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今こそ「攘夷」の時

「大摩邇」から転載。
筆者の「ねずさん」という人には民族差別主義者的なところがあり、やや狂信的国粋主義者のイメージが私にはある。まあ、井口博士の同類だ、と見ていたが、下に書かれていることは、まったくまともである。江戸末期の政治状況について、通常の日本史の授業ではここまで明確に教えてくれない。だから、「江戸幕府はアホ」「鎖国政策はアホ」「明治維新は日本の夜明け」「開国政策は賢い政策」という認識しか持たない。まあ、明治政府そのものが「勝てば官軍」の俚言の出所となった存在だから、勝者である明治政府の国民洗脳教育が今に至るまで効果を残したわけだ。
なお、私は司馬遼太郎は好きだが、彼の小説で歴史が理解できるとは思わないほうがいいと思う。彼が書いたのはあくまでフィクションとしての人間ドラマであり、歴史の深層や真相ではない。


ある日本通の外国の知識人が、「日本の明治維新において、倒幕派(維新の志士たち)が最初尊皇攘夷を叫びながら、いざ明治政府ができるとすぐに開国に転じたのは実に巧妙な戦略であった」と言ったのを読んだことがある。まさに、討幕が成ると同時に、「攘夷」から「開国」へと大転換が行われたのである。事情を知らない大多数の維新の志士たちにとっては狐につままれたような気分だっただろう。まるでTPP反対を叫んで政権を得た政党が、いきなりTPP賛成を言いだすようなものだ。このあたりが、明治維新は外国によって操作された革命だ、という説が出てくる所以である。私も、明治維新にはそういう側面があると思う。


話が長くなったので、前置きはこれくらいにする。下記記事は、明治維新に興味のある人は一読する価値がある。

「攘夷運動」とは、外国の侵略に対する国民的運動だったのであり、単なる「外国人フォビア(嫌悪症・恐怖症)」などではない。そして、現代はまさにその外国の侵略が、形を変えて政治的・文化的に起こっているのである。文化的侵略(洗脳)もさることながら、言うまでもなく、TPPは日本人の経済的奴隷化構想であり、今の日本が直面する最大の問題である。






(以下引用)*赤字部分は引用者(夢人)による強調。







明治の後年から昭和初期にかけての日本の強さは、まさに世界を震撼させたほどのものですが、どれだけ強くても、日本の願いは常に平和そのもの、いくさのない世の中にあり、武威を張ることを是とはしていなかったということが、そのような姿からも見て取ることができます。
そしてその伝統は、やはり徳川270年の治政にあったといえます。

その徳川幕藩体制が崩壊したのは、外圧によるものでした。
その外圧のなかで、とりわけ大きなきっかけとなる影響を持ったといわれているのが、ペリーによる黒船来航でしたが、そのペリー来航について、あたかもペリーが突然やってきたために、日本中が大慌てしたようなことを書いている教科書などがあります。
が、これは間違いです。

実際には、米国からペリー艦隊が、日本に開国を求めてやって来ることを、ペリーが米国を出発したことからはじまって、何隻の艦隊で来るのか、乗組員は何名か、大砲の数はいくつか、船名は何と言うのか、どういうルートでやってくるのか、いまどこにいるのか等、それこそ台風情報じゃないですけれど、幕府も、全国の諸藩の武士たちも、つぶさにその情報をとっていました。

問題は、そのペリーがどこに入港するかで、もちろん幕府は長崎に来させるつもりでいたのですが、それが東京湾(江戸湾)にやってきてしまった。
江戸湾にやってきたということが問題になったのでって、外国使節が来たということが問題になったのではありません。

これも以前に書かせていただいたことですが、江戸湾は、当時の江戸の町に食料を運ぶ、メイン海上ルートです。
江戸には250万人の人が住んでいます。
その250万人が、毎日、朝晩二食の食事をするわけです。
つまり1日あたり500万食です。

もしペリーが、1ヶ月江戸湾を封鎖したら、1億5000万食分の食料の供給が止まるのです。
そんな備蓄は、幕府にだってありません。
ということは、江戸市民が飢えて死ぬという結果をもたらすのです。
だから「たった四杯で夜も寝られず」というくらい、幕府は慌てました。
それだけのことです。

では、ペリーが原因でないなら、攘夷運動は何故起こったのかというと、直接の引き金は、むしろ阿片戦争にあります。
強大な東洋の大帝国であるはずの支那の清王朝が、欧米のごくひとにぎりの艦隊の軍事力の前に、あえなく敗北してしまった。
敗北した清王朝では、白人たちが支那人たちをまるで家畜のように扱ってる。
その脅威が、日本にも迫っている。
そういう事実を目の前に突きつけられて、それでも平和ボケしているのは、現代日本人くらいなもので、当時の武士たちは、ものすごい危機感を持って、「日本はどうするんだ?」となったわけです。

そういうところに、ペリーが幕府の制止をふりきって、いきなり江戸湾に侵入してきたわけです。
阿片戦争と同じ光景が、現実の課題となったのです。

これについて、「当時の武士たちは、どうして鉄の船が海に浮かぶのかと驚いた」などと、アホなことを書いている学者や小説家がいますが、悪いけれど鉄の船なら、信長が本願寺攻めのときに作っています。
日本人にとって、そんなものはさしてめずらしいものでもない。
もちろん、黒船がやってきたとき、弁当持参で物見遊山の黒船見物に出かけた庶民が多くいましたから、そうした中には「あんな真っ黒い鉄の船が、どうして海にうかぶんじゃろうか」などと、半ば驚き、半ば大喜びしていた人たちもいたことでしょう。
そうした人々と、当時の施政者たちを混同するのは、ちょっといきすぎた話です。

