ちな姫路
それこそAKBのせいやろ
日本のアイドルがレベル低すぎるからそうなるんやで?
その前はハロプロ地獄だしな
ダサいだろあれ
あれ全然美人すぎてないちょっと微妙や奴ばっかやった思い出
急速に沈静化したし
今でも嫌いやないが
歌謡曲ならまだしも
歓声の無いスポーツ、ライブとか黒歴史すぎるだろ
なんであれ世間でもネットでも大絶賛されまくってたんやろ
気の赴くままにつれづれと。
夢人追記:「日常の演技」あるいは「自己の他者化」ということに関して、最近出たライトノベル(アニメ化もされた)の「弱キャラ友崎くん」という作品が、私がこの「生活の技術」で述べていることの素晴らしい実践的事例になっているので、一読をお勧めする。まさに、人生を黄金に変える錬金術の教科書である。小説としても抜群に面白い。私は大筋(物事の本質や論理)しか見えないので、自分では実践できなかった。まあ、する気もなかったが。
8 心術の6「感情のコントロール」あるいは自己の他者化
感情は理性ではコントロールできないのが普通である。自分で自分の心が意のままにならないのだ。では、なぜそうなのだろうか。
ここで言うコントロールできない感情とは、怒りや悲しみといったマイナスの感情である。喜びや楽しさなどの感情なら、コントロールする必要は無い。なぜなら、それらは「幸福」の実体なのだから。つまり、幸福とは我々が喜びや楽しさの感情で充たされていることなのである。逆に、我々が怒りや悲しみの感情で充たされているときは、我々は不幸なのである。したがって、幸福とか不幸とかは結局は感情の問題に帰着する、と言える。つまり、外部的な条件は幸福や不幸の条件にはなりうるが、幸福や不幸そのものではないのである、世の中の人間の多くはここを錯覚しているのだが。
何億円もの年収があり、映画女優かモデルのような美女を恋人にし、名声にも恵まれている人間を見たら、多くの人は彼を羨望するだろう。私も多分そう思う。だが、一瞬の後には、「だが、本当に彼は羨むべき存在かどうかわかったもんじゃないぞ」と私は考える。というのは、人間の本当の生活は、彼の心の内部で起こる生活、つまり彼の感情生活だと考えるからである。たとえて言うならば、味覚障害の人間にこの世でもっとも贅沢な美食を与えたとして、その彼を羨むかどうかということである。もちろん、羨ましくもなんともない。だが、世の多くの人間は、彼がその美食を口に運んでいるという事実だけを見て、彼を羨むのである。
要するに、大事なのは我々自身に適切な感受能力があるかどうかということなのである。
とりあえず、それはあるものとしよう。そうすると、問題は次のようになる。
「我々がどうあろうが、我々の毎日の生活は外部の条件に左右され、我々の感情もそれによって幸福になったり不幸になったりする。それにどう対処すればいいのか」ということだ。
言葉を変えれば、外的な条件によって心が動揺せず、穏やかな幸福感を保ち続けるにはどうすればいいのか、ということだ。これが冒頭に書いた、「感情のコントロール」の問題である。果たして感情はコントロールできるのかどうか。冒頭に私は「感情は理性ではコントロールできない」と書いた。それで話が終わりでは「心術」の意味がない。
感情は理性でコントロールできるという想定で考えてみよう。それには何が有効か。
ここで、妙なテクニックを提出しよう。それは「自分を他者化する」という方法である。
ある出来事によって生じる負の感情が制御できないのは、その出来事が自分自身の存在を傷つけるからである。それが他人事なら、我々は平気なものだ。「我々は他人の不幸に平然と耐えきれるほどに勇敢だ」と皮肉ったのはラ・ロシュフーコーだったと思うが、まさしくその通りであって、マイナス感情はすべて、それが自分に関わる何かを傷つけるところから生じるのである。自分の恋人や友人の不幸が我々を傷つけるのも、我々がその恋人や友人と一体化した感情を持っているからなのである。だから、たとえば自分のひいき俳優や歌手の悪口を言われると我々が不愉快になるのは、その悪口が、「その俳優や歌手が好きな自分」とか、「自分の趣味」への批判になるからなのである。つまりは自分自身が攻撃されたように感じるから我々は不愉快になるのである。
