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人生の指針としての倫理(「翁の文」による)

ここのところ、「倫理」について書くことが多かったので、今、過去記事を読み直していて見つけた記事を再掲載しておく。「倫理」というのは、この程度のことである。しかし、これができれば「市井の聖人」と言えるだろう。まあ、世の「聖人」には詐欺師が多いし、安藤昌益は聖人こそが世の中を悪くした張本人だと言っているが、無名で市中に埋もれた聖人ならいいのではないか。

(夢人注)安藤昌益の「聖人批判」の概要を某論文より転載。要は、孔子などの「聖人」が封建社会を固定化する精神的基盤になった、という批判である。現代でも「学識者」が政府の道具となり政権擁護の盾になっているのはご存じの通りだ。

 目次に、「聖失ヲ糺ス下ニ自然ノ真道自リ見ハル 儒失ノ部」とあるように、儒教を中心に諸子百家を次々と批判しながら、伝統イデオロギーの誤りを「糺ス」ことに重点が置かれている。そして、徹底して聖人の欺瞞に満ちたベールを引き剥がすことによって、現実の封建的な権力・権威を論破せんとしており、長らく「門外不出」、「開けて読むと目がつぶれる謀反の書」という伝承があったほどのものである



(以下引用)

冨永仲基の「真の道」

冨永仲基の「翁の文」の一節で、「神なき時代の倫理」は、これに尽きるのではないか、と思うので、私自身の別ブログから自己引用する。もちろん、江戸時代と今では事情も変わっているから、すべてそのままで通用するとは思わないが、人生における基本的な心得として実に中庸を得た、健全な「道徳律」だと思う。まあ、仏教でも言う「諸善奉行、諸悪莫作」を具体的に、かつ行いやすい道徳律として言っているわけだが、悪事を行って巨万のカネを積むよりも、この「真(まこと)の道」を守って生きれば、自分だけでなく世の人すべてが幸福になる、ということである。真理は平凡なものだ。
以前に青字にした部分とは別に、ここが大事かな、という部分を赤字にしておく。

(以下自己引用)面倒なら、私が青字にした部分だけ読めばいい。

翁の文(第六節)

それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。

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自由の究極は、世界の破壊である

前に載せたウィキペディアの「バクーニン」の項目は非常に示唆的で面白いが、中には理解しがたい部分がある。
「自由」について書かれた部分など、内容は興味深いのだが、文意が不明なところがある。
先に引用する。

(以下引用)

自由[編集]

バクーニンが「自由」という語によって示したのは抽象的な理想などではなく、明確で具体的な現実であった。肯定的に述べれば、自由とは「教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させること」によって成り立つものであった。またそのような捉え方は「非常に社会的である。なぜならば社会にあってのみ実現される」からであって、孤立していては不可能だからである。否定的にとらえると、自由の意味するところは「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」である[25]



(以上引用)

上記の文の中で「肯定的に述べれば」の部分には「自由」の定義が無い。「否定的にとらえると」の部分で自由の定義が出て来るが、その何が「否定的にとらえると」なのか、私には意味が分からない。つまり、この解説の筆者は「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」は好ましくないもの、という意見の持ち主なのだろうか。しかし、自由とはまさにそういうものではないだろうか。あらゆる権威や権力への隷従こそが自由の反対物なのであり、権威も我々を奴隷化するものだというのは自明ではないだろうか。
そしてまた、その「自由」こそが社会を危険に陥れる可能性を持つというのも自明だろう。「神的権威、集団の権威、個人の権威」に人がおとなしく従う社会は牧童や牧羊犬に従う羊の集団のように「平和な社会」ではあるはずだ。
私が以前に書いた「倫理」もまた「人から自由を奪う」ものであり、法律も同様である。つまり、社会秩序の維持のためには自由の制限は不可避的なのであり、「新自由主義」という、経済活動における企業の無制限の自由を求める思想が世界をどんどん破壊しているのは明白だろう。
ただし、「無制限の自由」が許されるものがある。
それは人の思考である。
その自由こそが世界の文明を発達させたのであり、同時に世界を危険にもさらしてきたわけだ。
そこで言えることは、「思考の自由」と「表現の自由」とはまったく別であり、「無制限の表現の自由」は許容されるべきではなく、表現行為は社会的な制限を受けるのが当然だということで、またその制限には細心の注意が必要だということである。
こういう当たり前のことを結論にするのは恥ずかしいが、当たり前が通用しない社会、幼稚化した社会では、こうした言葉も無意味ではないかもしれない。



































