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なぜ「暗黒の中世」という言葉を忌避するのか

まあ、便利さには「見えない弊害」があるものだが、「暗黒の中世」という言葉は、中世というものをたった一言で理解させる便利さがある。

もちろんその「暗黒」はかなり主観的なものであり、暗黒の中にも光はあり幸福もあっただろう。しかし、現代の人権思想を基準にして眺めれば、中世は暗黒だったというのは非常に正当性のある認識だろう。簡単な話、ドン百姓(農奴)として中世に生まれることは幸福だとは私にはとても思えない。貴族や王侯も幸福なばかりではない、という反論は成り立たないだろう。
現代の人間が「源氏物語」や西欧中世の騎士の世界に憧れるのは結構だが、自分が貴族としてその時代に生まれることしか想像しないのは「なろう小説」の異世界転生物と同じレベルである。庶民には人権の無い世界に、庶民として生まれる可能性をなぜ想像しないのか。社会自体が地獄に近いからこそ極楽往生思想を説く宗教があれほど流行したのである。それは西洋中世も日本中世も同じである。


  1. 近藤ようこ‏ @suikyokitan 17時間17時間前
  1. 中学の世界史の授業で「昔は暗黒の中世と言われていました」と教わったのが約50年前か・・・まだ言われているのね。>RT
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  1. 「暗黒の中世」というレッテルが強力過ぎて、啓蒙思想というメルクマールと関係なく濫用されているのが問題なので、その言葉を使うのを先ずやめよう、言っているのがそんなに理解し難い事が理解し難い。
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「ナメられたら殺す」?

名無し整備兵氏の言葉の意図がよく分からないのだが、本気なのか冗談なのか。そもそも、日本人のほとんどは事大主義者であり、組織や集団の下の方にいる人間、つまり大多数は「ナメられる」のが日常そのものであるから、家庭の父親は家の中で威張ってその精神的補償をしていたのである。それが日本の伝統だ。
「ナメられたら」、商売に差し支えるのがヤクザ稼業や暴力団で、彼らは時には「ナメられたら殺す」を実行するわけだが、それは刑務所に行くことが彼らには勲章ですらあるからだ。殺して得るもののほうが殺して失うものより大きいという計算にすぎない。
さて、この発言者は本気で「ナメられたら殺す」を「日本人が昔から受け継いできた大切なもの」と思っているのだろうか。
そういう心性は、あまり日本人らしくない、と私は思う。そんな人間が客商売、特にコンビニの従業員などしたら、毎日10人くらい殺すことになるだろう。世のなかには、自分がカネを払う立場だというだけで、カネを受け取る側に舐め腐った態度を取る馬鹿は大企業幹部から底辺の買い物客まで無数にいる。

まあ、それはともかく、「他人をナメる人間」や「ナメられることへの異常な拒否感」というのは考察の価値がありそうだ。つまり、名誉とかプライドとか自己愛についての考察であり、面白い心理学的問題だろう。




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「日本人が豊かになって失った、昔から受け継いできた大切なもの」というと、「ナメられたら殺す」とかだろうか






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闘争(暴力)ではなく対話により問題を解決すること

民族派団体と言うと分かりにくいが、日本人であることに強いプライドを持つ団体と簡単に言うと差し障りがあるだろうか。当然、日本の伝統性に固執する(高い価値を認める)のだから、保守主義のひとつと言えるだろう。
世間では右翼と言われるが、右翼には商売右翼とか暴力団の仮面組織とか保守政権工作員団体とか多くの種類がある。その中で、「一水会」はかつては新右翼と呼ばれたが、私の印象では思考の柔軟性と平和的行動(対話重視姿勢)が特徴だったように見える。もっとも、その政治綱領は知らないので、単なる印象批評だ。だが、こうした「穏健な、対話による解決を目指す政治団体」こそが、成熟した民主主義社会における政治団体のあるべき姿ではないか。
なお、「暴力」は単に物理的暴力だけではなく、権力の不当な使用も暴力だと私は思っている。暴力団が一般市民を口で脅すのも立派な暴力である。マスコミも権力であり、当然マスコミの暴力もある。



