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「I love you」を日本語にどう訳すか

「はてな匿名ダイアリー」の一記事だが、これは「日本文学研究」の論文として学術誌に載せる価値があるのではないか。もしも私が国文学の大学教授だったら、この短い文章に卒業論文としてでも何の試験でもいいが、「優」を与える。論文の価値は長さにあるわけではなく、質にある。
もともと、loveという言葉自体が日本語訳はできない。神への愛と性愛がどちらもLoveであるのはおかしいだろう。ギリシャ語(だと思う)ならアガペーとエロスを区別するが、英語では区別しない。

(以下引用)

夏目漱石「月が綺麗ですね」の元ネタを遡る

夏目漱石は「月が綺麗ですね」となんか訳していない」という話から、「初出であるとされる70年代以前がどうだったのか知りたい」という話が出ていたので、Googleブックス検索していたのだが、1962年刊行の『日本人の知恵』にこのような話があるらしい。


さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき西洋人のように、


「私はあなたを愛していますI love you)」


などとはけっしていわない。そんなことばを口に出さなくとも、満月を仰ぎ見て、


「いいお月さんですね」


そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。


日本人の知恵 - 林屋辰三郎 - Google ブックス


この『日本人の知恵』という本は、


なんと、昭和37年に発行された本で、その前年朝日新聞に連載された「日本人の知恵」を再編集したもの


日本人の知恵 林屋辰三郎、加藤秀俊、梅棹忠夫、多田道太郎 *** - 意思による楽観のための読書日記


ということらしいので、つまり1961年朝日新聞掲載されたのだろう。


それならば世間に広く知られたとしてもおかしくないと思われる。


もうひとつさらに遡って戦前1935年刊行笠間杲雄『沙漠の国 ペルシア アラビア トルコ遍歴』にもよく似た表現があるようだ。


第一欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味外国人に答へると、然らばあなた日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。


沙漠の国: ペルシア・アラビア・トルコ遍歴 - Google ブックス


こちらは「いい月ですね」と「海が静かですね」が並列されており、あくまで「無数の表現のうちの2例」といった趣きではある。


さらに「I love you日本語にうまく訳せない」という話に限っては、


漱石文庫」に残された漱石メモ書きの中に、ジョージメレディスというイギリス小説家作品を取り上げて、「"I love you,Signora Laura."―Vittoria p.113.此I love you ハ日本ニナキformulaナリ」と記した一節がある


夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したという伝説について - Togetter


ということであったが、同様の主張が1922年刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村近代恋愛観』に書かれている。


日本語には英語の『ラヴ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you "や" Je t'aime "に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。


近代の戀愛觀 - Google ブックス


この厨川白村夏目漱石の教え子で、深い付き合いがあったというから、これは夏目漱石受け売りだった可能性が高い。


というわけでグルグルまわっているうちに夏目漱石に戻ってきてしまった。


夏目漱石が「I love you日本語に訳せない」と言う


→その話が厨川白村を通じてよく知られるようになる


→じゃあ日本人恋人に何て言うの?


→「いい月ですね」とか「海が静かですね」とかそういうことを言うんじゃね?


日本人は「愛しています」とは言わず「いい月ですね」と言うんだ!


→その話が朝日新聞を通じてよく知られるようになる


→なんかいろいろ混線して「夏目漱石I love youを月が綺麗ですねと訳した」という話になる


みたいな流れが朧気ながら見えてくるような見えてこないような。


いかがでしたか

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東大理Ⅲという「虚栄の塔」

「絵に何が描いてあるかは明白に分かるが、何が描かれていないかは分からない」というのは私が以前に何度か書いたことだが、これは「何を言っているかは分かるが、何を言っていないかは分からない」「何を文章に書いているかは分かるが、何を書いていないかは分からない」ことの比喩であるのは言うまでもない。
下の文章も、「医学部に行くことと理Ⅲに行くことは意味が違う」ことは分かるが、「理Ⅲに行くことのメリットは何か」が書かれていない。単に「最難関だからこそ行く」という、劣等生から見たら、虚栄心としか思えない話である。まあ、自分から苦労を背負いこむだけの馬鹿の集団ではないか、とすら思う。努力することの価値と、その努力で得るものの価値は別の話だ。理Ⅲを出たからといって、医者としての能力が高いとはまったく言えないだろう。医者になるというだけで、普通の人間から見れば、あきれるほどの努力が必要なのである。その上に、東大理Ⅲを目指すことなど、「最高峰を目指す」という、いわば「自分は偉い、凄い」を周囲に示したいという虚栄心以外の意味は無い。つまり、学歴社会のヒエラルキーの象徴が理Ⅲだが、その「虚栄の塔」のために膨大な数の若者が無内容な「受験勉強」に苦しみ、貴重な青春の時間を勉強だけに費やし、それに耐えきれない者は劣等感を持ち周囲から軽蔑の視線を浴びながら廃棄されるわけだ。まあ、社会のほとんどの人間は高学歴の人間から見れば、そういう廃棄物だろう。
ついでに言えば、理Ⅲを出た人間が日本の支配層になるわけではない。成蹊大だろうが法大(明大か?)だろうが、前々総理と前総理である。地方議員には三流どころか名前も聞いたことが無い私大卒もたくさんいる。政治だろうが普通の会社内の出世だろうが、出世したければ、学校の勉強をするより、弁舌を磨くのがマシだろう。そう言えば、アナウンサー出身の女性政治家も多い。なぜか右翼系というか、自民党系に多いのは、彼女らが「社会を泳ぐための嗅覚」が鋭いからだろう。

(以下引用)


 
 
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受験生が切り付けられた現場を調べる捜査員ら。逮捕された少年は在籍する高校の偏差値を叫んでいたという(時事通信フォト)© NEWSポストセブン 提供 受験生が切り付けられた現場を調べる捜査員ら。逮捕された少年は在籍する高校の偏差値を叫んでいたという(時事通信フォト)

