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「片目のジャック」

「ネットゲリラ」の常連コメントの中に、前後の脈絡があったのかなかったのか忘れたが、「片目のジャック」の話が出てきて、子供のころに見た映画なので懐かしくてウィキペディアを調べてみた。
まあ、西部劇映画としてはあまり面白くはなかった記憶があるが、これを最初スタンリー・キューブリックに撮らせる予定だったというのが面白い。西部劇がまったく似合わない監督で、まあ、フェリーニやヴィスコンティやベルイマンに西部劇を撮らせるようなものだ。案外、前衛芸術的西部劇映画になったかもしれない。あるいは哲学的西部劇とか。
なお、「片目のジャック」は英語では複数形で、スペードとハートのジャックを指すらしい。昔聞いた話だと、このふたつのカードは人物が横向きで、片目しか見えない絵だからだと言う。それに何の意味があるかは分からない。
原作の「authentic death」とはどのような死だろうか。死に真正の死と偽物の死があるのか。

(以下引用)

片目のジャック (映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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片目のジャック
One-Eyed Jacks
One-Eyed Jacks (1959 poster).jpg
監督マーロン・ブランド
脚本ガイ・トロスパー英語版
カルダー・ウィリンガム英語版
原作チャールズ・ネイダー
The Authentic Death of Hendry Jones
製作フランク・P・ローゼンバーグ
出演者マーロン・ブランド
カール・マルデン
音楽ヒューゴー・フリードホーファー
撮影チャールズ・ラング・ジュニア
編集アーチー・マーシェク
製作会社ペニイベイカー・プロダクションズ
配給アメリカ合衆国の旗日本の旗 パラマウント映画
公開アメリカ合衆国の旗 1961年3月30日
日本の旗 1961年7月8日
上映時間141分
製作国アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語英語
製作費$6,000,000[1]
配給収入日本の旗 1億7361万円[2]
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片目のジャック』(かためのジャック、One-Eyed Jacks)は、1961年アメリカ合衆国西部劇映画マーロン・ブランド主演・監督。ブランド唯一の監督作品。


1963年までに米国で製作・公開され、作品中に著作権表記があるものの、公開から28年以内にリニュー(著作権再登録)をしなかった、または手続き不備のために米国の法律で権利放棄と見なされた(著作権再登録された場合は通常の保護期間)ために、現在パブリックドメインとなっている。


元々この映画はスタンリー・キューブリックが監督する事となっていた。しかし意見の対立やキューブリックの多忙などによりブランドが監督を兼ねる事となった。

ストーリー[編集]

1880年メキシコ。リオとダッドの2人は銀行強盗を働くが、ダッドは裏切って金を持ち逃げし、リオは捕まって投獄された。


5年後、リオは獄中で気の合ったモデストと共に脱獄、さらに途中で知り合ったボブとハーヴェイと共に、カリフォルニアの町モントレーにやってくる。そこではダッドが保安官に収まっており、彼にはメキシコ人の妻マリアと彼女の連れ子のルイザがいた。リオはルイザと恋仲になっていくが、自分の過去を知るリオを嫌うダッドは、彼を追い払おうと、リオがならず者を撃ち殺したことを口実に、リオを鞭打ちにし、銃を使えないように利き腕の指を折って追放する。


リオはルイザを本気で愛するようになり、彼女と駆け落ちしようと考える。一方、リオに見切りをつけたボブとハーヴェイは当初の計画通りに銀行強盗を働くが失敗、ボブは死に、ハーヴェイは逃亡する。リオによる計画と判断したダッドはリオを逮捕する。絞首刑を待つばかりとなったリオはルイザからリオの子を妊娠したと告げられる。マリアは娘の幸せのためにリオの処刑をやめてほしいとダッドに懇願するが、ダッドは怒りに任せてマリアを侮辱する。


ルイザが持ち込んだ銃を使って脱獄に成功したリオは町を出て行こうとするが、そこにやってきたダッドと撃ち合いとなり、ダッドを射殺する。ルイザと共にその場から逃げるが、町外れでルイザに別れを告げ、ルイザの出産後の再会を約束する。

キャスト[編集]

※括弧内は日本語吹替

※フジテレビ版:初回放送1971年4月23日『ゴールデン洋画劇場

作品の評価[編集]

Rotten Tomatoesによれば、16件の評論のうち高評価は56%にあたる9件で、平均して10点満点中6.15点を得ている[3]

出典[編集]

  1. ^ One-Eyed Jacks” (英語). Turner Classic Movies. 2014年2月16日閲覧。
  2. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)181頁。
  3. ^ One-Eyed Jacks (1961)” (英語). Rotten Tomatoes2020年9月6日閲覧。

