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健康についての私的思想(前半)

別ブログに載せた記事の一部で、最初に書いたのは20年以上も前だったと思う。
その頃と頭の中身はさほど進化も深化もしていないせいか、再読しても面白かったので、ここにも載せておく。ただし、高血圧薬(降圧剤)について、ここに書かれた薬名は信用しないほうがいいと思う。私はその後、降圧剤の副作用で横紋筋融解症になり、一時は足が立たないほどの筋肉障害を経験したからだ。その薬が、ここに書かれたものかどうかは忘れたが、薬については慎重であるべきだろう。

(以下自己引用)

生活の技術(14)


 


第六章 健康法


 


 どのような優れた才能や人格を持っていても、健康に恵まれなければ、その人の一生は苦しいものになるだろう。健康は、良い人生の第一条件と言ってもいい。そこで、健康について述べよう。


 健康の留意点は、若い時期と中年以降では異なる。若い頃は体そのものを作る時期だから、運動と栄養摂取が健康法の中心になる。だが、中年以降は逆に、運動の危険性に留意すること(運動しすぎないこと)と、節食(栄養を摂らないこと)が中心になるのである。


 若い頃は、体そのものが頑丈で柔軟性があるから、極端な不摂生をしない限り、運動や食事の健康への害は無い。多少の過食も十分に消化される。


 だが、中年以降はそうはいかない。健康法も、より細心さが必要になる。若者へのアドバイスという当初の目的からいきなり外れるが、ここでは、私自身が現在興味を持っている、中年以降の健康法を中心に述べよう。


 


 


1 健康の基本は、節食である。


 


 人間の体は食物で維持されている。だから、何を食べるかは重要な問題だが、これが案外と軽視されている。旨い物、好きな物を食っていればいい、というのも一つの考えだが、健康を考えるなら、そうとばかりも言えない。美食は概して不健康につながるからである。だが、何を食うか以上に、どれだけ食うかは大きな問題である。中年以上の年代での不健康はたいてい肥満が原因であり、肥満の原因は食べ過ぎなのである。そして、運動で肥満を解消するのはほとんど不可能に近い。なぜなら、当たり前の話だが、運動をすれば腹が減り、空腹感が増すからである。それは実際に体が食物を要求しているということだから、運動をしながら節食をすると、(細心の注意を払ってウェイトコントロールをしているボクサーなら別だが)体に悪影響を及ぼしかねないのである。ちなみに、御飯一杯分のカロリーを消費するのに、1時間程度のジョッギングが必要だということである。忙しい現代人、特に怠惰な中年にそんなことができるものか。ジョッギング・ウェアを買い込んでジョッギングを始めても、三日坊主で終わるのが落ちである。また、運動で汗をかくと、体が水分を要求する。その時に、必要最低限度の水分補給で満足できる人間はほとんどいないだろう。必ず、必要以上の水を飲んでしまうのである。しかも、(くどく繰り返すが、)運動をして腹が減るのだから、飯がうまくて、もりもり食うことになる。結局、運動で体重を減らすのは、よほど意志が強い人間でないかぎり無理な話である。つまり、運動でダイエットに成功したのではなく、運動と節食を併用した結果、ダイエットに成功するというのが事実だ。もっとも、後で書くように、社会がやたらに人々に運動を勧めるのは、それが大きな商売だからであるのだが。


 


中年以降の人間で、過激な運動をしていいのは、それが仕事であるプロスポーツ選手だけである。プロスポーツマンは、体が資本であるから、最高のパフォーマンスのためには、肉体の限界に挑むこともあっていい。だが、なぜ一般人がスポーツなどする必要があるのか。それが健康にいいから、というのは幻想である。我々は、社会の圧力によって運動をさせられているだけだ。見苦しい体型の中年や老年の男女が、みっともないスポーツウェアでジョッギングやウォーキングをしているのは、あれは運動で健康になれるという幻想に踊らされているだけである。もちろん、医者という「専門家」も、運動によるダイエットの限界や害悪など知らないくせに運動によるダイエットを勧めているのである。なぜなら、誰もが「運動でダイエットしろ」と言っているから、というだけのことだ。


もちろん、私は運動のすべてを否定するわけではない。私が言いたいのはただ二つ。「運動ではダイエットはできない」ということと、「過激な運動は健康に害がある」という二つだけだ。しかも、たいていの運動は私から見れば「過激」なのである。