 新型コロナウイルスオミクロン株の拡大により濃厚接触者の入試方法が変更されるなど注目を集めていた2022年の大学入学共通テストは、初日に起きた東京大学前の刺傷事件によって、別の関心も集めることとなった。殺人未遂で現行犯逮捕された名古屋市在住の私立高校2年生の少年は事件の目撃者によれば、事件時に高校の偏差値や「僕は来年東大を受けるんです」と叫んでいたという。警察で「医者を目指し東大(理III)に入りたかったが、約1年前から成績が振るわず自信をなくした」と話していることが報じられ、動機と起こした事件のちぐはぐさに驚かされた人も多いだろう。俳人で著作家の日野百草氏が、東大に入ることを当然と考える子供たちがどんな心の闇を抱えるリスクを背負うのか探った。


 * * *


「東大に入れなければ負けです。極端ですが日本のトップ校の子というのはそういうものです。とくに理IIIは別格です」


 そう言ってのけるだけのトップ校を卒業した教育関連企業のベテラン室長が語る。


「日本のトップ校というのは田舎の公立進学校の話ではありません。本当に日本のトップ、選ばれた子供たちが通う学校のことです」


 それは開成、灘、筑波大学附属駒場(以下、筑駒)、桜蔭、ラ・サール(鹿児島)、麻布、東大寺、洛南、甲陽学院、東海(愛知)といったテレビでもお馴染み、全国区のトップ私学だという。東大、まして理IIIとなるとこうした中学から(高校入学もまれにある)一貫校に入る道を選ぶことが多い。もちろん地域によっては地元公立のナンバースクール以外選択肢のないところもある。本稿では便宜上、東大に入ることが当然のような日本の最上位層の私学を「トップ校」としている。


「日本でトップを競う子たちです。口には出さずとも小中時代は誰もが東大、とくに理IIIを目指します。東大生は珍しくもありませんが、理IIIとなると別です」


 あえて平易に書くが、東大の理III(理科III類)とはいわゆる東大医学部のこと。日本国の受験でもっとも難しいとされている。実際、日本の大学受験の最高偏差値は常に理IIIである。定員はわずか100人。


「勉強で勝ち続けた受験エリートが集まる学校ですから、できれば一番偏差値の高い大学の、一番偏差値の高い学部に入りたい、それが理IIIなわけです。プロ野球とかと同じ構図ですね」


 なるほど、確かにプロ野球も強豪校には少年野球のエリートが来る。その中でプロになる子は一握りどころかひとつまみ、東大理IIIも毎年の合格者が約100人と考えればプロ野球も全12球団で毎年約120人(例外あり)がドラフトに掛かるわけで、そのジャンル別の難易度はともあれ数字の上では似ているかもしれない。


「はい。野球やサッカーのエリートがプロを目指すように、受験のエリートは理IIIを目指します。あくまで最初は、ですが」

秀才かつ受験に特化した訓練と対策をした人しか東大理IIIは入れません

 素朴な疑問だが野球やサッカーのエリートはプロを目指す、理IIIということは医者を目指すのだろう。ごく一部には医師免許を持たずに研究者を目指す場合もあるが、ほとんどは医者になる。理III入試という日本で一番難しい試験に合格することと医者になることは命題が違うような気がするのだが、どうか。


「いえ、トップクラスの子たちにとっては医者より理IIIなんです。親や学校からずっと思い込まされてきた子たちです。洗脳と言っても構いません」


 洗脳とは穏やかでないが、親にそのつもりがなくとも、そうした学校や環境で自然とそう思い込んでしまう子もいるのかもしれない。だが、程度の差はあれそれくらいの「受験マシーン」にならなければ日本のトップ校、まして日本の受験上位100人とされる理IIIには入れないのだろうか。


「違います。それでも入れないんです。いや、受けるレベルに達しない。よく『勉強しない秀才が入った』なんて話がありますが実際はどうか」


 極稀にニュースでスポーツなど他のことも成し遂げながら理IIIに入れてしまう子などが話題になるが、レアケースだからこその全国ニュース。受験業界からすれば、何十年も関わってきた関係者からすれば一般的な現実は違う、ということだろう。本旨ではないのでエクスキューズに留めるが、世の中には何もかも自然に記憶できてしまう特殊な人もいる。


「東大というだけならそういう子もいますが、理IIIとなると別です。(経験上は)秀才かつ受験に特化した訓練と対策をした人しか入れません。その上で受験の向き不向きがある、ともいえます。極端な向き不向きで理III受験に向いているような子、それを『才能』と言う人はいるかもしれませんが」


 日本中の子供は中学であれ、高校であれほぼ全員が受験を経験しているだろう、理IIIに入るのがその世代の受験上位100人余(多世代から入る浪人もいるだろうが)と考えれば恐ろしいほどの狭き門。ましてやその毎年合格者の3割から5割近くを占めるとされる筑駒、灘、開成、桜蔭の子たちは受験における「究極」だろうか。それにしても受験に「向き不向き」とは面白い話。


「おっしゃる通りその4校が日本では別格です。他のトップ校なら(理III は)数人出れば万々歳です。それすら凄い。田舎の公立進学校で1人出たら学校側も大喜びですよ。宣伝になります」


 受験の価値観はさまざまだが、こと理IIIとなると問答無用にトップ中のトップ、正直、普通に生きていると別世界のように感じる。実際、別世界なのだろう。しかし先の言葉を借りるなら「洗脳」が溶けないままに、その合格者100人余に入れなかった、その前の段階で否定された子はどうなるのか。


「これに限りませんが、普通は子供なりに軌道修正するじゃないですか。中学受験でふるい落とされて、高校受験でふるい落とされて、校内や予備校でふるい落とされて、どこかで『それなり』に落ち着きます。でもふるい落とされても洗脳が解けない、洗脳され続けてしまう、勝手に思い込んでしまう場合があります。その子次第、と言われればそれまでですが」


