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富永仲基の「真の道」

私の別ブログに載せた、富永仲基の「翁の文」(私が大雑把に現代語訳したもの)の一部だが、「神無き世界の道徳」としてはこれくらいが常識的で健全で、自分をも周囲をも社会をも幸福にする指針ではないだろうか。もちろん、江戸時代の人間の思想だから、「主君に心を尽くす」「妻を率いる」など、今ではピンと来ない部分もあるだろうが、短絡的に否定せず、外面ではなくその主旨を見るべきだろう。たとえば、「主君に尽くす」とは、組織やプロジェクトチームのリーダーを信じて部下として誠実に行動する、などの意味に取ればいい。「妻を率いる」は、男が先頭に立って家庭を守る、ということと解すればいい。それも、かつては「家庭内存在であった」女性が「社会化」した現代社会では、「なるべくなら」という程度でいいのではないか。

下に書かれたことの、私が考える最重要点だけ先に抜き出しておく。

1.物事の「当たり前」のことを務める。
2.今の仕事を生活の中心とする。
3.心をまっすぐにする。
4.身持ちを正しくする。
5.物の言い方を丁重にする。
6.ふるまいを慎む。

などである。べつに難しいことは何も書かれていないが、これを守ることができたら、実に立派で尊敬できる人間になるだろうな、と思う。そして、そういう人間がほとんどである社会は理想社会だろうな、と思う。いわば「市民的道徳」の理想だ。
まあ、市民的道徳と言うと何だか小さく見えるが、それは儒仏神などのような大仰な飾りがないからそう見えるだけで、平凡だから価値が無い、と思うこと自体が思考の出発点として間違っているのである。(儒教仏教神道の「飾り」については『翁の文』の他の部分で説明されている。)



翁の文(第六節)

それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。


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あの戦争の犠牲を無にする、現代日本という愚劣な社会

「先人たちが命をかけて戦ってくれたお陰で私たちが生きている」

というロジックもネトウヨ論法としてよく見るが、ちゃんと検討してみると面白い命題文(真偽の判断が可能な文)かもしれない。
さて、先人たちが命をかけて戦ってくれた結果として私たちは生きているのだろうか。つまり、彼らが戦わなければ日本人は皆殺しにされ、その子孫はひとりも存在しなくなったのだろうか。
もちろん、そんなことは有り得ないが、「そういう意味ではない」と言うのなら、この命題文は何を意味しているのだろうか。
あの戦争は事実上、「日本が起こした戦争」であり、そのために多くの日本人が戦場で死に、あるいは民間地域の空爆や原爆や沖縄の地上戦で死んだ。(日本人以外の人も膨大に死んだ。)そうすると、彼らが死んだおかげで(現在の)私たちが生きている」というのはどういうロジックなのだろうか。多くの人が死ねば、敵国が「まあ、これだけ殺せば十分だから残りは助けてやるか」と思ったとでも言うのだろうか。
この問題を言い換えれば、「戦場で戦った人たち」の行為(つまり、敵を殺すという行為)が、現在の人間が生きている、ということとどういう論理でつながるのか、ということである。
なお、私は戦場で亡くなった人たちを気の毒だとしか思わない。彼らが戦ったという行為にはべつに感謝はしないのである。むしろ国民全員が徴兵拒否をする「勇気」を持っていてほしかったくらいだ。
今の私が生きているのは、戦地から生きて帰ってくることができた亡父の幸運(まあ、戦後の苦労より、戦地で死んだほうが当人自身には幸運だったかもしれないが。)のおかげであり、その父親に対しては「私のために戦ってくれてありがとう」ではなく、(そもそも、父親が戦地にいた時に私は生まれてもいない。74歳以下の人間はすべてそうだ。)「戦わされて気の毒だったなあ」「(戦地での話はまったく聞いていないが、かりに敵兵をひとりでも殺していたら)一生の心の傷になっただろうなあ」「戦争があったために戦後も大変な苦労をしただろうなあ」という感情だけだ。

あの戦争の犠牲者たちの死を無にするのは、日本が再び戦争をすることであり、そのように仕向ける言説がはびこることである。まあ、私が戦死者なら、空の上で、あるいは草葉の陰で「お前らのような糞馬鹿のために俺は死んだのかよ」と思うだろう。