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「ワクチン」接種と「感染者数」の増減の関係

「大摩邇」経由の「アースカタストロフィレビュー」(原題は英語だが、綴りを覚えるのが面倒である。今後は「AKレビュー」にするか。いや、「ACレビュー」か。うっかり「AVレビュー」と書くとエロ記事みたいである。)記事である。
新コロワクチン推進派は、「大量殺人加担者」である、ということを再度言っておきたい。
なお、イギリスとイスラエルでは新コロワクチン接種後に感染者が減ってきたという話があるが、あれは季節的な自然減衰であって、新コロも他のインフル同様に冬期に激増して春以降に衰退していくのである。その衰退の直前から新コロワクチンを打ち始めただけのことだ。
ついでに言っておけば、新コロをワクチンで完全終息させるのは不可能どころか、接種された人間が「新コロ製造工場」になるのである。

(以下引用)


先日の以下の記事で、全世界で比較的よく見られる「ワクチン接種数が増加すると共に、少し遅れてコロナ感染者数が指数関数的に増加していく」ということを取り上げました。


「ワクチン接種増加数」と「死者数の増加」のアジア各国の関係性を見てみましょう
投稿日:2021年5月25日


この記事では、最近、その傾向がアジアで顕著であることを書いたのですが、台湾とマレーシアも同じことになっています。


台湾は、パンデミックが始まって以来、主要国で最も感染確認数が少ない国のひとつだったのですが、3月中旬から、突如として「指数関数的な感染流行」が始まっています。


以下は、過去一年の台湾の感染確認数の推移ですが、3月中旬からの増え方が、過去には一切なかったものであることがおわかりかと思います。



COVID-19 Data Explorer


ここまで直角のグラフを描くのも珍しいですが、この原因として、報道では「変異種」云々とされていますが、そういう曖昧な関係性を考えますより、前回の記事と同様、「ワクチン接種数と感染確認数増加の関連」がグラフでとてもわかりやすく描かれています。


以下は、


・ワクチン接種数の累積数(左)
・1日の新たな感染確認数の推移(右 / 7日移動平均


を並べたものです。


台湾の接種数と感染確認数の同時期(3/21-5/27)の比較

COVID-19 Data Explorer


このような中、台湾の衛生相は、5月28日、


「 10月までに人口の60%にワクチンを投与する」


という目標を明らかにしています。


台湾、10月までに人口の60%にワクチン投与=衛生相


台湾の陳時中・衛生福利部長(衛生相に相当)は28日、10月末までに人口の60%に新型コロナウイルスワクチンを少なくとも1回投与する目標を掲げた。


同部長は、人口の40%にワクチンを投与するだけでも、感染を抑制する効果が見込めると述べた。


台湾の人口は約2300万人。現在のワクチン接種率は約1%。 (ロイター


上のグラフがこれからも同じような状況で続けば、指数関数的な感染確認数の増加は今後も続くのかもしれません。


マレーシアも大変なことになっていまして、6月1日から「ロックダウン」に入ることがマレーシア政府から発表されています。


マレーシア、全土で完全封鎖 来月1~14日まで


マレーシアのムヒディン首相は28日、新型コロナウイルス感染症対策として来月1日から14日まで全土で経済や社会活動などを停止するロックダウン(都市封鎖)の第1段階を実施すると発表した。人流を抑制し、医療崩壊を防ぐ狙い。


封鎖措置中は、国家安全保障会議が許可した必要不可欠な経済・サービス分野を除き、全ての経済・社会活動を禁止する。 NNA 2021/05/28)