もっというなら、おなじく幕末に日本にやってきたロシアのフリゲート艦ディアナ号は、駿河湾で沈没していますが、これと同じ船を、またたくまに伊豆の船大工たちが作ってしまっています。
同じ船を造ったということは、それくらいの船をつくる技術も、当時の日本にはすでにあった、ということです。
技術そのものについては、なにも驚くこともなかった。
ただ、蒸気で動く船というところについては、たいへんな驚きと興味を抱いたというのが、現実の話です。

なるほど江戸時代、日本は鎖国していました。
ただ、鎖国していても、武士たちは海外の諸情報を実はつぶさにキャッチアップしていました。
その情報力は、むしろテレビや新聞といったメディアが駆使できていながら、偏向情報しか与えられずに、あきめくらになっている現代日本人よりも、はるかに鋭敏なものであったといえるかもしれないくらいです。

さて、欧米列強による植民地支配の恐怖を見せつけられた日本人は、欧米の夷敵を打ち払うためには、国内が藩ごとに独立していては、この国は守れないのではないかという強烈な問題意識を持ちました。
実際、長州、薩摩はそれぞれ独自に黒船に戦いを挑み、あっという間に粉砕されてしまっています。
ならば、このうえは幕藩体制を完全廃止し、国民総力戦が可能な統一日本政府を構築するしかない・・・というのが攘夷派となり、幕藩体制のまま、統一政府化すべきだというのが佐幕派となって戊辰戦争になりました。

そのなかで、会津藩が、どうして最後まで頑強に抵抗したのか。
それは「藩主の松平容保が、婿養子だったからそうせざるを得なかったのだ」などと、これまたアホな見解を書いている本や小説がありますが、これまた大きな間違いです。

殿様がおかしなことを言い出せば、殿様を座敷牢に押込めてしまうというのが、江戸時代の武家の習慣です。
つまり、会津藩が頑強に抵抗したのは、殿様のご意思というだけのものでなく、藩をあげての意思であったということです。
ではなぜ、会津藩士たちが、そのような見解に至ったか。

これについては、西郷頼母が、はっきりと書きのこしています。
要約すると「武家は民を守るためのものであり、民が安心して暮らせるように仕向けるのが武家の役割である。国を護るために戦うのは、まさに武士の仕事であって、そのために民をつかうなどということはもってのほか」というわけです。

要するに幕末戊辰戦争は、国民皆兵論か、あくまでも武家専従論かの違いがもとになっているとみることができます。
武士は民のために平素から腰に二本の刀を差しているわけです。
その武士が、いざ戦いとなったら、農民や町民たちに武器を持たせて闘わせ、自分たちはその裏でのうのうと生きるなどということは、武家としての一分が立たない。
そんなものは卑怯者のすることであると、これが武士の筋ですし、その意味で会津や二本松は、まさに武家としての筋道を最後まで通して戦ったわけです。

もっとも、いわゆる農民兵については、幕府もこれを用いて陸軍を編成したりしていますから、幕府内でも様々な議論はあったわけで、そのあたりが話をややこしくしています。
けれど、戊辰戦争が、単に尊王攘夷と鎖国佐幕の争いというだけの話ではなかった、そこに思想哲学の戦いがあったということは、もうすこし学校などでも教えてよいものなのではないかと思います。

ただ、国を守ると言う戦力という意味においては、結果からみれば、国民皆兵の方が、もちろん戦力的脅威となりうるわけで、その意味においては、戊辰戦争は、「筋」より「実力」が勝った戦いといえるかもしれません。

こうして新たな政治体制として構築されたのが、大日本帝国です。
ですから大日本帝国は、なによりも実力を重んじました。
戊辰戦争の敵であっても、新たな政治体制の中に、必要な人材をどんどん取り込みました。
明治政府は、実力本位の政府であったわけです。
もちろん薩長閥のような不条理も内包しています。
けれどそういうことは、人の世では、ある程度仕方のない部分でもあります。

明治政府の実力主義の考え方は、四民平等の政策となり、そして日本人としての白人種との対等意識と相俟って、世界に向けて人種の平等を高らかにうたいあげる日本の政策となりました。
そして日本は、世界の有色人種を植民地として支配する白人国家に対して、真正面から戦いを挑んで行くことになるわけです。

教育の根本にあるべきものは、人間としての品格を育てるということです。
いまは亜流とされている歴史観も、あと数年したら間違いなく日本の主流となると思うし、100年後には、世界の常識となっていくであろうと、私は思います。













(夢人補足)「植草一秀の『知られざる真実』」ブログより転載。(直接には「ライブノート」より)





