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9月4日の京都の雷雨

まるで話題になっていないようなのだが、昨日の京都の雷雨は凄まじかった。
「地震雷火事親父」の第二位に雷が来るのが私は理解できなかったが、昨日の雷雨の恐怖感は、極端に言えば、太平洋戦争で米軍の空爆を受けた町の人間が味わったものに近いのではないか、とすら思う。まさに「絨毯爆撃」のような物凄い音と光なのである。しかも、その雷の音の絶える間が無い。常に「ゴゴゴゴゴ」と続き、それが稲光の数秒後に「グワラガッシャーン」「ドッカーン」となるのである。私は、雷鳴というものがあれほど凄まじいとは想像もしなかった。
稲光の何秒後に落雷の音が聞こえるかで、落雷地点と自分のいる場所との距離を絶えず計算していたのだが、そのほとんどは1秒か2秒くらいで、長くて3秒だった。つまり、音速を約300メートルとして、300メートルから900メートルしか離れていないどこかに雷が落ちたはずである。その落雷地点が人家でない保証はない。
だが、ネットニュースなどでは、人家に落雷があったという事件は一度も見たことがない。ゴルフ場で人に落雷したとかいうような話なら読んだ記憶があるが、人家への落雷など、古文で皇居かどこかに落雷があったという記述くらいしか読んだことがない。つまり、京都は昔から落雷の多いところなのかという気もするが、どうなのだろうか。盆地には雷雲が生じやすいという理屈でもあるのか、京都住まいの人間としては気にかかるところだ。
いずれにせよ、宝くじを買って、それが当選する確率よりは、自分の家に雷が落ちてまる焼けになる確率のほうがはるかに高いだろう、というのが昨日の経験で得た結論である。

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工房か光芒か

内容は、「ああ、そうですか」程度の感想しか無いが、「光房」とは何だろう。おそらく「光芒」の意味かと思うが、光線は「房(ふさ)」にはならないし「部屋」(「独房」「雑居房」などの「房」。「女房」もその用法。「お部屋さま」という言葉もある。)でもない。
ランボーの「母音」という詩に「O、オメガ、あの人の目の紫の光芒」という印象的なフレーズがある。もちろん、訳した人の言葉の選択がいいのだが、それで「光芒」という言葉を私は覚えた。


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話題の旭日旗です。長野県滋野村(現ー東御市、小諸市)にあった軍の後援組織「滋野軍友会」の旗。戦前、軍関連の場合は旭日旗を使うのが常識だったのでしょう。そして旭日の光房は16あります。皇室の菊の紋章の16弁に合わせてあるのです。天皇直属の軍隊の象徴であったことを、明確に伝えています。





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民族差別と迫害の心理分析

異国の人間、あるいは他文化圏の人間が隣にいる時の居心地の悪さというのは何が理由か。
それは、要するに「こいつとはコミュニケーションが困難だろう」と即座に予想されるのが第一の理由だろう。
と言うことは、話の行き違いで喧嘩になり、極端な場合はお互いに殺し合いをする可能性もある、ということだ。もちろん、それは「同じ文化圏の人間ならそうはならない」という誤解が前提にあるのだが、そちらは「まあ、まず大丈夫だろう」と心の中でなあなあになる。普段は同じ日本人にも警戒する人間も、こういう場合は「日本人同士だもんな」と都合よく解釈する。
大雑把に言えば、異文化の人間も、同じく人間としての精神的共通項が多いはずだが、問題はその「些細な(はずの)違い」が、お互いに「絶対的な違い」になることだ。
たとえば、「他人の咀嚼音に我慢できない人」というのは西洋人に多い。日本人が蕎麦やみそ汁を啜る音を下品極まる音と見做すわけである。それだけで、日本人を低劣な人種だと見下す馬鹿もいるだろう。
昔の日本人から見れば、人前も憚らず抱き合いキスする西洋人は動物的だと思われたはずだ。
これらは一例にすぎないし、現在では世界全体の風儀が西洋化しているから「絶対的な違い」ではなくなってはいるだろう。
西洋人の場合は最初から日本人とは違う文化だと思っているから、お互いの違いへの「覚悟」が最初からある。
ところが、日本国内にいる朝鮮人(韓国人)についてはどうだろうか。
日本人は彼らの風儀や言動が自分たちと違うことを許容するだろうか。いや、それを「かつて自分たちの植民地であった『劣等民族』」の風儀や言動と最初から見下げるのではないか。
つまり、西洋人に対しては、「自分たちより優れた文化圏の人々」と最初から畏怖し、朝鮮人に対しては逆に、最初から見下していたのではないか。

欧州やロシアにおけるユダヤ人迫害の場合も、「なぜ連中はここにいる必要があるのだ」と常に煙たがられていたわけだが、それは単純に「言葉も通じにくいし、我々とは違う風習(文化)を持っている」という煙たさだっただろう。それが、たとえばユダヤ人の商人に掛けで買い物をし、その催促をされた時に、「『俺』の国に勝手に居座っているくせに、偉そうな顔をしやがって」と逆恨みし、相手に暴行を加えたりする。そうすると、周囲の人間のほとんどは、理屈の通っているユダヤ人の味方をするのではなく、「同胞」の味方をするわけだ。つまり、感情が理性より大きな力を持つ。そうした小事件が積み重なっていくうちに、ユダヤ人憎悪は深層流となり、迫害は迫ってくるのである。
要するに、こうした民族差別の問題は、感情の問題だから、理性ではなかなか解決はできないのではないか、というのが私がここで当座の結論としておきたい考えだ。
ちなみに、「感情と理性は別のセンターを持っている」というのは、ロシアの神秘思想家グルジェフの考えで、私は、これを「理性は感情を制御できない」というテーゼとしている。
もちろん、「制御できない」は大げさな言い方で、「非常に困難だ」ということだ。