 かけっこの速い子も、いずれ明確なタイムでふるい落とされる。受験も模試なり定期テストで点数は出る。こちらも明確な偏差値の輪切りで志望校を決めるわけで、理IIIも不合格はもちろん受けるに達しない、という結果が100mの持ちタイムと同様に突きつけられる。芸術や創作の世界は才能のあるなしを量るに難いが、数字の世界は残酷なほどに明確だ。


「はい。だから怖いんです。それまで理IIIに行くはずと思い込んでいた受験エリートがその100人にはなれないと知ってしまう。洗脳がひどい場合や思い込みの激しい子だとおかしくなる子もいます。とくに学校のプレッシャーと家庭のプレッシャー、最近だとネットのプレッシャーの三方向で追い詰められた子は『それなり』に落ち着けなくなるのです」


 極端で多くの大人からすれば異常に思えてしまうかもしれないが、ずっとそう思い込まされてきた子供、その期待に応えてきた子供からすれば「逃げ場」が無くなってしまうということか。またネットというのは匿名掲示板やSNSはもちろん、学校や塾の仲間で内々に作られるメッセンジャーアプリによるグループのことだろう。昔はなかったこうした情報の氾濫もまた、多感な思春期には堪えるかもしれない。


「学校や教師によっては東大か医学部以外は負け、と考えるトップ校は普通にあります。私学も営利企業ですから理III合格者はいい宣伝になりますからね。それでも受験段階で多くはエリートとしての『それなり』に落ち着くのですが、そうなれない子は追い詰められます」


 なんだか甲子園常連の野球エリート校のようだ。少年野球時代はエースで4番でも3年間スタンド応援というのは珍しくない。もちろん大半は『それなり』の進路に落ち着いたり、野球部を去っても別の夢に切り替えたりするが、不器用で真っ正直な子供によっては行き場をなくす、いや、生き場をなくしてしまう。真摯で本気だったからこそ。親も学校も手を差し伸べなければ、そう錯覚してしまう。


「残酷ですけど、日本の上位100人とかになるって時点でなれない確率のほうが高いわけです。オリンピックのメダリストとか宇宙飛行士に比べれば間口は広いですが、プロ野球も理IIIもその点は同じです」


 同世代で「世界の数人」に比べれば間口が広いのは確か。例えばバレエは「世界一残酷な職業」とまで言われるほどに死屍累々である。日本限定なら将棋がその究極のひとつだろうか、あれは本当に残酷で、それをわかって目指すものだ。プロになれるのすらごくわずか、ほとんどが奨励会で挫折する。中には不幸な道をたどる人もいる。それらに比べれば同世代の100人は間口としては広いが、やはり理III合格が究極の「選ばれし受験勝者」であることには変わらないのだろう。


「医者になるという夢なら国公立でも私立大学でも、当たり前の話ですが東大以外たくさんあります。日本の最上位クラスの私立高校の子ならどこかの医大には入れるでしょう。裕福な家ばかりですしね。でも医者になりたいのではなく受験の頂点に立ちたい子もいるんです。そういう子は理IIIでなければだめなんです。そういう子の親も教師、学校もです」

たとえ勉強ができても心の不器用な子は追い込まれると思考停止に陥る

 2018年度から理IIIは面接試験が復活した。一連のオウム真理教事件で理IIIはじめ多くの理系エリートがカルトにハマり犯罪に関与したこと、合格者に同じ私学の高校生が大半を占めたことなどをきっかけに1999年度から面接が導入されたが、2008年度から廃止されていた。


「東京大学受験指導の専門塾とかにいる『医者になる以上に理IIIに受かりたい』という受験マシーンを排除するためでしょう。もっとも、そういう塾はその対策もしてますが」


 日本中の一番勉強ができる子供たちが受けに来るだけに東大、とくに人の命を扱う医師や研究者を養成する理IIIとしては対応に苦慮していることが伺える。あくまで目的は医師養成なので当然だ。


「それでも受験エリートはまず東大を目指すんです。理IIIを目指すんです。それは社会も認めています」


 受験業界の長い彼の話なので極端に思えるかもしれないが、こうしたトップ校は存在し、なにがなんでも理IIIという親子は実在する。テレビも東大には「東大王」として「王」までつけている。社会もそれを受け入れている。むしろ煽っている。


 しかし彼もその危険は知っている。最後に教えてくれた。


「いくらトップ校でも、挫折のリスクヘッジを子供に作らない学校や親は危険です。勉強ができることと心の器用さは違います。たとえ勉強ができても心の不器用な子は追い込まれると思考停止に陥ります」


 また中学受験や高校受験の成功を過信するのは危険だという。


「大学受験とは別です。子供によっては中学(高校)受験まで、という極端な子もいます。遊びまくったとか勉強サボったでなく、ただ大学受験に向いてない子ですね。不思議なんですが、偏差値70超えの学校に入れたのに大学受験では中堅大学がやっと、なんて子もいるんです。そのときこそ『それなり』に落ち着くことを親も学校もサポートすべきですね」


【プロフィール】


日野百草(ひの・ひゃくそう)ジャーナリスト、著述家、俳人。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題や生命倫理の他、日本のロジスティクスに関するルポルタージュも手掛ける。





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表現弾圧という「ファシズム」が勢力拡大している

「表現の自由」をどんどん縮小していく圧力について、筒井康隆のインタビュー記事である。末尾が尻切れトンボだが、「残りは文芸春秋本紙で読め」ということだろう。
いかにも筒井康隆らしい「まともな思考」であり、言っていることはすべて正論だ。小説などの中で何を書こうが、それは表現の自由である。右翼作家だろうが左翼作家だろうが、表現の自由はある。内容がアホらしければ、それは「まともな人間」には読まれないだけだ。マルキ・ド・サドの作品によってサディズムが生まれ、広がったわけではない。そういう性的嗜好の存在が表面化し、議論の対象とすることが可能になっただけである。
まあ、そのうち「聖書」も「論語」も禁書になるかもしれないwww

