問題は「リベラル」とは何を指しているのか、何の定義も無しにリベラル批判が蔓延していることで、これは社会主義や共産主義が定義無しに絶対否定の対象になっていることと相似形である。
もちろん、リベラルがリベラリズム、つまり「自由主義」の意味、あるいは自由主義者(リベラリスト)を指すことは本来なら常識のはずだ。しかし、現今のリベラル批判者たちは、それでは「自由主義」を否定しているのか。それなら社会主義や共産主義を肯定するのか、と言えばまったくそうではない。それでは、政治思想ではなく、「生活信条」としてのリベラルを否定し、保守主義を肯定するのか、と言えば、そうとも思えない。私は(僕は)保守主義者だ、と自認する若者がどれだけいるか。
答えは、彼らが揶揄し、嘲笑している「リベラル」とは、実は「権威や権力に逆らって正義感や真面目な政治的信条から発言する連中」のことだ、と私は見ている。そういう意味では、彼らにとってリベラルと社会主義者、あるいは共産主義者はまったく同一なのである。
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菅義偉首相の長男(菅正剛氏)を起点とする、総務官僚への一連の接待攻勢が政治問題化している。
当然だろう。
菅正剛氏(←どうして、主要メディアはいつまでたっても「菅首相の長男」という書き方を改めないのだろうか)は、衛星放送の事業を展開している東北新社という企業の社員だ。ということは、総務省の官僚にとって、正剛氏は、許認可案件の対象者であり、明らかな利害関係者に相当する。
しかも、正剛氏は元をたどれば総務大臣の秘書官である。逃げを打てる話ではない。
さらに言えば、その正剛氏の実父にあたる菅義偉氏は、かつて剛腕の総務大臣として鳴らし、正剛之氏を秘書官に登用した人物であり、現職の内閣総理大臣でもある。
ということになれば、すでに「週刊文春」経由で、写真から音声記録からの証拠が提示されているこの接待事案が、問題にならないはずがないではないか。
個人的には、特捜部が動き出していないことに意外さを感じているほどだ。
酒食の接待を享受し、手土産とタクシー券を持たされて帰宅した総務官僚の人数は、現在のところ13名にのぼると言われている。
このことはすなわち、衛星放送の許認可を差配する職務権限を持ち、放送行政に一定の影響力を有している総務省の高級官僚が、衛星放送のビジネスを展開する企業の幹部社員たる菅正剛氏から接待を受けていたことを意味する。とすれば、これは、筋立てとしては、そのまま贈収賄の事案になる。
仮に、直接に贈収賄事件として立件&強制捜査がかなわないのだとしても、社会通念からして、職務権限を持った官僚が、管轄する業界の人間と酒食の席をともにし、さらに勘定まで民間に丸投げにしていたわけなのだからして、社会的、道義的責任は免れ得ない。
……という本筋のお話は、これまでにも、本筋のメディアの筋目の記者や有識者の先生方が口を酸っぱくして繰り返してきたところでもあるので、これ以上ダメ押しはしない。
どういうものなのか、この種の「正義のお説教」を上からおっかぶせるしぐさは、昨今、特に若い人たちの反発を買うらしいからだ。
正しい言説を真正面から言い立てていると
「あんたが正しいのはよくわかった」
「はいはい、正義正義」
「なるほどポリコレ迫撃砲で正しくない人間をボコボコにするのがあなたにとっては快感なわけですね?」
式の揶揄嘲笑を喚起することになる。
でもって、
「本来、寛容さで売ってるはずのリベラルの皆さんのおそるべき偏狭さに驚愕を禁じ得ないわたくしであることです」
「要するに他人を許せない人たちなんだね」
「ほんの小さな逸脱や、ちょっとした間違いをあげつらって、そのことによって自分を正義の戦士の位置に置くことがなにより大切なわけだね」
「害虫駆除の会社にでも就職したらどうだろう」
「そういう学級委員長っていたよね。職員会議の手先みたいな」
「っていうか、ゲシュタポだよね。正義のゲシュタポ」
「間違っている人間を大勢で指弾してると盛大にドーパミンが分泌される体質なのだろうな」
「ドーパミンアスリートだな」
てな調子の評判に甘んじなければならないらしい。
こんな調子で「リベラル」を忌避する彼らは、ちょっとした不正や軽微な差別を「人間らしさ」として容認する態度を「寛容さ」だと思っていたりする。してみると、思想信条宗教国籍民族の多様性を標榜する一方で、差別や不正に敏感ないわゆる「リベラル」の陣営の人間は、かえって「偏狭」だということになる。なんともめんどうくさい時代に生まれあわせてしまったものだ。