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大久保利通は官僚の理想像

私の父は西郷隆盛が大好きで、その影響もあってか私も西郷は好きだが、実は大久保利通は西郷以上に好きである。日本を近代国家にした土台は大久保利通だと思っている。
今日(五月十四日)は彼の命日らしいので、そのエピソードをひとつ載せておく。某ブログからの借用であるが、一部ではよく知られた話で、私が彼を好きになった一番の理由はこのエピソードにある。
つまり、政治的行為において、「私心」がまったく無い、という、政治家(官僚)の模範であることが、このエピソードから分かるからだ。

(以下引用)

借金 死後に債権者は来ず


特に「国の金を無駄遣いしているけしからん」という項目については全くの的外れでした。大久保は公共事業の費用不足を補うため、私財を投じた上借金までしていたからです。



大久保が亡くなったときには当時のお金で8000円になっていたそうですから、今の貨幣価値にして1億円をはるかに超える借金でした。個人的な遊興のためでなく、国のためにこれほどの借金をいとわなかった人に対してこの言い分はあまりにも失礼というものです。



ちなみに大久保が何のためにお金を借りていたのか債権者は知っていたらしく、死後「貸した金返せよ!」と言って来る人はいなかったとか。



当時は今のように有名人の言動についてニュースが流れるということがないので、大久保の実像がわからなかったにしても、あまりにもターゲットの絞込みがお粗末すぎます。



そんなに正義漢ぶって暗殺なんぞするくらいなら、内務省に乗り込んで「今からオレが最高最短のやり方で日本を良くしてやる!皆黙ってついて来い!!」とでも言ったほうがまだマシでした。誰もついていかないどころか役所の中に入ることもできなかったでしょうけど。



大久保や西郷隆盛、伊藤博文など、明治維新で大きな役割を果たした人物がことごとく非業の死を遂げているというのは何とも皮肉なものです。
まるで神様が使い捨てたかのように感じるのは、ワタクシだけでしょうかね。








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超過死亡(死に過ぎ)って、「死んでいい人数」が前提? www

ネットを見ると、素人が、聞きなれない医学専門用語を解説無しで平気で使っていて驚くのだが、その中でも「超過死亡」というのは結構ややこしい概念で、私は未だに完全に理解していないが、皆さんは理解できているのだろうか。
まあ、単純に「統計的に予測される死亡数を超える死亡者数」と把握すればいいのだろうが、WHOによる定義は、複雑というか、ワクチンが100パーセント有効だったら、という前提に立つ怪しげなものである。(そもそも、ワクチンが、毎年変質するインフルエンザの予防に効くという大前提も私はあまり信じていないのだがww)

(以下引用)
引用ツイート
news watch
@Jp_newswatch
·
【コロナ】東京都内の1~3月の全体の死亡数 過去4年の同時期の平均を0.4%下回る  超過死亡は見られず honmotakeshi.com/archives/56756


(引用2)


インフルエンザ・肺炎死亡における超過死亡について




インフルエンザの流行は社会に大きな影響を及ぼすが、外来受診者数や、インフルエンザあるいは肺炎を死因とする死亡数、医療費など、しばしば取り上げられる統計指標をそのまま「社会へのインパクト」とするには、それぞれに欠点がある。まず、インパクトは、実際の患者数の多さ、その重症度、毎日の生活への支障、個人的・社会的経済的損失、医療費、精神的な影響などのすべてを包括的に検討して求めるべきであるが、インフルエンザの医療機関を受診しなかった患者を含めた総患者数を把握することは事実上困難である。重症度は、病原体、環境、患者側などの複数の要因で決定されるため、死亡数は罹患者数と単純には比例しない。健康への影響や医療費の場合、軽快した場合と死亡した場合で大きく異なり、経過別の患者数の把握が必要となる上、総額、個人負担問わず、医療費情報そのものが調査されていない。従って、現存する患者数から「社会へのインパクト」を示すことはできない。また、疾病による最も重大な結果である死亡だけに焦点を絞って考えた場合も、原死因をインフルエンザとすると、インフルエンザから二次性の細菌性肺炎を続発して死亡に至った事例は含まれなくなり、死亡統計上の「インフルエンザによる死亡数」は、インフルエンザの影響を表現する上で適切ではない。一方、原死因を肺炎とすると、インフルエンザとはまったく関係のない病原体による肺炎死亡も含むこととなる。このように、インパクトを測る上で、単一の最適な指標が無いのが実情である。