このマレーシアも、他のアジア各国と同様で、ワクチン接種が進むにつれて、感染拡大に歯止めがかからなくなっています。


以下のグラフも、先ほどと同じように、ワクチン接種数の累積数(左)と、1日の新たな感染確認数の推移(右 / 7日移動平均)を並べたものです。


減り始めていた感染確認数が、ワクチン接種の拡大と共に「復活」していることがわかります。


マレーシアの接種数と感染確認の同時期(2/23-5/28)の比較

COVID-19 Data Explorer


マレーシアも人口あたりの接種数は、8パーセント程度ですので、今後、ワクチン接種はさらに加速していくと見られます。


タイ王国なども同じようなチャートを描いています。



COVID-19 Data Explorer


この台湾とマレーシアも、あるいはタイなども、他のアジア同様の経過を辿れば、「全部インドのように制御不能になる」という可能性はあるのかもしれません。


もちろん、そうはならないかもしれないですが、少なくとも現時点ではそのようになっています


これからさらに飛躍的にワクチン接種が進むであろう日本も同じ道を辿る可能性もあるのかもしれません。もちろん、そうはならないかもしれません。


しかし、仮にそうなれば、もう終わりはまったく見えません


なぜなら、秋から冬にはまた新たな流行が発生すると考えるのが妥当だからです。

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現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如

まだ生煮えの思想だが、自己引用しておく。孟子が言う「惻隠の情」が社会倫理の土台ではないか、ということだ。つまり、子供が井戸に落ちそうになっているのを見たら、「まともな人間なら」驚き、それを救うだろう。そこで子供が落ちて溺れ死ぬのをゲラゲラ笑って見るような人間と、たとえば、従業員の給与を生活不可能な水準まで削りに削り、それで自分の報酬だけを高額にする会社経営者はまったく同じだろう、ということである。弱い人間をいじめて喜ぶ生徒や学生も同じ精神である。他者への共感や同情の欠如、冷酷なエゴイズムが、悪の本質だ、というわけだ。


現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如


「悪」について考察する。
悪を倫理で取り扱う困難さは、「悪は個人的には利益を生むことが多い」という事実に基づいている。つまり、「悪が成功すれば、その実行者には利益を与え、社会全体には不利益を与える」のである。この不都合な事実を明言した倫理学者や哲学者や宗教家はほとんどいないと思うが、この事実を知らない人間もまたほとんどいない。だから、石川五右衛門ではないが、「世に盗人(悪人)の種は尽くまじ」であるわけだ。企業家や政治家など、世間で大成功をおさめ、警察に逮捕もされない大悪党はゴマンといる。つまり、警察や検察は「正義の味方」ではなく「権力の手下、権力の護り手」であるからである。このことを言明する宗教家や倫理学者もいない。しかし、自分の身に置き換えて考えれば、自分が警察や検察の人間なら権力者に立ち向かうことがまず不可能であることは容易に分かるはずだ。
簡単な話だが、善は善に反する行為はできないのに対し、悪は、必要な場合は善(偽善)もやすやすと行えるのである。現実世界では善は悪に勝てないのが道理だろう。
そこで、倫理が扱えるのは「個人的道徳」のレベルの問題だけという、情けない話になる。しかし、それは果たして小さなことなのか。つまり、倫理というのは自分の人生の導き手としてダメな案内人なのかどうか、もう少し考えたい。
私が世間の悪人たちを見ていて思うのは、その精神の卑しさである。そういう卑しい精神で一生を送る、その人生とは、巨万のカネがあろうと惨めな人生、生きるに値しない人生だ、と私は思う。
「卑しい精神」と言うとあまりに漠然としているが、「他者への尊重、愛情、優しさ、同情、献身」が欠如した精神と言えるだろうか。別の言い方をすれば「自己愛」だけが精神を満たしている人間、エゴイスト、特に残酷なエゴイストである。これは、まさに「悪」の特徴なのだ。
例を挙げるなら、『悪霊』のスタヴローギンである。彼は「何事も為しうる」能力と財産と身分を持ち、超絶的な美男子である。にも関わらず、人間に位階をつけるなら、彼はあの作品の中の人物で最下位になるだろう。それは、彼が他者をまったく尊重せず、他者を平気で踏みにじることのできる人間だからである。単に興味本位で、安月給の下級官吏のひと月の給料を盗んで恥じない人間なのである。それで一家が困窮することも分かり切っているわけだ。他人の不幸を平気で見ていられる人間を、私は人間の屑だと思う。企業経営者などにもその手の人間は多いのではないか。で、そういう人間の人生は楽しいのか、生きる価値があるのか、ということだ。
ここで、善というのを何か凄いことのように思うかもしれないが、要は「他者の尊重、敬愛」があるかどうかというだけのことだ。その反対になるのが高慢な自負心だろう。自己愛だけで満たされた人間は他者を尊重するはずがない。逆に、どんなわずかなものであれ、人間は自己犠牲を行う時、一番美しい。おおげさな言い方をすれば、自己犠牲をする時、人間は神に近づく、という印象すらある。『悪霊』の中で、シャートフが殺される前夜のシャートフとキリーロフの描写は、神々しさを感じさせる。これは、下級官吏の給料を盗む時のスタヴローギンの下劣さと対照的である。
つまり、善とは他者の尊重である、というのが私のテーゼだが、それは「美しい」行為でもあるわけだ。当人がその美しさを知らない時ほど、その美しさは輝かしい。悪を行う時人間は醜く、善を行う時、美しい。それだけでも倫理の価値は十分なのではないだろうか。
だが、これはまだ考察不十分な思想であるので、もう少し考えたい。