中年過ぎの人間にとっての過激な運動とは、極端に言えば、汗をかくくらいの運動のことである。体から汗が出るということは、体がオーバーヒートしていて、それを冷ますために発汗しているということだ。オーバーヒートが体にいいはずはない。基本的に、体が疲労するほどの運動、過度に汗をかくほどの運動は、体に害があると考えるべきである。ただし、これは中年以降の人間の話であって、肉体を形成する段階では、体を鍛えるための負荷も必要だから、自分がどの段階かを良く考えることである。


 さて、中年以降の不健康の原因は肥満であり、その原因が過食である、という前提で話を進める。肥満は高血圧、糖尿病、心臓病など様々な生活習慣病の原因であるから、この前提には問題は無いだろう。さらに、個人的な経験によれば、腰痛の原因も肥満であった。私は長い間腰痛に悩まされていたが、およそ8キロの減量に成功し、ウエストサイズを97センチから91センチまで減らしてからは、腰痛がまったく起こらなくなった。


 中年以降の健康維持(健康増進)には、まず減量をすることを勧める。だが、その方法として、運動をすることは、まったく勧めない。それは私が運動嫌いだからではなく、運動(だけ)でダイエットに成功したという例を身の回りでほとんど見たことがないからである。


 


私は、減量のためには、胃袋自体を小さくしなければならないと思っている。(これを知らない人が多いが、胃袋のサイズは、食生活の習慣によってわりと簡単に小さくなるのである。)胃袋が大きいと、どうしてもそれに見合った量の食物を摂取する。ところが、中年以降の人間は、若い頃からの習慣で、自分の体に必要な量以上の食物を摂取しているのが普通なのである。言い換えれば、消化能力は低下しているのに、胃袋のサイズは若い頃のままで、毎日毎日、余剰の栄養分を体に蓄積していくわけだ。これが肥満の根本的原因である。ちなみに、私は食事コントロールの基準は「カロリー」という目に見えない正体不明の存在よりも、あっさりと「重さ」で計算するべきだと考えている。もちろん、カロリーが少ないことが分かっている食物を利用するのはいい事である。


私の場合、経験的に言って、まる一日食事をしなければ、おそらく1キロほど体重が減る。ということは、1日に1キロ以上の食事をすれば、その分は体重が増加するわけである。200グラムのステーキはなかなか食いでがあるものだ。ならば、1食を300グラム以内に制限することは十分に可能だろう。つまり、試合を前にしたボクサーのように、常に自分の摂取する食べ物や飲み物をグラムで計算していくのである。まあ、そこまで神経質にならなくてもいいが。私の場合は簡単で、一食に御飯(米)を1杯だけなら現状維持、2杯食えば確実に体重オーバーである。1回だけならまだいいが、三食そうだと、その度に100グラム、200グラムと増加していくことになる。しかし、食事の際に、御飯1杯だけで済ませることができるか。ここが問題のポイントだ。


 


胃袋が要求するだけの食物を摂取している限り、肥満は避けられない。減量は、常に胃袋が要求する以下の食物量で食事を終えるという、「空腹感との戦い」なのである。


 では、それはどのようにすればいいか。ここに秘策がある。それは、満腹感は糖分の摂取で容易に得られるという事実である。


 毎回の食事は、腹八分で終わり、その代わりに、食事の最後を甘いデザートで終えることで、満腹感を作るのである。それがケーキなら、「ケーキ・ダイエット」ということになる。満腹感を胃袋の膨張で作らず、甘味の摂取で(心理的・生理的)満腹感を作り出すのが、無理のないダイエットの秘策である。(糖分は炭水化物などとは異なり、即座に血液に流れ、脳に「これで十分だ」という信号を送る。これが糖分による満腹感である。血糖値は、したがって、食後どれだけの時間が経過しているかで大きく異なる。糖尿病やその前駆症状は、いつまで時間がたっても血液中の糖分が無くならない状態である。)


 もちろん、ケーキ類を、腹が膨れるほど食えばどうしようもない。甘味を利用して摂取カロリー全体を減らすという目的からは逸脱してしまうことになる。ケーキばっかり食っていれば、ダイエットどころか、あっという間に糖尿病になるだろう。糖分は、通常は大量には摂取できないために、実質的なグラム数では、たいした量にはならない。しかし、絶えず糖分を摂取していると、常に血液の中に血糖が大量に存在しているわけだから、糖尿病に向かってまっしぐらということになる。私は、「食後に甘い物を摂る」ことを勧めているだけで、四六時中甘い物を食えと言っているわけではない。