これらの諸問題を是正するために世界保健機関(WHO)は、「超過死亡(excess death, excess mortality)」という概念を提唱している1)。超過死亡とは、インフルエンザが流行したことによって、インフルエンザ・肺炎死亡がどの程度増加したかを示す、推定値である。この値は、直接および間接に、インフルエンザの流行によって生じた死亡であり、仮にインフルエンザワクチンの有効率が100%であるなら、ワクチン接種によって回避できたであろう死亡数を意味する。この、インフルエンザの流行によってもたらされた死亡の不測の増加を、インフルエンザの「社会的インパクト」の指標とする手法について多くの研究がなされ、現在の国際的なインフルエンザ研究のひとつの流れとなっている。



本邦では、国立感染症研究所感染症情報センターが1998/99シーズンより、インフルエンザの流行規模の指標として超過死亡の評価を導入し、「感染研モデル」を公表している2)。このモデルはstochastic frontier estimation3)(非流行時の場合に発生すると考えられる死亡であるベースラインと、実際の死亡の乖離の幅を確率変数として定義して推定する方法)に基づき、日本の現状に合わせて作成された。超過死亡は、予測死亡数の閾値(95%信頼区間の上限値)と、実際報告された死亡数の差として求められる。



参考資料



[1]  Assad F., Cockburn W. C., Sundaresan T. K.  Use of excess mortality from respiratory diseases in the study of influenza. Bull WHO  1973; 49: 219-233.



[2]  大日康史, 重松美加, 谷口清州, 岡部信彦. インフルエンザ超過死亡「感染研モデル」2002/03シーズン報告. Infectious Agents Surveillance Report  2003; 24(11): 288-289.



[3]  Rosko,M.D.  Cost Efficiency of US Hosipitals: A Stochastic Frontier Approach. Health Economics  2001; 539-551.

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音調の良さは韻文の生命

写真はコピーできなかったが、西成の看板(住民に何かの警告をしている看板)に書かれていた落書きが、俳句というか無季俳句になっていて面白い。

「やかましい 山に埋めるぞ 六甲の」

音調が非常にいい理由は、「やかましい」と「山に埋めるぞ」の「や」音の頭韻のためだろう。
「山に埋めるぞ」の最後の「O」音と「六甲の」の「Rokkono」の「O」音の連続も気持ちがいい。

「目には青葉 山ほととぎす 初がつを」

という有名な俳句にくらべて、音調では互角以上である。
こちらは初句「目には青葉」が字余りだが、逆に「目に青葉 山ほととぎす 初がつを」だと何かの標語か商業コピーみたいである。作者は意図的に字余りにしたはずだ。
この有名俳句は三つの語が季重なりであるが、これだけ有名な句になると問題視されないようだ。

なお、「山に埋めるぞ」の埋める対象は、この看板を出した警察だか町内会だかだろう。


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一部地域「緊急事態宣言」解除へ

単に記録としての保存である。
東京・大阪あたりは、首長が「やってるポーズだけ」という印象。特に大阪は医療崩壊がなぜ起こったのか、維新政権によるコロナ以前からの「医療制度破壊」の事実をマスコミは伝えているか。

(以下引用)






茨城、愛知、岐阜、福岡、石川の5県 緊急事態宣言解除へ 計39県で前倒し © 産経新聞社 茨城、愛知、岐阜、福岡、石川の5県 緊急事態宣言解除へ 計39県で前倒し