(以下引用)





「先人達が命をかけて戦ってくれたお陰で私達が生きている」って、具体的に何のことですか?  ちなみに日本が起こした第二次世界大戦では日本人が300万人亡くなりました。





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「条件文」での約束の罠

私は、乙武洋匡という人間は(その言行をネットで知る限り、嫌な性格の人物で)嫌いなのだが、下の発言(記事タイトル)は非常に鋭いと思う。やはり頭はいい人間で、障害者の立場から社会に発信するには得難い人物なのかもしれない。
とは言っても、下の記事(有料記事)を読んだわけではない。この一文だけで内容は想像がつく。中学生の国語の試験で使ってみたい一文だ。

Q:この一文から「頑張れば報われる社会」というメッセージに潜む罠の内容を推定して200字以内で書きなさい。


といった感じ。
もちろん、そのメッセージが「~すれば」という仮定形で書かれている「条件文」であるところに罠があるわけだろう。つまり、

「頑張れば報われる」と約束したけど、あなたは頑張っていないからダメ。

ということで、多くの人間が「報われ枠」から排除されるということだ。当然、頑張ったかどうかは上の人間が恣意的に判断を下すから、報われる人はほんの一握りになる。そして、その結果、「あいつは報われていないのだから、頑張らなかったダメな奴だ」という周囲の評価が彼ら「報われなかった人々」の上に積もっていく。これは一種の地獄かもしれない。
で、今の社会が「年功序列」から「実力主義評価」になったのも、これと同じだ。「評価」は上の人間が恣意的に行うから、上の人間へのゴマすりが上手い「陽キャラ」が高く評価されることになり、世渡りの下手な人間は下に沈んでいく。
そもそも、世の中には最初からハンディを持って生まれた人(家柄、財産などもそれだ。)がたくさんおり、そのハンディは努力で克服できないものも多い。身体的障害などはそれだろう。そういう人が「頑張る」のと普通の人が「頑張る」のとではまったく条件が違う。私は年よりで物凄い鈍足だが、乙武氏と50メートル走をしたら、多分勝てると思うwww  しかし、乙武氏が車椅子に乗っての勝負なら、たぶん負ける。さて、これは「不公平な勝負」だろうか。
要するに、勝負事というのは最初からすべてハンディがあるのであり、その中の上位者(健常者)だけを前提にして社会の「競争」を論じるのはインチキだ、ということだ。
ここでは「競争」と書いたが、この「頑張った人が報われる」は、まさしく競争を前提としているのである。「頑張った人が報われる」という言葉はその背後に「頑張らなかった人は報われないのが当然」を含意しているということだ。
まあ、競争を前提としなくても、条件文というのは、その条件内容が漠然としていたら、それで詐欺ができる。
あなたが親なら、子供にたとえば「お祖父ちゃんちでいい子にしてたらお小遣いをあげる」と約束してみたらいい。幼い子供なら、その「いい子」の定義や内容も分からないまま、必死でいい子にしたつもりになるだろう。そうして後で子供が「お小遣いは?」と言ってきたら、子供の些細なミスを取り上げて「あなた、御挨拶、ちゃんとしなかったでしょ。だからお小遣いはだ~め」とか言うわけだ。子供は確実に親への不信感を持つことになるだろう。
しかし、大の大人の会社員なども案外、この幼児と同じ行動をするのである。自慢ではないが、私もたぶん騙される。




(以下引用)

「頑張れば報われる社会」というメッセージに潜む罠。




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万引き家族

楽しい娯楽を提供してくれたということでこの万引き一家を無罪にしたくなる話である。なぜ、女の息子は全裸になったのか、息子はスクーターで何をひいたのか(警官をか?)、犬は犯罪に協力しているという意識はあったのか。すべて謎であるが、警察の「犬だけは罪に問わず、警告にとどめた」は温情的であり、偉いwww 