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「キリスト教」=「パウロ教」

前に書いたように、パウロの「ローマ人への手紙」の、下に引用した部分には現在の「キリスト教」の、あるいはローマ・カトリックにおける「キリスト教」のエッセンスがすべて入っていると思う。それを考察してみる。

(以下引用)

「だが、いまや、律法とは無関係に、人間が神から正しい者と認めていただくための新しい道が示されている。それは律法と預言者たちによって証言されてきた道である。それは、だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる、という神のご意思であって、この新しい道は信じる者すべてに、いかなる差別もなく与えられる。人はみな罪を犯したので、神の栄光にあずかれなくなってしまった。ところが神はご慈愛を示し、キリスト・イエスの救いのお働きによって、罪を犯した人が神との正しい関係に入れるようにしてくださった。つまり神はキリストを〈なだめの供え物〉にし、もし私たちがキリストを信じるなら、いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す、という新しい救いの道を開いてくださったのである。いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった。というのも、神は人々の罪に目をつぶり、罪の代価を要求することもなく、あまりにも長くこれを忍んでこられたからである。いまや、神はご自身の公正さを示すために、キリスト・イエスを信じるすべての人を正しい者として受け入れることを明らかにしてくださった。」

(以上引用)

まず、

1:だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる

というのが、キリスト教の最大のポイントであり、それ以前のユダヤ教との分岐点であるのは明白だろう。なぜ「エホバ教」ではなく「キリスト教」なのかと言えば、「キリストを通じて人間と神がつながる」という一点によるわけだ。そして、それは「神の意思」だとパウロは言う。しかし、それがなぜ神の意思だと言えるのかは言わない。(「律法と預言者たちによって証言されてきた」とパウロは言うが、「律法」の中にイエスの事が出てこないのは当然としても、ナザレのイエスという人物が預言者たちが言ってきたキリスト=救い主であるかどうかは彼らの預言からは分からないはずである。)
ここに大きな詐欺があり、このパウロの言葉を信じてキリスト教に入る者は、実は「キリストを通じて神につながる」のではなく、「パウロを通じて神につながる」のである。そして「神につながる」かどうかは証明されていない。つまり、ただの幻想にすぎない可能性が大なのである。言い換えれば、「キリスト教」とは実は「パウロ教」であり、キリスト(イエス)は単なる「物言わぬ(既に死んでいるから言えない)人形」であるわけだ。あえて言えば、イエスの教えはイエスの言葉にしか存在せず、イエス自身は「自分がキリストである」とも「私を信じれば、神に救われる」とも一言も言っていないはずである。(「したがってヴェルメシュは、ペテロへの答えも大祭司やピラトへの答えも、イエス自身はキリスト(メシア)であることを否定したものと理解すべきだという。」山本七平「聖書の常識」より)
パウロとは、キリストを利用して「宗教の帝国」を作った人間であり、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」はまさしくその陰画だ、と私は思っている。まあ、ドストエフスキーはローマ教会を嫌っていたが、パウロを嫌っていたかどうかは分からないので、これは私の主観的意見である。しかし、ローマ教会を嫌うなら、その建設者とも言えるパウロを否定するのが当然だろう。

その他の部分について簡単に触れておく。

2:人はみな罪を犯した

というのは、つまり「原罪説」だろう。この「人」というのは文字どおり全人類である。つまり、アダムとイブが神の言いつけに背いたこと(これ自体、非常に奇妙な話で、知恵の木の実を食べたために楽園を追放されたと言うが、無邪気な子供の目の前にケーキを置いて、「食うな」と命令して、それを子供が食べたら家から追放する親がいるだろうか。)だけでなく、その子々孫々に至るまで全人類は永久に罪を負うらしい。あるいは、その「罪」は、イエスを殺した、あるいは見殺しにしたことだとするなら、これは後に出て来るパウロ自身の言葉と矛盾する。その部分を先に書けば、

3:いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す

4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった

である。つまり、キリスト(イエス)の死は神が設定したものである、ということだ。この件に関しては、キリストを死刑にさせた者たちも死刑にした者たちもまったく無実だということになる。
そうなると、2の「
人はみな罪を犯した」の罪とは何なのか、というのが再度問題になるだろう。少なくとも、生まれたばかりの幼児は何ひとつ罪を犯していないはずだ。とすれば、「人はみな罪を犯した」と言うためには、あらゆる人間はその祖先すべての罪を背負っている、というとんでもない論になる。仮にそれがアダムとイブの罪の話なら、全人類はアダムとイブから生まれた、ということが証明されないとならないだろう。白人も黒人も黄色人種もすべて兄弟だ、となる。ならば、なぜ人類はこれほど種族や民族ごとにいがみあうのか。まあ、少なくとも私は、自分がたとえアダムとイブの末裔だとしても、そんな先祖の罪を相続する気はまったく無い。
そして、キリスト教の神についても、