 政府は14日、新型コロナウイルス感染症対策本部会合を開き、今月末まで延長した緊急事態宣言について、一部地域の解除を決める。同日開く専門家会議の見解を踏まえ、重点対策が必要な13の「特定警戒都道府県」のうち、茨城、愛知、岐阜、福岡、石川の5県を解除する方向だ。特定警戒に該当しない34県と合わせ、計39県を前倒しで解除対象とする。


 「特定警戒」のうち解除する方向となった5県は、新規感染者数が少ないことや、医療提供体制にも比較的余裕があることも加味し、解除する方向となった。西村康稔経済再生担当相は13日の記者会見で、5県について、最終的には14日朝の専門家会議の提言などを踏まえる意向を示しながらも「かなりのスピードで新規感染者の数が減少している」と語った。


 一方、医療体制が逼迫(ひっぱく)している東京都や感染拡大の「第2波」が押し寄せた北海道などは、解除を見送り、「最低7割、極力8割」の接触機会の削減など従来通りの対策を求める方針を基本に据える。


 政府はどの地域を解除するか、14日に開く専門家会議と諮問委員会の見解を踏まえて最終判断する。さらに21日をめどに再び専門家会議を開催し、残る地域について協議する方針だ。


 菅義偉官房長官は13日の記者会見で「宣言が解除になった後も、有効な治療薬やワクチン開発まで感染防止の取り組みに終わりはなく、感染拡大の防止と社会経済活動の両立を図る必要がある」と指摘した。


 宣言を解除した地域でも、感染の収束までは持続的な対策が必要になる。政府は「人と人との距離の確保」「マスクの着用」「手洗い」といった基本的な感染対策の継続を含め、感染拡大を予防する「新しい生活様式」の定着の徹底を求めていく考えだ。





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黄金のまどろみ

ビートルズに「ゴールデンスランバー」という歌があるようだが、私は聞いたことがない。しかし、サイモンとガーファンクルの「アイ・アム・ア・ロック」の中に「I wont(will not)disturb the slumber」という一節があって、前後関係から「眠り」か「静謐」の意味だろうな、と想像していた。で、気になって調べてみた。
まあ、予想は当たっていたと言えるかと思うが、「黄金のまどろみ」はいい言葉である。大島弓子の何かの作品にあった「思い切り自堕落な午後」を連想させる。

slumber

音節slum・ber 発音記号・読み方/slˈʌmbɚ‐bə/発音を聞く 《文語》
動詞 自動詞

2


火山などが〉活動休止する.


His talents had slumbered until this time. 彼の才能この時まで眠っていた.
他動詞
名詞

1


不可算名詞 [具体的には 可算名詞; しばしば複数形で] 眠りうたた寝まどろみ.



2


不可算名詞 無気力状態沈滞.


slumberer 名詞

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新型コロナ作戦とは、要するに不要の「家畜」を処分すること

東海アマ氏の記事を転載などしたら東海アマ氏同様にネット弾圧に遭うかもしれないが、それはまあそれで仕方がない。
下の記事での意見については、似たような意見を私も昔から書いていて、それが「ユダ金」という言葉だが、毎度言うようにそれはユダヤ人とはまったく無関係に、古代ユダヤ教的な「選民対ゴイム(ユダヤ人以外の部族、家畜同様の存在)」という思想を指しているのである。
彼らはカネ(支配の権能)がすべてだから、白人・非白人にこだわらない。自分たち以外はすべて家畜なのである。利用価値があれば有色人種でも高い地位につけるが、単に利用するだけだ。

(以下引用)

 日本の警察でありながら、警察庁は統一教会のサイバー部隊を使い、統一教会原理研の論理で、法律を平然と無視してまで、ネットの規制に邁進している。
 統一教会の正体とは何か?
 それは、文鮮明の個人的で極端な権力欲、名誉欲を除けば、中身はユダヤ教と言っていいくらい、旧約聖書の秩序強要をそのまま体現している。

