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万引き家族

楽しい娯楽を提供してくれたということでこの万引き一家を無罪にしたくなる話である。なぜ、女の息子は全裸になったのか、息子はスクーターで何をひいたのか(警官をか?)、犬は犯罪に協力しているという意識はあったのか。すべて謎であるが、警察の「犬だけは罪に問わず、警告にとどめた」は温情的であり、偉いwww 







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恋愛の「結晶作用」と自己洗脳

「混沌堂主人雑記」所載の「国際秘密力研究」の一節だが、この部分は非常に面白い。私はこれまでこの「国際秘密力研究」はほとんど読んだことが無かったのだが、それは哲学用語や仏教用語が苦手だからというのと、箇条書きの文章が好みではないからだ。
箇条書きというのは、「すべて重要な内容ですよ」と言われているようで気疲れするのである。私は、「真面目さの塊」というのが苦手なのだ。それは私のふざけた文章からも分かるだろう。他人に誤解されようが、軽蔑されようが、下手な冗談や軽口をやめることは私にはできない。それは、私の文章は、私の思考の推移を追っているだけだからである。
その思考の推移の仕方は次のような感じだ。

たとえば、昨夜、NHK交響楽団の演奏を録画してあったのを見ると、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」という曲をやっていて、ハロルドと言えば、「チャイルド・ハロルドの巡礼」、つまりバイロンだな、と連想し、それに続けて、バイロンと言えば、「一夜明けると有名になっていた」だな、と連想し、次に「目覚めると(つまり一夜明けると)毒虫になっていた」のはカフカの「変身」のグレゴール・ザムザだな、と連想し、この両極端が「一夜明けた」結果として存在するのが面白かったのだが、私の頭はこういう連想でしか機能しないから、真面目な思考を長く続けるのは非常に苦手なのである。その代わり、自分の頭の思考推移を眺めること自体が娯楽だ。

それはともかく、下の引用部分は、案外読みやすく、理解もできたと思う。で、

「つまり自分の中で繰り返す表象作用や思考作用が自分自身を洗脳していく」

というのは、まさにその通りだろうと思う。その分かりやすい例を言えば、恋愛の「結晶作用」である。もちろん、スタンダールの「恋愛論」の中心思想みたいな奴だ。要するに、誰かのことが気になって、その人のことを繰り返し考えているうちに、その人に勝手に空想上の美点をどんどんくっつけて行って、恋に落ちることだ。そうなると、相手のあばたもえくぼになるわけである。世の中には「あんな素晴らしい女性(男性)が、なぜあんなつまらない男性(女性)と恋人になったのか」ということがよくあるが、それは本当に恋をしたのではあるが、実は当の相手ではなく、自分で作り上げた幻影に恋をしているということである。
これを言い換えると、「恋愛とは自分で自分を洗脳することである」となるwww

(以下引用)


〇苦楽は正確に言うと五感=眼耳鼻舌身による色声香味触の感受について言う。意識による法(あらゆる事物・存在)の認識(表象や思考)では苦は憂、楽は喜とする。精神的な快と不快である。五感と表象・思考が同列の認識作用と捉えられている。五感と同じく表象や思考でも対象から影響を被るという洞察。

〇思想的に洗脳される場合も文章を読んだり演説や説教を聞いたりなどリアルタイムで五感で情報をキャッチした後に、表象(イメージ)や思考で脳内で繰り返し再生している間に刷り込みが深まっていくのではないだろうか。つまり自分の中で繰り返す表象作用や思考作用が自分自身を洗脳していく訳である。

〇そういう意味では「眼耳鼻舌身意・色声香味触法」として五感(眼識耳識鼻識舌識身識)と表象・思考(意識)を同列に並べたのは鋭い洞察だと言える。何を表象し、思考するかにも気を付けるべきという事だろう。例えば裏組織に踊らされている者は表象や思考=頭の中が滅茶苦茶になっているのだと思う。