言い換えれば、我々が負の感情を感じるのは、その出来事が我々への攻撃だと無意識に判断しているからであり、その土台には我々のナルシシズムがある、と言える。
そこで、「自己の他者化」という「心術」が対策として考えられる。
「自己の他者化」とは、自分という存在と我々の精神の中の自我(自我とは思考の主体だとしておこう)とを切り離すことである。そして、自我のみが真の自分であり、他の部分は自分のロボットだと考えるのである。つまり、私という自我が私というロボットを操って行動させているのだと考えるのである。そして、その操られている自分は真の自分ではないから、それに対する如何なる攻撃も批判も気にしないようにするのである。
言い換えれば、これは「日常を演技する」ということだ。
ビートたけしが、「俺は笑わすのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」と言ったことがあるが、「笑われる」とは、彼自身が笑われることであり、「笑わす」とは、彼の演技によって彼の虚像が笑われることだ。見かけの上ではどちらも同じに見えるが、内実は違うのである。彼が「笑わす」場合でも、見かけの上では笑われているのは彼だ。しかし、その時、彼は「自分自身が笑われている」とは思わず、「演技している自分を笑わせてやっているのだ」と考えるのである。本質的にシャイな人間である彼がなぜ、舞台に立って、笑われることに耐えきれるのかと言えば、それは「笑われているのは自分ではない」からである。
これで、「自己の他者化」ということがわかるかと思う。
我々は実は、日常的に演技をしている。ただ、それに対して無意識なだけである。前にも書いたが、『徒然草』の中に、「人と交わると、言葉は、他人がそれをどう聞くかを顧慮しての発言となり、自然のままの言葉ではない」という一節があるが、発言に限らず、他者と交わる時の我々の言動のすべては他者を顧慮した「演技」なのである。あるいは、他者を顧慮した「政治的行動」なのである。
そして、そうした演技から解放された時に我々の願う「随所に主となる」ことが達成されるのだが、それは、あるいは演技を演技と意識しなくなった状態なのかもしれない。自分の演技の無様さに不愉快さを感じている人間が、他者との交流を不快に思うようになり、引きこもりなどになるのだろう。自由自在に演技のできる人間こそが「この世界のチャンピオン」なのである。
演技の話は前にもやったので、ここでは「心術」としての「自己の他者化」という方法だけを心に止めておけば良い。要するに、誰にも「真の私」を理解できるはずは無いのだから、他者の批判や攻撃はすべて的外れであり、それを私が一々気にするには及ばないということである。この世のすべては自分をも登場人物の一人とする人形芝居にすぎない、というような考え方をすればいいのである。言い換えれば、「自分という存在や自分の感情をあまり過大視するな」ということだ。
もちろん、この考え方は「だから何をしてもよい」とか「だから責任を取る必要はない」とかいう短絡的な思想に至ってはならない。あくまでこれは精神的な姿勢の話であり、演技だろうが何だろうが、人の社会的言動のすべては(本当は、内面的生活もそうだが)その人に返ってくるのである。禅問答で、「お前は、そのうち閻魔大王に飯代を請求されることになるぞ」と言う面白い言い方があるが、要するに、一生を終える時に、お前は自分の生き方を後悔しないか、ということだろう。これを現代風に言えば、「お前の人生の責任はお前自身にある」という「自己責任」になるが。
7 心術の5「記憶力」
記憶力の強い弱いは、学生などにとっては大きな問題である。我々の思考は自分の記憶に基づいて行われるのだから、記憶力の弱い人間は思考の内容も貧弱にならざるをえない。ところが、記憶には幾つかの傾向があって、覚えようとしなくても覚えることもあれば、覚えようとしても覚えきれないこともある。