4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった

という、とんでもない考え方をする神ならば、まったくくだらない神だとしか思わない。神をこのような存在だとすること自体が最大の涜神だろう。

ということで、私は「キリスト教」、いや「パウロ教」はまったく信じない。イエスという存在自体は、あるいは人類史の奇跡かもしれないと思っている。






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「民主化運動」で踊る阿呆に踊らせる「利口者」

天安門事件の時もそうだったが、中国の「民主化運動」がデモになり騒動になり騒乱になり政府に鎮圧された時、その「民主化運動」のリーダーたちは素早く米国に逃げて身の安全を確保しているわけだ。

(以下引用)


mko
@trappedsoldier
香港の暴動で警官の銃を奪おうとした少年に5年の刑。しかし彼らのリーダーは、アメリカでカクテルを飲んで笑っている。
引用ツイート
Obukowsky
@Obukowsky1
·
返信先: @StarboyHKさん
And their brave leaders are enjoying life sipping cocktails in America
画像

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新コロ詐欺批判をすべて「陰謀論」とする頭の悪さ

「毎日新聞」には限らないが、大手マスコミ(新聞・テレビ)のほとんどはユダ金支配下にあるわけで、それがDSつまりユダ金が推し進めている新コロ詐欺に加担するのは理の当然であるわけだ。
私が敬愛するカレル・ヴァン・ウォルフレンが新コロ詐欺に加担していないことは私には大きな喜びである。
なお、この記事は新コロ騒動への疑惑を頭から「陰謀論」とする粗雑な記事のようで、記者の頭の悪さも歴然としている感じだが、それは頭の悪さというより、「こういう姿勢で書かないといけない」という、社内の指令、あるいは空気によるものだろう。

(以下引用)


デジタルを問う 欧州からの報告

日本研究者ウォルフレン氏はなぜ「陰謀論」を唱え始めたのか


2020年5月に投稿されたユーチューブ番組に出演するカレル・バン・ウォルフレン氏。新型コロナウイルスの危険性は低く、「人為的に恐怖の風潮が作られている」などと語った=ユーチューブより
2020年5月に投稿されたユーチューブ番組に出演するカレル・バン・ウォルフレン氏。新型コロナウイルスの危険性は低く、「人為的に恐怖の風潮が作られている」などと語った=ユーチューブより

 「新型コロナウイルスに感染しても多くは症状がない。(本当は危険ではないのに)人為的に恐怖の風潮が作られている」「(米マイクロソフト共同創業者のビル・)ゲイツはワクチンで我々に微粒子を注入し、全世界の70億人を監視するつもりだ」――。


 ユーチューブの動画に映る一人の老紳士。厳しい表情でそうまくし立てる。発言は荒唐無稽(むけい)な「陰謀論」にしか聞こえない。だが彼は、これまで日本研究などで世界的に評価されてきた著名なオランダ人ジャーナリストだ。


 カレル・バン・ウォルフレン氏(80)。オランダ日刊紙で東アジア特派員を務め、1989年に発表した「日本/権力構造の謎」、94年刊行の「人間を幸福にしない日本というシステム」はベストセラーとなった。官僚支配などを指摘した日本論は広く支持され、アムステルダム大名誉教授としても活動してきた。


 ウォルフレン氏が新型コロナに関する奇妙な言説を唱えだしたのは、世界保健機関(WHO)がパンデミック(世界的大流行)を宣言した2020年3月ごろだ。ユーチューブの動画番組などで政府の規制やワクチン接種に対する懐疑論を展開。インターネット上だけでなく、…


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「大審問官」としてのパウロ

私の考えでは、キリストの教えを変質させ、「キリスト教」を作ったのがパウロであり、パウロがローマ教会の土台を作った「イエス・キリストへの最大の反逆者」だと思っているのだが、そのパウロの「ローマ人への手紙」の中に、「キリスト教」の基本思想が書かれていると思う。そして、それこそが、非キリスト教世界の人間がキリスト教を信じられない、最大のポイントであるかと思うので、その重要箇所を「平明訳・新約聖書」(角川文庫)から書き抜いてみる。この文庫本自体は文字通り平明な訳をしていて理解しやすい。

