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気の赴くままにつれづれと。
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価値観について
第1節 社会的価値観と個人的価値観
人間と動物の相違は、人間には価値の意識があることで、その価値の意識が人生を複雑にも面白くもする。ある意味では、人生の諸問題は価値の意識から来ると言える。
何を価値があるとし、何を価値が無いとするかは、社会的な合意がある反面、個人的なものでもある。それが「価値観」だ。一般的には、価値観は個人的なものだと思われているようだが、実は
1 社会的に合意された価値観が、個人の価値観の大部分を占めている。
我々が文化生活を享受できるのも、この価値観の共有から来るのである。(ここで、事例を挙げるなら、たとえば、美人・美男子の基準は、時代と社会によってほぼ決定され、個人的な趣味はそれほど決定的な要素ではない、などがそれだ。あるいは、能力のある人間は、価値があり、能力のない人間は無価値であるとされるのは、ほぼどの時代、どの社会でも変わらないだろう。そこで、たとえば、「弱さ」を価値あり、とする人間がいたとしても、それは個人的な偏向にしかすぎないとされるのである。)しかし、また、
2 価値観を共有することはこの社会の収奪システムの中に組み込まれることでもある。
我々は、「価値あるもの」を手に入れるために働き、金を出してそれを購入する。社会の上位にいる人間は、下の人間のそうした馬車馬的労働の成果を吸い上げ、消費者からは金を巻き上げて、自らの快適な生活を維持していく。かつては王侯貴族が行い、現在では大資本家(及び、その協力者である政治家や官僚)が行っている、これが社会の収奪システムである。(社会の収奪システムは、先進国と後進国との間でも維持されている。後進国がいつまでも後進国であるのは、すべてがシステム化されているからである。)
その収奪システムから逃れる簡単な方法は、自分だけの価値観によって行動することである。つまり、社会が価値ありとするものに背を向けて生きることだが、しかし、完全にそれを行うと、社会の文化的産物をすべて拒否することになり、原始人の生活になる。
この、「共通価値観」と「個人的価値観」との摺り合わせが、人生を生きていく上での最大のポイントになる。「共通価値観」の肥大した人間は周囲に流され、社会の収奪システムの奴隷となるし、「個人的価値観」が肥大しすぎた人間は、周囲から孤立し、変人扱いされることになる。
第2節 価値観と性格
離婚の原因として、よく「性格の不一致」という言葉が出るが、性格とは、実は価値観でもある。人生を生きていく上で、何を価値があるとするかという根本が違っていたら、共同生活が成り立つはずはない。一方は都会生活を好み、他方は自然の中の生活を好むとすれば、生活すべき場所すら異なることになる。どちらかに従えば、当然、もう一人は不満を抱えていくことになる。
そして、「十人十色」とか、「蓼食う虫も好きずき」とか言うように、価値観は多様なものである。たとえば、同じように漫画を好んでいても、その好む漫画の傾向が同じとは限らない。趣味については、片意地な偏食家が多いのである。自分の趣味を絶対的に肯定していない人間は、ほとんどいない。趣味については、誰もみな、自分を精神的貴族だとみなしているのである。
我々の人生がどのように彩色されるかは、快不快の気持ちによるが、何を快とし、何を不快とするかは価値観に左右されていることが多い。簡単な例では、労働と遊びの相違である。我々は労働を不快な義務と思い、遊びを快楽だと思っている。だが、スポーツは、スポーツ選手にとっては労働であり、観客にとっては遊びだ。プロ野球選手がシーズン・オフにゴルフをやれば、それは遊びである。このように、同じ行動が苦痛にも快楽にもなる例は多い。その原因は、物事をとらえる姿勢にある。それを価値観と言うのは不適切かもしれないが、ある価値観をもって接するから、あるものを価値があると思ったり、また無価値だと思ったりするのは事実だ。これを価値観と言わないで、「肯定的態度」と「否定的態度」と言ってもいい。
