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メモ日記8 (#19)

#19   読書の不利益

読書の利益についてはよく言われるが、不利益についてはあまり言われない。せいぜいエロや暴力を描いた「有害図書」の青少年への影響を、ヒマなおばさんたちが時々騒ぐくらいなものである。しかし、一見真面目な本のほうがかえって有害なこともある。「有害図書」のほうは、読むほうも最初からその気で読むから案外害はないものだ。本当に有害なのは、真面目な本の体裁を取って人を迷わせる言説をなす本である。新興宗教の本や、自分の人生を語って「生きる道」を人に説く本の類がそれだ。とくに、自分は悪の道から更生して、こんな立派な人間になりましたという自己宣伝の本が案外ベストセラーになったりするのは困ったことで、世間の青少年に、罪を犯してもいつでもリセットできるじゃないかと世間を甘くみる考えを植え付けてしまう。「美徳は切り売りできない」とはバルザックの名言だが、犯罪の被害者のことを考えれば、犯罪者には処罰を与えるべきであり、安易に「更生」されては被害者の立つ瀬はない。一度犯した罪は、どのようにしても消えるものではないと考えるべきなのである。たとえ、その人間が再起して教師になろうが司法試験に受かって弁護士になろうが、他人に説教できる資格などない。まあ、そんなのに感動する人間も人間だが。
世間の人間が権威に弱いことは驚くほどで、学者とか宗教家とか弁護士とか大会社社長の発言だとありがたく拝聴し、それに騙される。それこそが読書の弊害だろう。

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天国の鍵 7

その七 カザフ

「なかなか賢い小僧(こぞう)じゃねえか。よし、俺たちもいっしょに行ってやろう。こいつ一人じゃあ危ないからな」
若者が言うと、女の人は心配(しんぱい)げに聞きました。
「でも、マルスのところには?」
「どうせとちゅうでカザフは通るから、だいじょうぶさ。その後の予定はないんだし」
「そうね、パーリの独立のためにも、グリセリードのようすを見ておくのもいいかもしれないわね」
 二人は、ハンスにはなんのことかわからない話をしていましたが、男がハンスの方を向いて言いました。
「坊主(ぼうず)、グリセリードにはおれたちがつれていってやろう。どうだ?」
 人を小僧だの坊主だのと、失礼(しつれい)な言い方をする男ですが、悪い人間には見えません。大人がいっしょなら、なにより安心です。それに、もう一人の美人は、できるならこのままずっと一生ながめていたいくらいです。
「ありがとうございます。おねがいします。ぼくはハンスと言います」
「おれの名前はピエール、こいつはヤクシーだ」
「よろしく、ハンス」
ヤクシーとよばれた美女はハンスにほほえみました。やくしーなんて変な名前だな、と思いながら、ハンスは赤くなってうなずきました。

 翌日、ハンスたちは宿屋を出て山脈のふもとの村カザフをめざしました。
 ピエールとヤクシーは馬に乗ってます。その後ろから驢馬のグスタフにまたがったハンスがついて行き、犬のピントは彼らの前を走ったり、後ろからついてきたりします。
 ハンスは、ピエールという男がよくわかりません。身なりは商人とも騎士とも貴族とも農民ともちがいます。貴族の平服を着ていますが、態度(たいど)や言葉づかいは貴族にはとても見えません。ところが、ヤクシーの方は、身なりは質素(しっそ)ですが、きれいなかっこうをさせたら、どこかの王女だと言ってもみんな信じるでしょう。どうもあやしげな二人ですが、悪い人間でだけはなさそうです。
 やがてカザフの村が見えてきました。
 山のふもとにあるその村は、民家の数はおよそ百くらいの小さな村です。
 家と家の間はゆったりと広く、家の垣根の中では、暖(あたた)かな日ざしを受けて、山羊やニワトリやアヒルがえさを食べています。のんびりとした村です。
 ピエールたちは、その村の一番高いところまで上っていきます。
 すると、目の前に大きな百姓屋(ひゃくしょうや)があらわれました。
 家の前で小さな子供を遊ばせていた女の人が、彼らを見て手をふりました。