自民党は総選挙の際に、TPPに参加するための前提条件を公約として主権者に提示している。


ここで提示した条件が整わなければ、TPPには参加しないことを宣言したものである。


実際、総選挙の際に自民党は、


「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。日本を耕す自民党」


という文字を大きく明記したポスターを貼り巡らせて選挙活動を展開した。


その自民党が、本年3月15日に、TPP交渉参加を決めたこと自体、ペテンというほかない。

















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天皇は日本という揺れる国の動かぬ重心である

「日本の独立をめざして」から転載。(元のブログタイトルは長いので略した)
書かれた内容のすべてに賛同してはいないが、日本の天皇制は、世界でも稀な、「奇跡のようなシステム」である、ということには賛成だ。要するに、これも下記記事に書かれているように、(私も同じことをずっと言っているが)「権力」を「権威」が制御するというシステムである。これはローマ法王庁ですらやっていないどころか、バチカンは常に現世的権力の支配構造の一部でしかなかった。もちろん、天皇制の歴史を見れば、天皇が実権力の中心であった時代も幾つかあり、それはすべて失敗に終わったと言っていい。そして、天皇が実権力を他者に譲り、ただ権威的存在になった時に、日本は平安が保たれたのである。
つまり、現在の日本国憲法における「象徴天皇制」こそが、まさに日本の政治史的伝統と最高に一致したシステムなのである。(占領軍における日本支配の打算の結果が偶然に日本の歴史的事実に合致したという可能性もあるが)
もちろん、このシステムでは「権威」は現実政治には基本的には口出しはしない。天皇が政治に「ああしろこうしろ」と言ったことはほとんど無いのである。ただ、棋士上がりの右翼的な男が園遊会で「日本中に日の丸を上げ、君が代を歌わすのが私の夢です」とか何とか言った時に「強制でないのが望ましいですね」と穏やかにたしなめたくらいだろう。この一言の日本社会への「抑止力」は強大なものがあったと私は思っている。
つまり、天皇とは日本社会の中心にある、静かなる権威、動かぬ重心なのである。日本があまりに右傾化、左傾化した時や、日本が危機に陥った時に、その権威が発動されれば日本人はおそらくそれに従うだろう。
日本の敗戦時に天皇の言葉一つで日本国民は手に持った武器を捨てて、敗戦を静かに受け入れた。(天皇の戦争責任の話はまた別問題であり、ここでは天皇という存在の力と権威を問題にしている)それには、占領軍そのものが驚いたという。敗戦後もゲリラ的な戦闘が長く続くことを彼らは覚悟していたのである。ところが、天皇の一言で、戦闘行為がぴたりと収束した。このような国民を西洋は初めて見たはずだ。
私は「尊皇攘夷」主義者であり、「社会主義者」であり、「日本国憲法」支持者である。それらには少しも矛盾は無いと思っている。もちろん、「攘夷」とは、日本に害をなすグローバリズムやグローバリストを敵とみなし、日本から追い払え、ということだ。簡単に言えば、ユダ金や外資の手先を「夷敵」だと私は言っているのである。
天皇制については私と異なる意見の持ち主は多いと思う。特に、「天皇の軍隊」によって悲惨を味わった被害者には天皇や天皇制は永遠の敵とも思われるだろう。だが、天皇制というものには無限の価値があり、それは「世界が憧れている」奇跡のようなシステムかもしれないのである。
しかしまた、そういう天皇を「玉」と見て、その錦の御旗を手に入れて利用しようという現世的権力は昔から無数にあった。明治維新は天皇という「玉」を手に入れた側が「官軍」となり、江戸幕府が「賊軍」とされたために、江戸幕府の敗北が決定づけられたとも言える。天皇も人間である以上は、そうした傀儡化の危険性は常にあるわけである。しかし、現在の天皇はまさしく「日本国憲法」の体現者であると私は思っている。願わくば、この後の天皇後継者もすべてそうであってほしいものだ。




(以下引用)




2013/10/28


「天皇制という奇跡のようなシステムに世界は憧れている」  



権力の頂点が、実権力を持たず、許されているのは民族の平安無事祈願だけである

奇妙な事に、権力の認証者に、実権力は無い。

しかし権威がある。しかしその権威は行使される事はめったに無い。民族の危機存亡の時をのぞいては。

歴史上そんなに発動されるものではない。

モンゴルの脅迫状が届いた時、打ち払い命令を出した。多分これが天皇と言う、不思議なシステムが発動した最初だ。

天皇家の政治権力を奪ったはずの鎌倉武士がこれを根拠にして戦った。


その後は、信長のときに危機があったが、天皇が何かをしたかはわからない。ただ暗殺の信長「打ち談合」には側近がからんでいた証拠がある。

その後は、ヨメを次々送り込まれて徳川家と一体化した、北朝は

江戸幕府崩壊のときに殺されたといわれる、孝明天皇の、無視された攘夷命令。。。。

その後、おそらくイギリスが発案し、乗っ取ったといわれる、南朝の末裔とも、馬の骨とも言われる人物が送り込まれ、現人神システムの明治天皇になって、発動はされなくなったが、

そのうち、元に戻った。明治天皇は戦争を非常に嫌っていたそうだ。

天皇が天皇に戻った。それが終戦のときの決断である。天皇家はニホンジンの心理収斂先そのものである。

じつは武士も元々天皇家と血がつながっている。武士のでもとは、源氏と平家、関東武士は平将門だろうが将門は、

「平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。」要するに武士は皇族なのだ。

(この2000年で、縄文お出身である武士と弥生の出身である、天皇家と血のつながりの無い人の方が少ないだろう、という事になっている。ということはニホンジンのほとんどは天皇家と血がつながっていると考えられるのだ。つまりニホンジンほとんどは皇族である、と強弁でき、ニホン民族とは天皇族のことになる! これが昭和天皇が挙国一致の太平洋戦争を指導できた理由である)

武士の出元ははっきりしないが、おそらく天武あたりからだろう。実際の殺しを下賎の、縄文人系統にさせたのだ。

(仏教で動物を殺したりする事をすると浄土に行けなくなるという事で、穢れ行為の実行を縄文系に押し付けたのだろう。穢れ行為が無いと、秩序は維持できない。それより前は天皇家は本人が弓矢、刀をつかんで殺し合いばかりしていた。世界標準の普通の王権のありようだった)