我々は通常、快不快を動かしがたい前提条件と考えがちだ。つまり、ある対象とそれへの快不快は密接に関連していると考えている。だが、そうだろうか。我々があるものを肯定したり、否定したりするのは、実はただの習慣にすぎないのではないだろうか。
もちろん、物事に対する趣味は、我々の性格そのものと言ってもいいくらいに固定的であるのが常だが、しかし、趣味は変わりうるものでもある。つまり、短期間には動かしがたいが、時間をかければ変えうるものだ。趣味と同様に性格も変えられる。つまり、
3 我々が自分の性格としているのは、我々がそれを自ら選んできた結果だ。
「その性格」であるのが我々自身にとって心地よいから我々はその性格を続けているのである。(つまり、快感原則は人生の根本原則だが、何を快とし、何を不快とするかは変えうるのである。)これは外面的な性格演技だけの話ではない。ドストエフスキーの作中には、よく卑屈な小市民が出て、自らを卑下するが、その卑下する自分に、実はある心地よさを感じているのである。たとえ、自分の不甲斐なさのために娘を身売りさせ、自分が最低の父親である、と泣いていても、そのような自分の存在をどこかで肯定しているのである。これが、人間の自己愛である。我々が自分の性格にうんざりしながらも、けっしてそれを変えないのは、実はそれが自分にとって「居心地がいい」性格だからである。
しかし、繰り返すが、性格は変えがたいものでありながらも、可変的なものでもある。たとえば、ここに内省的な人間がいたとしよう。彼を軍隊の中に放り込んで、一年間も鍛えれば、彼は立派なロボット的兵士になるだろう。それが戦場ならなおさらだ。なぜなら、決められた行動に従わないかぎり、彼の生存は保証されない以上、彼には内省の余地は無いからである。少なくとも、彼は自分の内省癖を、それがゆるされる時間まで棚上げにする習慣を身につけるだろう。そして、やがてはその内省癖そのものがどうでも良いものになっていくはずである。我々の性格も趣味も習慣の問題にすぎない。兵士の中に哲学者がいないとは限らない。だが、勝れた兵士ではありえないだろう。兵士として生き延びるためには、我々は動物的な反射(通常は「命令~服従」の反射。戦場では「危機~戦闘行為」の反射)で生きるしかないのであり、自らの内面への深い思索などしていては生きてはいけないだろう。
第3節 物の価値
第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。
誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)
土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。
さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。
いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。
では、芸術品の価値はどうだろうか。ゴッホの絵とセザンヌの絵は、どちらがどれくらい上なのだろうか。我々素人からは、その価値の差はわからない。三つ以上の数の数えられない土人同様に、どちらも「たくさん、たくさん」という評価しかできないのである。しかし、現実には、ゴッホの「この絵」は幾ら、セザンヌの「この絵」は幾ら、と評価がちゃんとついている。では、その値段は誰がつけるのか。ここで登場するのが「専門家」である。彼らは専門家同士のギルドを作り、その内部でさまざまな物に値段をつけ、それを素人に売りつける。物の値段、物の価値はこのようにして決まっていくのである。生きている間は1,2枚しか売れなかったゴッホの絵も、誰かが提灯持ちをし、評価をつり上げていった結果、生きていた時のゴッホ自身では絶対に買えないような巨額の値段がついていったわけである。正直言って、私はたとえばセザンヌの絵に価値があるようには思えない。印象派以前の古典派の絵なら、その技術の巧拙だけでも、ある程度の価値判断はできる。だが、その相場として、果たして食事一回分の値段が適当か、それとも庶民の一生の稼ぎに相当する金額が妥当かはわからない。そして、専門家たちは、後者が妥当だと言うのである。