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古典の花園


第四章 ユーモアとパロディ

 前の章が悲哀感に満ちた歌ばかりでしたから、ここでは笑いのある古典を紹介しましょう。ただし、ここで紹介する古典は、それに先行する古典のパロディがほとんどですから、その関係がわからないと何が面白いのかわからないと思います。かつての日本人の笑いは文化的伝統を共有していることを前提としており、現代の我々から見れば、庶民に至るまで高度な文化的教養があったという感じがします。それはもちろん、鼻持ちならないスノッビズム(文化的俗物臭)に堕すこともあるのですが、現代のように教養の共有が無く、会話や笑いから教養が消えてしまった時代から見ると、ひどく羨ましいものに思えます。

1 
歌詠みは下手こそよけれ。
あめつち(天地)の動き出してたまるものかは。 (宿屋飯盛)

 狂歌は、和歌の形式で笑いを狙った作品ですが、たとえば万葉集にある、大伴家持がやせっぽちの男に、夏痩せに効くという鰻でも食いなさい、という歌を詠み、ただし、鰻を取ろうとして川に流されるなよ、と詠んでからかったのは狂歌に近いものです。1の歌は、もちろん、古今和歌集仮名序の有名な一節のパロディで、力も入れないで仏や神を感動させ、天地をも動かすのが歌である、と述べた仮名序に対し、歌で天地が動き出してはその上で暮らしている人間はたまったもんじゃない。ならば、下手な歌詠みのほうがましだ、とからかったものです。


 菜(さい)もなき膳にあはれはしられけり。
 鴫焼き茄子の秋の夕暮れ。   (唐衣橘州)

 三夕の歌の一つ、西行の「こころなき身にもあはれはしられけり。鴫立つ沢の秋の夕暮れ」のパロディです。茄子の鴫焼きは、油でいため、味噌をつけた茄子の料理。それ以外におかずが無い膳に、「しみじみと哀れを感じることだ」ということ。古文の「あはれ」は厄介な言葉で、嬉しいにつけ悲しいにつけ心深くしみじみと感じることはすべて「あはれ」なのですが、ここでは秋の夕暮れに対するロマンチックな「あはれ」が、貧相な食卓に対する悲哀になってしまったわけです。


 ひとつとり、ふたつとりてはやいて食ふ。
 鶉なくなる深草の里。  (四方赤良=蜀山人)

 こちらは藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて、鶉鳴くなり。深草の里」のパロディです。もちろん、「うづら鳴くなり」を「うづらが無くなる」(焼いて食ってしまったから)とからかっているわけです。王朝風の美が、食欲の前に敗北したというところです。



 その後(のち)は、こはごは翁竹を割り。(「柳多留」作者不詳)

 これは狂歌ではなく川柳ですが、言うまでもなくこの翁は竹取の翁です。竹の中からかぐや姫を見つけたのはいいのですが、その後は、うっかり竹を割って、中の姫君(か何か)を一緒に割っては大変だということで、翁はこわごわ竹を割っただろう、ということです。古典の世界に現実性を持ち込むと笑いになるわけですが、こうしたフィクションに対する「突っ込み」は現代でも笑いの一つのパターンです。


 芭蕉翁、ぼちゃんといふと立ち止まり。  (「柳多留」作者不詳)

 これも説明不要でしょう。ただし、この川柳の解釈として、旺文社古語辞典では、これを芭蕉が「古池や、蛙飛びこむ水の音」の名句を作った時のこととしていますが、それではあまり面白くない気がします。むしろ、この名句ができたために、その後は、蛙が水に飛び込む音を聞くたびに、また名句ができないかと立ち止まるとしたほうが、人間の助兵衛心を衝いた秀逸な川柳になると思います。「いふと」という表現には、一回きりというより、その度にのニュアンスがあるはずです。 