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恋愛の「結晶作用」と自己洗脳

「混沌堂主人雑記」所載の「国際秘密力研究」の一節だが、この部分は非常に面白い。私はこれまでこの「国際秘密力研究」はほとんど読んだことが無かったのだが、それは哲学用語や仏教用語が苦手だからというのと、箇条書きの文章が好みではないからだ。
箇条書きというのは、「すべて重要な内容ですよ」と言われているようで気疲れするのである。私は、「真面目さの塊」というのが苦手なのだ。それは私のふざけた文章からも分かるだろう。他人に誤解されようが、軽蔑されようが、下手な冗談や軽口をやめることは私にはできない。それは、私の文章は、私の思考の推移を追っているだけだからである。
その思考の推移の仕方は次のような感じだ。

たとえば、昨夜、NHK交響楽団の演奏を録画してあったのを見ると、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」という曲をやっていて、ハロルドと言えば、「チャイルド・ハロルドの巡礼」、つまりバイロンだな、と連想し、それに続けて、バイロンと言えば、「一夜明けると有名になっていた」だな、と連想し、次に「目覚めると(つまり一夜明けると)毒虫になっていた」のはカフカの「変身」のグレゴール・ザムザだな、と連想し、この両極端が「一夜明けた」結果として存在するのが面白かったのだが、私の頭はこういう連想でしか機能しないから、真面目な思考を長く続けるのは非常に苦手なのである。その代わり、自分の頭の思考推移を眺めること自体が娯楽だ。

それはともかく、下の引用部分は、案外読みやすく、理解もできたと思う。で、

「つまり自分の中で繰り返す表象作用や思考作用が自分自身を洗脳していく」

というのは、まさにその通りだろうと思う。その分かりやすい例を言えば、恋愛の「結晶作用」である。もちろん、スタンダールの「恋愛論」の中心思想みたいな奴だ。要するに、誰かのことが気になって、その人のことを繰り返し考えているうちに、その人に勝手に空想上の美点をどんどんくっつけて行って、恋に落ちることだ。そうなると、相手のあばたもえくぼになるわけである。世の中には「あんな素晴らしい女性(男性)が、なぜあんなつまらない男性(女性)と恋人になったのか」ということがよくあるが、それは本当に恋をしたのではあるが、実は当の相手ではなく、自分で作り上げた幻影に恋をしているということである。
これを言い換えると、「恋愛とは自分で自分を洗脳することである」となるwww

(以下引用)


〇苦楽は正確に言うと五感=眼耳鼻舌身による色声香味触の感受について言う。意識による法(あらゆる事物・存在)の認識(表象や思考)では苦は憂、楽は喜とする。精神的な快と不快である。五感と表象・思考が同列の認識作用と捉えられている。五感と同じく表象や思考でも対象から影響を被るという洞察。

〇思想的に洗脳される場合も文章を読んだり演説や説教を聞いたりなどリアルタイムで五感で情報をキャッチした後に、表象(イメージ)や思考で脳内で繰り返し再生している間に刷り込みが深まっていくのではないだろうか。つまり自分の中で繰り返す表象作用や思考作用が自分自身を洗脳していく訳である。

〇そういう意味では「眼耳鼻舌身意・色声香味触法」として五感(眼識耳識鼻識舌識身識)と表象・思考(意識)を同列に並べたのは鋭い洞察だと言える。何を表象し、思考するかにも気を付けるべきという事だろう。例えば裏組織に踊らされている者は表象や思考=頭の中が滅茶苦茶になっているのだと思う。



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キリスト教終末の予感

「in deep」から抜粋転載。
なかなか面白い事件である。まあ、これで人死にでもあれば面白いなどとは言えないが、キリスト教そのものが世界的にオワコンなのかもしれない。
なお、キリスト教にはカトリック(私は「カソリック」と書くことが多いが、「catholic」の「tho」の発音は「ト」ではなく「ソ」に近いのではないか、と思うからだ。だが、もちろん、一般的には「カトリック」と言われている。)とプロテスタントの2大宗派があるが、簡単に言えばカトリックは「教会主義」で、プロテスタントは「聖書主義」と考えるのがいいのではないか。庶民のほとんどが文盲だった時代には、教会が聖書の知識を独占して、それを勝手に捻じ曲げた教義(「三位一体説」などはそれだろう。)を庶民に教えていたわけだ。グーテンベルクの印刷機の発明で聖書が普及すると、教会の教義への疑問が生まれ、聖書だけが本物のキリストの教えだ、という思想の人々が出てきてそれがプロテスタントとなったということだろう。
下の記事で、「教会は(教会が冒涜される)その理由がわからない」とあるが、私には、イスラム教への差別事件などから人々がイスラム教やその他の宗教について調べ、それとの比較で宗教そのものやキリスト教や教会という存在への疑問が生まれてきた結果ではないかと思う。(ネット時代の今だからこそ、疑問点や未知な事柄を簡単に調べられ、それが人類全体の知的レベルを高めている可能性がある。私自身、高校生のころより今の方が新しい事柄を知ることは多い。ゴーリキーを真似れば、本とネットが「私の大学」である。しかも、その「学習」は何の苦労も無いから、勉強という「勉め、強いる」ものではなく、むしろ娯楽である。)
なお、下の記事の中で