敗戦後、一切天皇家は発動をしなかった。

そして。原発事故の時、天皇の強権発動がおこった。

ただ一言、私は逃げない、静まれ、と。

そして今回は、皇后が5日市憲法に言及した。

国民の権利を大切にせよと命令したのだ。

それだけ今が、民族の存亡の危機だということである

皇后の発言なのでどういう政治的動きにつながるかわからないが。

ところで、皇后はキリスト教を信奉する家の出だ。精神の根幹は愛の思想である。

じつは大愚の考えでは、キリスト教の愛の思想と、天皇の天に祈願する概念は全く矛盾しない

バチカンの強奪と世界征服理念とは矛盾するが。

天皇という存在は共生の思想でさえあれば、なんとでも共存できる。同じ事を語彙を違えていっているだけだから。

天皇はひたすら、民族の平安を祈っているのである。平安と幸福を祈らない庶民は一人もいないから、

人類の代表となりうるのである。

それが、天皇の威力であって、血統や教義の問題ではない。

全くの偶然だろうが歴史の紆余曲折の結果、そういう事になっているのである。これは厳然たる事実性を持っている

偶然の結果形成され、願いの流れを実現すると、みんなに採用され、このシステムは、奇跡のような強制力を発揮する。

日本では天皇の祈りが収束すべき人間の基準線となっている。

だから揺れが大きくてもそこへ向かって収斂する、社会体制のホメオスタシスの基線になっている。アメリカには基線が無い。国が殺戮と強奪で形成されているからだ。

日本は弥生と縄文の共生で成立している。

これも偶然だろう。山に逃げられると当時の武力では征服不能である。日本の山は全部つながっているのが特徴。要するに追いきれない。共生するしか無いのだ。

だからアメリカはそこを破壊しようと、ネットに雑情報を流したり、共産主義(元々ネオコンはこれだ)をけしかけたり、いろいろしかけてくるが、彼らは殺し合いの勝者なのでいつも不安に苛まれており、逆に、天皇へのあこがれが嵩じて行き

DRFやシュウキンペイ、とう小平はあいに行くのだ。

まだあっていないのはプーチンくらいだろう。

プーチンが天皇とあうのは、日露の平和条約締結のときで、そのときが日本再独立のときだ。

この論理、政治思想をわかっていただけるだろうか?

クリックすると元のサイズで表示します

あなたもわたしも遺伝子の流れで言うと皇族なのだ。。。。。

そして、現存人類はみな、何十万年か前の出アフリカの数十人の末裔だ。

そうすると天皇は世界天皇となってしまうのだ。武力や実権力、宗教教義を離れた、人類の象徴として。

水爆時代は共存する以外にわれれにできる事は無いのだ。石器時代は武力の過少によって共生の思想ができ

現在は武力の過大によって、共生思想が可能になる

政治思想における自発的対称性の乱れが全世界的におこっている

日本の天皇システムが、世界の求心力の中心になりうる。殺し合いには、偽ユダヤでさえ、疲れきっているのだから。





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「赤旗」を駅(コンビニ)売りせよ

「阿修羅」から転載。
やっと最近ではTPPの危険性について一般のニュースショーなどでも語られるようになってきたが、国会中継などを視聴する国民は稀だろう。そもそも昼間の時間帯にテレビを見られるのは主婦と年金老人くらいのものだ。であるから、下記コメントのように国会での質疑応答を簡潔にまとめてくれるレポートは非常に有難い。
下記記事での質問はTPPについてではなく消費税についてのものだが、TPP反対は参院選での共産党の公約でもあるのだから、ぜひTPPについても追及してもらいたいものである。あるいは、既に質問済みで、私が知らないだけか。
そこで、私からの提案だが、「赤旗」を駅やコンビニでも売るような「営業努力」をしては如何だろうか。一般マスコミには絶対に出ない情報が「赤旗」には出る、となれば、市販された赤旗を買う人もけっこうたくさん出てくるだろう。
その際には、赤旗に娯楽記事や教養記事も載せるようにするといい。手塚治虫や井上ひさしは共産党支持者であることを明らかにしていたが、残念ながら故人である。そのような作家やクリエイターも、探せばいるはずである。
まあ、日本共産党という「永遠の野党」が存在することは、民主政治が健康に維持されるためには大事なことだ、と思うから、こういう応援アドバイスをするのである
もう少し言えば、宅配だと共産党支持者であることが明らかになって「怖い」という人は結構多いと思う。そういう人も市販のものなら「足がつかない」から、好奇心から買ってみる、という可能性は高いと思うのである。
私は、こういうアイデアを考えるのが好きなので、何ならアドバイザーになってもいい。私の星(四緑木星)は、言ったことが実現する星だというから、そういう役には適役だと思うよ。(笑)



(以下引用)*元記事には小池氏が質問時に使った統計グラフなども示してある。


05. 2013年10月25日 11:36:32 : i32hDVFNWw
消費税増税 貧困・格差を拡大
増税中止が一番の景気対策
内部留保活用 首相「私からもお願い」

参院予算委で小池副委員長
 「来年4月の増税中止を」「質の高い雇用こそ、安定した成長につながる」―。日本共産党の小池晃副委員長は24日の参院予算委員会で、安倍晋三首相とのやりとりで消費税増税の道理のなさを浮き彫りにするとともに、働く不安をなくし景気回復をはかる雇用政策に転換するよう提案しました。

(詳 報)◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102502_01_1.html
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◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102501_01_1.jpg
(写真)パネルを示して質問する小池晃副委員長=24日、参院予算委

 小池氏は、働く人の平均年収が減少しているもとで消費税増税を行えば、消費税率を3%から5%へ引き上げた1997年当時よりも深刻な影響(グラフ参照)が出ると指摘。景気も財政も共倒れして、社会保障の財源も生まれないと追及しました。所得の少ない人ほど負担割合が重い逆進性が増税でさらに強まり、「貧困と格差はいっそう拡大する」と述べました。
 首相は「たしかに景気の回復を腰折れさせる懸念もある」と認めました。小池氏は「そうであるなら、増税中止が一番の景気対策ではないか」と述べ、日本共産党が準備している消費税増税中止法案への共同を各党各会派に呼びかけました。

