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褒める教育と叱る教育

スポーツの世界と一般社会とでは同一に論じるのは無理だろうが、スポーツの世界においては正論だと思う。
私は幼時から青年期に至るまで人から褒められるばかりで、叱られた(批判された)経験がほとんど無いので、他者との闘争という行為がまったく出来ないし、他人からの批判があると心身が萎えるようなショックを受けてしまう人間になってしまったwww つまり、まともな社会人になれなかったわけだ。
スポーツの世界だと、ダメなところをダメと言わないと指導はできない。私のようなメンタルだと、ダメと言われただけで「叱られた」と思い、萎縮するので、スポーツは無理である。実際、そういうメンタルの子供は多いと思う。
つまり、「指導する」のと「叱る」のは違うのだ、ということを子供に理解させないといけないわけである。スポーツをやっている(継続した)人間のほとんどはそういう「指導される」経験を受けているので、他人からの批判に対する精神的耐性が強いのだろうと思う。それは、社会人として大きな武器でもあるので、企業がスポーツマンを採用したがるのも一理はあるわけだ。ただし、スポーツマンの多くは上からの命令に無条件で従う「筋肉脳」になっていることも多いのはよく知られている。

なお、塾や予備校で教えていた時にも、生徒を褒めるとそこで成績が伸びなくなったという経験がある。つまり、子供に対する「もうこれ以上やる必要はない」という誤ったメッセージになってしまったのだと思う。もちろん、褒める指導が適切な子供もたくさんいるわけで、要するに、「褒める教育」の危険性を、教える側は強く意識する必要がある、ということだ。



(以下引用)タイトルが抜けたが、野村克也氏の言葉である。


「褒めるという行為には、相手に対する「変わる必要はない」というメッセージが含まれている。
現に、「周りから褒められた、認められた方法」を変えようとすることは勇気がいるだろう。
よく褒めてくれる上司が実は内心で自分に対して強い危機感を抱いていても、口にされねば分かりようもあるまい。

だから私は極々限られた超一流か、素質の薄い二流選手のみを褒める。どちらも現状から変わる必要がないからだ。
しかし今の世の中には「褒めて伸ばす」などという風潮が跋扈し、その結果
自分のやり方に固執し、変えることを拒絶し、耳心地のいい言葉にしか耳を傾けず
自らの可能性を狭める選手が増えてしまった事に無念な思いを抱えているのだ」


広岡や落合も「褒める」行為に対して同じようなことを言ってる

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今、老人福祉、児童福祉、教育、公務員に足りないのは人員

  1. 安倍総理の「口だけ福祉」に対するまともな批判だと思う。
  2. 蔵建て男 @kuratateo 10時間前
  1. 老人福祉の現場でも、教育の現場でも、公務員の人員にしても、圧倒的なマンパワー不足。そこを前提に改善してゆかないと、こういう悲劇は減ってゆかない気がするのだが。
  2. 4 いいね
  3. 取り消す
  1. 明らかにマンパワー不足なところに、多くのことを要求するのはナンセンスだと思う。そういうのを改善できるのは、やはり政治の力だと思うだよね。むしろこういう状況を作って問題が次々と露見しているのは、政治的罪は重いと思う。
  2. 3 いいね
  3. 取り消す
    1. 10時間前
    1. 確かに千葉の幼児虐待の件の再発は防ぎたいのだけれども、肝心の人員が不足しているのに、さらに見直せやら、強化しろとか口では言うのは容易いが現実的なのだろうか? 他の行政機関との連携とかは良いと思うけれど、これも人員に余裕がないと更に今の人員を苦しめかねない、多分に政治的な発言だ。
    2. 1件のリツイート 11 いいね



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他人にマナーをうるさく言う奴

そりゃあそうだ。相手にマナーを教えるというのは、「お前は田舎者、礼儀知らず」と面と向かって言っているようなものだ。教わるほうは、その人(マナー講師)に頭は下げても、心の中は煮えくり返っている。
浅野内匠頭が殿中で吉良上野介に切りかかった理由は、案外ここに真相があったのかもしれないwww



さんがリツイート

日本人のマナー講師嫌いは江戸時代からの筋金入りで、マナー講師を松の廊下で斬りつけたり、そこで始末できなかったら五十人弱で私邸まで押し込んで殺害するからな。


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平気で「パパ活してる」と言う女www

まあ、事実かネタ(作り話)かは知らないが、男のほとんどはそう思っているだろうwww



さんがリツイート

合コンで24歳女が「私、パパ活始めたの」と言うと、若い後輩が「それ売春ですよね。違法ですし大っぴらに言う事では」と言い「体の関係はないの。ご飯奢って貰ってお小遣貰うだけ」と言うと「それ乞食ですよね」と言い激怒させていた。帰り道「事実を言えばいいというのものではない」と注意しておいた