(以下引用)赤字部分は夢人による強調。

「だが、いまや、律法とは無関係に、人間が神から正しい者と認めていただくための新しい道が示されている。それは律法と預言者たちによって証言されてきた道である。それは、だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる、という神のご意思であって、この新しい道は信じる者すべてに、いかなる差別もなく与えられる。人はみな罪を犯したので、神の栄光にあずかれなくなってしまった。ところが神はご慈愛を示し、キリスト・イエスの救いのお働きによって、罪を犯した人が神との正しい関係に入れるようにしてくださった。つまり神はキリストを〈なだめの供え物〉にし、もし私たちがキリストを信じるなら、いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す、という新しい救いの道を開いてくださったのである。いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった。というのも、神は人々の罪に目をつぶり、罪の代価を要求することもなく、あまりにも長くこれを忍んでこられたからである。いまや、神はご自身の公正さを示すために、キリスト・イエスを信じるすべての人を正しい者として受け入れることを明らかにしてくださった。」

赤字にした部分が、私がまったく納得できないところや、理解しがたいところである。特に、「なぜパウロごときに『神の意思』や『神の考え』がわかるのか」というのが納得できない。彼はモーゼのように直接に神の声を聞いたわけではない。つまり、彼が「神の意思」とか「神の考え」としているのはすべて「パウロ自身の意思・考え」にすぎないとしか思えないわけである。そのために、彼は「キリストの死を利用した」わけだ。彼はイエス・キリストとも直接会っていない。だから、キリスト(イエス)の思想を伝聞でうっすらとしか知らないわけで、福音書(おそらく、イエスの死後数年後に膨大に作られた流伝)から想像したにすぎないのである。つまり、「キリスト教」とは、その骨格のほとんどがパウロの創作だ、というのが私の考えだ。

「イスラム教徒はイエス(イサ)をマホメットにつぐ最大の預言者とみるが、パウロはまったく評価していない」(山本七平「聖書の常識」)

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コンゴ人の知的レベルは日本人の数段上

「ネットゲリラ」記事だが、本文中のコメントがすべてワクチン信者のもので、アフリカ人への差別発言オンリーでびっくりする。ワクチン信者の道徳的レベル、人間的レベル、知的レベルの低さが一目瞭然だが、読むのも気分が悪いだろうから一切省略する。
学校に行けば頭が良くなると思っている馬鹿が日本には多すぎるwww 

(以下引用)「合わず」ではなく「会わず」と書いてほしい。私は誰とも気が合わないから誰とも会わず、仙人のように暮らしているwww

誰とも合わずどこにも出かけず仙人のように暮らせ

| コメント(1)

ワクチンとか治療薬とか、今、大急ぎで開発していて、もう少し待てば今のよりずっと良い製品が出てくるだろう。なので、一番利口な方法は、危なっかしいワクチンや治療薬しかない今はジッと潜んで、誰とも合わず、どこにも出かけず、仙人のように暮らすのがいいんだが、今の都会人にはそういう生活が耐えられないw 田舎の、たとえば限界集落に住んでいる人は、何十年もそういう生活をしているので、全然困らない。

 新型コロナウイルスのワクチンを巡る先進国と途上国との供給格差が指摘される中、アフリカ中部コンゴ民主共和国は4月、国際支援で供給されたワクチンの大半を返還していた。
接種の重要性が国民に正しく伝わらず、ワクチンを打とうとする人がほとんどいないためだ。(キンシャサ 深沢亮爾、写真も)
 8月後半、首都キンシャサの病院に設置されたワクチン会場で、防護服姿の看護師らはけだるそうにイスに腰掛けていた。
会場には英アストラゼネカ製のワクチンが用意されているが、会場を訪れる人はいない。現場責任者のラッキー・ルカンバ氏(46)がため息をついた。
「SNSなどでアストラゼネカ製は危険という根拠のない風評が広がり、ワクチンを希望する人がいないのです」

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スピノザの「自由」論批判

私はスピノザなど読んだことはないので、下の引用について、彼の「自由」論を批判してみる。「批判」とは、必ずしも「非難攻撃」の意味ではなく、「論理的に検討してみる」意味である。

(以下引用)

「本書(『神学・政治論』)は、哲学する自由を認め ても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざま な論考からできている」——スピノザ『神学・政治論』のエピグラム(吉田量彦訳)