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キリスト教終末の予感

「in deep」から抜粋転載。
なかなか面白い事件である。まあ、これで人死にでもあれば面白いなどとは言えないが、キリスト教そのものが世界的にオワコンなのかもしれない。
なお、キリスト教にはカトリック(私は「カソリック」と書くことが多いが、「catholic」の「tho」の発音は「ト」ではなく「ソ」に近いのではないか、と思うからだ。だが、もちろん、一般的には「カトリック」と言われている。)とプロテスタントの2大宗派があるが、簡単に言えばカトリックは「教会主義」で、プロテスタントは「聖書主義」と考えるのがいいのではないか。庶民のほとんどが文盲だった時代には、教会が聖書の知識を独占して、それを勝手に捻じ曲げた教義(「三位一体説」などはそれだろう。)を庶民に教えていたわけだ。グーテンベルクの印刷機の発明で聖書が普及すると、教会の教義への疑問が生まれ、聖書だけが本物のキリストの教えだ、という思想の人々が出てきてそれがプロテスタントとなったということだろう。
下の記事で、「教会は(教会が冒涜される)その理由がわからない」とあるが、私には、イスラム教への差別事件などから人々がイスラム教やその他の宗教について調べ、それとの比較で宗教そのものやキリスト教や教会という存在への疑問が生まれてきた結果ではないかと思う。(ネット時代の今だからこそ、疑問点や未知な事柄を簡単に調べられ、それが人類全体の知的レベルを高めている可能性がある。私自身、高校生のころより今の方が新しい事柄を知ることは多い。ゴーリキーを真似れば、本とネットが「私の大学」である。しかも、その「学習」は何の苦労も無いから、勉強という「勉め、強いる」ものではなく、むしろ娯楽である。)
なお、下の記事の中で

同組織の上級監督官は、ニューズウィークの取材に対し、これら一連の攻撃の動機は不明なことが多いが、一部、アナーキストやフェミニストグループによる反キリスト教的な暴力の問題と直面していると語る。

とあるのは、カトリックの「上級国民」たちの頭の悪さを示しているように思う。「フェミニズム」や「アナーキズム」を敵視するところが、まさに現体制から利益を得ている上級国民らしいところだ。特に、アナーキズムとは「無政府主義」であり、別にテロリストを意味していない。「政府が無くても、国民は自律的に幸福な社会を作れる」という思想である。教会への冒涜的行為とは何の関連性もない。

ついでに言っておくが、私はこの世界から宗教(あるいは神仏への信仰)が消えたらどうなるのか、危惧している。「神無き世界の道徳」を人類は打ち立てられるのか、という問題は、若いころからの私の思考課題(というか長年の宿題)なのである。




(以下引用)




CATHOLIC CHURCHES ARE BEING DESECRATED ACROSS FRANCE—AND OFFICIALS DON’T KNOW WHY
newsweek.com 2019/03/21


フランス全土でカトリック教会が冒瀆され続けている。しかし、教会側はその理由がわからない


フランスで、2019年の初めからカトリック教会に対する攻撃が急増している。



それらの行為の中には、放火と冒瀆(神聖なものを汚す)ことが含まれる。



破壊者たちは、教会の彫像を打ち砕き、礼拝所を打ち倒し、そして、聖体を巻き散らすか破壊し、十字架を破壊し、反カトリック的感情の高まりの懸念をフランス国内で引き起こしている。



3月17日の正午のミサの直後、歴史的な建造物であるパリのサン=シュルピス教会で火災が発生したと報じられた。負傷者はいなかったが、パリ警察は、消防隊員たちがこの火災が放火らによるものだと確信していることから、放火であるかどうかの調査をおこなっている。



サン=シュルピス教会は、17世紀に建てられ、ロマン派の画家ウジェーヌ・ドラクロワによる 3作品を収蔵しており、米映画「ダ・ヴィンチ・コード」の舞台として使用された。



2月には、フランス北西部のウイユにある聖ニコラス・カトリック教会で、聖母マリアの像が打ち壊されているのが発見された。



同じ 2月には、フランス中南部ラヴァールの聖ラヴァール大聖堂で祭壇の布が燃やされ、十字架と聖人たちの像が破壊された。この襲撃後、ヴァールの市長は、以下のような声明を出した。



「神はきっとお許し下さる」



続いて、フランス南部のスペイン国境近くのニームにあるノートルダム・デ・エンファン(「聖母の子」の意味)教会の祭壇が略奪され、教会の十字架に、人間の排泄物が塗られるという事態が起きた。



さらには、カトリック教徒たちがイエス・キリストの体であると信じている、教会にあるパンから作られた奉献物が教会の外にゴミのように捨てられていた。



この教会の司教は、声明で以下のように述べた。



「十字架のしるしと聖餐のパンが重大な冒瀆を受けました。この行為は私たちの教区社会に非常に大きな影響を与える出来事です」



「この行為は、深い信仰の中にある私たち全員を傷つけるものです」



フランスでは、2月だけで、カトリック教会やキリスト教と関係した宗教施設への攻撃が、47回記録されている。



また、ヨーロッパのカトリック教会への問題行動を統括している組織(Observatory of Intolerance and Discrimination Against Christians)によれば、2019年の最初の 2ヵ月間でのカトリック教会への攻撃は、昨年と比べて 25%増加しているという。