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バクーニンの「社会主義」

ウィキペディアの「バクーニン」の項目の一部だが、社会主義にもいろいろあり、私はマルキシズムが嫌い(その「プロレタリア独裁」の思想が特に嫌い)なのだが、一般には「無政府主義」と呼ばれているバクーニンには、その思想に親近感を感じる。もちろん、「政府」は無くても、政府に替わる社会的紐帯機構があっての話だし、私としては政府が存在するままで社会主義国家になるほうが合理的だと思っている。それに近いのが現在の中国やキューバだろうか。
下の記述の中で記述者によって批判されている「反ユダヤ思想」は、「反DS思想」と言い換えれば、見事な先見の明を持っていたと言えるのではないか。また、マルキシズムはスターリニズムにつながることを予見していたとも言えるだろう。


(以下引用)記述の中に記述者の主観が時々現れることは言うまでもない。そこに記述内容の矛盾も生じている。第一行の「政治機構」は、その定義が不明確であり、後で出て来る「労働者自身による生産者組織」も立派な「政治機構」だろう。国家(政府)だけが政治機構ではない。

政治的信念[編集]

バクーニンはその政治的信念においていかなる名称であれ形式であれ、政治機構というものを認めなかった。支配者の意志であろうと全員一致の望みであろうと、外部の権力機関をことごとく否定した。この信念はバクーニンの死後、1882年に出版された『神と国家』にも貫かれている[23]


バクーニンはまたあらゆる特権的地位や階級という概念を拒絶した。それらが人の知性や精神を腐敗させると考えていたのである。


バクーニンの政治的信念はいくつかの相関する概念に基づいていた。自由社会主義連邦主義反神論、そして唯物論である。またマルクス主義への批判も行ったが、これが未来を予見していたという指摘もある。バクーニンは、マルクス主義者が権力を得た場合に彼らが「人民の意志であると見せかけている分、さらに危険な」一党独裁体制を敷くであろう、と予言したのである[24]

自由[編集]

バクーニンが「自由」という語によって示したのは抽象的な理想などではなく、明確で具体的な現実であった。肯定的に述べれば、自由とは「教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させること」によって成り立つものであった。またそのような捉え方は「非常に社会的である。なぜならば社会にあってのみ実現される」からであって、孤立していては不可能だからである。否定的にとらえると、自由の意味するところは「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」である[25]

無政府集産主義[編集]

バクーニンの社会主義は「無政府集産主義」として知られている。そこでは労働者らは自身の運営する生産者組織によって生産手段を直接管理することになる。子供たちはみな平等に学習と成長の機会を与えられ、大人はみな平等に物資を得て生産にいそしむのであるという[26]

連邦主義[編集]

バクーニンは、連邦主義という思想によって「下から上へ、周縁から中央へ向けた、連帯や連邦の自由という原則に則った」社会の組織化を唱え、社会は「個人、生産者組織およびコミューンの自由を基盤として」「全ての個人、全ての組織、全てのコミューン、全ての宗教、全ての国家によって構成され」「完全なる自己決定権、結社の自由、同盟の自由をもつ」ものとされた[26]

反神学主義[編集]

バクーニンは「神という思想は人類の生存理由と正義の放棄を意味しており、まぎれもなく人間の自由を否定するものであり、理論的にも実際的にも、必然的に人類の隷属化という結果をもたらす」と主張していた。バクーニンは「もし神が存在しないというなら、それを発明しなければならない」というヴォルテールの著名な文言を逆転させ、「もし神が実在するというなら、それを破棄しなければならない」と述べている[23]

唯物論[編集]