……自由とは,徳あるいは完全性であり,したがっ て,何事にせよ人間の無力を示す事柄は人間の自由に数えることができない。 だから人間は,存在しないことも出来る,あるいは理性をもたないことも出来る,という理由で自由であるとは決して言われ得ない。自由であると言われ得るのは,彼が人間的本性の諸法則に従って存在し・活動する力を有する限り においてのみである。このようにしてわれわれが人間 をますます多く自由であると考えるに従って,われわれは彼が,理性をもちいないことも出来る,また善の代わりに悪を選ぶことも出来るということをますます もって言えなくなるのである。そして絶対に自由に存在し・理解し・活動する神もまた 必然的に,すなわち自己の本性の必然性に従って存在し・理解し・活動するのである。神がその存在すると同じ自由性をもって活動することは疑 いないところであるから。こうして神は,自己の本性の必然性によって存在すると同様 に,また自己の本性の必然性によって行動する,言いかえれば絶対に自由に行動する


...Est namque libertas virtus seu perfectio. Quicquid igitur hominem impotentiae arguit id ad ipsius libertatem referri nequit. Quare homo minime potest dici liber propterea quod potest non exsistere vel quod potest non uti ratione, sed tantum quatenus potestatem habet exsistend & operandi secundum humanae naturae leges. Quo igitur hominem magis liberum esse consideramus eo minus dicere possumus quod possit ratione non uti & mala prae bonis eligere; & ideo Deus, qui absolute liber exsistit intellegit & operatur, necessario etiam nempe ex suae naturae necessitate exsistit intellegit & operatur. Nam non dubium est quin Deus eadem qua exsistit libertate operetur. Ut igitur ex ipsius naturae necessitate exsistit, ex ipsius etiam naturae necessitate agit, hoc est libere absolute agit.


出典:スピノザ「国家論」Pp.103-104: 『スピノザ・思想の自由について』訳注・畠中尚志、理想社、1967年




(引用終わり)

冒頭のエピグラム(書物の最初に書かれた引用文や献辞などを言うか。)によって、ここに書かれた「自由」とは主に「哲学する自由」だろうと推定できる。そのまま読めば、「哲学する自由」だけのこととも言える。しかし、それに続く「自由論」は必ずしも「哲学する自由」に限定されず、彼による「自由の定義」と、その考察、そして「神の自由」を論じていると思う。
では、その論を箇条書きにしてみる。

1:自由とは徳、あるいは完全性である。
2:(1の定義によって)人間の無力を示す事柄は自由とは無縁である。
3:(2の帰結として)「存在しないことができる」「理性をもたないことができる」というのは「自由である」こととは異なる。
4:(自由の第二の定義)人間が自由であると言われえるのは、彼が人間的本性の諸法則に従って存在し、活動する力を有する限りにおいてのみである。(注1)「存在し、活動する限りにおいてのみ」ではなく、「存在し、活動する力を有する限りにおいてのみである」と書いてある以上、「行動」ではなく「行動可能性(行動する力を有すること)」が自由の絶対条件だと受け取れる。(注2)その存在や活動は「人間的本性の諸法則に従っていること」が自由の大前提であるようだ。しかし、この部分だけでは、その「人間的本性の諸法則」がどんなものかは分からない。おそらく最初に書かれた「徳」がそれかと思われるが、果たして徳は人間的本性に合致するのかどうかは議論の余地が大きいだろう。
5:(以上の論から)自由をこのように考えるなら、その自由の在り方として「理性を用いないこともできる」とか「善の代わりに悪を選ぶこともできる」とは言えないことになる。
6:(神に関して言えば)神は絶対に自由に存在し、理解し活動するものであり、(自由の本質、あるいは私の「自由の定義」によって)自己の本性の必然性に従って存在し、理解し、活動するものである。(注:以下の数行は、同じ内容の繰り返しである。)

まあ、批判するのは簡単で、1と4の「定義」を、ひろゆき流に「それあなたの感想ですよね」で終わりである。「感想」ではなく「定義」だが、どこにも根拠のない定義は「感想」「主観的意見」以上のものではない。
要するに、「自由」がしばしば「欲望の恣意的な充足」つまり「悪徳」と結びつきがちであることに対して、「自由とは徳である」という無理な定義をしたために、無理な論になっている、というのが私の感想だ。しかも、神についてまで勝手な定義をしているのだから、教会から破門されたとしても仕方が無いところだろう。
「自由とは完全性である」という定義も無理だろう。これは神の完全性を「自由」擁護に援用しようとしたものと思われる。「すべてが自由なことが完全性である」という思想は、「ならば悪も為しうることが完全性の謂であり、神は善をも悪をも為しうるものでない限り完全とは言えない」となる。つまり、十全と十善は両立しえないのである。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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