同組織の上級監督官は、ニューズウィークの取材に対し、これら一連の攻撃の動機は不明なことが多いが、一部、アナーキストやフェミニストグループによる反キリスト教的な暴力の問題と直面していると語る。

とあるのは、カトリックの「上級国民」たちの頭の悪さを示しているように思う。「フェミニズム」や「アナーキズム」を敵視するところが、まさに現体制から利益を得ている上級国民らしいところだ。特に、アナーキズムとは「無政府主義」であり、別にテロリストを意味していない。「政府が無くても、国民は自律的に幸福な社会を作れる」という思想である。教会への冒涜的行為とは何の関連性もない。

ついでに言っておくが、私はこの世界から宗教(あるいは神仏への信仰)が消えたらどうなるのか、危惧している。「神無き世界の道徳」を人類は打ち立てられるのか、という問題は、若いころからの私の思考課題(というか長年の宿題)なのである。




(以下引用)




CATHOLIC CHURCHES ARE BEING DESECRATED ACROSS FRANCE—AND OFFICIALS DON’T KNOW WHY
newsweek.com 2019/03/21


フランス全土でカトリック教会が冒瀆され続けている。しかし、教会側はその理由がわからない


フランスで、2019年の初めからカトリック教会に対する攻撃が急増している。



それらの行為の中には、放火と冒瀆(神聖なものを汚す)ことが含まれる。



破壊者たちは、教会の彫像を打ち砕き、礼拝所を打ち倒し、そして、聖体を巻き散らすか破壊し、十字架を破壊し、反カトリック的感情の高まりの懸念をフランス国内で引き起こしている。



3月17日の正午のミサの直後、歴史的な建造物であるパリのサン=シュルピス教会で火災が発生したと報じられた。負傷者はいなかったが、パリ警察は、消防隊員たちがこの火災が放火らによるものだと確信していることから、放火であるかどうかの調査をおこなっている。



サン=シュルピス教会は、17世紀に建てられ、ロマン派の画家ウジェーヌ・ドラクロワによる 3作品を収蔵しており、米映画「ダ・ヴィンチ・コード」の舞台として使用された。



2月には、フランス北西部のウイユにある聖ニコラス・カトリック教会で、聖母マリアの像が打ち壊されているのが発見された。



同じ 2月には、フランス中南部ラヴァールの聖ラヴァール大聖堂で祭壇の布が燃やされ、十字架と聖人たちの像が破壊された。この襲撃後、ヴァールの市長は、以下のような声明を出した。



「神はきっとお許し下さる」



続いて、フランス南部のスペイン国境近くのニームにあるノートルダム・デ・エンファン(「聖母の子」の意味)教会の祭壇が略奪され、教会の十字架に、人間の排泄物が塗られるという事態が起きた。



さらには、カトリック教徒たちがイエス・キリストの体であると信じている、教会にあるパンから作られた奉献物が教会の外にゴミのように捨てられていた。



この教会の司教は、声明で以下のように述べた。



「十字架のしるしと聖餐のパンが重大な冒瀆を受けました。この行為は私たちの教区社会に非常に大きな影響を与える出来事です」



「この行為は、深い信仰の中にある私たち全員を傷つけるものです」



フランスでは、2月だけで、カトリック教会やキリスト教と関係した宗教施設への攻撃が、47回記録されている。



また、ヨーロッパのカトリック教会への問題行動を統括している組織(Observatory of Intolerance and Discrimination Against Christians)によれば、2019年の最初の 2ヵ月間でのカトリック教会への攻撃は、昨年と比べて 25%増加しているという。