(以下引用)


 
 
 
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 30年以上も前に出した『残像に口紅を』という私の小説が、いま話題になっているそうです。20代の若者が動画投稿サイトで話題にしたところ、急に売れ出して、4ヶ月で11万5000部も増刷されました。


 4年くらい前には同志社大の後輩、タレントのカズレーザー君がテレビ番組で紹介してくれたのですが、あのときも10万部くらい売れました。若い人が紹介してくれることで、これまで僕の作品など読んだこともないような中高生が手に取ってくれていると聞きました。時代を超えて読みつがれることは、作者冥利につきますね。


 この小説は日本語の音が消えていく「文字落とし」という、和歌などで古来より使われている手法で書いています。「あ」という音がなくなれば「愛」という言葉は消えるし、「あなた」と呼びかけることもできなくなる。「ぱ」という音が消えると「パン」という言葉もなくなり、「香ばしく柔らかい食べ物」と言い換えざるをえなくなる。その上、小説の世界ではパンそのものが消失するのです。


表現規制を題材に『残像に口紅を』を書いた筒井康隆氏© 文春オンライン 表現規制を題材に『残像に口紅を』を書いた筒井康隆氏

 この徐々に言葉が消えていくという設定が、〈表現の規制が強まり、これまで使っていた言葉が消えている今の社会状況を予言していたのではないか〉と、言われたことがあります。たしかに、いまの時代、そうした読み方もできるでしょう。


 この小説を書いているときは、ユーモアのために、ある言葉がなくなると、できるだけ長ったらしい言い回しに置き換えてやろうと意図していました。いま振り返ってみると、いわゆる差別語の言い換えに対する皮肉も、意識の中にはあったように思います。

「美人」「美女」がルッキズムと批判される時代

 聞くところによると、いまは「美人」「美女」という言葉は、「ルッキズムだ」ということで、使いにくくなっているそうですね。このルッキズムというのも変な言葉ですが、外見至上主義とか、外見にもとづく差別や偏見を意味するのだとか。「美女」という言葉を使っていけないのであれば、もっと下品な言葉で、いくらでも言い換えはできます。まあ、ここでは止めておきましょう(笑)。


 ルッキズムだけではなく「主人」「旦那」や「奥さん」のように、性別によって立場や役割を決めつけるような言葉も使わないほうがいい、とされているとか。


 私に言わせれば、その程度でワーワーと騒ぎ立てるほうがおかしい。それこそ本当の言葉狩りになってしまいます。


 1993年ですから、いまから30年ほど前になりますが、私はこんなことを書いています。


〈小説に美人が登場しても差別につながるという常識が一般化した社会を想像することもでき、そんな想像を現実よりも先にしてしまうのが「炭坑のカナリヤ」としての作家であろう〉


「炭坑のカナリヤ」というのは、炭坑夫がガスの突出をいち早く知るためつれて入る、ガスに敏感なカナリヤのことで、これは私が発表した「断筆宣言」の一部です。


〈93年、国語教科書に掲載された筒井氏の短編「無人警察」に対し、日本てんかん協会が〈てんかんに対する差別を助長し、誤解を広める〉として抗議したことを契機に、筒井氏は「差別表現への糾弾がますます過激になる今の社会の風潮は、小説の自由にとって極めて不都合になってきた」として、「筆を断つことにした」と宣言した。〉


〈筒井氏は、てんかん協会と2度、往復書簡を交わして、互いの権利を尊重することで合意したが、断筆はその後も3年以上も続いた。解除されたのは96年。角川書店、新潮社、文藝春秋の3社と、「著者に断りなく表現を変えない」「抗議があった場合は著者の意思を充分に尊重して対処する」といった内容の覚書をかわして、執筆が再開された。〉


 このとき「断筆しろ」と向こうが言ったわけではありません。こっちが勝手に、半分おもしろがってやったのです。すると向こうが驚いたし、こちらも向こうが驚いたことに驚いた(笑)。


 個人が批判的なことを言ってくることは、その前からありました。しかし、あの時は、れっきとした団体が自分たちの名前を出して批判してきたので、これは、いかんなと思い、自分の立場を守り、表現の自由のために、真摯に対応しました。和解後も断筆を続けたのは、取材しておきながら小生の意見を少しも報道せず、その後もひたすら自主規制に走るマスコミの姿勢に不満があったからです。


 そのころから、いずれ「美人が登場しても差別」になる時代が到来するだろうとは思っていました。小説家としては当然のことですが、僕は基本的に「表現は自由だ」という立場です。「美人」でも「美女」でも使うのは自由だし、気に食わないのであれば、「おかしい」と言って騒ぐのも自由です。


 てんかん協会との往復書簡でも、僕は、〈抗議する自由と表現の自由を尊重し、このふたつの自由が共に何かを勝ち得たという形で終結を迎えることが望ましい〉と書いています。


 いま僕には誰も何も言いません。昔は出版社の校正者が、原稿に「この表現でいいですか?」と赤ペンで書きこんできましたが、ここ10年はなにを書いても、校正者の書きこみはないし、編集者も何も言わない。もうじき死ぬと思われているのでしょう(笑)。この人はもはやレジェンドだから、古典としての扱いにしようということなのか。


 いまでも若い作家に対しては、そのような校正からの指摘があるそうですね。それを見て、「この表現はいかんのか」と思って他の言葉に変えてしまうとしたら、僕に言わせると、作家のくせに何たることか、と。

「昔の作品を『直せ』と言われても、僕は直しません」

 昔の僕の作品を読み返したら、それはひどいものです(笑)。差別語満載。よくこんなことを書いたな、ということを平気で書いている。


 しかし、そうした昔の作品を「直せ」と言われても、僕は直しません。この時代に、こういう差別語があったという証明になるからです。小説は書かれたその時代の表現なのです。時代がたてば表現が変わっていくのは当然で、現在とはそぐわないものがたくさん出てくる。そうした言葉を残しておけるのは小説ぐらいです。