 


 カロリーがゼロであるという蒟蒻を毎食食うというのもいいが、これは(それが続くかどうかは)料理法次第である。単なる想像だが、カロリーが少なく、ビタミンやミネラル、繊維質が多い食物と言えば、切り干し大根や干瓢などの乾物類、あるいはワカメやヒジキなどの海草類ではないかと思う。食事の中から炭水化物を減らし、そうした乾物や海草類を増やすのが、健康に良い食事ではないだろうか。


 さらに、水分の摂り方にも工夫がある。水分だって、むやみに摂っていては体に悪い。特に、コーヒーや酒が好きな人間は、水分を摂りすぎる傾向があるから、自己コントロールする必要がある。では、どのような工夫があるか。それは、まず、我々が水分を摂る時、常に必要以上の量を飲んでしまうという事実に目を向けることである。本当は、コップ3分の1、4分の1で口の乾きは抑えられるのだが、コップ1杯の水があるから、それを全部飲んでいるだけだ。しかも、夏場には、冷たい飲料の喉ごしの気持ち良さだけのために、必要以上の量を飲んでしまう。それを避けるには、コップやカップ1杯の飲料を、時間をかけて飲むことである。つまり、5分、10分に一回くらいの割で一すすりずつ飲むことだ。そうすれば、1杯のコーヒーで1時間、2時間もたすことができる。熱いコーヒーでなければいやだ、という美食家は、ダイエットなどやめることだ。机の上に置きっぱなしでは、飲料に埃が入るなどというのもナンセンスである。我々は四六時中、鼻や口から埃を吸い込んでいるのである。コーヒーの埃ごときが何だと言うのか。


 さて、腹八分目の食事を続けていると、ごく短期間で、体重は減ってくる。食わなければ、体重が減るのは当たり前であり、ダイエットができないのは、腹一杯食っているからなのである。このダイエットを始めて、しばらくすると、一回で食える食事の量そのものが減ってくる。これは、胃袋が小さくなったということである。こうなると、体重は低い水準で安定してくる。つまり、ダイエットにほぼ成功したということだ。もちろん、この段階でも、かつての「腹が膨れるほど食いたい」という欲望を退けるのは簡単ではないし、また正月やクリスマスなどで外食の機会が多くなると、大食いをすることもある。その危機を乗り越えて、食事そのものに対する欲望が少なくなれば、完全な成功と言えるだろう。


 以上が、「胃袋を縮小することでダイエットをする」という方法である。


 


2 運動は、健康に寄与する場合と阻害する場合がある。


 


 運動は、体に良いと信じられているが、必ずしもそうではない。運動が体に良い場合もあるが、体に悪い場合もそれ以上に多いのである。プロスポーツ選手で、スポーツ障害を起こしたことの無い者はほとんどいないし、素人でも、スポーツで無理をしたために一生治らない障害を生じさせた例も多い。スポーツがこれほどに勧められているのは、企業の金儲けと、「体育会系人間」を作って企業に奉仕させるためであり、それが個人個人の役に立つからではない。もちろん、スポーツは遊びだから、やれば楽しいし、ストレス解消にもなる。だから、スポーツの存在意義は十分にあるが、ただし、それが健康に結びつく場合は、それほどはない、というのが私の考えだ。特に、体が柔軟性を失っている中年以降のスポーツは、よほど慎重にやらないと、大きな障害を引き起こすことが多い。また、まったくスポーツをしなくても、節食の基本さえ守っていれば、それほど健康への悪影響は無いのである。養老院に入っているボケ老人など、運動らしい運動はしないが、あきれるほど長生きするものなのである。もっとも、彼らには「生きるためのストレス」が無いということで、ボケがかえって長命の原因になっているとも言えるが。(レーガン元大統領がアルツハイマーになったというニュースがずいぶん前に流れたが、まだ彼が死んだというニュースは聞いていない。もしかしたら、アルツハイマーになってから30年くらい生きているのではないか。)


