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夢洲(ゆめしま)と夢の島

カジノを作るとなれば、当然ヤクザがバックに就くだろうから、ヤクザ事務所と大阪府役所と大阪市役所と、ついでに国会と経団連事務所をここに置いて、「西の夢の島(ゴミ溜め)」にしたらいい。やがてどんどん沈み出して、全員溺死したら日本は万々歳だ。




さんがリツイート

大阪湾の人工島・夢洲(大阪市此花区)にカジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致を目指す大阪府と大阪市は12日、カジノ区域の床面積を最大3万平方メートル、事業者の投資規模を9300億円などとする基本構想案をまとめました。2024年開業を目指します。





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派遣奥さん

性的解放を良しとする女性にはぴったりの仕事ではないかw もちろん、性的サービスをするために派遣されながら引っ越しの手伝いをさせられたら、多少はプライドが傷つくかもしれないが、「逃げ恥」のガッキー(出張家政婦だが、出張奥さんと考えるとデリヘルとすれすれである。)みたいなのを期待していたら渡辺直美(なぜか女性には人気があるらしい)みたいなのが来たら、そりゃあ、別の肉体労働を頼むだろうwww

(以下引用)




デリヘル嬢というのは、なんというか、微妙な存在で、いわば「セックスをしない売春婦」とでも言ったらいいのか、諸外国では例を見ないシステムだよね。セックスをしないんだから、じゃあ、何をやらせるか? というので、引っ越しを手伝わせるとか、料理を作らせるとか、色々あるらしいw

ツイッターユーザーの「みゆな(@otinuki)」さんは今月1日、性的サービスを提供するために自宅に派遣されたはずが、引っ越しを手伝うことになった経験を語った。
サイト「worldofbuzz」が報じた。
みゆなさんによると、120分で客の自宅に呼ばれて到着したところ、引っ越しの手伝いを頼まれた。
その上でみゆなさんは、他に同じような経験を持つ人がいないか呼びかけた。
驚くことに、他にも同様の経験をした人々が複数人いた。
その中には掃除や引っ越しを手伝った人から、携帯の初期設定をした人、豚骨からラーメンを作らされた人など様々な人がいると判明した。

プロ意識の高い売春婦だったら、雑用させられたら怒るだろうが、そもそもプロじゃないし、売春婦でもないので、怒らないw ポカンとするだけw



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「直葬」と私の人生観

私は、両親が60歳くらいで亡くなっているので、60歳を超えた時から、自分もそろそろかな、と思って、残りの人生は余生だと思っている。若いころはかなり悲観主義者で、20歳くらいで死んだほうがいいかな、と思っていたので、60歳まで生きれば十分以上だ。まあ、若いころにいつも憂鬱だったのは、「生活への不安」「将来への不安」「自分への自信の無さ」などが主な原因で、それらの「鬱感情」を何とか誤魔化しながら案外長く生きてきたわけである。まあ、昔思ったよりは悪くない人生だったと思う。動物や虫に生まれる可能性もあったのだから、人間に生まれただけでも幸運というものだろう。
で、死ぬ時には遺体は「ゴミ」として処理してほしい、と前に書いたのだが、それが無理なら「直葬」というのがいいかな、と、この記事を見て思ったわけだ。
なお、現在の私は別に早死にしたいと思っているわけではない。早く死のうが遅く死のうが同じことである。たとえば、愉快な学生生活を送り、大学卒業と同時に車に轢かれて死んだとしたら、それは最高に幸福な一生だったのではないか。他の人がその死を「早すぎる」「残念だ」と思うのは勝手だが、それは当人とは無関係である。また、何か素晴らしい事業をしようが、のんべんだらりと怠けて一生を終えようが、死ねば同じことだ。社会への貢献というのは、「その人がいたことで、世の中がほんの少しでも良くなった(幸福になった)」で十分だ。また、貢献が無くても、周囲や社会に迷惑をかけさえしなければいいのである。

(以下引用)








(写真=ユニクエスト提供) © Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 (写真=ユニクエスト提供)

「こういう弔いの形もありなんだなと思いました」


 東京都在住の田中一也さん(仮名・59歳)。おととし、11歳年上のいとこをがんで亡くした際に、通夜や葬儀・告別式をしない“お別れ”を経験した。あっさりした性格だったいとこは生前から、「死んだときは、一切何もしなくていい」と意思表示していた。