 僕は言葉のプロではなくて、あくまで作家のプロなのです。だから表現の自由の味方だし、その立場で発言してきました。以前、新聞社のインタビューでこう言いました。


「戦争が好きとあえて言ってみたらどうか。それが小説家だと思う」


 戦争について議論すると、みんな戦争反対ばかりですが、それでは議論は深まらない。人間の本質として戦争はなくなりません。戦争は面白いものなのですよ。小林信彦が『ぼくたちの好きな戦争』なんて小説を書いているし、僕も昔からそう思っていました。面白くなければ、こんなたくさんの戦争映画ができるわけない。


 自分が戦争に行くのは嫌だし、戦争を起こされたらたまったものではないけど、戦争は面白い、戦争映画は面白いと言ってもいいと思います。戦中や戦後、僕は人間の醜さを目にしたけど、千里山から見た大阪の大空襲を見て、美しいと思った。そのとき、そのときで感じたこと、考えたことを自由に言ったり、書いたりすればいい。まあ、無責任なものですよ。小説家だから。

死ぬまで追いつめてはならない

 ただ表現の自由か人権かと問われれば、一も二もなく人権、さらにいえば命のほうが大切です。


 誰が何を言ってもいい時代だからといって、SNSに非常に差別的な言葉や、誹謗中傷を匿名で書きこんでいる輩がいます。まずは、この問題に取り組むべきではないでしょうか。


 僕は30年前に朝日新聞で『朝のガスパール』を連載したとき、「パソコン通信」で読者の声を集めて、それを連載中の小説に反映させることを試みました。このとき投稿には署名が必要でしたが、にもかかわらず言葉が過激になっていくことがあった。電子空間で人は凶暴になるのです。


 一昨年、「テラスハウス」というテレビ番組に出演していた女性が、匿名でSNSに書きこまれた誹謗中傷に痛めつけられ、自殺にまで追い込まれたことがありました。


(筒井 康隆/文藝春秋 2022年2月号)





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Day dream believers(白昼夢信者「患者」たち)

「神戸だいすき」記事だが、私とは正反対の考えである。まあ、一般的には「神戸だいすき」さんの思想のほうが好感を持たれるだろう。
サイモンとガーファンクルの「冬の散歩道」の中に「僕が自分の可能性を考えていたころ、僕は非常に気難しかった」という一節がある。「気難しい」は意訳で「I was so hard to please」が原文だ。つまり、何を見ても愉快な気持ちになれなかったわけだろう。それは「when I think of my possibility」という年頃のことだったのだが、自分の可能性を考えていたこと自体が、その原因ではなかったのか、と私は思うわけだ。これは、夢を持つこと(夢が実現できないこと)で憂鬱になっているのと同じだろう。つまり、「神戸だいすき」さんの40歳になる娘さんは、その状態であるわけだ。
前に「向上心を持つのはいいことだろうか」という変な問題提起をしたが、それと同じく「夢を持つことの危険性」あるいは「夢を見たまま現実を生きることの危険性」を私は言っている。私は昔から他人に「夢を持て」とか「夢は必ず実現する」と言う連中が大嫌い(世の「成功者」はだいたいそんな無責任なことを言うものだ。そして、ほとんどの若者はそれに洗脳される。)だったのだが、夢を持つことで不幸な人生を送ったとしても、それはあくまで自己責任で、そういう「夢先案内人」は何も責任は取らない。自分はいい事を言い、いい事をしたとすら思っているのだろう。だが、現実社会で成功者となれるのは何%いるだろうか。「小さな夢」なら成功可能性も高いだろうが、たとえば、貧しくても、家族が平和に幸福に生きていければいい、という「夢」で我慢する若者はこの資本主義社会でどれくらいいるだろうか。
「自分は東大理Ⅲに入る!」という大きな夢を持った高校生のあの事件は、「夢を持つことの危険性」を示していないだろうか。
もちろん、「夢」を持つな、というわけではない。ただ、夢は寝て見るものでしかない。目覚めていても夢を見るような生き方の危険性を私は言っているのである。夢ではなく「目標」を持ち、その「プラン(行動計画)」を持つなら大いに結構だ。
「神戸だいすき」さんは、後者だろうが、その娘さんは前者に見える。「夢」という言葉を安易に使うことは危険だと私は社会全体に対して主張する。



若いころに見る夢の大きい小さいは、問題ではない。

問題は、その夢をいつまで見続けるかだ。(シュバイツァー)


なんか、急にね、娘が、

「平穏無事に、生活できていて、家族も仲がいいのは、本当に、ありがたいことだと思うんだけど・・・でも、私の夢がまだ、かなわない。

こんなこと、不満に思うなんて、あの、お金持ちの娘が、水たまりを通るときに、貧乏人には手に入らない「白いパン」を、投げ込んで、そのパンを踏んで、靴を汚さずに渡ろうとしたら・・・

白いパンもろとも、底なしの地獄に落ちた…おとぎ話みたいに、地獄に落ちそうだけど」

と、いってきました。

まだ、40代なのに。

私からみたら、時間もたっぷりあるのに。

「大丈夫よ。いつか、かなうって。今は、そのために必要な準備期間だって。

願い続ければ願いはかなう。」

「ほかの人が、成功しているのを見ると、うらやましくてたまらないの」


「ま、そりゃあそうだろうけど。

私なんかね、いまだに、夢がかなっていない。まだ、やり遂げたいことが、残っている。」

「だから、ママは元気なのか?」

「うん、まだ、やり遂げられないことを思うと、悔しい。悔しいから、頑張る。だから、元気」



話ながら、考えてみたら、私は、多くのことを手掛け、多くのことをともかくやり遂げたけど、「夢」は、近づくたびに遠のいて、いまだ、かなわない。

それどころか、時代の変化が急激で、昭和時代に描いた夢は、すでに、現実味がない。

一人ではできないから、だれか私より若い世代を協力者に育てないと、だめだわ。

最近、以前、伝統文化の教室でお世話していた子が、中学生になって不登校だと知った。

しめた、不登校なら、暇だろうから、この子たちを、呼び込もう!!