 現代の日常生活では、スポーツ的な運動能力はほとんど必要とされない。せいぜい、仲間と遊ぶ時に巾が利くだけである。我々一般人に必要なのは健康であって、運動能力ではないのである。ところが、いざスポーツをやろうとすると、たいていの人間は運動能力の向上を目指し、無理に無理を重ねることになる。本来は老人向きのスポーツであるゴルフさえも、何ヤード飛ばしたとか、幾つのスコアで上がったとか、ハンディが幾つになったとかいった話ばかりである。まあ、競うことがスポーツの(あるいはゲームの)本質だから、そうした運動能力向上への努力を一概に否定はできないが、健康のためのゴルフで腰を痛めたとでもなると、(実際、ゴルフは無理な捻転をするスポーツだから、腰を痛める可能性は高いのだが)いったい何のためのゴルフか、ということになる。


 人間の肉体的なピークはおそらく25歳から30歳の間である。身体的な成長そのものはその前に終わっているが、20歳から30歳くらいまでは身体的にはベストコンディションの状態でありうる、ということである。そして、30歳を過ぎれば(早い人は25歳を過ぎれば)身体能力は下り坂に向かう。この事実をまずはっきりと認識することが、大事である。つまり、30歳以降の運動は、能力増進のためではなく、健康維持を目的とすべきなのである。そして、健康維持のためのスポーツの大原則は、「無理をしない」ということであり、その目安は、「汗をかくほどはやるな」ということだ。おそらく、この「汗をかくほどはやるな」には、反論の嵐が沸き起こるだろうと想像しているが、これほど簡単な目安は無い。もちろん、運動をしてまったく汗をかかないことは不可能だし、夏場はじっとしていても汗をかくのだから、私が言いたいのは、「大汗をかいてゼーゼーハーハーと息を切らすほどの運動はするな」ということである。


 肥満について、前の節で述べたことをもう一度言っておこう。


 現代社会では、学校生活が終了すると、運動の機会はほとんど無くなる。だが、我々の胃袋は、身体の最盛期の容量のままなのである。そして、我々の食欲は、胃袋の容量によって決まる。つまり、我々は、自分の体が必要としている以上の量を常に摂ることになる。これが、20歳過ぎから30歳にかけて体重が増加する原因である。それは「肥満」なのだが、若い体ならば多少の無駄肉がついてもそれほど見苦しくはならないので、多くの人間はこの体重増加をほとんど気にしない。そして、中年以降になると、今度は体型が変化してくる。つまり、上体の筋肉が落ち、下腹部に脂肪が溜まった見苦しい体型になるのである。この時になって、初めて自分の肥満を意識し始めるのがたいていの人間である。そこで、ダイエットのために運動などを始めるのだが、それでダイエットに成功した人間など見たことがない、というのは前に書いた通りだ。


中年以降の運動は、スポーツではなく柔軟体操を主体にするのが良い。その方法については第4節で詳述するが、ここでは、「スポーツは不健康のもとだ」と、スポーツ万歳の世間の風潮への嫌みを言っておくだけにしよう。


健康法についての基本は、以上の2節で述べたので、後は簡単に説明していくことにする。


 


3 節食は、食欲というストレスとの戦いである。


 


 ダイエットの大敵は空腹感であり、それも実際に腹が減っていることによる空腹感ではなく、腹が減ってなくても「腹がはち切れるほど食いたい」という心理的空腹感である。そして、この心理的空腹感は、仕事などのストレスが強いと、生じやすくなる。つまり、何はともあれ、腹が一杯だというのは、「満たされた状態」なのである。たとえ精神的には不幸であっても、腹一杯食ったその時だけは、何らかの満足感はある。そこで、生活の他の部分で満たされない人間は食い物による満足感(充足感)を求め、そして肥満への道を進んでいくことになる。肥満に悩む人間は、自分の食欲が、そうしたストレスの結果でないかどうか、我が身を顧みて、もしそうならそのストレスの根本を断絶することである。もっとも、生きること自体がストレスみたいなものではあるが。


 


4 運動は、鍛錬よりも調整を主とせよ。


 