 小池氏は、被災地の実態、声も政府にぶつけました。医療、介護の減免制度復活に必要な予算が、増税にともなう復興特別法人税の廃止(9000億円)の9分の1程度であることを示し、道理のなさを際立たせました。

 さらに小池氏は、「法人税減税を賃上げにつなげる」という首相の空論も事実で批判。この間、法人減税は、賃金に回らず、内部留保や株主配当・役員報酬に充てられてきたことを示し、「なぜ、政労使会議で『内部留保を活用して賃上げを』と言わないのか」と迫りました。
 首相は「私からも内部留保の活用をお願いする」と答えました。

 小池氏は、政府がただちにできる賃上げ策として「『ブラック企業対策』も求めたい」と主張。非正規雇用の増大が賃金低下の原因であると政府も問題にしながら、労働者派遣法改悪など非正規雇用を増やすメニューばかり並べており、「これで、どうして賃上げが実現できるのか」と迫りました。
 「鮮度が落ちる」などと雇い止めにされた女性の事例を示し、「人間をモノのように切り捨てる社会でいいと思うか」と小池氏が迫ると、首相は「たしかに、そういう社会でいいとは思っていない」と答えました。


◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102501_01_1b.jpg
◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102501_01_1.html

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フェイスブック規約改定のポイント

「大摩邇」から転載。元記事は「キチガイ医のFB」というものらしい。つまり、この記事はフェイスブック利用者によるフェイスブック批判記事だが、それにとどまらずSNS(ソーシャルネットワークシステム)全体の危険性、日本における「情報統制」と弾圧の危険性に警鐘を鳴らしている。
この記事に書かれたフェイスブックの利用規約改定の内容は大笑いである。何の冗談かと思うが、本気でそれが行われるところはまさに現代の狂気だ。




(以下引用)



▼SNSサービスの動向

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とは、本来、人と人とのつながりを支援し、促進させる、交流型のサービスのことを差します。代表的なものに、mixi や GREE 、facebook などがあります。そして交流促進を掲げながらも、実名登録、その他で制限を設けているところが一般的ですが、その交流に特に制限を持たないサービスとして、2ちゃんねる があります。

現在、2でゃんねる は、その存在を快く思わない勢力によって閉鎖に追い込まれようとしています。制限を持たせない情報の自由交流は、確かに犯罪の温床に利用されてしまう部分もありますが、そこで正しい情報を得てきた方が多いのも、また事実です。行き交う情報に制限を設けないということは、常に光と影が交錯するという意味を持ち、情報の真贋の見極め、判別する力が重要となります。

facebook の世界戦略は見事なものです。彼らが描いたシナリオ通り、政府やマスコミ、メディアを巻き込んだPRも功を奏し、利用者は増え続け、現在、日本での利用者数は 2,200万人を突破(セレージャテクノロジー、8月8日発表)しています。(mixiのユーザー数は 2,711万人)

現代社会のSNSの本質という意味では、多くの人間を生産行為に向かわせず、興味関心を惹き付け、「1日の多くを忙殺させるための手立て」として利活用されているのが実際です。そして、これまでの期間は「束の間の自由を享受できるお試し期間」であったことも事実なのです。
これからが彼らの独善的な本領が発揮される時です。

▼利用者数が増えるということの意味

現在の日本の総人口は、総務省が 8/28 に発表した住民基本台帳上の3月末時点の公表値では、1億 2,639万 3,679人(4年連続で減少)となっています。

▽日本の総人口は、前年(2012年)より26万 6,004人減。
 下げ幅は最も多かった前年を上回る。

前項の facebook 利用者を日本国民の総人口の割合でみると、実に「17%以上の国民が利用」していることとなります。一般的に新商品が市場投入された際の市場普及率は、15%を超えると急速な普及期に入ると言われています。(閾値:クリティカルマス)

現実的には、全人口のうち、「労働力の中核をなす15歳以上65歳未満の人口層」即ち「生産年齢人口」の方々が利用者の中核をなしていることが想定されますので、生産年齢人口、8,062万 6,569人の割合からみると、実に27%以上(約3人にひとり)が、facebook を利用していることになります。

そしてこれだけの利用者が増えるということ、それはどの分野でも同じ事が言えますが、寡占による弊害が生じ始めるということでもあります。しかも、一定の閾値を超えて社会に普及してしまったサービスは、既に社会機能の一部となってしまっていることから、その「機能への依存」を含め、容易に取り除けない大きな課題を孕(はら)むことになるのです。

本来、サービス提供者は、こうした社会的な影響も踏まえ、適切、かつ真摯な運営を心がけなければなりませんが、facebook のように、「特別な意図」を持って設置され、運営されているサービスには、社会通念上の理屈は通用しません。利用者がその危険性を知り、利用方法を工夫していく必要があるのです。

▼今回の facebook 規約改定のポイント

今回の規定変更は、主要なポイントを挙げれば以下の通りです。
(以下の「我々」は facebook側という意味です。)

①全ての情報の取り扱いは我々に権利がある

登録した個人情報、投稿した記事などは、fecebook 側に2次利用(使用許可)を認め、個人情報を含む情報の販売や、目的を明らかにしない再利用についても利用者は認めなければならない。

 ▽即ち、第3者への情報提供・販売を行いますという宣言
 ▽投稿した情報は、facebook 側にも使用権利が生じるという宣言

②無償サービスを有償化する権限は我々にある

今後、facebookのアップデートにより、これまで無料で利用できたテキストメッセージなどの機能、また情報の更新頻度などによってはデータ料金についても徴収をはじめる予定がある。