 都内の病院で田中さんや家族がいとこをみとった翌日、遺体は病院からいとこが住んでいた千葉市の火葬場へ直行。田中さんを含む近親者7人が火葬場に集まり、火葬を終えた後、近くの葬祭会館で軽く食事をして解散した。ものの1時間半で全てが終わった。


 九州出身の田中さんにとって葬儀といえば、通夜から多くの親戚や知人が集まって、1泊2日で行うイメージ。だからいとこの弔い方には驚いたという。


「読経も戒名もなし。すしは“竹”。ビール中瓶1本でお別れだった。その後、出勤できたぐらいあっさりとしていた」


 一抹の寂しさはあったものの、いとこの闘病生活は1年強におよび、心の準備はできていた。近親者でみとったので、故人と向き合えたという感覚もあった。


「これぐらいシンプルでいいのかもしれない。(通夜、葬儀・告別式をやる一般的な)葬儀で若い僧侶の説法に感動することもないし、通夜の食事もおいしいわけではないし。僕が死んだときも直葬にしてもらおうかと思うこともあります」(田中さん)


 形式的な儀式を極力省いた葬儀のかたち「直葬」がいま、都市部を中心に増えている。直葬とは、故人が亡くなった後、安置所か自宅に遺体を運んで安置し、その後、直接火葬場に移し、荼毘に付すという方法。近親者のみで行う。会葬者を呼んで通夜や告別式を営み、それから火葬する一般的な葬式に比べて、お金もかからない。


「ここ15年ほどで“葬儀はシンプルにしたい”という明確なポリシーを持った人が増加傾向にあります」


 こう話すのは、終活や葬式の相談・施行などを行う「葬儀を考えるNPO東京」代表の高橋進さんだ。かつて直葬は、故人が身寄りのない人や困窮者の場合に、自治体が葬儀費用を賄って行われる方法だった。


「今は、故人の遺志や家族の意向で選ぶ傾向にあります。中には菩提寺があっても直葬を選ぶ人もいるほど。それだけ従来の葬儀のあり方に疑問を持つ人が増えている証しでしょう」(高橋さん)


『葬式は、要らない』などの著書で知られる宗教学者の島田裕巳さんは言う。


「直葬が広がる背景には、死んだ人の扱いはなるべく簡単に済ませるべきという考え方が強まっていることもあります。血縁意識の低下から、“絶対に葬儀に呼ばなくてはいけない人”という存在もなくなってきている。都会のみならず、地方の葬儀も簡素化が進んでいる実態を見れば、そんなに遠くない未来に葬式そのものが消滅する時代が来るかもしれません」


 これまで累計15万件を超える葬儀を担当し、全国で葬儀ブランド「小さなお葬式」を展開するユニクエストによれば、現在、直葬(プラン名「小さな火葬式」)を選ぶ人が4割であるのに対し、「通夜、告別式ともに実施」を選ぶ人が3割、「告別式のみ実施」を選ぶ人が3割と、すでに同社では直葬が主流だ。


「喪主として一度大掛かりな一般葬を経験して、それを疑問に感じたことから、直葬を選ぶケースが増えています。大きな葬式だと会葬者の対応に追われ、ゆっくり故人と向き合う時間もなく、本当にこれで良かったのかと後悔が残ることもあるそうです。そうした方は、次に近親者が亡くなったときには、直葬などシンプルな葬儀を選ばれることが少なくありません」(ユニクエスト広報担当者)


 多くの会葬者を招いてその対応に追われる一般葬と比べて、故人とゆっくり向き合う時間を作ることができるのもメリットなのだ。また、葬儀費用を大幅に抑えられることも利点の一つ。一般葬の場合、平均額は約178万円。一方、直葬は平均15万~30万円と、6分の1以下に抑えることができる。通夜の飲食費や斎場の式場料、祭壇費用などがかからないためだ。


「通夜の飲食もそれを楽しめるわけではないし、香典返しも果たして本当に必要なのかと、疑問に感じる人が増えるのも当然の流れです」(島田さん)


 では、直葬を選びたい場合、具体的にどうすればいいのか。火葬許可証の申請など役所で行う死後の手続きは遺族がやることも可能だが、遺体の搬送などは荷が重い。儀式を省いたとしても葬儀会社などプロに頼むのが一般的だ。