いい考えだ!と、思ったけど、

ま、そうは問屋がおろさないわね、
学校にいけないか、行かないには、深い大きな問題があるはずで、健康な普通のくらしの子に「スーパーボールすくいの世話係をやって」というみたいに、簡単なはずない。

そこまで到達するまでに、なにか、深い溝を飛び越えないとだめだよね。

一緒に、飛び越えたいけどね、私は。

前に弟子にしようとした「不登校の男の子」は、めでたく学校に復帰できて、高校生になった今では、クラブ活動をかけもちするモテモテ男子になってしまった。

めでたい話だが、私のそばから飛び立った。

いいよ、今度出会う子たちも、飛んで行ってもいい。でも、家にこもっているのなら、私と一緒に、ちょっと、跳ねてほしい。

人生は、長い、学校だけが生活じゃない。学歴だけが重大じゃない。

夢は、むしろかなわないところに値打ちがあるかも。

追い続けるのが、楽しいのかも。


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Fuck(e)村とFucking町

これは、下ネタジョーク扱いされそうだが、案外大きな問題を含んでいそうだ。
つまり、SNSでは英語が完全に支配言語になり、それを世界中が許容しつつあるということだ。要するに、DSの目指すone worldが、文化面から浸透しつつあるわけだ。

(以下引用)

スウェーデンの卑猥な名称の村 住民が名称変更求める SNS投稿ブロックで

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スウェーデンのFucke村の住民は、村の名称が原因でSNSへの投稿が常にブロックされるとして、村の名称の変更を求める申請書を国土局に共同提出した。The Localが報じた。
11軒の家で構成されるFucke村は、フケション湖のほとりにある。地元住民は、村の名称をDalsro(「静かな谷」という意味)に変更することを望んでいる
申請書は、国家遺産委員会と言語民俗研究所によって検討され、検討期間は最大6カ月。
2007年、人口わずか60人のスウェーデンのFjuckby村の住民15人が、村の名称をFjukebyに変更しようとしたが、国土局は言語民俗研究所の助言に従い、従来の名称を残した
一方、オーストリアのFucking 町は幸運に恵まれた。住民は町の名称をFuggingに変更することができた





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東大理Ⅲという、学歴信仰の象徴

私は20年か30年くらい前から、「暗記知識の有無や量が仕事の大半を占める職業(医師、法律家など)は、そのうちコンピュータ(あるいはAI)に駆逐される」と言ってきたが、現実もそうなりつつあるようだ。和田秀樹の下の記事がそれを裏付けている。そして、東大に入れる成績があるなら地方国立大医学部を目指すほうが賢いとも言ってきたが、東大ブランド自体はまだ社会的にはメリットはあるだろう。つまり、先輩たちの学閥に入れるわけだ。確かに官僚になるなら、東大を目指すのが最善ではあるが、官僚の仕事は、政治家の下働きである。で、政治家になるには学歴も社会常識も人格も不要であり、舌先三寸の能力、つまり平気で嘘をつく能力のほうが有利であることは橋下某などを見ていれば分かるだろう。東大の、それも理Ⅲを目指す意味は何なのか。街中の臨床医(開業医)になるのに、理Ⅲである意味などほとんど無い。
自分はどんな人生を送りたいのか、と真剣に考えた時に、東大、それも東大理Ⅲという、最難関を選ぶどんな理由があるのだろうか。まあ、「最高峰を目指す」事自体に「自分を英雄と思いたい」気持ちがあるのだろう。格闘技を学んで世界最強の男になりたい、と馬鹿な若者が思うようなものだ。まあ、そういう馬鹿の中から東大理Ⅲ合格者や格闘技の世界チャンピオンも出るわけだが、その裏には無数の死骸が転がっているのである。で、時には、例の事件のウルトラ馬鹿のように、大量殺人をして名前を売ってから死ぬことを目指すキチガイも出て来るのである。まあ、東大合格者数を誇る有名難関高校や予備校業界、東大信仰を煽るマスコミは、あの殺人鬼の共犯というか、生みの親である。

(以下引用)





 
 
 
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「医者になれないなら人を殺して、罪悪感を背負って切腹しようと思った」。1月15日、大学入学共通テスト初日に、高校2年生が受験生ら3人を刺傷し、逮捕された。精神科医の和田秀樹さんは「受験生の中には『絶対、東大』『絶対、医学部』といった、かくあるべし思考に陥って、それができないと『ダメな人間だ』と自分を責める人がいる。実際には他の選択肢もあり、むしろそのほうが社会的地位や収入が高いケースもあることを知ってほしい」という――。

今、日本には「死にたい」と思っている人が約40万人いる

大学入学共通テストの初日である1月15日に、試験会場・東京大学の前の歩道で高校2年生が受験生を含む3人を突然切り付けて、殺人未遂容疑で逮捕された。


私は精神科医であり、受験指導にも関わる仕事をしているためか、メディアから取材依頼の電話が殺到したが、ほとんど断らせていただいた。なぜなら、この少年が「東大を目指していた。医者になれないなら人を殺して、罪悪感を背負って切腹しようと思った」と供述している、と報じられたからだ。


これが事実なら、「拡大自殺」を考えていたことになる。拡大自殺とは、騒ぎを起こして多数の人間を殺し、死刑になることで自殺しようとする行為である。


(中略)


受験生の中に「医学部でないといけない」「東大でないといけない」といった狭い思考になっている人がいたら、どうか「ほかの道・生き方」があることを知ってほしい(これは、東大や医学部に限らず、今冬に名門校を受験する小学生や中学生にも言える)。