 運動の目的は、年代によって異なる。成長期には、頑健な身体作りと運動能力の向上を運動の目的としてもいいが、成長期が終われば、日常生活を快適に生きるための健康体の維持が運動の目的となるべきである。その目安は、「疲れるほどは運動しない」と言うに尽きる。かりに、ハードな運動で運動能力を向上させたとしても、しばらく運動をやめれば、また元の黙阿弥である。若い頃に体を鍛えれば、(特に、強い骨格を作れば)それは一生の財産になるが、中年以降に強い運動をやることは百害あって一利無しである。調整程度の運動ならば、わざわざフィットネスクラブなどに行かなくても、毎日の小さな身体行動の中でできる。たとえば、爪先立ちや片足立ちを数秒続けることや、両腕を大きく後ろにそらして、胸を張る動作をするだけでも十分である。犬や猫を飼っている人は、彼らがしばしば大きく伸びをするような動作をしていることに気がつくだろう。そうした「柔軟体操」が、もっとも大事な運動なのである。つまり、同じ姿勢を続けがちで、体が萎縮しがちな現代人には、体の可動域を広げ、体を柔軟にするのが、望ましい運動であり、跳んだりはねたりする能力は不要だということだ。


 


5 良い姿勢と、柔軟性が、望ましい体調を作る。


 


 良い姿勢とは、背筋の伸びた、歪みの無い姿勢である。よく言われることだが、頭の上から一本の糸で頭を吊り下げられたイメージを常に持つと良いだろう。体全体がリラックスし、無駄な力・無理な力が入っていない状態が望ましい姿勢である。


 座業の人間は、特に姿勢が悪くなりがちである。パソコンの画面を近々とのぞき込み、背中は猫背、首も前傾して曲がっている。こうした状態が続くと、まず頸骨の変形が生じ、神経が骨に触るようになる。そうなると、医者のお世話にならざるを得ない。当然、首の変形だけでなく、肩こり、視力低下など、いろいろな障害が起こる。


 対策としては、常に自分の姿勢を意識し、定期的に修整するだけである。


 視力については、時々、遠くを眺め、まぶたを手でもみほぐすなども効果があるだろう。


 体の柔軟性を保つことも大事である。


 現代社会では、人は体をある範囲でしか動かさないため、関節の可動域がどんどん小さくなる。ダンサーやバレリーナほどの可動域は不要だが、可動域が大きいほうが、怪我をしにくいのだから、柔軟体操を時々やるのはいいことだ。


 



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テレビで「知識」を得る馬鹿大衆

カマヤンのツィッターで知った記事だが、掲載サイトの名前は失念、というか最初から見てもいない。まあ、追跡するのは容易だろう。記事拡散は記事筆者の本意にかなうだろうと思って転載する。

(以下引用)


bunshun.jp



清水氏のところに、さる民放TV番組のADから電話。なんでも「枝豆は健康にいい」をテーマに企画が進行中とのこと。
まあ、体にいいだろうね、あれ。




そしてADは問う。
伊達政宗ずんだ餅を発明したというのは本当ですか?」
まあ、重野なおきの漫画にも出てきた一説だが…


残念ながら根拠は無い。むしろ、銚子や野田など江戸の大消費地を睨んだ醤油の製造地が、原料となる大豆の供給を東北地方に期待し、その結果として大豆生産が盛んになった副産物であり、そういう歴史を紹介したほうがおもしろいよ、…と清水氏は、歴史学者らしくアドバイス。やさしー!!




し。


ここから、一気にすごいことになっていく…


……向こうは「他に政宗に詳しい研究者の方はご存じないでしょうか」と聞いてきた。要するに、「オマエじゃダメだから、もっと詳しいヤツを紹介しろ」というわけだ。それでも心の広い僕は、「政宗」の専門家数人の名前を教えてあげて、丁重に電話を切った。
ところが、数日後、その同じADさんから、また電話がきたのである。聞けば、僕が名前を出した研究者からは、いずれも「ずんだ餅政宗が発明したものではない」と、にべもなく断言されてしまったという。そこで、困っているので、再度先生にお願いしたい、というのだ。
「いやいや、あなた、僕の話を聞いてました? ずんだ餅政宗が作ったものじゃない、って説明しましたよね?なんで、その僕が『お願い』されなきゃいけないんですか?」と返したところ、向こうからは、世にも恐ろしい答えが返ってきた。「ですから、とりあえずVTRで「ずんだ餅伊達政宗が作った」とだけ先生にコメントしてもらえないでしょうか? 放送時には必ず画面内に『諸説あります』とテロップをつけますから」


言葉を失うとは、このことだ。


政宗ずんだ餅を作った?」「いいえ」「そう答えてくれるだけでいいんですが」

今週の週刊文春なので、興味ある人は是非お読み下さい。あと「諸説あります」が注目されているが、冒頭で「民放」と作者が明言していますので、ご注意を


※ついでに、このコラムと、執筆者(清水克行)そのものにも注目してください…という話
m-dojo.hatenadiary.com







よくtwitterで、同じく歴史のあれこれの文章を書いておられる渡邊大門氏も、似たような経験談を書いてるけど、あんまり出来すぎてるんで、本当にノンフィクションなの?と時々思うんだが…清水氏が、週刊文春のコラムでそう書く、となるとまた違う。