 ▽即ち、無償だったサービスを今後有償化しますという宣言

③利用者の機器情報を我々は知り、活用する権利がある

facebookを利用する方が使っている機器類(PC、スマホ等)の情報については、その情報取得(IPアドレスや携帯電話番号)に同意せよ。

 ▽即ち、利用者の機器固有の情報も収集し、活用しますという宣言

④我々企業の利益に利用者は貢献すべきである

利用者の好みや消費行動、性格などの興味関心に応じた広告をカスタマイズし、利用者に応じた広告を表示するとともに、その広告結果を広告主に報告する。また広告主側から利用者への直接的なPRの可能性もある。

 ▽即ち、企業側にとってのメリットを最大限に活用しますという宣言

⑤細かいことまで我々は利用者に伝える必要は無い

その他の詳細な修正は、英語が読める人間以外には通知しません。

 ▽即ち、もっと知りたいのであれば英語を勉強しなさいと言う意味

▼規約改悪に潜むもの

facebook のわかりにくい規約改定を、上述のように翻訳し整理しましたが、さらに平たく言えば、利用者はタダで使っているのだから、利用の対価としてあなたの情報は積極的に商業利用し、様々な機関に情報提供します。という意味なのです。その中には「知の収奪」も含まれています。

ココが、利用者が投稿する情報を基に個人の性格や消費行動、知人(登録者)、プロフ写真を含めたデータベースを作成し、その利用(情報提供・販売)を行っていることは明らかな事実ですが、さらにそれを推し進めるという宣言が、今回の規約改正です。さらに言ってしまえば、一定の対価を支払えば、誰でも(窓口さえ知っていれば)個人情報を得られるという道筋まで想定していることも明らかです。

この秋の国会で、政府与党は「秘密保全法」を通すことを画策しています。そして、この法制度は「日本版NSA(国家安全保障局)」、「マイナンバー法案」、その他の法律と連動して、本格的な「情報統制社会の構築」に向けて動き出しています。同時に「TPP」に関しても、年内決着に向けて動いています。
「日本版FEMA(緊急事態管理庁)」の動向にも注意する必要があります。

TPPについては、アフラックに郵便局窓口での販売権を与え、郵便局は同様の新商品は発売しないという報道に象徴されるとおり、日米の事前協議等の中で、通達された事項(協議では無い)通りの「事前準備」が進行中です。その内容も、「解雇の自由化、労働時間規制の緩和」「外国人医師の国内医療解禁」「公立学校運営の民間開放」「企業による農地所有」等々、広範に及びます。

秘密保全法にしても同様で、環境法改正、食品表示に関する法律の見直し、等々、既にはじまっているのが現実です。

現在、日本側の当局が、日本人の個別情報を得ようとする際には、米国のNSAが所有する情報を頼ってきている(情報の押し売りを含む)のが実際ですが、この情報の中に、facebook を利用することで得られた情報の分析が含まれていることも言うまでもありません。

facebook は「SNSを標榜する個人の情報収集・データベース化のためのサイト」です。そして、それだけではなく、コミュニティを破壊するためのツールとしても、今後その利活用の枠が拡大されます。米国では、離婚の原因のトップは facebook の情報によるものです。掲出した情報(プライベートメッセージ含む)が、いつの間にか知られたくない相手に伝わり、トラブルとなっているのです。これは偶然の産物ではなく、必然として行われていることに気付く必要があります。

某宗主国では、メインコアという反政府思想者をとりまとめたデータベースが存在します。この国にも同様のデータベースが構築されつつあるのは論を待たない話であり、その「構築に一役買っている存在」について私たちはもっと知るべきなのです。




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社長自身がブラック広告塔ではね

「ネットゲリラ」から転載。
今日の「徽宗皇帝のブログ」とシンクロする内容だが、まさにカルト宗教は(既成宗教も大半はカルト宗教だが)「ドアの向こう」にあって、しかもそのドアはいつでもあなたの前に現れるのである。
まあ、学校や会社にもそういう面はある。



(以下引用)



うちの会社も飲み会はワタミ禁止

野次馬 (2013年10月25日 22:24) | コメント(0)



ワタミが大幅減益というんだが、気が狂っている人というのは、本人に自覚がないので、やる事がドツボにハマって行っても気がつかない。マスコミが広告欲しさに持ち上げ、すり寄って来るのを判らない。自分が褒められていると信じ込んでいる。だから平気で、栄養失調で死にそうな従業員を出して来る。今や、飲み会の合言葉は「ワタミだけは止めておけ」です。


(夢人注:この直後の一段はCM「ドアの向こうのカルト」書評だが、ワタミ社長がキリスト教系カルト宗教出身者で、社員に洗脳的社員教育を施していることは世間的には案外知られていない。)

私は佐藤氏と同年なので、彼の体験がウソでも誇張でもないことを保障できる。
私も、この宗教組織には、幼年少年青年期のすべてを奪われた。
この時期の生活環境やマインドコントロールは人生の行く末を大方決めてしまう。
佐藤氏のように、このハンディキャップを乗り越えられる者は僅少だろう。
宗教はいくら"ウソ"をついて、信者の時間と労力、金銭を奪おうが、詐欺に問われない最高のビジネスになり得る。
「あなたは地上の楽園(パラダイス)で永遠に生きられます」などと堅表紙の真っ赤な書籍を出してからもう何年経つのだろう。
パラダイスとハルマゲドン(神の裁き)。永遠の生と永遠の死の狭間で信者をコントロールし、
親子、親族、友人関係などをグチャグチャにする数えきれないほどの規則や制約。
著者が思春期になり、狂信の母親にひとしきりの抵抗を試みるも
生死がかかっているとヒスを起こす母親を家族の誰も止めることができない。
かなわぬとなれば、その制約の中で生きる道と幸せを見出そうとする。
やるせなさが痛いほどに伝わってくるところだ。