同組織の上級監督官は、ニューズウィークの取材に対し、これら一連の攻撃の動機は不明なことが多いが、一部、アナーキストやフェミニストグループによる反キリスト教的な暴力の問題と直面していると語る。



上級監督官は、以下のように言う。



「教会あるいは、教会の象徴に対してフランス国内で敵意が高まっているように感じています。そして、教会への反感は、キリスト教そのものへの反感より強いようなのです」



「今起きている一連の攻撃は、教区とカトリック教徒たちにとって本当に神聖な象徴に対して行われています。奉献された聖餐のパンへの冒涜はカトリックとキリスト教に対する非常に個人的な攻撃であり、これは、教会の外壁にスローガンをスプレーで落書きするよりも重大な攻撃なのです」



フランスは長く世俗主義の伝統を持っていたが、フランスは文化的にキリスト教の国であると見られてきたので、宗教の象徴としての教会への攻撃は、権威と愛国心への攻撃でもあると監督官は言う。



2月9日には、ブルゴーニュ地方のディジョンにあるノートルダム教会の祭壇が破壊された。ここでも、聖体拝領のパンが、地面にばら撒かれた。



フランスのエドゥアール・フィリップ首相は、2月にフランスの教会指導者たちに会い、声明の中で次のように述べた。



「このような破壊と冒瀆行為は私に衝撃を与えている。これは満場一致で非難されなければならない」

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狂信者(ルター)の他宗排斥の結果としてのポグロム

マルティン・ルターは、プロテスタントの始祖と言っていいと思うが、その彼の著作、『ユダヤ人と彼らの嘘について』が、その後何百年にもわたる世界的なユダヤ人嫌悪とユダヤ人迫害、特に東欧やロシアにおけるポグロム(ユダヤ人迫害と虐殺)の原因と見做されることに言及されることは少ない。
私も、自分でポグロムについてウィキペディアで調べて初めて、ルターとの関係を知ったのだが、キリスト教世界でなぜルターとポグロムの関係が語られないのか、と言えば、まあある意味当然かな、と思う。宗派の始祖の世界的かつ歴史的に巨大な犯罪行為を公言する信徒はいないだろうからだ。だが、非キリスト教の人々はこの事実をもっと多くの人が知っておくべきだろう。
要するに、ルターは、ユダヤ人をキリスト教徒に改宗させようと何度か試み、それが失敗に終わったことへの怒りからユダヤ人全体を憎悪するに至ったわけだ。まあ、一種の狂信者である。だからこそ宗教改革へのエネルギーも凄かったのだろう。

(以下引用)


ユダヤ人と彼らの嘘について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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『ユダヤ人と彼らの嘘について』
(ユダヤじんとかれらのうそについて)
Von den Jüden und jren Lügen
『ユダヤ人と彼らの嘘について』(1543年版)の表紙
『ユダヤ人と彼らの嘘について』(1543年版)の表紙
著者マルチン・ルター
訳者歴史修正研究所監訳
発行日神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国1543年
日本の旗2003年6月20日
発行元雷韻出版
ジャンルキリスト教ユダヤ教ユダヤ人
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
言語ドイツ語
形態論文
コードISBN 4-947737-37-9
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ユダヤ人と彼らの嘘について』(ユダヤじんとかれらのうそについて、ドイツ語: Von den Jüden und jren Lügen、現代ドイツ語ではVon den Juden und ihren Lügen)は、ドイツ宗教改革家・マルティン・ルター1543年に上梓した反セム主義論文。同論文の中でルターは、ユダヤ人を「下劣な偶像崇拝者、つまり神の子ではなく己が家系や割礼を誇りにし、を汚らわしい物と見なしている連中」と言い切り[1]シナゴーグに至っては「救い難い邪悪な売春婦」とまで形容している[2]。本論文の最初の十節では、ユダヤ人並びにユダヤ教に係る自らの見解や、クリスチャン及びキリスト教との比較について、かなりの分量を割いており、それ以後はクリスチャンに対し、以下の7項目を実践するよう説いている[3]