…にしても、なんか、ここまですがすがしく悪のムーブをされると、一種の爽快感がある。


その民放、ADが所属してるのは「企画七課」じゃないだろうな。 


企画七課 パトレイバー内海 不思議な生き物


AD、おそらくこのままOKが出なかったら、清水氏の眼の前にやってきて、土下座でも五体投地でもやって、むりやりイエスと言う映像を撮ったんじゃないか。
これが、業界でしばしば名を知られた、ADのバンザイ・アタック、あるいはADタンク・デサントだ。




ADは、畑で穫れる。




令和の今でも、こんな不可能を可能にする、命しらずの「特攻野郎AD」がいるんだね…
こういう無茶…ADの尊い犠牲と、コメントする学者の寛容があったから、TVバラエティは成立していったのだろう。




に、しても。
「NO」というコメントをした人に、『とりあえず「YES」と言っていただけませんか』と頼むって、ほんと、百戦錬磨というか…たぶん面構えがちがうんだろうな。


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超訳「踊るドワーフ」#20


「本物の古い写真に見えるね」私は彼の興味を惹こうとして言った。
「革命前は」と彼は事実を述べる口調で言った。「私のような年寄りでも小僧だったのさ。だが、誰でも年を取る。あんたもすぐに私のようになるさ。待っててみな、坊や」
彼は大口を開いて笑った。唾が飛び、歯が半分失われた口の中が見えた。
それから彼は革命の話を始めた。明らかに彼は王も革命軍も嫌っていた。私は彼の喋るままにさせ、Mecatolをもう一杯彼に奢った。そして、タイミングを見計らって、彼はもしかして踊るドワーフのことを知らないかと聞いた。

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超訳「踊るドワーフ」#19

私はその男が、「磨き作業をしている3人の工員」とラベルを貼られた色あせた写真の下でMecatol(訳者注:酒の名かカクテルの名だろう。実際にあるものか、架空の酒かは不明。工場を思わせる「メカ」と「アルコール」を合成した名のようにも思われる。)を飲んでいるのを見つけた。私が彼の傍のスツールに腰を下ろすと、彼は写真を指して、「この、こいつが俺だ」と言った。
私は横目でその写真を注視した。右の方の、12歳か13歳くらいの少年が、この老人の若いころかと思われた。どこにも似たところは無さそうだが、一度指摘されたら、その両者の鋭い鼻の形や平たい唇の形の類似は明らかに見てとれるだろう。明らかに、この老人はいつもここに座り、新来の客が入ってきたらいつも、「こいつが俺だ」と言っているのだろう。

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超訳「踊るドワーフ」#18

その居酒屋は古い古いところだった。それは私が生まれる前から、あの革命の前からその場所にあった。何世代も前から今まで製象職工たちはここで酒を飲み、トランプゲームをし、歌うためにそこにやってきた。壁には製象工場の古い写真が並んで貼られていた。その中には、初代社長が労働者たちの仕事を視察しているところとか、昔の銀幕の女王が工場を訪れた写真とか、夏のダンスパーティの写真とか、その類のものがいろいろあった。革命軍は、王や王室や、その他王党派のものと見なされる写真はすべて燃やしたのだ。当然、ここには革命の写真もあった。革命軍が工場を占拠し、管理人を縄で縛った写真などだ。


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超訳「踊るドワーフ」#17


終業のベルがなるとすぐに私はステージ6のエリアに行ったが、その老人の姿は無かった。ただ、二人の若い娘が床を拭き掃除しているだけだった。痩せた娘が私に、その老人はおそらく居酒屋に行ったと思う、と言った。古い方のね。実際、そこで私はその老人を見つけた。背中をまっすぐにしてバーに座り、弁当箱を傍に置いて飲んでいた。