なるほど、芸術作品に巨万の金を出す人間がいるのは確かだ。だが、それは、彼らにとっての金が、庶民にとっての水や土と同様の安価な物だというに過ぎない。自ら紙幣を印刷できる人間には、紙幣は紙切れと同様だろう。
問題は、こうして値段がつけられると、その対象品は、それからは庶民の手には決して届かないものになることである。
我々の住むこの社会では、こうした「価値のピラミッド」が作り上げられている。一着100円のシャツもあれば、一着数千万円の衣服もある。1000円の腕時計もあれば、数百万円の腕時計もある。しかも、後者の方が性能は悪かったりする。
とすれば、社会的な価値というものは、その大半は幻想的なもの、あるいはもっと端的に言えば、詐術だと言ってもいいのではないだろうか。実は、これがこの文章を通して私が言おうとしていることなのである。
つまり、社会的価値とは、個人的な主観から出発して、それが社会的な広がりを持つにつれて様々な詐術が加わり、やがて壮大な幻想のピラミッドになったものである。
もちろん、個人の主観の段階でも、すでに幻想だ、と岸田秀的に言ってもいい。だが、ここで洒落たつもりの言い方をするなら、それ(「価値という幻想」)は「価値ある幻想」かもしれない。幻想には違いないが、幻想が無価値だとは言えない場合もある、ということである。
第4節 生きる価値
つまり、価値は幻想かもしれないが、それによって我々は人生を生きる価値のあるものにしているのである。我々は自分を取り巻く様々な物に価値づけをすることで、自分の人生を価値あるもので満たすわけだ。たとえば、漫画の好きな人間は、それを価値ありとしている。スポーツ観戦の好きな者は、それを価値ありとしている。周囲に対してそうした価値を感じられなくなった状態が、ニヒリズムである。ニヒリズムとは、つまり価値の喪失なのである。「空なるかな、空なるかな、空の空なるかな、すべて空なり」というわけだ。そうなれば、人生そのものも無価値で、生きるに値しないということになる。
ここで、最初に戻って、実は価値とは自分が決めるものだ、ということに思い至れば、この人生が価値がない、というのは、実は自分がそう決めたというだけのこととなる。そうしたニヒリズムには一種のロマンチックなイメージもあるから、それに陶酔するのはいいが、それを本気で信じるのは、自分で神様を作り出して、その神様を信じ込んで殉教するようなものである。
我々は、自分の人生やこの世界を価値ありとすることもできれば、無価値だとすることもできる。一つ一つの事柄に対する価値判断も同様だ。要するに、価値判断にはもともと何の根拠もいらないのである。問題は、そうして下された価値判断が社会的な広がりを持ってきた場合である。価値とは、原則として比較である。絶対評価ではなく、相対評価なのだ。その評価のピラミッドがこの世を一種の地獄にすることもある。つまり、価値の体系の下層に置かれた存在にとって、価値ほど呪わしいものはない、ということになる。
価値が主観の範囲に納まっていれば、価値は人生の輝きを作る。だが、それが客観のふりを始めると、それは地獄となる。我々は他人の作った価値観の泥沼に足を取られて、やがては自らやその周辺の物事を無価値な存在とするようになるのである。だが、価値とは本来、主観から始まったものでしかない。「客観的価値」も誰かの主観が他人を巻き込んでいっただけなのだ。ならば、再び我々は、価値判断を自らの手に取り戻してもいいのではないだろうか。