同組織の上級監督官は、ニューズウィークの取材に対し、これら一連の攻撃の動機は不明なことが多いが、一部、アナーキストやフェミニストグループによる反キリスト教的な暴力の問題と直面していると語る。



上級監督官は、以下のように言う。



「教会あるいは、教会の象徴に対してフランス国内で敵意が高まっているように感じています。そして、教会への反感は、キリスト教そのものへの反感より強いようなのです」



「今起きている一連の攻撃は、教区とカトリック教徒たちにとって本当に神聖な象徴に対して行われています。奉献された聖餐のパンへの冒涜はカトリックとキリスト教に対する非常に個人的な攻撃であり、これは、教会の外壁にスローガンをスプレーで落書きするよりも重大な攻撃なのです」



フランスは長く世俗主義の伝統を持っていたが、フランスは文化的にキリスト教の国であると見られてきたので、宗教の象徴としての教会への攻撃は、権威と愛国心への攻撃でもあると監督官は言う。



2月9日には、ブルゴーニュ地方のディジョンにあるノートルダム教会の祭壇が破壊された。ここでも、聖体拝領のパンが、地面にばら撒かれた。



フランスのエドゥアール・フィリップ首相は、2月にフランスの教会指導者たちに会い、声明の中で次のように述べた。



「このような破壊と冒瀆行為は私に衝撃を与えている。これは満場一致で非難されなければならない」

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狂信者(ルター)の他宗排斥の結果としてのポグロム

マルティン・ルターは、プロテスタントの始祖と言っていいと思うが、その彼の著作、『ユダヤ人と彼らの嘘について』が、その後何百年にもわたる世界的なユダヤ人嫌悪とユダヤ人迫害、特に東欧やロシアにおけるポグロム(ユダヤ人迫害と虐殺)の原因と見做されることに言及されることは少ない。
私も、自分でポグロムについてウィキペディアで調べて初めて、ルターとの関係を知ったのだが、キリスト教世界でなぜルターとポグロムの関係が語られないのか、と言えば、まあある意味当然かな、と思う。宗派の始祖の世界的かつ歴史的に巨大な犯罪行為を公言する信徒はいないだろうからだ。だが、非キリスト教の人々はこの事実をもっと多くの人が知っておくべきだろう。
要するに、ルターは、ユダヤ人をキリスト教徒に改宗させようと何度か試み、それが失敗に終わったことへの怒りからユダヤ人全体を憎悪するに至ったわけだ。まあ、一種の狂信者である。だからこそ宗教改革へのエネルギーも凄かったのだろう。

(以下引用)


ユダヤ人と彼らの嘘について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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『ユダヤ人と彼らの嘘について』
(ユダヤじんとかれらのうそについて)
Von den Jüden und jren Lügen
『ユダヤ人と彼らの嘘について』(1543年版)の表紙
『ユダヤ人と彼らの嘘について』(1543年版)の表紙
著者マルチン・ルター
訳者歴史修正研究所監訳
発行日神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国1543年
日本の旗2003年6月20日
発行元雷韻出版
ジャンルキリスト教ユダヤ教ユダヤ人
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
言語ドイツ語
形態論文
コードISBN 4-947737-37-9
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ユダヤ人と彼らの嘘について』(ユダヤじんとかれらのうそについて、ドイツ語: Von den Jüden und jren Lügen、現代ドイツ語ではVon den Juden und ihren Lügen)は、ドイツ宗教改革家・マルティン・ルター1543年に上梓した反セム主義論文。同論文の中でルターは、ユダヤ人を「下劣な偶像崇拝者、つまり神の子ではなく己が家系や割礼を誇りにし、を汚らわしい物と見なしている連中」と言い切り[1]シナゴーグに至っては「救い難い邪悪な売春婦」とまで形容している[2]。本論文の最初の十節では、ユダヤ人並びにユダヤ教に係る自らの見解や、クリスチャン及びキリスト教との比較について、かなりの分量を割いており、それ以後はクリスチャンに対し、以下の7項目を実践するよう説いている[3]