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表現の自由とその限界

まあ、「表現の自由」に限らず、世の中に複数の人間が存在する以上は「私の自由は他人の不自由」であり、「無制限の自由」はありえない、というのは最初の最初から自明なことだと思うのだが、なぜか「表現の自由」に関しては「無制限の自由」を頭から信じて疑わない「狂信者」が多いように思う。
まあ、表現者というのをひとつの階層だとすれば、「無制限の表現の自由」の主張は表現者としてのポジショントークなのではないか、という気もする。それとも、「あらゆる表現は無制限に自由だ」と本気で信じているのだろうか。たとえば、私が気に入らない人間を銃で撃つのも、「私の嫌悪感の表現」だから、許されるのだろうか。
まあ、それはもちろんジョークだ。
ただし、「節度ある表現は本気の表現ではないから、表現の名に値しない」という過激派もいるのだろう。たとえば、服を着るのは文明に毒された行為だから、裸体でいるのが正しい行為だ、と思う人間がいてもいいが、そういう人間が(人間社会の節度を破って)目の前に全裸で現れた時に、私がその醜い肉体を見て受ける精神的苦痛というのがあるわけだ。つまり、一方の自由は他方の不自由であるわけだが、その相剋を穏健に解消するには「常識」と「節度」しかないわけである。
まあ、展覧会などであれば、不快な展示物は見に行かなければいいだけの話で、その展示を公権力で禁止せよ、というのは明らかに行き過ぎである。そのあたりが、憲法で許容された「表現の自由」のボーダーラインなのではないか。
先ほどのヌーディストの話などなら、浴場や、プールの着替え室以外の公の場で全裸になってはいけない、というのは常識にとどまらず、ちゃんと法律で規定されているはずである。
昔、公衆の前を真っ裸で走り廻る馬鹿行為が流行したことがあって、そういう馬鹿はちゃんと逮捕されたのだが、展覧会の展示物が一部の(特殊な)人間にとって不快だからと言って、その展示を禁止してよいとする法律などあるのだろうか。




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  1. シャルリエブドは実際に自国民のテロ犠牲者は風刺の対象にしていないからね。
    1. さんがリツイート
    1. ただ補足しておきたいのは、今フランスで何か事あるごとにシャルリエブドのSNSアカウントはイタリア人の怒りのコメントで溢れかえる。「イタリア人犠牲者を揶揄しておいて自国民の犠牲者は揶揄しないのか」と。いくら表現の自由という建前があっても、誰かを傷付ける表現は根深い嫌悪を生む。


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バグズライフ

まあ、それが神の命令なんじゃないかwww 
「俺、人間嫌いだし、お前、特攻してこい」




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小さな虫って、なんかプログラムで生きてるじゃない?死なないように、エサ食って、子孫残して、ぐらいの。それなのに、いれたてのコーヒーにわざわざ飛んできて、落っこちて死ぬのは何なの?人のコーヒー1杯をダメにするために命を捨てるの?それともプログラムのバグなの?虫だけに?





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「愛するって怖い」

別ブログに書いた小論だが、わりと気に入ったので、こちらにも載せておく。



小谷野敦の「このミステリーがひどい!」は、痛快な本だが、勢いで書き飛ばしたような部分も結構あり、自分の「面白い、面白くない」という主観を、対象作品の価値(ひどい作品、馬鹿ミスである)としているのを割り引いて読まないと俎上に上げられた作品群に対して不公平だろう。そもそも、ミステリーのファンタジー性(非現実性)というのはミステリーファンが最初から承知の上で読んでいるのであり、それはプロレスが本気の殺し合いではないのを承知で喜んで見ているのと同じことだ。土台(事件の骨子)そのものが非現実的であっても、デティールを現実的にすることで、その乖離の「浮遊感覚」を楽しむのがミステリーだと言ってもいい。それはまた、文学的価値が無い、という評価にもならない。文学的価値は多様なのである。(ちなみに、私は小谷野氏同様、ミステリーはあまり好んではいない。読むのが面倒くさすぎる。騙されるために読むというのも、正直言って馬鹿馬鹿しい。)
その「このミステリーがひどい!」の中で、古典的文学をミステリー作品と見立てて批評している部分があるが、そこでもやはり作品価値を「ミステリーとしてはひどい」「馬鹿ミスである」とするのはおかしな話だろう。それらの古典は人間の心の深い部分を揺り動かすものがあるから偉大な古典となったのである。御伽噺に鬼が出てくるからといって、「鬼など存在しない。したがって、そういうありえない話を書いている御伽噺は無価値だ」と言うのと同じことだ。
たとえば、馬鹿ミスの例として、「オセロウ」について、