アメリカン・コミックのポパイの口癖は、「俺は俺さ」である。つまり、他人がどうであれ、俺は自分の考えで行動する、という宣言だ。そのような、自分自身が拠り所である強い自我を持った人間は、現代には少ない。リースマンの言う、「他人志向」型の人間がほとんどだ。いつも、他人がどう思うかを気にして、おどおどと振る舞うのである。
自分が「価値有り」と思う事柄は、果たして本心からそう思っているのか。それとも他人の価値観に従っているのではないか。もしも、それが本当に自分の心からの考えなら、他人がどう言おうと、「俺は俺さ」と言えるはずだ。
もちろん、社会の決めた価値観に従って生きるのは楽かもしれないし、安全かもしれない。しかし、人生をトータルして考えた場合、他人の価値観に従った生き方が満足を与えるかどうか、怪しいものである。まして、その「社会的価値観」が、一部の人間の利益のために作られ、維持されてきたものなら、それによって不利益を得ている人間が無数にいるはずである。要するに、社会の底辺にいる人間の不幸の土台には不公正な社会的価値観があると言うことだ。それは不幸な人々の物質的不利益の原因でもあり、精神的不利益の原因でもある。
なぜ「足が長い人間はカッコいい」ということになっているのか。「足が短いほうがカッコいい」という考えがなぜ「正しくない」と言えるのか。それは、ただ長い間に形成された「社会的価値観」のためである。欧米人種的な体型や容貌は美しく、アフリカ人やアジア人は美しくないという価値観が、あらゆるメディアを通じて、我々の心に植え付けられてきたからである。ならば、我々「醜い人種」は、「足が短く、鼻が低く、平面的な顔のほうが美しい」という主張をしてもいいのである。金で計る価値にしても同じことであり、誰もが贅沢品に無意味な出費を渋るようになれば、企業は安くて良い品を作ることに努力するようになるだろう。学生の場合なら、「成績」というただ一つの価値観で自分を測るかぎり、その底辺にいる人間は不幸になるしかない。運動能力や芸術の才能があればまだいいが、それも無い場合はどうするか。「そんなのはみんな他人が勝手に作った価値観だ。俺には俺だけの価値がある。他人がどう言おうが関係ない」と思えばいいのである。
4 「I am what I am.」(俺は俺さ。)
この言葉には、地面にしっかりと足をつけて生きる人間の気迫がある。
2023/07/21 13:40 日刊ゲンダイ
週刊文春が3週連続で詳報した木原誠二官房副長官の妻の前夫・安田種雄さん(享年28)の不審死事件では、司法記者クラブで遺族が所轄の大塚署に再捜査上申書提出。種雄さんの父親(70)は嗚咽まじりに「テレビ局や新聞社の皆さまには、この事件に関心を持って広く報じていただきたい」と大手メディアに呼び掛けた
2006年4月、自宅でナイフを頭上から喉元に刺した失血死。警察は当初、自殺と判断したが、父親は動機が見当たらず、現場の状況にも不審点を抱いていた。
「右太ももの20~30センチ先には細長いナイフがきちんと置かれていました。傷は喉元から肺にまで達していた。自分をそんなふうに刺した上で足元にナイフをきちんと置いてから絶命することがあり得るでしょうか」(第一発見者の父親)
12年後の18年4月、警視庁捜査1課が再捜査を開始したが1年足らずで突然捜査縮小。以降、遺族への警察からの連絡は途絶え種雄さんの最後の足取りの手がかりとなる本人の携帯電話も返してもらえていない。
事件当時夫婦関係が悪化。離婚の話が出ていた。妻は後に銀座のホステスとなり、14年再婚。その再婚相手こそ岸田首相の側近で「陰の総理」と称される木原誠二官房副長官
文春は、木原氏妻が再捜査時に事件の重要参考人として事情聴取や家宅捜索を受けていたと報道。木原氏の愛人が、木原氏本人から「俺がいなくなったらすぐ(妻が)連行される」と聞かされたことを知人に打ち明ける音声もネットに公開した。
妻の父は警視庁の警察官。加えて木原氏の家族ということで妻に対する捜査のハードルが上がった──文春の見立て
会見では種雄さんの遺族も、妻への不信感をにじませた。
「事実無根」を主張する木原誠二官房副長官(日刊ゲンダイ)