  1. シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし
  2. 更にユダヤ人の所有するをも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし
  3. 宗教書を取り上げるべし
  4. ラビの伝道を禁じ、従わないようであれば処刑すべし
  5. ユダヤ人を撲滅するための方途を穏便に実行すべし
  6. 高利貸しを禁じ、を悉く没収し、保管すべし
  7. ユダヤ人を農奴として働かせるべし

第二次世界大戦以降、学問の分野で支配的となった見解[4]は、本論文が宗教改革からホロコーストまでの数世紀において、ユダヤ人に対するドイツ人の態度に少なからぬ影響を与えた、というものであった。しかし、この見解に対して神学者のヨハネス・ヴォルマンは、ドイツ国内では影響力を持ち得ず、現に18世紀から19世紀までの間、見向きもされなかったと指摘[5]。また、ハンス・ヒレルブラントも、国内の反セム主義の展開におけるルターの役割に焦点を当てれば、却って「ドイツ史というより大きな特色」を過小評価することになるとしている[6]


なお1980年代以降、ルター派教会の中には、ユダヤ人差別を煽動するルターの書物を、公式に非難するものも存在している。とりわけ水晶の夜事件から60年が経過した1998年11月バイエルン州のルター派教会が「マルティン・ルターの作品や伝統の恩恵とともに、彼の反ユダヤ的な発言を深く受け止め、神学上に果たした役割を認識し、それらがどのような結果を齎したか、ということを知ることは、ルター派教会にとって避けて通れない問題である。ルターの神学理論における、反ユダヤ主義の如何なる言明からも、距離を置かなければならない」との声明を発表した[7]

ルターの見解の変遷[編集]

ルターの生涯において、ユダヤ人に対する態度は様々な形を取っている。前半生、就中1537年頃までは、ユダヤ人をキリスト教に改宗したがっていたが、後半生、とりわけ晩年の9年間はユダヤ人を非難し、迫害を促していたという[8]。以下、ルターのユダヤ人観の変遷を見てゆく。

カトリック教会に対して[編集]

ルターは若い頃、カトリック教会福音を汚らわしく思っていたため、ユダヤ人がこれを宣言してまで、キリスト教に改宗することは無かったと論じている。また、福音主義の神託が穏便に差し向けられるのであれば、ユダヤ人はこれを喜んで受け入れるであろうとした。更に、ユダヤ人が直面する劣悪な生活実態にも目を向け、イエスがユダヤ人として生を享けたことを否定する者は、異端であるとも主張[9]


なお、ユダヤ人に初めて言及したのは、1514年ゲオルク・シュパラティンへ出した、次のような手紙である。


ユダヤ人の改宗はあくまで神の御業であり、人間が行うものではありません。もしこれらの非礼が成されるのであれば、事態はより悪化するでしょう。コヘレトの言葉にあるように、ユダヤ人は天罰により神に見放された状態に陥り、更生によって良くなるどころか益々悪くなり、手が付けられない状態になるのは必至です[10]

その後、ルターは1519年ユスティニアヌス1世による、529年ローマ法大全で確立された「ユダヤ人の隷属」という教義について、次のように意見している。


愚かな神学者共が、ユダヤ人に対する嫌悪感を正当化していやがる。我々がユダヤ人に憎しみをぶちまけ、残忍な行為に及ぶ時、ユダヤ人自身はどの様に思うであろうか。我々はクリスチャンというよりも、獣に近いのではないか[11]

マニフィカトに関しても、旧約聖書の最初の5冊であるトーラーに、ユダヤ教の境遇を強調していると批判。ユダヤ人は「自ら法を守ろうとすることはあっても、そこから自分達の貧困で呪われた立場を知ることは無い」とした[12]。しかし、ユダヤ人は常にクリスチャンになれる以上、神の恩寵は何時でもアブラハムの子孫たるユダヤ人に向けられていると結論付けている[13][14]


1523年に発表した随筆『イエス・キリストがユダヤ人として生まれたということ』の中で、ユダヤ人に対する非人間的な扱いを扱き下ろし、クリスチャンに対しユダヤ人に気持ち良く接するよう促した。そして、ルターが熱心に訴えたかったのは、ユダヤ人が福音をはっきりと宣言すれば、キリスト教に改宗するであろうというものであった。それ故、次のように述べている。