「棺など必要なものも個別に手配すると手間がかかり、費用も高くつくことが多いので、葬儀社に頼んだほうが安心。悲しみの中、作業に追われるより、故人と向き合う時間を大切にしたほうがいい」(高橋さん)


 直葬を希望する場合、最低限必要な次のような物品やサービスがセットになった一番シンプルなプランを選べばよい。遺体の安置場所を確保し、病院や施設など亡くなった場所から、故人の遺体を寝台車にのせ、自宅や一時的な安置場所に搬送する。遺体を棺に納め、安置する。法律で定められた時間の死後24時間以上経過してから、火葬場の予約時間に合わせ、霊柩車で火葬場へ出棺する。もちろん、物も用意してくれる。遺体を入れる棺、棺用布団、故人に着せる仏衣一式、遺体保冷のためのドライアイス、枕飾り一式、骨壺、そして遺体をのせて移動する寝台車や霊柩車だ。(本誌・松岡かすみ)


※週刊朝日  2019年2月15日号より抜粋







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雪の静寂の経帷子

今日は朝から雪だが、窓の外に降る雪を見ると、いつもサイモンとガーファンクルの「アイ・アム・ア・ロック」の一節、

freshly fallen silent shroud of snow

を思い出す。訳すとしたら、「新たに降った雪の、静寂の経帷子」だろうか。

この歌は、若者の孤独を歌った歌で、雪が経帷子に見えるところにその若者の孤独感と閉塞感が現れている。
なお、「アイ・アム・ア・ロック」は、「僕は岩」ということで、自分を孤立した島や岩にたとえているわけである。

ちなみに、クイーンの「ロック・ユー」のロックは、「ロッキングチェア(揺り椅子)」のロックで、「お前を揺すぶるぜ」くらいの意味だろうか。ロックンロールとはもともと、「聞き手を揺さぶったり引っくり返して目を回させたりするような音楽」ということだろう。

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心に愛を

昔、子供のころに父から「名前は読み間違ってもいいんだよ」と教えられ、そんな馬鹿な、と思ったものだが、後に、人名はその漢字に勝手な読み方を付けていいと法律で規定されていることを知って、成る程、それなら、読み間違えるなという方が無理だ、と納得したものである。
それでも昔は親の方に、名前の漢字に常識的な読み方をつけるという良識があったが、最近は滅茶苦茶である。まあ、そうした名前を持った子供は、少なくとも親がアホという「判別装置」にはなるので、メリットも少しはあるwww
だが、「心愛」で「みあ」というのは、どう首を捻っても理解できない。「心」という漢字の「こころ」にも「しん」にも「み」が存在しないからだ。「はあと」でも無理だ。私は最初「ここあ」と読んでいた。実在人物の名前としては変だが、アニメや漫画にはたまに出るし、犬の名前にもつけたりする、響きのいい言葉だからである。「心愛」と書いて「みあ」と読ませるというのは、父親・母親どちらの考えだったのか、聞けるなら聞いてみたいものだ。


  1. 小田嶋隆‏ @tako_ashi 16時間16時間前
  1. 「普通の人が普通に読めない名前」を持った人は、その人自身がどうだというのではないのですが、少なくとも「普通の人が普通に読めない名前を自分の子供につけてしまう親」を持っている人ではあるわけで、まあ、いろいろと大変だなあと思う次第です。
  1. 私が実際に知っている何人かの「読み間違えられがちな名前を持った人間」は、誰もが、軽い無力感のようなものをかかえながら生きているように見える。
    1. 地名とか人名で、何回おぼえても毎回読めない字がある。 心愛(みあ)という名前もそのうちのひとつに当たる。 だから、安倍さんが読み間違えたことは責めない。 「川内原発」(せんだいげんぱつ)も同じ。何回覚えても、必ずやアタマの中で「かわうちげんぱつ」に訂正されてしまう。