私自身、灘高校にいた頃、勉強のやり方を工夫することで成績が上がったこともあって、「医学部に行くなら、東大理Ⅲしかない」と思っていた。それしか頭になかった。ただ、現実に東大理Ⅲに入学し、医学部に進学し、そこを卒業したからこそ、この考え方は間違いだったと断言できる。


出身大学についてあまりネガティブなことを言いたくないが、東大医学部には組織的な問題を抱えている。医学部なら東大だ、と思い込んで受験し合格した人は卒業した後、今度は東大医学部内で偉くなろうとするかもしれない。でも、それはやめたほうがいい。

なぜ、東大医学部はノーベル賞受賞者を出せないのか

理Ⅲ=東大医学部は昔も今も受験界の最高峰であり、最難関である。しかし、ノーベル賞学者を一人も輩出していない。世の中に知られた研究成果や業績にも乏しいと言わざるをえない。


なぜか。それは、上が威張りすぎているからだ。


同じ東大でもノーベル賞学者を数多く輩出する物理学科(理学部)では、教授のことを「先生」と呼んではいけないそうで「さん」で呼び合うそうだ。研究者が対等でないと、自由な研究ができないという考えがあるからだという。


東大医学部内には教授を頂点とする絶対的ヒエラルキーがある。だから、威張っている教授に対してご機嫌伺いするのは、部下なら当然のことだ。


私の結婚式でスピーチをしてくれた高校時代の親友がいる。彼も東大医学部に合格した。ある時、私は執筆した原稿の中で、高齢者の患者へ薬の使い過ぎではないかと彼が所属する医局の教授の批判をした。すると彼は自分の結婚式に私を呼ばなかった。以来、同窓会の案内くらいしか連絡がないような状態となっている。彼は教授のお気に入りであったせいか、現在、東大医学部教授になっている。正直にいえば、研究者としての業績が特に優れているとは思えず、その地位をなぜ手にできたかわからない。


そのくらい教授に気を使わないといけない医局が多い(もちろん、そうでない教授もいると信じているが)。今どき、そんな「白い巨塔」のような閉塞的な組織が何か成果を残せるはずがない。部下は、私生活も自由でないし、研究も自由にできるとは思えない。

東大医学部は臨床の腕を磨くのに適した環境ではない

臨床の腕を磨くにも東大医学部は決して適した環境ではない。教授になるのは、大した研究業績もないものの、論文の数だけは多い人であり、天皇陛下の手術の際も問題になったように臨床の腕のいい人が教授になることはめったにない。


残念ながら医者というのは、師に恵まれないとあまり臨床の腕は上がらない。


私が老年精神医学の分野でそれなりに自信をもてるのは、浴風会病院(東京都杉並区)という高齢者専門の総合病院で故竹中星郎先生という老年精神医学の第一人者のもとで学ぶことができたからだ。


2004年に導入された臨床研修制度も東大医学部卒の価値を下げた。この制度により、どこの大学医学部を出ていても、好きな研修先(病院)が選べる。東大を出ていないと研修できない病院などなくなったのだ。


希望した病院の研修医の応募が多い場合、選抜の試験が行われる。この際、大学在学中の成績が重視されるので、東大より偏差値の低い大学で優等生のほうが、東大の劣等生より、希望した研修先に入りやすいとされる。


ということで、東大医学部は現状、研究も冴えない、臨床の腕も大して磨かれないダメ組織という側面が強い。しかも、医学部では「金儲けに走るのは恥」といった古い価値観を植え付けられるので、大病院の経営者になったり、起業したりしてリッチになろうとする人も少ない。


医学部を希望する受験生に対して、東大を勧める気になれない。だから、私も自らが主宰する通信教育や進学塾で、医学部受験希望者に対しては無理せずに実力に見合う大学に入ったほうがいいと指導している(たまに、親のブランド志向がひどくて、指導に従わないで1年を無駄にする人もいる)。

「医学部人気」が沸騰中だが、医師の未来は明るくない

近年沸騰している受験生の間の「医学部人気」そのものにも私は疑問を感じている。


とくに首都圏以外の地方では、成績優秀な生徒が医学部を志向する傾向が強まっている。例えば、鹿児島のラ・サール高校は1985年に117人の東大合格者数を誇ったが、2021年は33人。しかし国立大学医学部合格者数は毎年80人から90人のレベルへ上昇した。私が卒業した灘校でも国公立大学の医学部の合格者数は増え、2021年で63人に達した。


地方では、成績のいい子は東大(文系含む)に行くより、国公立大医学部を選択する流れができつつある。その背景にあるものは何か。


東京に住んでいると、いわゆる六本木ヒルズ族には東大出身者が多いことを知ることになり、東大卒業後の成功モデルを実感できる。だが、地方にいると、東大に行くよりも、地元の国公立大の医学部を出て医者になるほうが安定的に高収入を得られるイメージが強い。最近のように政治家に逆らえず、不祥事が続く官僚の姿が報じられることが続くと、なおのこと東大への憧れは低下する。


頭のいい高校生はどうか視野を広く持ってほしい。進路は医学部でなくてもいいはずなのだ。医師より社会的地位が高く、安定して稼げる職種に就くことも十分に可能なのだ。

医師国家試験合格者は毎年9000人、いずれ医師余りになる

ここ数年、医学部ではない理系の研究者が昔と比べ物にならないくらい高収入を得る道が開かれているのに、そういう情報が地方に届かないのかもしれない。それを危惧した母校・灘校では、各方面で成功した卒業生が在校生に講演する会を定期的に行っているという。


私はこの20年以上にわたって一橋大学で医療経済学を教えているが、医者の将来が明るいものと思っていない。


医療費のほとんどが保険診療で賄われているため、政策的に「伸び」が抑えられている。それにもかかわらず、医師国家試験合格者は毎年9000人もいる。さらに今後、AI(人工知能)が進歩すると、いずれ医師は負かされるケースも出てくる。現在、多くの医師は患者への問診より、検査データや画像データを重視した診察をしている。そうなると診断能力や治療方針を決める能力においてAIに到底勝てないのだ。