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人間同士の「不気味の谷間」

別ブログに書いた文章だが、今日の「徽宗皇帝のブログ」記事の補足としてここにも載せておく。
「不気味の谷間」は人形やロボットが人間そっくりになるほど人間は不気味さを感じる、というもの。それをここでは比喩としている。
この問題はいろいろ考察できると思うが、ここでは下の記事の転載だけしておく。

(以下転載)


日本では韓国ドラマのリメイクがかなり作られているが、ほとんどヒットしない、という話である。それなら、リメイクではなく吹き替え版か字幕版でいいのではないかと思うが、実は日本の芸能界でカネを使うこと自体に意義があるわけで、吹き替え版ではカネを使う要素が少ないから嫌われるのだろう。つまり、日本芸能界維持のためのプロジェクトがリメイクドラマであるわけだ。それによって芸能界やその周辺の人々にカネが落ちる。
視聴率の低さについては、単純に「ドラマの根底の精神が日本人にはピンと来ない」ということかと思う。

日本人と韓国人は顔はそっくりだが、気質的な微妙な違いがあり、それが、表面が似ているほど些細な違いが不気味に思われるという「不気味の谷間」になる気がする。簡単な話、日本人だと思っていた相手が韓国語を喋り出した瞬間に、その「不気味の谷間」が生まれるのである。
韓国人に限らず、私は異国人のすべてに「できれば敬遠したい」という気持ちを持っている。白人に関しては、ハリウッド映画と米国テレビドラマで育ったからその気質や文化に慣れ親しんでいるせいであまり不気味さを感じないのだが、アジア人にこそその不気味の谷間があるのである。ある意味、自分が白人ならアジア人にこう感じるだろう、という不気味感を勝手に白人と共有しているとも言える。
顔が似ているのにまったく別人種というのは、なかなか厄介である。




韓国ドラマのリメイク版が日本でヒットしない決定的な理由

公開日: 更新日:

 なぜ、韓国で大ヒットし、人気を約束されていたはずのリメイク版ドラマが奮わないのか。シナリオ自体に問題はないのだが、やはりそこには、役者の演技力であったり、社会的な背景が日本人の感覚に合わないということが考えられる。



「ボイス 110緊急指令室」(日本テレビ系)でいうと、真木よう子の演技が空回りしていて、せっかくのストーリーが頭に入ってこない。

 14年に韓国で放送され、社会現象となったドラマ「ミセン-未生-」(ケーブルチャンネル)を原作にした「HOPE~期待ゼロの新入社員~」(フジテレビ系)が16年に放送された時もダメだった。人気絶頂のHey!Say!JUMPの中島裕翔(26)を主演に持ってきたにもかかわらず、視聴率は6%台に終わった。

 原作はリストラや女性の社会進出など、社会問題を忠実に再現した設定や、説得力のあるセリフが満載の重厚な社会派ドラマだったのに、日本でのリメイク版は演出が悪かったのか、視聴者の気持ちを全く掴むことができず、薄っぺらい恋愛ドラマ仕様に仕上がってしまったことが敗因だろう。








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デモピはパリピ

まあ、大多数は周囲の空気に乗せられて大騒ぎを楽しんでいるパリピだっただけだろう。
なお、私は流行語に弱いので調べないままで使っているが、「パリピ」は、「パーティ(で大騒ぎするような)ピープル」の意味だと思う。どこかでそう聞いた気がする。

ただし、私は一般的なデモを否定する者ではまったく無い。デモは国民の正当な権利だ。西側陣営の策謀に乗せられた(しばしば暴力を伴い、デモから暴徒化する)「偽民主化革命」が大嫌いなだけである。



香港デモに参加した若者の目の輝きが2ヶ月後の今、怯えがうかがえるの怖い…(; ・`д・´)






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法律は、法律を作る者の味方

我々は、知らないところでいろんな法律違反を犯している。つまり、目をつけた人間をいつでも警察にしょっ引けるように、くだらない法律が無数に作られている。



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初めて知った。この段差プレート置いちゃダメなんだ…


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肥溜めの中で溺死という、小学館の死

ほとんどの人は、表紙を見ただけで、この雑誌を買わないと思う。
つまり、中味よりも表紙がこの号の「売り」であるわけで、この号の出版を許可した上役全員、首になっていい。(表紙も見ていない上層部も多いと思うwww つまり、存在価値ゼロの上層部。)おそらく「週刊ポスト」はこれで廃刊になる。いや、小学館そのものも消える可能性もある。




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ちなみに座談会の中身を読むと、国交断絶なんてコストパフォーマンスが悪すぎて選択肢としてありえないという論調であらかた一致していた。見出しで「日韓断交」なんて煽ってるわりには、「羊頭狗肉」を絵に描いたようなショボい中身なのであった。無能な編集者が企画したんだろうな




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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