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片恋の人蹤けてゆく祭かな

何気なく図書館で借りた、岸田今日子、吉行和子、富士真奈美という女優三人(親友らしい)の対談やエッセイやらを集めた本の中に、富士真奈美のこういう俳句がある。


片恋のひと蹤(つ)けてゆく祭かな


というのがあって、いい句だな、と思った。

イメージとしては高校生くらいの少女が片想いの男の子を祭の雑踏の中で見つけて、その後をつけていった、という感じだろうが、年寄りの男の私でもこの情感やドキドキ感は分かるし、若い子ならもっと分かるだろう。
こういう、誰にでもありそうな状況や気持ちを描いた句は、簡単に見えるが、この句の完成度は高いのではないか。作者自身、回想の句だと言っているからよくあるシチュエーションだろうが、高校生くらいではこの句は作れないと思う。似た内容の句はゴマンとあるだろうが、この句の言葉の使い方は、高校生にはたぶん無理だろう。ところが、理解するのは高校生でもできるのが、凄いのである。
まず、若い人は「片恋」という言葉を知らないだろう。そして、「つける」に「蹤」という漢字を使っているのがいい。まさに「足へん」だからこそ「つける」イメージに迫真性と臨場感が出るのである。
そして、最後の「祭かな」で、すべての出来事が象徴性を持つ。祭のドキドキ感と初恋や片想いのドキドキ感と重なって、「誰にでもある、あるいはあってほしい青春の思い出」の切ない感覚を呼び起こすのである。
季語とはまさに、句に象徴性や広がりを持たせるのが本質的機能なのだが、この句はその最適例だろう。祭という言葉で、祭に関わるすべてのイメージが湧き起こるのである。花火や、屋台の匂い、雑踏の音、etc,etc。 だが、祭は一晩ではかなく終わる。片恋も青春も同じである。
なお、この話には、そのつけていった相手は実は別人だった、というオチがある。

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新しい「世界史」の観点

ユダヤ人というのは、キリスト教社会では唯一金融業(金貸し)を許されていた人々だったと言われている。その理由はよく分からないが、労働してその結果を得るのがまともな仕事であり、カネを貸してその利息を得る商売というのは「まともな仕事ではない」という倫理感から来たのではないかと思う。つまり、「労働は尊い」という思想を持たせないと人々が怠けて税収が減るから、とても労働とは思われない金融業を蔑視するモラルが社会の中に作られたのだろうし、それはどの社会でも共通だったのではないか。つまり、金貸しは「賎業」だったわけだ。
だが、金貸しというのは、数字を操作する世界である。何か物を生産したり運んだりすることなく、すべてが頭の中で行われる。後は、対人交渉、つまり演技力や説得力の世界だ。
つまり、ユダヤ人は長年に渡って頭の中の抽象的操作を続けてきたのである。
これが、ユダヤ人が「世界で一番頭がいい民族」になった理由だと思う。
と同時に、それは「実業や生産」をする人々への軽蔑を必然的に生み出しただろう。これは中国古代にもあった思想だが、上級の人士(レベルの高い人間)は肉体労働などしない、という思想だ。まして、ユダヤ教ではユダヤ人以外はゴイムという「人間ではない存在」とされ、軽蔑されている(と言われている)。現実生活で受けている差別が、この教えを逆に確固たる信念に替えたのではないか。
そのユダヤ人にとって、現実の政治や経済は笑止の沙汰だったのではないか。やれ農業だ漁業だ牧畜だと面倒くさい労働を死ぬまでやっている哀れな奴隷たちも間抜けだが、それを管理するのに苦労している連中も結局は「労働者」つまり、家畜的存在にすぎない、というわけである。国王などと言っても、あれやこれやと苦労をし、戦争をしては領土や命を失っている。国王や貴族にカネを貸しているこちらだけが、何の苦労もなく、カネがカネを産むのを待っていればいい。(どこかで貸金がふいになっても、分散投資しているから大丈夫である。)

そういう観点で世界史を眺めれば、領土争いとか戦争とかいうのが実に馬鹿馬鹿しく、陰で笑っている存在が見えてくるのではないだろうか。もちろん、情報を操作して金儲けをするのはお手の物である。戦争の勝敗の帰趨も手に取るように分かっていただろう。馬鹿どもが舞台の上で踊って何百万何千万死のうが、どうせゴイム連中だ。


(追記)

(第一次大戦時に)オーストリアはドイツの銀行から1916年までに二五億マルクもの負債があり、その後も一カ月一億マルクの割で借り入れを続けた。(中央公論社「世界の歴史26」より)

(追記2)

日本の日露戦争の戦費の多くはユダヤ人ヤコブ・シフからの借り入れであり、その返済がやっと終わったのは、何と昭和末期、福田内閣の時である。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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