父親は遺体発見後に警察に通報、捜査員が駆けつけるまで現場で妻と幼かった子ども2人と顔を合わせなかった。事件当日、警察署にいた妻の兄に「嫁はどうしていますか」と尋ねると「今、事情聴取を受けている」と聞かされた
「種雄は自宅に1人でいたと思っていたら、後に捜査員から『(嫁は孫と)隣の部屋で寝ていたと供述している』と聞かされてビックリ
思わず捜査員に『(孫たちは)生きていますか』と聞き返したほどです。隣の部屋は種雄の遺体が見つかった部屋から狭い廊下を挟んで1メートルくらいしか離れていない。隣の部屋のドアは閉まっていたので、まさか(嫁と孫が)いるとは思わなかった」(父親)
その後、妻から遺体を引き取らないと電話があり、母親が「せめて葬式には孫を連れて線香の1本でもあげに来てください」と告げると、電話はプツリと切れ以来、孫2人には会えていない。
■遺族は「事実無根ではありません 皆の前で説明して欲しい」
木原誠二官房副長官は文春の個別の質問に対し、一括して「事実無根」と全面否定(回答拒否)。文春記事を〈史上稀にみる人権侵害〉として刑事告訴を行うと弁護士が書面を提出
文春の記者が司会を務めた異例の形の会見には、50人超の報道陣が詰めかけた。クラブに加盟する大新聞・TVの記者も参加していたが、会見の模様を詳細に報じる大手メディアは皆無に等しく、黙殺状態だ。このままでは遺族の無念は晴れない。
(抜粋)
女性は若い頃一度結婚。夫と2人の子どもに恵まれたが夫の友達で10歳年上の男と不倫。彼女は子どもを連れて家を出て不倫相手と一緒にいる彼女を、離婚することを承諾して、家に連れ戻した翌日、夫が無残な姿で自宅の居間で死んでいるのを、実父に発見された。彼女は警察に、隣の部屋で子どもといて「寝ている間に夫が死んでいた」と供述
だが実父は、ナイフで頭の上から喉元に向かって刺した自殺の仕方が不自然。息子の太ももの右に細長いナイフがきれいに置かれていたことにも疑念を抱く。
警察は遺体から覚醒剤が検出されたことから、「覚醒剤乱用による自殺」として処理しようとしたが、遺族が納得しないので「未解決の不審死事案」とした。
その後、彼女は美貌を武器に銀座の夜の蝶になり元財務官僚で有望な自民党代議士と恋仲になり、妻の座に
だが、事件から12年後、コールドケース(未解決事件)を掘り起こしていた女性刑事が、この事件を洗い直し、自殺というにはあまりに不自然なナイフの血の付き方に疑問を抱く。捜査幹部も、「当時、なぜこれを自殺と見立てたのか?」と、捜査を開始することを命じた。
彼女と不倫していた男が、事件当夜、彼女の家に向かっていたことがNシステムで判明。この男は「覚醒剤取締法違反」で逮捕され、宮崎刑務所に収監中だったが、「当夜、彼女から電話があり、夫婦喧嘩しているうちに夫を刺して殺した」と聞かされたと告白した
供述によって、特命捜査対策室特命捜査第1係を中心に30人以上の精鋭が集められ、彼女の実家をガサ入れし、彼女が暮らしている政治家の家に踏み込んだのである。
官房副長官の木原誠二は自民党の政調副会長兼事務局長という要職。捜査員は彼女に任意同行を求めたが、“影の総理”とまでいわれる夫に配慮し、後で出頭してもらうことにした。だが、彼女は「記憶にない」というばかりだった。
それから1カ月後、突然、捜査員たちはこの事件から外されてしまうのである。捜査員は、「不倫相手の供述があって、亭主が自民党の実力者でなかったら逮捕できる。だが、殺人容疑で彼女を逮捕して、自白も取れずに起訴できませんとはいかない」とほぞを噛むのである。
しかし、この夫には本妻と同じ元ホステスの愛人がいる。自宅が家宅捜索に入られた後、その愛人に「俺がいなくなったらすぐに妻が連行される」と語った音声記録が発見されている。果たして、女性刑事は巨大な権力の壁に挑み、状況証拠はあるが、ほとんど物証のない難事件の真相を明らかにすることができるのだろうか。
(抜粋)
(「週刊現代」「フライデー」元編集長・元木昌彦)
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