もし私がユダヤ人で、そのような馬鹿がキリスト教の教義を支配し教えるのであれば、クリスチャンというよりは直ぐにでもになってやろう。あいつらは恰も、ユダヤ人を人類よりも寧ろであるかのように扱っており、剰え彼らの財産を嘲り分捕ることしかしなかった。洗礼を施すのみでキリスト教の教義なり生活を示さず、カトリック教会や修道院に服属させることしかしなかったならば、(中略)ユダヤ人でもある使徒達が、我々非ユダヤ人がユダヤ人にするように、我々を非ユダヤ人として扱ったならば、非ユダヤ人の中にクリスチャンは決していなかったであろう。(中略)我々は(クリスチャンとしての)地位に甘んじている時こそ、ユダヤ人がキリストと血縁関係にある一方で、我々がただの非ユダヤ人であるということを忘れてはいけない。我々はあくまで部外者であって、ユダヤ人こそがの繋がった親戚従兄弟であり、なのである。それ故、もしユダヤ人が実際には人間性や血統の面で、我々よりもキリストに近いことを誇る者がいれば、(中略)もし我々が真に彼らを救いたいのであれば、カトリック教会法ではなく、クリスチャンのという掟によって、導かねばならない。彼らを心から受け入れ、我々と共に取引し働くことを許さなければならない。彼らは我々の仲間になる機会があり、我々のクリスチャンの教えを耳にし、我々の生き様を目の当たりにするかもしれないのだから。万が一、ユダヤ人の中に手に負えないことが分かる者がいたとしても、それが何になろうか。結局のところ、我々自身が皆良きクリスチャンであるという訳では無いのである[15]

ユダヤ人に対して[編集]

1536年8月、ルターと友好関係にあったザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは、ユダヤ人が自国の領内に住んだり、仕事をしたり、あるいは通過することを禁ずる命令を出した。アルザス人ラビのロシェイムのヨセル改革派ヴォルフガング・カピトへ、選帝侯に謁見すべくルターに話を持ち掛けるよう頼んだものの、ルターは斡旋を悉く拒んだという[16]。ルターはヨセルに対し、「私は嘗て、ユダヤ人のために喜んで最善を尽くしたものでしたが、私が自分から親切に接してまで、あなた(ユダヤ人)の頑固さに貢献することは無いでしょう。主との仲介者を他にも見付けたら如何ですか」と述べ、ユダヤ人の改宗は不成功に終わったことを告白した[17]ヘイコ・オベルマンは、ユダヤ人に対するルターの態度の変容について、「現在でさえ、こうした拒絶反応が、ルターがユダヤ人に対して好意から敵愾心を抱くに至った、決定的なターニング・ポイントとされる」と述べた[18]ものの、ルターであればいかなる「ターニング・ポイント」をも拒否ていたであろうとした。ユダヤ人は寧ろ、キリスト教への改宗に当たり不要な障害を避けるため、「友好的な方法」で接しなければならないと感じていた、というのである[19]


一方、歴史家ポール・ジョンソンは、「ルターは罵詈雑言に飽き足らず、反セム主義のパンフレットを執筆する前でさえ、1537年にザクセン州から、1540年代にはドイツ国内の諸都市からユダヤ人を追放した。というのも、ブランデンブルク州からユダヤ人を追い出す選帝侯を得ようとしたが、成らなかったためである」と述べている[20]


また、ミカエル・ベレンバウムは、ルターがキリスト教の権威の唯一の源として、聖書に依拠していたことが、後にイエスがメシアたることを拒絶するユダヤ人に、憤激するようになったのではないかとした[9]


ルターにとって、救済はイエスが神の子であり、ユダヤ教への執着は共有されないという信念に依るものであった。グラハム・ノーブルは、ルターがユダヤ人を殲滅するのではなく救いたがっており、彼らに「痛烈な不寛容」があったからこそ、「ユダヤ人をキリスト教により一層改宗しようとしたのではないか」と指摘している[21]











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「国家はカネで倒れる」、の事例

前回か前々回の記事の中の「国家はカネで倒れる」についての例を挙げておく。ここで「国家」というのは、「国体」とでも言うべきもので、「国の統治機構やその支配者」のことである。国家が倒れても、一般国民は多少その被害を受けるだけであり、国というものの要素を「国民、領土、政府」の3つとすれば、政府や支配者が倒れても国民と領土は変わりはしない。
なお、フランス革命なども「国家がカネで倒れた」事例である。べつに国民が支配者を武器で打ち倒したわけではない。民衆のデモ行為以前に、いわば国家破産していたのだ。民衆を抑えるはずの軍隊に払うカネも当時のフランス政府(ルイ王朝)にはおそらくロクに無かったのではないか。破産が先で、革命はその後にたまたま生じた、と見るのが正しいように思う。