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自殺論

「大摩邇」から転載。緊急性や時事性があまり無いと思うのでこちらのブログに載せるが、興味深い内容で、自殺者の数の問題は本当は政治の問題でもあるだろう。しかし、自殺は最終的には個人の決断なので、政治の問題とするには無理があるわけだ。ある種の人々を窮迫させ自殺させやすい社会を作ったのは何か、という問いも大事だが、自殺はあくまで哲学の問題だろう。
そして、個人の思想の問題である以上は、それを家族の問題とするのも間違いであり、自殺によって自殺者の家族が蒙る迷惑(他者からの呵責)はあるべきでないのは当然である。
私自身は、むしろ「もっと自殺しやすい社会」であるべきだ、とすら思うが、「自殺に追い込む社会(自殺させやすい社会)」ではけっしてあってならないと思っている。この両者は完全に別なのである。
そして、自殺する人間は、親しい人間の受ける精神的衝撃を本当に考えて自殺しているのか、自分が抱えている問題は本当に自殺するほどの解決不可能な問題なのか、とことん考えてほしいと思っている。当たり前だが、自殺は一度しかできないのである。ただの「一時の気の迷い」で自殺した人間は膨大にいると思う。
「生きているだけでえらいんだよ」という生チョコぽん酢さんの言葉に半分は同意するが、自殺する人間はたいてい善良で気が弱い人間だと思う。悪党が自殺した例はほとんど無いのではないか。なぜなら、悪というのは我欲のためにするのであり、そういう強欲な人間が自殺するはずがないからだ。そういう人間が生きているだけで偉いはずがなく、生きていれば社会の迷惑で、死んでくれたら生きているよりもっと偉い。そして、世間で報道される自殺(大きな事件や問題の関係者の自殺)のかなりな割合は他殺だろう。

(以下引用)前半は省略。親しい人間に自殺された者としての記事筆者の思いである。


話題が少し変わりますが、自殺しても自殺にカウントされないって知っていますか?

このようなネット上の噂話を耳にしたことがある方も多いのでは無いでしょうか。


これは半分事実です。


例えば幼馴染のケースでは、飛び降りをしたのですが、自殺になりませんでした。

しかし密室で首を吊ったMちゃんは、自殺になりました。

理由は色々ありますが、国が自殺者を隠したいから、という陰謀めいたものでは一切ないと、私は感じています。


1)事件の可能性がゼロではないから。

基本的に1%でも事件事故の可能性があれば自殺にはなりません。

後から何らかの証拠が出てくる可能性もあるので警察も責任を取れないからです。

なので怪しい自殺は全て変死という扱いになります。

日本の変死は大体年間で10万人くらいでしょうか。

日本の自殺者は認定されているだけでも世界ぶっちぎりの最多なんですね。

しかし、実際には変死の半分くらいは自殺だと考えられますから(国際基準ではそのように計算されます)

つまり年間の自殺者はこの時点で年間8万人ということ(公表されている自殺者数の数倍)。

さらに、まだ裏があります。


2)遺族の精神的な問題
残された遺族は、体裁的にも心理的にも相当なダメージが残ります。

他者に話す際の体裁が保てるように、基本的に自殺では無い方が良いのです。


3)金銭的な問題
自殺は生命保険がおりない場合があります。

保険がおりないと、残された家族は、迷惑しか残りません。

自殺の際に他人に迷惑をかけてしまった場合の慰謝料やら修繕費も全額自費になる場合があり、残された遺族に多大な迷惑をかけてしまうのですね。

なので、基本的に計画的に自殺する人というのは、樹海等で消息不明になったり、事故に見せかけた方法を取る人が多いのでしょう。

(他にも心当たりがありますが内容的にここでは書けませんのでコミュニティの方で書きます)


もうここまで話せば察しがつくと思います。


 


まとめるとこうです。


 


日本の自殺者は認定されているだけでも世界ぶっちぎりの最多。

しかし実際には(1)のケースでは変死になるので、おそらく半分くらいの自殺は変死扱いになっている。

日本の変死者数は年間10万人なので、この時点で年間の自殺者は実質8万人ということ。

更に(3)の場合は、行方不明者や交通事故死等になりますから、それらをさらに加えると



日本の自殺者って、本当は年間何人いるの?ってね。


すごい話です。

日本の社会で生きるということは、常に死と隣り合わせ。

だから私は時々言ってますでしょ。

生きているだけで偉いんだよって。

自己肯定感が低い日本人には特に言えることですが、ついつい理想を追い求めたり、至らない自分を卑下したりしまいがちですけど、


 


本来は生きているだけで、実は凄い事なんじゃないのかなと思うのです。


 


日本人はもっと気楽に生きていいと思います。


 

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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