 おっかさん、また越すのかと孟子言ひ。 (「柳多留」作者不詳)

 言うまでもなく、「孟母三遷」の故事をからかったものです。孟子の母が、子供の教育環境のために三度も引越しをした話が「孟母三遷」ですが、引越しに付き合わされる子供のほうはたまったもんじゃない。きっと、文句の一つも言っただろう、ということです。
 亜聖(準聖人)と言われる孟子も、川柳作者にとってはからかいの対象にしかならないのです。



 卯月八日。死んで生まるる子は仏。  (蕪村)

 これは川柳ではなく、俳句です。真面目な学者さんは、これが川柳に近い句だとは思わないようですが、私から見れば、これは笑いの句です。「四月八日」は、釈迦の誕生日とされています。ですから、この日に生まれた子は釈迦と同じ誕生日であるだけでなく、死んで生まれたなら、最初から「仏」である、というこの句が笑いの句でなくて何でしょうか。(「仏」とは、死者の意味でも用います。)これを現実に即した句だと見れば不謹慎きわまる句ですが、単なるブラックな冗談として見れば、ただ面白いだけの句です。俳句を求道的な芸術と思いこんでいる人間にはこういうお遊びが許せないらしく、俳句に平気で虚構を持ち込んだ蕪村の人気はあまり高くありません。しかし、俳句の中の笑いや虚構性が失われたために、俳句は「面白くない」芸術として、大衆から切り離されてしまったのです。



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天国の鍵 6

その六 若者と美女

 ハンスは、猿のジルバにたのんで宿屋の前で芸(げい)をしてもらいました。芸とは、たとえば逆立ち(さかだち)とか宙返り(ちゅうがえり)です。ジルバが犬のピントや驢馬のグスタフのせなかの上で逆立ちや宙返りをすると、宿屋のお客さんたちは感心してそれをながめ、芸が終わると、みんな少しずつお金をくれました。ぜんぶかぞえると、七リムと六十五エキュ、七千五百円くらいになりました。
 なかでも気前のいいお客は一人で五リムもくれたのです。
その人は感心して言いました。
「いやあ、よく仕込まれた犬や猿だなあ。まるで人間のことばがわかるみたいじゃねえか」
 言葉づかいは少し下品(げひん)ですが、気の良さそうな若い男です。もっとも、子供のハンスから見れば、大人はみんなオジサンですが。
「坊やたち、どこから来たの?」
その若者のそばにいた恋人らしい女の人が言いました。こちらは、ものすごい美人です。ハンスは思わずその人に見とれてしまいました。生まれてから今まで、こんなに美しい女の人を見たことはありません。でも、この国の人ではなさそうです。色が浅黒く、目鼻立ちが非常にはっきりしています。目は大きくて、瞳が黒いダイヤモンドのようにきらきら輝いています。きっと南国の人なのでしょう。言葉も少したどたどしい感じです。
「トエルペンです」
 男の方が女の人に説明(せつめい)しました。
「トエルペンってのは、アスカルファン中部の町だ。アルプ郡の、三番目に大きい町だな」
 この男はアスカルファンの地理にくわしいようです。旅なれているのでしょう。
「で、これからどこへ行くの?」
「グリセリードに行くつもりです」
 男の人と女の人はおどろいて目を見合わせました。
「おいおい、坊や、グリセリードがどんなところか知ってるのか? アスカルファンとは仲が悪くて、この前も戦争をしたばかりなんだぜ」
 そう言えば、そんなことを聞いたような気がしますが、でも、十歳の子供にとって四、五年前のころの話は大昔です。
「入るのはむずかしいのですか?」
「そんなこともないが、アスカルファンの人間だと知られるとまずいだろうな。殺されるかもしれん」
 ハンスは少し考えて言いました。
「じゃあ、口がきけない人間のふりをします。どうせ、よその国の言葉はしゃべれないんですから」
 男はその言葉に感心したようです。

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メモ日記 7 (#15)

