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メモ日記3

#3   テロリストの祝祭

藤原伊織の「テロリストのパラソル」「ひまわりの祝祭」の二作を読んだ後、どちらもなんだかすっきりしない澱のようなものが残るが、それが何なのか考えてみた。一つは題名である。どちらもテーマに関係があるといえばそうではあるが、なんだかちぐはぐですっきりしない題名である。格好の付けすぎというか何と言うか。だが、格好をつけるのがハードボイルド小説なのだから、それに文句を言っても仕方がない。
それよりも困るのは、この両作品に共通する「裏切り」のテーマである。まあ、これはハードボイルドのお約束だから、ネタばらしをしても差し支えないだろうと思って言うのだが、この裏切りがまさにハードボイルドの定型を守ろうとして作ったような不自然な印象なのだ。どちらの作品でも主人公は信じていた人間に裏切られるのだが、超人的な頭脳を持ち、他人をクールに眺めているはずの主人公が、自分を裏切るような人間をそんなに簡単に信じていいのかな、と思ってしまう。読み手としてはこんなに頭のいい主人公が信じている人間なのだから信頼に値するいい人間なのだろうと思っていると、それが悪い奴だったりするから意外というよりは騙された気分になる。おそらくこれは作者がハードボイルドの文法に忠実であろうとし過ぎるあまりに読者の生理を忘れた「ミス」だろうと私は思う。まあ、上手な作品なんだからそれだけで十分だと言ってしまえばそれまでだが。
ところで、この駄文の題名の方が言葉の結びつきはいいと思いませんか?

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メモ日記2

#2   何を読み取るか

森村誠一のあるエッセイを読んでいたら、その中に山本周五郎の短編の話が出てきたのだが、それを読んで奇妙な思いにとらわれた。ある下級侍の悲壮な死の話なのだが、その死に方が宮谷一彦の傑作漫画「ワンペア・プラス・ワン」の死に方とまったく同じなのである。(その死に方が話全体に大きな意味を持つ死に方なのだが、ネタばらしになるのでこれ以上は言えない。推理小説に限らず、未読の人の感動を削ぐネタばらしはするべきではない。)奇妙だというのは、実は私は山本周五郎のこの作品も宮谷一彦の作品も読んでいたはずなのに、このエッセイを読むまで、私はこの両作品の類似性にまったく気がつかなかったからである。一方が時代劇で、もう一方が現代劇だという相違もあるが、それよりももっと大きな原因は、一方は文章で、もう一方は視覚的なメディアだという違いだろう。要するに、私には文章をイメージ化する能力が無かったということである。だから、最初から視覚的表現として与えられたテーマに感動することはできたが、文章からは十分な感動は得られなかったのである。これは山本周五郎の作家としての手腕の問題では決してなく、私自身の文章受容能力の問題である。なにしろ、森村誠一は、この作品と出会うことによって作家を目指したというのだから。
同じ本を読んでも受け取るものはそれぞれ違うということを案外誰もわかっていない。作品を批判する前に、まずは、「自分は読めているか」と反省するべきだろう。

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メモ日記1

#1   山は流れ、水は流れず

 本の読み方にもいろいろあるが、本の中の一節だけを読むのも、読書の意義は十分にあると私は考えている。本の中の思想を自分の思想とごっちゃにして自分の頭を他人の思想の運動場にする(これはショーペンハウエルの言葉)よりも、本の中の言葉をヒントにあれこれ思いをめぐらせるほうがずっと面白いものである。
哲学書の類も、そうした読み方をするなら気楽に楽しく読めるのではないだろうか。鴎外も言っているように、どんな偉人だろうが我々のちょっと偉い者にすぎないので、何も最初から恐れ入り、畏まって読む必要はないのである。
「山は流れ、水は流れず」は、道元の「正法眼蔵」の中に出てくる言葉らしい。私がそんな小難しい書物を読むわけはないが、ある解説本にそう出ていた。その本自体は面白くなかったが、この言葉は面白いと思った。これは仏教を学ぶ心得を述べたもので、まず「山流、水不流」を心に置くところから入れというのである。たとえば魚にとっては、水は宮殿であり、高楼であって、流れてはいない。人間にとっての美人は動物からは怪物だ。そんな風に、あらゆる我見や差別相を離れて物を見ることが仏教の第一歩だというのである。
言うは易く行うは難しで、この言葉を知っても我々が物にとらわれる気持ちを無くすことはなかなかできないが、少なくともこの言葉を思い出した時にはしばらくは煩悩から逃れることもできそうだ。気ままな、断片的読書にもこういう効用はある。

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古典の花園18 第二章13

13
 我ろ旅は、旅と思(おめ)ほど、家(いひ)にして、
子持(め)ち痩すらむ、我が妻(み)愛(かな)しも。  (万葉集・防人歌)

 これも方言がきつい歌ですが、その訛りがかえって素朴な匂いとなって歌の情感を高めています。意味は、「防人に行くための、私の旅は旅と考えればいいのだが、私の苦労よりも、家で子供を養って痩せるであろう妻がいとしいことだ」ということです。「も」は詠嘆の終助詞。

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古典の花園17 第二章12

12
我が母の袖もち撫でて、我がからに、
泣きし心を忘らえぬかも。 (万葉集・防人歌)

 これも11の歌とよく似た歌です。「我がからに」は「私ゆえに」という意味。「忘らえぬ」は「忘れられない」、「かも」は詠嘆の終助詞で、「忘れられないなあ」という意味。

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古典の花園16 第二章11

11
 父母が頭(かしら)かきなで、「幸(さき)くあれ」て
言ひし言葉(けとば)ぜ、忘れかねつる。  (万葉集・防人歌)

防人に駆り出されるのは東国の青少年が多かったようですが、この歌には中部地方の方言が混ざっています。「て」は引用や発言を受ける「と」、「ぜ」は強意の係助詞「ぞ」です。この歌の作者はまだ少年のようで、頭を父母に撫でられるくらいの年齢です。そうした少年は防人に行った後も、父や母のことを偲ぶことが多かったのでしょう。家族間の愛情の強さは、衣食住すべて備わった現代よりも、すべてに不自由だった昔のほうが強かったように思われます。この歌は、幼い感じの方言が、少年の真情をよく伝えているようです。

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古典の花園15 第二章10

10
 「防人に行くは誰(た)が背」と問ふ人を、見るが羨(とも)しさ。
物思ひもせず。  (万葉集・防人歌)

 「背」は、愛する男性、夫のこと。自分の夫が防人に行くその日、どこかの奥さんが、「防人に行くのは誰の旦那さんでしょうね」と言っている。その何の物思いも無さそうな姿の羨ましいことよ、という意味です。防人は、唐・新羅からの侵略に備え、国土防衛のために現在の九州北部に配備された兵士のことです。任期は三年ですから、その家族にとってはもしかしたら、永遠の別れになるかもしれない別れであったわけです。作者は、防人の奥さんですから、無名の庶民なのですが、この一つの歌によって、永遠に歴史に記録されたと言っていいでしょう。『万葉集』の中でも、心に残るという点では傑出した歌です。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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