ワタミが66%減益 おまえらがブラックだのネガキャンするから

1 ジャーマンスープレックス(庭). 2013/10/25(金) 18:32:13.09 ID:557u5rV90


ワタミの今期純利益66%減に 増益予想が一転、外食の不振響く

 ワタミ(7522)は25日、2014年3月期の連結純利益が前期比66%減の12億円になりそうだと発表した。
従来は38億円と増益予想だったが一転、大幅減益になる。国内で外食事業の客数が回復せず、2013年4~9月期は既存店売上高が前年同期比5%減と不振だった。調理済み食品を宅配する宅食事業も伸び悩んだという。



103 チェーン攻撃(dion軍) 2013/10/25(金) 21:27:39.48 ID:LIzY+4Rw0


就職したくない企業ランキング


1位:モンテローザ
2位:東京電力
3位:ワタミ
4位:楽天
5位:ゼンショー
6位:野村證券
7位:オリンパス
8位:王将フードサービス
9位:佐川急便
10位:大塚商会





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読書についての断想

「谷間の百合」さんが、多読家でありながら物事の本質が見えない人のことを書いていて、面白く思ったが、読書というものは本来、人間にとって危険なものでもある。昔から「本に読まれる」と言われてきたのがそれだ。
惑溺的な読書習慣は、ただの喫煙や飲酒と同じことであり、何も褒めるに値しない。
ショーペンハウエルの言葉を借りれば、読書とは、基本的には「自分の頭を他人の思想の運動場にする」ことでしかないのである。その状態があまりに長く続くと、「本に読まれる」人間の出来上がりだ。
しかしまた、書物の中には、現実以上に素晴らしい世界もあり、それは現実人生ではけっして味わえないものだ。おそらく、楽譜が読める人には、楽譜の中に音楽そのものがあるだろうし、数学の論文の中に美を見出す人もいるだろう。それらは、それを読むスキルのある人にしか味わえない世界だ。小説だって同じことである。
私には或る種の文学(現代文学の類)は「読めない」し、読む気も無い。また、昔の作家の作品も、こちらの力量不足で読めないものが多い。泉鏡花や幸田露伴の文章がスラスラ読める人は羨ましい。これらは、読めればその中に素晴らしい宝があることは確実なものだ。森鴎外や夏目漱石なら、読んでたいていは理解できるが、漱石の「真面目な作品」は、最初から読む気が起こらない。鴎外の史伝も読めば面白いのかもしれないが、まだ読んでいない。やはり、人間は易きに就くものだから、そうした「読むのに努力の要る本」はなかなか手が出ないのである。練習をしないと楽器が弾けないようなものだ。弾ければ、人生の楽しみが増えることは確かなのだが。

現代の多くの人にとって読書の目的は「情報収集」か「娯楽」のどちらかだろう。昔は「教養のための読書」という考え方があったが、物知りだから教養がある、というものでもない。テレビのクイズ番組のチャンピオンは物知りだが、彼らに「教養」があるとは思えないだろう。
まあ、教養とは何ぞや、という話になるとまた話が長くなるから、この辺までで駄弁は終わろう。


スタインベックが、「『罪と罰』(を読む)という体験は、その人の在り方そのものを変える」という趣旨のことを言っているが、優れた文学はそういう力があり、それは危険なものでもある。たとえば、昔は、太宰治を読んで太宰治的(クズ)人間になった文学青年が多かったようだ。しかし、これも太宰治の一面的理解によるものであって、「正義と微笑」や「パンドラの匣」、「女生徒」など、向日的でユーモラスな作品もまたその一面なのである。「人間失格」など、あまり青少年の読むべき本ではないだろう。漱石ならば、「こころ」よりも、「草枕」の冒頭部分の方が教科書に載せるべきものだ。あの調子のいい名文は、言葉(日本語・国語)の面白さを子供たちに教えるだろう。

















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ローマ法王庁の「大審問官」たち

「つれづればな」から記事全文を転載。
バルナバスの福音書を巡る争奪戦、あるいは圧殺への戦いの劇(受難劇)は、まるで「レイダース」シリーズの一つのように面白く、また、法王庁(バチカン=カトリック)からの使者の

「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」

という言葉は、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」を思わせる。
だが、「大審問官」には、イエスの思想と権威を簒奪(本来は、「王位」を不当に奪う意味だが、イエスを仮に西洋世界の精神的な意味での「地上の王」としておく)し、自分たちが人民を教導することで、無知な大衆に「家畜としての幸福」を与えてやろうという、一種の「善意」があった。しかし、実際の法王庁にあるのは、はたして何だろうか。
いずれにしても、真のイエスの思想は、現在の「キリスト教」、特にカトリック的思想の中には無い、という点で尾崎文美氏は、私とまったく考えを同じくしている、と思う。



(以下引用)


偽典「バルナバスの福音書」に祝福を与えよ

2013/10/23 20:22 よりわけ: 啓示 かぎ: イスラーム


この世界の価値基準となった「西洋」。その根源に横たわる「キリスト教」。それはある時期に変容をとげ、純粋な「イエスの信仰」からは乖離したものであることを前回・前々回の記事に書いた。
とくに前回、トルコ東部の地下都市に眠る信徒の棺の中で発見されたパピルスの束を解読したところそれは「バルナバスの福音書」であり、イエスの母語であるアラム語で書かれており、イエスとともに生きた者の手で記されたかもしれぬものであり、炭素年代測定の結果がその記述を後押しするものであったこと、そして「イエスは人の子」であるとし、現代までキリスト教徒たちの間で守られてきた「イエスは神の子」という教理にまるで反していることとそれが意味することを記した。
「バルナバスの福音書」の発見以来、それに関わる者たちの身に何かが起こり始める。