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大学受験と教養

教養というのは英語では「文化」と同じ「culture」という言葉になると思うが、この「culture」は「cultivate」から来ていて、cultivateは「耕す」意味だということを知っている人は多いだろう。
ということは、単に「知識がある」ことが教養なのではなく、その知識によってその人の心が耕されているのが教養なのだ、と理解していいのではないだろうか。膨大な知識があるだけなら単なる記憶機械と同じであり、知識は少なくとも、その知識がその人の人生を豊かにしているのが教養のある人だ、と私は思っている。
というのは、私は学者とか知識人というものを「知識が多いから教養人」だとはあまり考えていないからである。大学に行った人が行かない人より教養があるとも思わない。試験に受かるためにあれこれ覚えて、試験が終われば頭に何も残っていない、実人生ではまったくの下種やアホ、という人間を教養人とは思わないわけである。もちろん、高学歴で教養人という人もたくさんいるだろうが、学者だから、高学歴だから教養人ということにはまったくならないわけだ。
生涯に一冊しか本を読まなくても、その理解が深ければ立派な教養人であり、何千冊の本を読もうが何一つその痕跡が心に残っていないなら、とても教養人とは言えないだろう。

何でこんなことを言い出したかというと、気まぐれに図書館で借りた「新・もう一度読む『山川世界史』」という本の中に、私が高校時代から疑問に思っていたことが未だに何の説明も無く出ていたからである。
同書P152「移動宮廷」のコラムの中に、王による瘰癧(頸部リンパ腺腫瘍)治しのことが書いてあるのだが、私はこの「王による瘰癧治し」がどういうトリックだったのか、説明してある歴史書を一度も読んだことが無いのだ。その説明もなくイギリス王のチャールズ2世が「治世の最後の1年だけで6600人もの患者を癒したという」などと書かれては、これを読む人は、「へえ、昔の国王の中には超能力の持ち主もいたんだなあ」と思ってしまうのではないか。もちろん、細かい説明まで書いたら本が厖大になるし、誰も問題視しない「大学入試にも出ない」ことなのだから、自分でもよく知らないことを敢えて推測混じりに書く必要はない、と判断するのだろうが、私のように「自分が理解できないし興味も無いことを丸暗記だけするのはできない」というタイプの人間には、これは地獄である。だから、私は国語以外の科目はまるでダメだったのだ。で、大学受験に成功できるのはそういう「理解できなくても丸暗記できる」タイプの人間だろうし、そういう人間が大学教授や官僚などになるのではないか、と私は思っている。

念のために言うが、「もういちど読む『山川世界史』という本自体はいい本だと思う。昔にくらべてイスラム関係の記述が多くなり、説明も親切だ。だが、あくまで「大学受験のための教科書」を一般人向けに少し記述を増やしただけだなあ、と思う。つまり、こういう本を読んで知識は得られるが、それが教養になるとは限らない。

「王による瘰癧治し」など、そのトリックを今さら考えても、現代の我々にはまったく関係のない、つまらない詮索だ、と言う人もいるかと思うが、それでは安倍政権による「統計詐欺」への批判はつまらない詮索だろうか。権威的存在や様々な「上からの教え」に疑問を持たないという精神は学校時代から作られているのであり、批判精神の無い社会はゴミに溢れ腐臭のするドブ沼になるのである。要するに「一事が万事」なのだ。





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新羅ばんしょう

「ネットゲリラ」読者コメントから転載。「しんらばんしょう」以外の読みがあるとは知らなかった。ネットは勉強になる。まあ、いい加減な知識も多いがwww
そこで、ひとつの推論だが、安倍は「新羅」を「しんら」と呼んでいて(実際、そういう読みもあるようだ。)非常に親近感を持っていたとか、あるいは「森羅万象」という言葉を統一教会で聞いた時から、意味は「多くの」くらいだろうな、とだけ思って「何かカッコいいからこの言葉をいつか使ってみたい」と考えていたのではないか。「あべしんぞう」と「しんらばんしょう」は何だか似た語感だし、祖先が新羅出身なのかもしれない。

(以下引用)




森羅万象(しんらばんしょう、しんらばんぞう、しんらまんぞう)は、あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。「 森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。 なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、および宇宙空間を指す。


アヘさんスゲーなwww



5chから拾ったんだがw


>世界基督教統一神霊協会(統一教会)
>「父の祈り」
>春には森羅万象が和動するように(抜粋)


>世界平和統一家庭連合の教義である「統一原理」
>私たちが幸せな家庭や社会を願う上で、生きる目的や宇宙の森羅万象に対する疑問、家庭崩壊や民族・宗教の対立などの根本問題に明確な解答を示し、
>われわれが目指すべきビジョンと世界平和に至る指針を教えてくれます。(抜粋)