#15   言葉の前で立ち止まる

我々が本を読む場合、先が早く知りたくてじりじりしているものである。だから、時には飛ばし読みをすることもある。もちろん、本から些末的な情報を得るための読書なら、飛ばし読みも大いに結構だ。しかし、これが癖になると、我々の人生に真に役立つ本や、味わいながら読むべき本にまで、つい飛ばし読みをすることになる。たとえ、目は文字面をずっと追っていても、その意味や含蓄をほとんど考えずに読むなら、それは飛ばし読みの一種である。読書は読んだ量ではなく、何を読み取ったかという質を問うべきものである。私は断片的読書も悪くないと思っているが、しかし、時には言葉の前で立ち止まることが必要だと考えている。
「徒然草」第七十五段に、「人に交はれば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら心にあらず」という言葉がある。前に読んだ時には何気なく読み飛ばしていた所だ。しかし、日常生活における我々の会話の実相をこれほど鋭く簡潔にえぐった言葉は無いのではないだろうか。我々は、他人との会話の中で、自分の思うことを言っていると思っているが、しかし実は、他人がそれをどう聞くかを考えて、さしさわりのないことだけを言っているのである。我々が自分の本心を言うことなど、滅多にない。対人関係における孤独と疎外はここから始まるのであろう。
立ち止まって眺めれば、たった一行の言葉でも、大きな世界を含んでいる。

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「易経」のアップと、今後の掲載方針

またまた新しいカテゴリーである。中国古典思想の書であり、占いの書である「易経」を、現代人にも理解しやすく、自分で占いもできるようにしようという「易経」解説の文章だ。
ここまでのカテゴリーの内容と今後の方針をここで予告しておこう。
1 「メモ日記」:過去10年くらいに書かれた日々の随想。全部で270節くらいあるが、そのうち差しさわりのあるものを除いて掲載する予定。今後は毎日一つだけアップする。
2 「天国の鍵」:完成済みの少年小説。今後は毎日1章づつアップする。
3 「超訳」:「老子」についての自己流解釈。ここに書かれた部分のみで終わりである。
4 「時の蝿たち」:日々の随想で、「メモ日記」とは異なり、現在の毎日の思索の記録。気が向いたら書くという形になるだろう。
5 「随想」:過去に書かれた文章のうちまとまったもの。いろいろあるが、掲載可能なものを選びながら随時アップしていく予定。
6 「易経」:まだ全部は完成していないが、半分以上は書かれている。すべて完成すれば、実用が可能である。不定期に更新予定。

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易経 6 易占一覧 1「乾為天」

易占一覧

 以下に書く説明の中で、最初の「乾為天」は、易に頻出する言葉の解釈の仕方なども含めて書くので、長い文章だが、その後は簡単になるので、我慢してここは読んでほしい。そうすれば、それ以外の卦の、解釈の理由などもある程度はわかるはずである。

1.乾為天(上:乾 下:乾) または(上:天 下:天)
【全体運】純陽の卦。「元享利貞」という卦の辞は、一般には「元」を「大いに」と読み、「大いに通り、正しさに利がある」と解釈される。しかし、やはり「元」を基本の意味通り、「始め・根元」の意味でとらえるなら、「元は通る。貞に利あり」と読み、