  1. シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし
  2. 更にユダヤ人の所有するをも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし
  3. 宗教書を取り上げるべし
  4. ラビの伝道を禁じ、従わないようであれば処刑すべし
  5. ユダヤ人を撲滅するための方途を穏便に実行すべし
  6. 高利貸しを禁じ、を悉く没収し、保管すべし
  7. ユダヤ人を農奴として働かせるべし

第二次世界大戦以降、学問の分野で支配的となった見解[4]は、本論文が宗教改革からホロコーストまでの数世紀において、ユダヤ人に対するドイツ人の態度に少なからぬ影響を与えた、というものであった。しかし、この見解に対して神学者のヨハネス・ヴォルマンは、ドイツ国内では影響力を持ち得ず、現に18世紀から19世紀までの間、見向きもされなかったと指摘[5]。また、ハンス・ヒレルブラントも、国内の反セム主義の展開におけるルターの役割に焦点を当てれば、却って「ドイツ史というより大きな特色」を過小評価することになるとしている[6]


なお1980年代以降、ルター派教会の中には、ユダヤ人差別を煽動するルターの書物を、公式に非難するものも存在している。とりわけ水晶の夜事件から60年が経過した1998年11月バイエルン州のルター派教会が「マルティン・ルターの作品や伝統の恩恵とともに、彼の反ユダヤ的な発言を深く受け止め、神学上に果たした役割を認識し、それらがどのような結果を齎したか、ということを知ることは、ルター派教会にとって避けて通れない問題である。ルターの神学理論における、反ユダヤ主義の如何なる言明からも、距離を置かなければならない」との声明を発表した[7]

ルターの見解の変遷[編集]

ルターの生涯において、ユダヤ人に対する態度は様々な形を取っている。前半生、就中1537年頃までは、ユダヤ人をキリスト教に改宗したがっていたが、後半生、とりわけ晩年の9年間はユダヤ人を非難し、迫害を促していたという[8]。以下、ルターのユダヤ人観の変遷を見てゆく。

カトリック教会に対して[編集]

ルターは若い頃、カトリック教会福音を汚らわしく思っていたため、ユダヤ人がこれを宣言してまで、キリスト教に改宗することは無かったと論じている。また、福音主義の神託が穏便に差し向けられるのであれば、ユダヤ人はこれを喜んで受け入れるであろうとした。更に、ユダヤ人が直面する劣悪な生活実態にも目を向け、イエスがユダヤ人として生を享けたことを否定する者は、異端であるとも主張[9]


なお、ユダヤ人に初めて言及したのは、1514年ゲオルク・シュパラティンへ出した、次のような手紙である。


ユダヤ人の改宗はあくまで神の御業であり、人間が行うものではありません。もしこれらの非礼が成されるのであれば、事態はより悪化するでしょう。コヘレトの言葉にあるように、ユダヤ人は天罰により神に見放された状態に陥り、更生によって良くなるどころか益々悪くなり、手が付けられない状態になるのは必至です[10]

その後、ルターは1519年ユスティニアヌス1世による、529年ローマ法大全で確立された「ユダヤ人の隷属」という教義について、次のように意見している。


愚かな神学者共が、ユダヤ人に対する嫌悪感を正当化していやがる。我々がユダヤ人に憎しみをぶちまけ、残忍な行為に及ぶ時、ユダヤ人自身はどの様に思うであろうか。我々はクリスチャンというよりも、獣に近いのではないか[11]

マニフィカトに関しても、旧約聖書の最初の5冊であるトーラーに、ユダヤ教の境遇を強調していると批判。ユダヤ人は「自ら法を守ろうとすることはあっても、そこから自分達の貧困で呪われた立場を知ることは無い」とした[12]。しかし、ユダヤ人は常にクリスチャンになれる以上、神の恩寵は何時でもアブラハムの子孫たるユダヤ人に向けられていると結論付けている[13][14]