先ほど東大医学部の閉塞性を指摘したが、ほかの医学部も似たり寄ったりだ。例えば、教授会での選挙で決まる精神科の教授で、私のように精神療法を専門とする医師が選ばれている大学は現在ひとつもないのはそのいい例だ。医療の中で「心の問題」が軽んじられているのだ。


これはとりもなおさず、医学部在学中の6年間に心にまつわる講義がほとんどない(精神科の講義でも神経伝達物質など脳にまつわる授業がほとんどになる)ことを意味する。


今回のコロナ禍でも、感染症学者が“自粛一辺倒”の方針を出すのに対して、大学の医学部から「これではうつ病が増える」とか、「高齢者の歩行機能や認知機能が落ちるリスクが高い」とかいった反論の声はほぼ皆無だった。


歯科医業界では勤務医が低賃金化し、開業医もその多くが経営に四苦八苦している。同じような道を、医師が歩む可能性がある。収入面でも医学部の未来は明るくなく、自由もなく、世界的研究の夢もない。これなら医学部を除いた、最先端の理系研究者になったほうがはるかにいろいろな面で有望なのではないか。


受験生のうつ状態の予防の観点から、私は声を大にして言いたい。


医学部に行かなければいけない、というのは幻想である。


ほかにもはるかに有望な道がいくらでもある。


医学部志望者(とくに東大を筆頭とした名門国立大学の医学部志望者)がもし勉強でいきづまっていると感じるなら、チャンスだとさえ言える。視野を広く持ち、自分の進路を考えてみてほしい。


---------- 和田 秀樹(わだ・ひでき) 国際医療福祉大学大学院教授 アンチエイジングとエグゼクティブカウンセリングに特化した「和田秀樹 こころと体のクリニック」院長。1960年6月7日生まれ。東京大学医学部卒業。『受験は要領』(現在はPHPで文庫化)や『公立・私立中堅校から東大に入る本』(大和書房)ほか著書多数。 ----------








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リベラル(無責任野党的存在)と無責任メディアが作る馬鹿世論

「新コロワクチンは無意味だと判明したが、3回目も接種したほうがいい。接種を進めない岸田政権はダメだ」という、支離滅裂な「日刊ゲンダイ」記事である。
まあ、政権批判さえしていれば部数が稼げるという、ただのリベラル風メディアに堕したようだ。


 一体、岸田政権のワクチン対応は、先進国に比べて何周遅れているのか。

とあるが、新コロ対策とその結果における「先進国」の惨状を知っていて書いているなら最低だし、知らないで書いているのなら、マスコミの資格は無い。

(以下「阿修羅」から転載)

オミクロン株は「ワクチン4回接種」でも防げない! イスラエルの研究で判明、3回目どうする(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/244.html
投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 1 月 20 日 16:00:04: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 




オミクロン株は「ワクチン4回接種」でも防げない! イスラエルの研究で判明、3回目どうする
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/300192
2022/01/20 日刊ゲンダイ


どうすればいい?(4回目接種を受ける男性=イスラエル)/(C)ロイター

 やっぱりオミクロンには、ワクチンの効果は薄いのか。今や感染者の半数近くがブレークスルー感染だ。沖縄では、3回目の接種を完了した人も感染している。

 イスラエルで実施された研究によると、何と4回接種しても感染を予防できないという。抗体は増えるものの、4回接種後も感染した例が報告されている。

 現在、イスラエルでは、60歳以上の高齢者や医療関係者を対象に4回目接種を進め、これまでに50万人以上が4回目の接種を終えている。

 研究は、イスラエル最大級の医療機関シェバ・メディカルセンターで行われた。ワクチンを4回接種した医療関係者154人について、接種から2週間後の抗体レベルなどを調べた。3回目接種の後よりもわずかに抗体は上昇したが、オミクロン株に対しては「部分的な防御」しかもたらさなかったという。

 主任研究員は、リスクの高い人への4回目接種は支持するが、対象を全国民に広げることには慎重な姿勢を見せている。

 これから日本は3回目の接種をスタートするが、あまり予防効果は期待しない方がいいのか。医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏(内科医)はこう言う。

「現在、使われているワクチンがオミクロン株に対して効果が低いのは、すでに分かっていたことです。やはり、オミクロン株に対応する新しいワクチンを打った方がいいでしょう。すでにファイザーは、オミクロン株に対応した新しいワクチンの生産を開始し、3月にも提供する予定です。恐らくイスラエルは、すぐに新しいワクチンの接種を始めるはずです。いずれ新型コロナのワクチンも、インフルエンザワクチンのように型に合わせて打つようになると思います。mRNAワクチンは、変異に応じた新製品を容易に開発できるメリットがある。でも、日本に新しいワクチンが入ってくるのは、まだまだ先でしょう。何しろ既存のワクチンの入手も難しい状態です。でも、たとえ効果が低くても、打たないよりは打った方がいいい。3回目の接種を進めるべきでしょう」

 一体、岸田政権のワクチン対応は、先進国に比べて何周遅れているのか。


関連記事
二年間の努力の結果 : 4回目のブースター接種を開始したイスラエルが過去最大の感染数を更新(地球の記録)
http://www.asyura2.com/21/iryo8/msg/318.html




1. 2022年1月21日 00:20:00 : 8GDyZLZrEk QnoxVUJUN3FyNU0=[5]  報告
どうするも何も、4回も打って防げないのに3回打つ必要はないというデータでしょ。

2. 2022年1月21日 00:38:09 : 8GDyZLZrEk QnoxVUJUN3FyNU0=[7]  報告
4回目なのは、3回じゃダメだったからで、3回目は2回じゃダメだったからで、2回は製薬会社が言ってることだが確か最初は1回でも効果が認められたとか言ってましたよね。

で、その4回目が効かないのだからもう推して知るべし。





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