「始めの部分と根本に注意せよ。そうすれば物事はうまく通る。貞固さに利がある。」という解釈になる。

この乾為天の卦は、すべての卦の基本でもあるので、占いというよりは、占う人間への一般的教訓なのだと思われる。(占いとしての卦は各爻にある。)つまり、「元享利貞」とは、「元、享。利、貞。」というように分けて読むわけだ。
乾、つまり天を世界の始まり・根元とするのは易の中心思想であるから「元」を「始め・根元」の意味に解するのは、無理の無い解釈だろう。これまでの解釈は、「元」をただ「享」の修飾語としてとらえ、「大いに」の意味にしていたのだが、これは「乾」と「元」との関係を見落とす、浅い解釈だったのではないだろうか。こんな事を言うと、お前はあの大学者の朱子や程伊川より自分の方が正しいというのか、と言われそうだが、いかに大学者でも常に正しいとは限らない。我々は自分が合理的だと思う考えに従えばいいのである。ただし、「元」を「始原」の意味とするのは「乾為天」の場合だけで、後の卦ではこれまでの解釈通り、「大いに」と読むことにする。ただし、その場合も常に「根元に注意せよ」という原則が暗黙にあると考えればよい。
「亨」は「通る」、つまり願いが通るということ。
「利」は「利益」であり、「利貞」は「貞に利あり」と読む。あるいは「利は貞にあり」でも良い。
「貞」とは、「貞固」つまり、固く守ることであり、「正しいこと」の意味もあるにはあるが、それよりも、今のやり方や考え方を固く守るという節操、悪く言えば頑固さである。この「貞」については他の卦に「貞に利あらず」のような託宣も出てくるのだから、明らかに「正しさ」ではなく「現在の方針にこだわること」=「貞固」の意味であるはずだが、これまでの解釈はほとんど「正しさ」としていた。「易」という書物が道義を何よりも重んじていることを考えれば、「正しさに利あらず」という解釈はありえないはずだ。学者というものが、いかに過去の解釈に洗脳されていたかを、このことは示している。
物事の始まりと根本に注意するというのは人間社会を生きる上で、もっとも大事な知恵であり、それを易の最初に置いたのもうなずける話である。この知恵を体得するだけでも、生きる上で大いに役立つはずだ。

各爻の意味は次の通り。*の注釈も参考にすると良い。この乾為天の爻卦は、地位についての教訓として読める。上卦と下卦に分けるなら上卦は支配的立場、下卦は臣下の立場と言える。そして、上卦の真ん中の5爻が君主の座であり、その上の6爻は引退した君主や院の座である。4爻は君主の側近の座。下卦の真ん中は、臣下の中心的存在で、言わば現場を実質的に引っ張る存在であり、その上の3爻は現場の名目的リーダーや責任者の立場である。一番下の初爻は、まったくの平社員的存在と見ればよい。各爻がそうした地位を表すことを知っていれば、占って得た爻卦と自分の現在の地位とをくらべて判断することもできる。もちろん、地位などとは無縁の立場の人は、爻の表す地位については考慮しなくてもよい。

初爻:まだ機会が熟していない。雌伏せよ。
2爻:まだ様子見をする段階である。見識のある人間に相談するのがよい。
3爻:危い地位である。慎重にふるまえば危険は免れる。
4爻:躍進(昇進)の機会を得るが、まだ万全ではない。咎めを受けないようにせよ。
5爻:最高の地位につくことがあっても、謙虚に識者の智恵を借りよ。
6爻:上り詰めるとかえって後悔することがある。物事はほどほどにとどめよ。
* この「乾為天」の卦を得た場合の基本方針は、「能ある鷹は爪を隠す」で、控え目にするのが吉である。
* 「乾」つまり天は物事の始原であり、雲が行き、雨を降らせる。それによって地上の物の形も定まる。つまり、組織の中心となる人物や存在である。彼は行動すべき事柄の始め終わりを定め、組織を作る。天の変化によって組織の各部は形を適切に変え、全体の和を保つ。これが「利貞」の意味である。こうした人物が組織のリーダーとなるならば、世界は感動し、安らぐだろう。まだ下位にある人物がこの卦を得たら、将来は自分が組織の長になるくらいの気概を持ちながら、研鑚努力し自己を高め、機会を待つのが良い。
* 「元」は始まり、仁、至善なるもの。「享」は受容、流動、変化、通じること、あるいは生育、通達、礼、良きことが集まること。「利」は正しさを集めることによって自他の利益となること。「貞」は事の根幹、基本方針やモラルを堅く守ること。この「仁・義・礼」を基本方針とし、堅く守る人物を君子という。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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