 そう、グーグルもフェイスブックも、ツイッター社もマイクロソフトも、すべてユダヤ人経営者であり、タルムードの倫理を、ネット界の倫理に押しつけようとしているのである。

 GAFAというのはユダヤ教徒の世界支配のための道具だ。その論理はタルムードであり旧約聖書の戒律教徒なのだ。安倍晋三や統一教会は、彼らの使い走り、飼い犬にすぎない。
 だから、児童ポルノや性犯罪に対しても、旧約聖書レビ記のような弾圧を仕掛けようとしている。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-37.html

 我々が相手にしているのは、2000年前にキリストが戦った相手、パリサイ人と呼ばれた戒律主義者なのだ。パリサイ人たちの直系子孫こそロスチャイルドである。
 キリストが何度もパリサイ人の市場に殴り込みをかけたことが新約聖書にたくさん描かれている。
 最後には、パリサイ人たちによって十字架に架けられて殺された。このことは、人類社会にとって、戒律主義が、とんでもなく恐ろしいものであることが示されている。

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再掲載「女賊の金銭哲学」

過去記事を再読していたら、今の日本と言うか、安倍政権にぴったりの内容の記事があったので再掲載しておく。

(以下自己引用)

女賊の金銭哲学

中国古典の「児女英雄伝」は、武田泰淳の「十三妹」の元ネタのひとつだが、主人公であるヒロインが悪党どもを、虫でも殺すように気軽に殺す描写が楽しい小説である。まあ、「キックアス」のあれみたいなものだ。
そのヒロイン、女盗賊である玉鳳の金銭哲学が、私のそれに近いので引用しておく。

なぜ金(カネ)が製造されるかと言えば、流通させるためである。つまり、「金は天下の回りもの」とはそういう意味だし、流通せず、退蔵されているカネは不要なカネであるわけだ。しかも、それが製造された時には実はその正当な所有者は存在しない。別に総理大臣や大蔵大臣に所有権があるわけではない。(銀行が信用創造で作り出すカネは現物すら存在しない。)正当な所有者が存在するとしたら、国民全員なのである。

なお、「女賊の哲学」は、武田泰淳が、客観的視点で描いた自作の「十三妹」を、反対側、つまり女賊の視点を中心に描いたもので、ふたつを合わせて読むと強烈な読後感がある。

(以下引用)


「たとえば、あなたのお金。これは家屋敷を担保にいれてお父上を救け、お上に納めようというのだから『持ち主のあるお金』よ。それから清廉潔白なお役人が、真面目にお役目にはげみ、つましくして残したお金とか、商人がコマネズミのように働いて残したお金、お百姓さんが汗水たらして残した財産、これもみんな『持ち主のあるお金』。
このほかの、例の悪徳役人が恥も外聞もなく人民の膏血をしぼって懐をこやした何万という金、またその手下の顧問とか雇い人たちが、主人がお上の金をくすねれば、自分も負けずに主人の金をくすね、そのあげく主人にまずいことでもあれば、腰にくくりつけてドロンするという、そんな金、それとも、ごろつきどもが役所と手を組んで罪もない人民からまきあげ、金の力で悪事のかぎりをつくす、そんな金、こんな金をみんな『持ち主のないお金』というのよ。
こんなお金を、あたしはいくらかずつ用立ててもらうことにしているのよ。相手が進んで出そうが出すまいがね。まあ、いってみれば、女強盗といったところかしらね」

「だいたいお金は天下の回りもの、運のあるものが神さまにかわって使っているだけなんだから、やれ人のものだ、やれ自分のものだと言ったところで、結局は誰のものでもなく、いま現にそれを本当に必要としている者が生かして使えばそれでいいのよ。生かして使いさえすれば、一万両だろうと無駄にはならないし、それが死に金だったら、一文だってやっぱし無駄づかいということ」

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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