まず、自分が深い興味を持っている事柄は、強いて覚えようとしなくても覚えるものである。よく子供で、駅名やら自動車の種類やら怪獣の名前やらを無数に覚えている子供がいるが、これは子供というものが記憶能力がすぐれているからだけではなく、自分が興味があるから覚えているのである。
また、具体的イメージのあるものは覚えやすく、抽象的なものは覚えにくい。鎌倉幕府成立を「いい国作ろう鎌倉幕府」とか、ルート2を「一夜一夜に人見頃」とか覚える類だ。
短い言葉は覚えやすく、長い言葉は覚えにくい。元素記号の「水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム」などをを「水兵リーベ」と覚える類だ。あるいは古文助動詞「べし」の文法的意味「推量・意志・可能・当然・命令・適当」を、その頭文字をつなげて「スイカトメテ」とする類だ。これらは短くすると同時に、「イメージ化」も含まれている。
人の名前と顔を一致させて覚える能力は、教育者や政治家には必須の能力だが、これが苦手な人間もいて、私はその一人である。そもそも、人の名前と顔は恣意的な結びつきでしかないのだから、その相手が絶世の美男美女でもない限り、覚えきれるはずがない、と私などは思うのだが、これを楽々とやっている人もいるようだ。楽々とではなく、努力してやっているのかもしれないが、努力してもそれができない私のような人間は、脳の欠陥があるのかもしれない。しかし、若い頃から本ばかり読んできて、現実よりも虚構世界の住人の方が好きな人間が、現実の人間の名前が覚えきれないのは当然だろう。要するに記憶力のいい人間というのは、これまでに頭をあまり使わなかったために脳の皺が少なく、新しい事を刻みやすいのではないだろうか。年を取ると物覚えが悪くなるというのは、これまでの記憶のために新しい記憶がインプットできなくなることだろう。といって、これまで覚えたことを消すのも不可能なのだから、物覚えが悪い人間は、繰り返し口に出したり、紙に書いたりして覚えるという作業をするしかないだろう。
学習に際して、前に書いたような工夫がなされてきたのは、逆に言えば、大多数の人間にとってそれらがいかに覚えにくいかを表している。にもかかわらず、学校の先生などは、こともなげにそれらを暗記しろ、などと生徒に命令したりする。私など、大学の生物の授業の最初に「クレブス回路」を覚えろ、と言われて、それをどう覚えればいいのか見当もつかず、絶望した記憶がある。まあ、今にして思えば、そこで工夫をして、何としてでも覚えるのが大学生としての義務だったのだろう。ある程度の暗記は専門家になるための関門であることは、「外部記憶装置」であるコンピューターが普及した現在でも変わらない。むしろ、パソコンに記憶させる習慣によって、本来の記憶力が低下して、専門家としては重大な欠陥が出てくる可能性もある。いくらコンピューターが有能でも、データ入力が適切かどうかの判断は人間がするしかないのだから、覚える事柄の内容が変わるだけで、覚えることがなくなったわけではない。あまり機械に頼りすぎて人間自体の能力が低下しないようにする必要があるだろう。
まあ、教育勅語の暗唱や、歴代天皇の名前を全部暗唱できることなどが、何のメリットがあるかなどはわからないが、歴史学者などにでもなれば、それも無意味ではないだろう。世の中には、円周率を何百桁も覚えるという「記憶のための記憶」でさえも趣味にする人間もいるくらいだから、一番大事なのは、「覚えることを過度に苦痛に思わない」ことかと思われる。
ステージで披露する「記憶術」というのがあるが、これは短時間に大量に覚えるだけで、長く続く記憶ではないから、一般人には無益である。そのコツだけ言えば、「イメージ化」である。たとえば、「帽子、ロケット、トランプ、試験、兎」と出てきたら、「帽子をかぶったロケットがトランプを使って兎に試験をしている」イメージを描くわけだ。ここで大事なのは、「帽子をかぶったロケット」のような意味不明のシュールなイメージこそが、むしろ強い印象になるということである。また、自分の体に記憶の順序を割り振って、頭から足先まで、記憶するものをイメージでくっつけていくという方法もあるようだ。