ついでに、政府にカネが無ければ国民から搾り取ればいいいじゃないか、というもっともな疑問には、資本主義世界においては、他国との貿易や金融などで得るカネのほうが、税として得た穀物などを売る金額よりはるかに大きいのではないか、と私は推測している。
要するに、国民にはカネが無いから、そこから搾り取るカネには限度があり、資本主義世界では、外国との貿易や金融(国債なども含む)の金額のほうが税収より遥かに巨額だから、政府がカネを印刷して誤魔化そうが、外国には通用しない、というわけだ。国債の支払いを「徳政令」で踏み倒そうにも、それは国内では通用しても国際金融家には通用しない。つまり、そうした踏み倒しをした国家は国際社会から非難され排除される。紙幣の新規印刷や貨幣の改鋳も、価値の低下したそのカネを国際金融家や外国政府が受け取らなければ、破産するしかない。これが世界の資本主義化と国際化によって起こる現象である。


この記事は徽宗皇帝のブログの「経済童子問」に書くべき内容だが、うっかりここに書いたのでそのままにしておく。記事を書く前は、どういう内容になるのか、全体像がつかめていなかったのである。


(以下中央公論社『世界の歴史』25巻「アジアと欧米世界」より引用)赤字は夢人による。


厖大なアメリカ銀(夢人注:南米の銀資源のこと)を手にしたはずのカール五世(夢人注:スペイン王カルロス一世のこと)でさえ、一五五六年には、財政難から退位せざるをえなくなったのである。あとをついだフェリーペ二世(在位一五五六~九八年)も五七年に自ら破産を宣告、北部ネーデルランド(オランダ)の独立を阻止できなかった。同年、フランス王も破産し、共倒れとなった(夢人注:カール五世=カルロス一世と「神聖ローマ帝国」の皇位を争っていたことを指す。)のである。





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戦争は上級国民の利益のためでしかない

佐々木俊尚というのは、ネトウヨレベルの頭の人物だ、というのがどんどん明らかになっているようだ。下の発言は百田尚樹の「永遠のゼロ」と重なる思考である。

なお、私は最近世界史の本をよく読むのだが、その中で初めて知ったことのひとつが、「戦争で滅んだ国より、借金で滅んだ国(と言うか、政権や政府や国王の交代が起こった国)の方が多い」、ということである。まあ、明確にそう書いてあったのではないが、オスマントルコもロシア帝国も徳川幕府も、崩壊の真の原因は、実は政府の借金である、と私は見ている。
つまり、戦争をするのにも軍隊を維持するカネが必要であり、それが国民からの税金だけでは賄えなくなった時に統治機構の責任者(国王など)は位を追われたり、革命を起こされたりするわけだ。国家はカネで倒れる。
もちろん、敗戦でも政権交代は起こるが、それは誰の目にも見える。経済というのは「見えない戦争」だ、ということだ。勝者は常に「カネを貸す側」である。実際の戦争で勝った国も、その戦争経費や戦後処理で膨大なカネがかかり、借金漬けになって、やがて衰退する。ここでも勝者はカネを貸す側である。


  1. 竹熊健太郎《地球人》‏ @kentaro666 22時間22時間前
  1. 「日本経済の失われた30年」をテーマにした動画を見ていたら「福祉が日本人をだめにした。老後が保証されたら、誰も働きませんよ」と力説する評論家が出てきて唖然とした。健康で文化的な最低限度の生活を国民に保証することが国家の義務だということを、この評論家は知らないらしい。
  2. 8件の返信 224件のリツイート 341 いいね
  3. 取り消す
    1. さんがリツイート
    1. 4月18日
    1. その「お前の家族が殺されてもいいのか!」と脅かして戦争を肯定させるやり方、世界中で昔から戦争に反対する人たちを黙らせるために使われてきたやり方じゃないですか。実際、それで始めた戦争で日本人はいっぱい死んだわけですよ。
    2. 70件の返信 1,947件のリツイート 3,404 いいね




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イタリアの次元大介

イタリアでは「ルパン三世」の人気が非常に高いらしく、これは煙草屋のシャッターに描かれた次元大介である。実にいい絵だ。子供がこれを見て、「よし、大人になったら俺もカッコよく煙草を吸う大人になろう」と思うこと確実であるwww








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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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