バクーニンは自由意志を宗教的にとらえることなく、自然現象を唯物論的に説明することを支持した[27]。「科学の使命とは、目の前にある実際の物事の全体的関係を観察し、物質的社会的現象の産物に具わった普遍的法則を明文化することである」。だがバクーニンは「科学的社会主義」という概念は受け入れなかった。『神と国家』の中では「社会の統治権を委ねられた科学的身体はすぐに滅びるであろう」と書いている[23]

社会革命[編集]

革命の実現に向けバクーニンが用いようとした方法は、自身の主義思想と一致していた。工場労働者と農民が連邦を基盤として組織化され「アイデアだけでなく、未来の事実をも創出し」ていく[3]。工場労働者は通商組合を作り「すべての生産用具を、建物や資産と同じように一手に」所有する[4]。農民層は「土地を農民たち自身のものとし、他人の労働によって生活している地主らを追放する」[19]。バクーニンは「下層の人々」に注目し、貧困に苦しむ大勢の被搾取層、いわゆるルンペンプロレタリアートは「ブルジョワ文明による汚染をほとんど受けておらず」、ゆえに「社会革命の火蓋を切り、勝利へと導く」存在であると考えた[28]

マルクス主義批判[編集]

バクーニンとマルクスの間で交わされた論争は、アナキズムとマルクス主義との相違点を浮き彫りにした。バクーニンは多くのマルクス主義者らが持ついくつかの考えに対して異を唱え、革命が全て暴力的である必要はないと主張した。同時にマルクスの提示するプロレタリア独裁という概念には強く反対した。マルクスの支持者はこの言葉を現代で言うところの労働者による民主制と解釈するが、これによって共産主義への過渡期の状態にも国家は存続することになる[29]。バクーニンは「革命家による独裁という考えはもう捨てており」[29]、革命は民衆主導で行われるべきであると主張し、また「知識を身につけたエリート」には「表には出ず」「人に負担をかけず」「公権力を持たず、要職につかずに」「ただ影響を及ぼすにとどまる」[30]べきであるとした。国家というものを直ちに無くすべきである、というのがバクーニンの見解であった。いかなる形の政府も、やがては抑圧への道をたどる、と考えたのである[29]。バクーニンにとって、自由とはあくまでも「下から上へと向けて実現される」べきものであった[31]


社会的アナキストとマルクス主義者の両者とも、目指すところは自由の創出であり、社会的階層や統治機関なき平等社会の実現であったが、目的を達するための手段については激しく対立した。アナキストの信念によれば、階級も国家も存在しない社会を築くためには大衆自身が直接行動を起こし、社会革命を達成するべきであり、プロレタリア独裁のような中間的な段階を認めるべきではない。そのような独裁体制はのちに永久化の土台と化してしまうからである。バクーニンから見ると、マルクス主義者は根本的な矛盾を抱えていた[32]


バクーニンは1844年にマルクスと出会って以来、「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である」とその能力を認めつつも、「マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」と彼の気質に対しては反感に近い感情を抱いており、その評価は後年も変わらなかった[33][34]


だがバクーニンは経済学者としてのマルクスを評価し、『資本論』のロシア語訳に取り掛かった。一方マルクスは1848年のドレスデン蜂起について「ロシアからの避難民の中ではミハイル・バクーニンが有望で有能な指導者とみなされていた」と記している[35]。マルクスはまたエンゲルスへの手紙でシベリアから戻ったバクーニンと1864年に再会したことに触れ「16年を経て老い衰えた様子もなく、なおも成長を遂げたようにさえ思われた。彼のような人物は稀有である」と書いている[36]


バクーニンは、国家において官僚制度を形成する知識人や行政官からなる、いわゆる新階級について論じた最初の人間であるともいえる。バクーニンによれば、一部の特権階級の世襲財産とされてきた国家は、やがてこの新しい階級である「官僚階級の手に渡り、単なる機械へと成り下がる――あるいは成り上がると言うべきか。」[37]

批判[編集]

暴力性、革命、「見えざる独裁」[編集]

バクーニンを隠れた独裁者であると批判する意見もある。アルベール・リシャールに宛てた手紙で、バクーニンは「見えざる独裁」という概念について記している。だが、バクーニンの支持者からはこの「見えざる独裁」には秘密結社的意味合いはないという主張がなされている。「見えざる独裁」の参加者が公然と政治力を行使することはない、とバクーニンは明示している、とする意見である[38]