「オセロウは愚かだと言われるが、イアゴーを信じたところが愚かというより、いちおうデズデモウナに確かめなかったところが愚かなのである」

と書いてあるが、これは「比較文学者」、つまり、一応は文学研究者である小谷野氏の発言としては、氏の文学鑑賞眼を疑わせる「浅すぎる」言葉ではないだろうか。
オセロウがデズデモウナをあまりに愛しすぎていたために、彼女が自分を本当に愛しているかどうか自信が持てずにいることは明白に描かれている。ならば、不貞の事実を彼女に確かめることは、彼にとって死ぬよりつらいことのはずである。むしろ、「彼女が自分(のような黒人)を愛しているはずがない」という確信のほうが彼の心の中では大きかっただろう。その彼女に「事実を確かめる」ことができるはずがあるだろうか。それよりは、「不貞が事実かどうか不明のままで」彼女を殺したほうが、「不貞ではなかった」という「美しい可能性」が残るから、そのほうを選ぶ、というのは愚かではあるだろうが、人間心理として大いにありうることだと思う。そういう、かつて誰も描かなかったが「真実」でもある、奇怪な人間心理を描いていることを観客たちは心の底で感じたからこそ、「オセロウ」はシェークスピアの傑作のひとつと評価されたのだと私は思う。

昔、「愛するって怖い」という歌謡曲がヒットしたが、その俗っぽい題名が嫌いで私はロクに聞いたこともない。だが、「オセロウ」と重ね合わせると、まさに「愛するって怖い」は真実なのである。



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「目の前に迫る未来」

「マンバ通信」より、浅野いにおの漫画「TEMPEST」の紹介。

(以下引用)



歯止めの効かない高齢化・少子化を受けて、角田総理は全国に「高齢者特区」を建設し、介護医療の合理化を促進。85歳以上の「最後期高齢者」になると、そこで「人権カード」(言い方がストレートすぎる)を国に返還し、高齢者特区に(任意ではなく強制的に)入居しなければならない、という制度を作ります。





描かれるのは、その制度が作られてから20年か30年くらい経ち、制度が日常的に運用されるようになった時代。主人公は最後期高齢者となり、高齢者特区に入居した橘さん。





この高齢者特区、85歳で入居し、無償で介護サービスを受けられるのですが、ずっとここにいられるわけではありません。入居期間は5年。じゃあ5年を過ぎるとどうなるのか?





一つの道は「老人検定」を受けて合格すること。500問全問正解しないと合格しない、あまりにも高いハードルの試験ですが。





もう一つは「自死サービス」を受けること。つい先日、NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」が放送されて話題になったり、今回の参院選で「安楽死制度を考える会」という政党が各地で立候補してたり、世相リンク感がすごい。



そしてどのどちらにも当てはまらない場合は……。





人権(というか、あらゆる権利)を剥奪されて、施設から追い出されることになります。内容も恐ろしいけど、こういうことを業務的にさらっと言ってしまうのも恐ろしい。藤子F短編にも淡々とした怖さがありますけど、こちらはそれがさらに際立っている。



ちなみにこの作品、2018年に描かれただけあって、年金問題以外にもやたら世相を反映しています。





生産性……。世相リンク感がすごい。





老害憎悪……。世相リンク感がすごい。



高齢者特区に入居した橘さんは、倍率の高い老人検定に挑むことになるのですが、そこから先はどうなるのか……についてはぜひ作品で確かめてください。傑作と言って差し支えない短編なので。ただし、絶対に「むぐぐ……」という気持ちにはなると思いますが。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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