指示できるわさ。これぐら度胸がないと総理大臣は務まりません。それに、酒飲んで悪いって言うけど、あんた、あの災害があって酒飲んどらんか?」

◎ぼく「そりゃ、飲みましたよ。」

◎安倍狂「ほれみい。自分が飲んどって人のこと言うなよ。」

◎ぼく「危機管理を担う首相ですよ。」

◎安倍狂「ええやん。それに安倍さんは党首討論でもヘボ野党の党首に負けやん。」

◎ぼく「勝手に言いたいことをながながしゃべって相手の発言を妨害するんですよ。こないだも岡田さんが『良心の呵責がないのか』と言ってるのに『ルールを守りましょう』と・・・」

◎安倍狂「お兄さん(この歳になって初めてお兄さんと言われた)東大か?」

◎ぼく「ええっ?」

◎安倍狂「岡田も東大や。『呵責』なんてそんな難しいことば、安倍さんに分かるわけないじゃん。そんな難しいことばを使う岡田が悪い。」

◎ぼく「アホやと思ってみえるんですね。」

◎安倍狂「アホのどこが悪い!東大出の総理大臣なんかごめんや。安倍さんみたいなアホの頭が一番庶民的でええんや。お兄さんもこんな暑い最中に、こんなえらいことせんと、安倍さんに任せなさいな。ほんなら・・・」

  ・・・絶句でした!でも、こういう人が40%のベースなんでしょうね。


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死刑制度が許容される唯一の条件

私は、悪事を行った人間は、その悪事に相当する罰を受けるべきだと思うし、殺人に相当する罰は死刑しかないと思っている。つまり、「目には目をもて償い、歯には歯をもて償うべし」というのが罪と罰の基本原則だと思っているわけだ。従って、「死には死で償う」ことになる。
しかし、人間が神でない以上、冤罪は必ず起こり得る。
冤罪による死刑は国家による最悪の犯罪(殺人罪)なのである。
ならば、罪と罰の基本原則どおり、その冤罪に関与した警察、検察、司法の関係者全員、場合によっては証言者も含めて全員が死刑になるべきだと思う。
それくらいの厳密さで死刑制度を運用する場合に限り、私は死刑制度を支持する。
そのような厳密な警察や司法の運用はまったく不可能だ、というなら、死刑制度をやめればいいだけだ。
いかに確率的に小さくても(実際はかなりな冤罪事件があるのだが)、冤罪が起こることが最初から前提の上で死刑制度があること自体おかしいのではないか。冤罪がわずかの確率でしか起こらないからいいのだ、というのなら、その冤罪被害者への罪はどう償うことができるというのか。当人が死刑になった以上、償うことは不可能なのだから、償う必要などない、というのが死刑賛成論者の考えなのである。これもまた一種の合理主義だが、そのご当人が冤罪被害者になったらさぞ面白い見物だろう。




(以下引用)




さんがリツイート

死刑がない国は国家が(司法制度の下)冤罪で人を殺すことはありませんよ。これは「絶対」に。




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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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