1523年に発表した随筆『イエス・キリストがユダヤ人として生まれたということ』の中で、ユダヤ人に対する非人間的な扱いを扱き下ろし、クリスチャンに対しユダヤ人に気持ち良く接するよう促した。そして、ルターが熱心に訴えたかったのは、ユダヤ人が福音をはっきりと宣言すれば、キリスト教に改宗するであろうというものであった。それ故、次のように述べている。


もし私がユダヤ人で、そのような馬鹿がキリスト教の教義を支配し教えるのであれば、クリスチャンというよりは直ぐにでもになってやろう。あいつらは恰も、ユダヤ人を人類よりも寧ろであるかのように扱っており、剰え彼らの財産を嘲り分捕ることしかしなかった。洗礼を施すのみでキリスト教の教義なり生活を示さず、カトリック教会や修道院に服属させることしかしなかったならば、(中略)ユダヤ人でもある使徒達が、我々非ユダヤ人がユダヤ人にするように、我々を非ユダヤ人として扱ったならば、非ユダヤ人の中にクリスチャンは決していなかったであろう。(中略)我々は(クリスチャンとしての)地位に甘んじている時こそ、ユダヤ人がキリストと血縁関係にある一方で、我々がただの非ユダヤ人であるということを忘れてはいけない。我々はあくまで部外者であって、ユダヤ人こそがの繋がった親戚従兄弟であり、なのである。それ故、もしユダヤ人が実際には人間性や血統の面で、我々よりもキリストに近いことを誇る者がいれば、(中略)もし我々が真に彼らを救いたいのであれば、カトリック教会法ではなく、クリスチャンのという掟によって、導かねばならない。彼らを心から受け入れ、我々と共に取引し働くことを許さなければならない。彼らは我々の仲間になる機会があり、我々のクリスチャンの教えを耳にし、我々の生き様を目の当たりにするかもしれないのだから。万が一、ユダヤ人の中に手に負えないことが分かる者がいたとしても、それが何になろうか。結局のところ、我々自身が皆良きクリスチャンであるという訳では無いのである[15]

ユダヤ人に対して[編集]

1536年8月、ルターと友好関係にあったザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは、ユダヤ人が自国の領内に住んだり、仕事をしたり、あるいは通過することを禁ずる命令を出した。アルザス人ラビのロシェイムのヨセル改革派ヴォルフガング・カピトへ、選帝侯に謁見すべくルターに話を持ち掛けるよう頼んだものの、ルターは斡旋を悉く拒んだという[16]。ルターはヨセルに対し、「私は嘗て、ユダヤ人のために喜んで最善を尽くしたものでしたが、私が自分から親切に接してまで、あなた(ユダヤ人)の頑固さに貢献することは無いでしょう。主との仲介者を他にも見付けたら如何ですか」と述べ、ユダヤ人の改宗は不成功に終わったことを告白した[17]ヘイコ・オベルマンは、ユダヤ人に対するルターの態度の変容について、「現在でさえ、こうした拒絶反応が、ルターがユダヤ人に対して好意から敵愾心を抱くに至った、決定的なターニング・ポイントとされる」と述べた[18]ものの、ルターであればいかなる「ターニング・ポイント」をも拒否ていたであろうとした。ユダヤ人は寧ろ、キリスト教への改宗に当たり不要な障害を避けるため、「友好的な方法」で接しなければならないと感じていた、というのである[19]


一方、歴史家ポール・ジョンソンは、「ルターは罵詈雑言に飽き足らず、反セム主義のパンフレットを執筆する前でさえ、1537年にザクセン州から、1540年代にはドイツ国内の諸都市からユダヤ人を追放した。というのも、ブランデンブルク州からユダヤ人を追い出す選帝侯を得ようとしたが、成らなかったためである」と述べている[20]


また、ミカエル・ベレンバウムは、ルターがキリスト教の権威の唯一の源として、聖書に依拠していたことが、後にイエスがメシアたることを拒絶するユダヤ人に、憤激するようになったのではないかとした[9]


ルターにとって、救済はイエスが神の子であり、ユダヤ教への執着は共有されないという信念に依るものであった。グラハム・ノーブルは、ルターがユダヤ人を殲滅するのではなく救いたがっており、彼らに「痛烈な不寛容」があったからこそ、「ユダヤ人をキリスト教により一層改宗しようとしたのではないか」と指摘している[21]











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