だがチャールズ・A・マディソンによれば、第一インターナショナルを自らの支配下に置こうとするバクーニンの策謀がマルクスとの対立と1872年の追放を招いたのだという。暴力の肯定はやがてニヒリズムへとつながっていき、その結果「アナキズムという言葉が、一般的には暗殺や混乱状態と同義に捉えられることとなったのである[39]」という。


この分析を否定する意見もある。バクーニンは自分個人でインターを支配しようとはしておらず、自身の作った地下組織にも独裁者的権力は行使せず、テロリズムに関しては、革命に反する活動であるとして非難していたという主張である[40]

民族主義[編集]

アナキズムの歴史を研究するマックス・ネットラウは、バクーニンの汎スラヴ主義を、民族主義という逃れがたい病の発現であると記した。『告白』は皇帝の囚人としてペトロパヴロフスク要塞監獄にいた時に書かれ、1851年には出版されている。自らの罪への赦しを乞うとともに、皇帝に対し、救い主として、また同時に父なる者としてスラヴに君臨するよう懇願するという内容であったため、この著作はバクーニンへの攻撃材料として利用された。

反ユダヤ主義[編集]

バクーニンは死後、ユダヤ人嫌いとしてしばしばその名を挙げられてきた[41]。マルクスとの論争にしばしば反ユダヤ主義を持ち込み、典型的な反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論的見解を繰り返し述べている。


「貪欲な寄生虫で構成されるユダヤ世界は国境を超えるばかりか、政治思想の違いさえも超えてくる。この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」[42][43]、「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」[43]、「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲者となるだろう。ラテン系の人々だけがユダヤの世界征服の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である[44]


このような偏狭なユダヤ人観は当時、他の急進的社会主義者やアナキストの間にもみられた[45]。例えばプルードンの覚書には、ヨーロッパからユダヤ人の追放または根絶を呼びかけている一節がある[46]

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「正しさ」を決めるのは誰か

とあるスレッドのコメントの一部だが、「ポリティカルコレクトネス」への本質的批判として、世間に広めたい言葉である。
この「(正しいかどうかを)誰が決めるんだ」というのが一番のポイントだろう。そこが曖昧なまま、「誰か」の決めた「正しさ」が世界を覆っていく。今のコロナ詐欺も似ている。

(以下引用)

しかし「政治的正しさ」って言うのも意味の分からない言葉だよな。
  「正しさ」なんて結局は相対的なものなのに、
  何が正しくて何が間違ってるかなんて誰が決めるんだ。

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東京オリンピックの前に大雨災害の可能性もある

「アルマゲドンが起こらないかぎり東京オリンピックは開かれる」という、IOC幹部委員の発言に対する「阿修羅」コメントのうち2つを転載。なかなか秀逸である。
コメント32は、時期的に、非常にリアルな実現可能性がある。避難場所で「3密」を避けることなど可能だろうか。これ幸いと避難者全員にワクチンを打って、それで御終いか。(何が御終いになるかは知らないが)

(以下引用)



25. 2021年5月28日 00:00:06 : o4XjKXElcY YVpHQnpDUndlZEk=[70]  報告
 もういいじゃん。

オリンピック開幕1ヶ月前からパラリンピック終了まで外国人の入国を全面禁止にして、日本選手団は全員出場をボイコットすればさ。
序にボランティアも全て辞退してもらって、マスコミの中継も全面禁止に。


その上で、誰もいないスタジアムでパソナに雇われたバイトが、各国の名前の入ったプラカードを持って一人ずつ入場行進して、バッハが開会の演説をして、その直後にコーツが閉会の挨拶して終了って段取りでさ。


IOCさん、日本はあんたらに言われた通りにオリンピックをやりましたよって。
誰も参加しないし見もしない東京オリンピック…最高にいかしてるだろと。


野党はそう公約して、内閣不信任案を出せば自公の支持者も選挙で投票してくれるだろう。
まさか、ここまで言われてオリンピックがやりたいなんてプライドのない日本人は流石に右にも左にもいないよな?













  
 




32. 2021年5月28日 10:27:35 : eMS8CeA2Xc c3F4QVFVLmZ5Lms=[388]  報告
多分梅雨末期には線状降水帯が発生して、
水害が発生して、
避難所生活を余儀なくされる人たちが生み出されて、
そのニュースが流れたあとに、
「今日も東京ではオリンピックが~」
と、のうてんきな報道があるんだろう。

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