完全に統一教会wwwwwwwwwwwwwwwwww
安倍真理教wwwwwwwwwwwwwwww



安倍晋三著書『美しい国へ』が統一教会本とソックリという話も前々から出回っていますね。







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「一番嫌いなのは努力」

「谷間の百合」さんのブログ記事を全文転載。(容量関係で写真はカット)
私は、前に書いたように「近代の病としての『生き甲斐』症候群」というテーマの文章を書くつもりだったが、下の記事で書かれているのが、まさに私の言いたいことである。

総理大臣も乞食も、「起きて半畳、寝て一畳」であり、一度に飯が100人前食えるわけではないし、百畳のベッドがあろうと寝ている間に使うのは畳一畳分だ。一流レストランの美味い食事だろうが、自分で作る原価150円もしないうどんを食うのと美味さにさほど違いは無い。周囲に気を使わないだけうどんの方がマシであるかもしれない。一流の女優になろうが、そこに至るのに枕商売をしなければならないのなら売春婦と変わりはない。男優も同じだ。スポーツの名選手など、死ぬほどの努力をしてその地位に到達するのだが、見ている観客はテレビの前で何ひとつ苦労もしないでそのプレーを楽しめる。幸福なのはどちらで賢いのはどちらだろうか。(もちろん、その道が好きで、一流になり、その努力自体が楽しかったのなら、それは素晴らしいことである。)

なお、私は「輪廻」はあまり信じないが、むしろ「人の影響は何らかの形で永遠に残る」という「精神不死論」を信じている。ある英詩の中にあったと思うが、死は二度あり、肉体の死が一度目、そしてすべての人から忘れられるのが二度目の死であり本当の死である、という趣旨の思想がある。だが、私は、その人間の残したものは子供や友人や知人や、文章や作品を残したらその読者や鑑賞者の中に何かの痕跡を残し、それが様々なヴァリエーションとなって世界を少しづつ変えていく、と思っている。つまり、精神は不死である、ということだ。たとえば私の中には江戸時代の「共産主義者」安藤昌益の魂がわずかに入っているのである。
もちろん、良い影響だけではなく悪い影響も含めて「精神は不死」だということだ。


(以下引用)



木枯し紋次郎が到達した境地。

木枯し紋次郎の中村敦夫さんが出家得度しておられるのは知りませんでしたが、「日刊ゲンダイ」のインタビュー記事を読んで、その「悟り」の一端を知ることができました。
人は「悟り」というものを自分とは縁のない境地だと思っているようですが、それは日常と背中合わせにあるものでそれに気が付くかどうかだとわたしは思っています。
記事から一部抜粋したものを以下に転載します。

「一番嫌いなのは努力。努力するとロクなことはない。朝起きてマラソン始めたら心臓マヒを起こしたりね。目先のことでビクビク、くよくよせずに、時間を長くゆったり生きる。あまり過激な努力をしないことです。みなさん、自分を査定して、高く見積もり過ぎる傾向があると思いますよ。そりゃ、そこそこ成功している人はいるだろうが、そんなに変わらないでしょう。金に汚いかどうかの違いだけです。私は動物の一匹として生まれてしまった。死にゆく運命です。生を受けたことは、そんな幸せな贈り物ではないが、当たってしまったわけだから、ゆっくり楽しめるものは楽しむ。死後の心配する人がいるけど、「あんたどっから来たんだ」ってね。人間の存在なんて暫定的な存在だと思う。いろんなこと分からなくていいんですよ。全部分かってうまくやろうという貧乏根性を捨てること。そうすれば、人生、別のことが見えてくると思います。」




「あんたどっから来たんだ」というのは「死をみること帰するがごとし」で死は「来たところに帰る」ことだと言っておられるのです。(岡潔はそれを「懐かしいところに帰ること」だと言いました。)
したがって、人間の存在が暫定的というのも死んだら終わりという意味ではなく輪廻転生のことを言っておられるのだと思います。
中村さんの言われる貧乏根性、わたしにはよく分かります。
オリンピックや万博に血道をあげるのも貧乏根性です。
(わたしはそれを田舎者根性だと言ってきました。)
子どもに勉強しろと言うのも貧乏根性です。
どうせ、死ぬまでの人生、どうしてゆっくり楽しもうとしないのでしょうね。
努力なんかしなくていいのです。
わたしも、ブログを書く以上本を読んだり勉強しなくてはいけないかなと思った時期もありましたが、考えてみたらわたしは勉強をしたという記憶がありませんでした。
だから いままで通り見たこと聞いたこと感じたことを書くだけでいいのだと開き直ったところでした。
全部分かってうまくやろうという貧乏根性を捨てれば、別のことが見えてくる、それが「悟り」なのだと中村さんは言いたいのではないでしょうか。
どう生きるべきかなんて考えることは余計なことなのです。
何も考えず、日常するべきことを淡々とするだけでいいのだと。
日本人と言うべきか現代人と言えばいいのか、人は生活をしていないように思います。
生活以外のことで生きているというか、生かされているように思えてなりません。
奴隷として。
生活をしていないのですから「悟り」は遠のくばかりです。



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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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