見て覚える、書いて覚える、口で言って覚える、歌にして覚える。さまざまな覚え方があるが、一番効果的なのは、「理解して覚える」ことだろう。特に、理系科目では、理解できていないことは覚えにくいものだし、仮に覚えていても使えないものだ。
歌にして覚えるのと似ているが、「語調」は記憶にとっては大事な要素だ。有名な俳句や和歌などは自然に覚えていることが多いのは、五七調や七五調は、日本人の魂にしみこんだリズムだからだろう。だから、「この土手に登るべからず 警視庁」のような標語でさえも、実に覚えやすいのである。
意志力も記憶力も、私の苦手な分野だから、この話題はこれくらいにしておこう。
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6 心術の4「意志力」
この「心術」は、コリン・ウィルソンの言う「健常人のための心理学」であり、普通人がよりよい人生を送るために、自分の精神をコントロールする技術を考えてみようという意図で書いている。
さて、精神の能力という点で、あって欲しい能力は何か。それは、若い人なら誰でも、意志力と記憶力だと言うだろう。意志力は、あらゆる目的を達成するのに不可欠の能力(ただの幸運による、偶然の成功という、私好みの『三年寝太郎』『物臭太郎』的な成功は、ここでは度外視する。)であり、成功の大きな要素である資格試験などを突破するには記憶力が必要だ。
意志の弱さと記憶力の弱さでは自信のある私が、こういうテーマで何かを言うこと自体、ちゃんちゃらおかしいと思われそうだが、とにかく、必要なテーマについては考えてみるというのが、この文章の基本方針なので、それを考えてみよう。
私自身は意志力も記憶力も弱いのだから、ここで書くことは、あるいは、人によっては有効かもしれない方法という程度の話である。というのは、私自身は、これから成功しようという気もないし、自らを鍛えようという気もないので、これは、若い頃の自分にアドバイスするなら、こんなところかなあ、という程度のものなのである。
グルジェフという神秘思想家がいる。詳しくは、コリン・ウィルソンの著作などを読んでもらえばいいが、彼の思想の一つに「オクターブの理論」というのがある。理論などと言うと大袈裟だが、要するに「人間とは三日坊主な存在だ」というだけの話である。つまり、我々の意志には、必ず弱まる時期がある、ということである。それを音階のミとファ、シとドの間の欠如した半音部分にたとえたのである。これはなかなか上手い比喩だが、問題は、現実には我々の意志は、断絶した部分でそのまま途絶えてしまうことだ。もう一度意志するときには、前に実行した部分はほとんど使用不可能な無価値なものになっていて、新たな事業をするのと変わらない。つまり、「オクターブ」よりは、「三日坊主」のほうが、はるかに現実に合っている。とりあえず、その意志の弱まる時期の存在を最初から計画に組み込むというのが、「意志薄弱な自分」への対処法だ。
具体的には、「監視装置」を作るのが一番だ。たとえば、個室で勉強するよりは、居間で家族のいるところで勉強するほうが、勉強できるものである。それは、監視する目があるかないかの違いである。
もう一つは、意志を当てにせず、意志力などどうせ15分くらいしか続かないという前提で学習計画を立てることである。つまり、連続する長時間の勉強ではなく、5分から15分程度の短い学習を組み合わせて計画を作るのである。これは「細切れ学習法」というタイトルで別の文章に書いてあるので、別記する。
後一つの方法は、「苦しい仕事(勉強)」を、楽しいゲームに変えることである。計画を達成するごとに、自分に褒美を与えるといったようなこともその一つだ。計画の達成の度合いをグラフにして壁に貼っておくのも、一種のゲーム化である。ゲームとは「成功と失敗」を意識することなのである。
意志力については、とりあえず、このくらいにしておこう。