―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―


天空暦48年とはおそらくイエスの昇天から数えて48年目ではないかと考えられている。西暦でいうと80年頃、ユダヤ戦争によりユダヤ人がローマ帝国にエルサレムを追われ、またユダヤ人であるイエスの使徒たちとその直弟子たちも散りぢりになってからである。
バルナバスの福音書は細々と守られたが325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が召集したニカイア公会議の席で採択された「イエスは神の子(あるいは神そのもの)」とする教理に適い「正典」とされたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の四書の他は炎に投じられ、バルナバスの福音書も例外ではなかった。禁書とされたこの福音書を携えるものは死刑に処されるほどであった。しかし迫害を逃れて密かに写本・翻訳が行われ生き延びたバルナバスの福音書がヴァチカンの法王直属の特別収蔵庫に眠っていた。16世紀の終わりにそこから盗み出されたとされる福音書が18世紀初頭にオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンの手に渡りウィーンの図書館に収められ近代になって発見された。それはイタリア語訳本であった。
その英訳版が1907年にイギリスで「The Gospel of Barnabas」という題で出版された。しかしその発売日に何故か市場から姿を消し世に広まることはなかった。一説によればヴァチカンの修道士たちが一般人を装い書店という書店に列を成して買い占め、そうして集めた本を全て処分したという。大英博物館とアメリカ議会図書館に一冊ずつ残るのみとなった「The Gospel of Barnabas」のマイクロフィルムを入手したパキスタンのイスラム教徒が再版をかなえ初版から72年ぶりに日の目を見ることになった。


「The Gospel of Barnabas」の内容は明らかに新約聖書と相容れないものであった。使徒パウロを「騙された者」と呼び、三位一体を完全否定、イエスは神がアブラハムやモーゼ同様に預言者として遣わした「人の子」であり、磔にされる間際に神が天に引き上げ死なずして天国の住人となり、替わりに十字に架けられたのはイスカリオのユダであり…、いずれもカトリックをはじめいかなるキリスト教社会の認めようのない内容であった。さらにその中では預言者ムハンマドが現れることを予示されていた。
あたかもイスラームの教義に平行しているかのような「The Gospel of Barnabas」を教会はイスラム教徒の作為により書かれた「危険な偽書」と認定している。そして議論に上るたびに強硬にその内容を否定するのであった。


「ハッカリ文書(トルコのハッカリで見つかったバルナバスの福音書)」と「The Gospel of Barnabas」は原本と訳本の関係である。が、厳密にはそうとは言えない。アラム語からおそらく古ギリシア語、ラテン語、そしてイタリア語を経て英語に訳される段階でその意味を大きく変えてしまうほどの致命的な誤訳があって不思議ではない上に、訳者の主観と能力が必ず作用して原点から遠ざかることが余儀なくされる。純粋であることが求められる「福音」の翻訳は実は不可能なのである。であるからこそ、この福音書がよりイエスに近い時代にイエスの母語で書かれていることの意味が大きい。

ハムザ・ホジャギリは発見以来このバルナバスの福音書に関わり続ける数々の古代語の研究家として活躍するトルコ人である。ハムザ師曰く、バルナバスの福音書はその記述、その精神、その韻律どれをとってもイスラームの聖典であるクルアーンに共鳴するという。なぜそのようなことが起こりうるかは明白、ユダヤ教もイエスの信仰もそしてイスラームもそれぞれ矛盾することない同じ教えだからである。

ハッカリ文書の写本がゴラン高原に存在することを解読したハムザ師は旧知であっ
たヴィクトリア・ラビン(暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘)に協力を求めた。イスラエル占領下のこの地ではラビン首相亡き後もその威光は健在であった。程なくバルナバス福音書の「ゴラン写本」を発見、そして解読する。師が解読文を英語で書き下し、それを読んだヴィクトリアはイスラームに帰依してしまった。

世界のどの古代遺跡の調査状況も諜報機関には常に筒抜けである。ましてやモサドのお膝元ともいえるゴラン高原の調査などはすぐにヴァチカン法王庁の知るところとなっていた。ハムザ師の解読が進む中で法王庁からの接触が始まり意見交換がなされていた。バルナバスの福音書とクルアーンが「同じ泉から流れる川」であるとのハムザ師の主張に対し、法王庁から来た枢機卿マルコはそれを否定するかわりにこう述べた。


「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」


法王庁からゴラン写本を買い取りたいとの交渉を受けるヴィクトリアだが高額の提示にも断固として応じることはなく、それが禍したか27歳の彼女はモサドの手の者により殺害されてしまう。こうしてゴラン写本は渦中に陥りギリシアのある出版社に二束三文で買い取られてしまう。枢機卿マルコはその後原因不明の死を遂げている。

アンカラの司法裁判所の証拠品倉庫の中で2008年に奇妙な山羊皮製の本が見つかった。これもアラム語を古シリア文字で綴った文書であることが判るとバルナバスの福音書の原本ではないかという期待が持たれ炭素年代測定が行われたが、結果はおよそ1500年前に書かれたものであると判りバルナバスの時代のものではなかった。ハムザ師にその写真が送られると、曰くこの文書は「全く出来の悪い」聖書の一種で、およそ福音を伝えるために守られた本などではあり得ないという。皮の質が悪く書体も幼稚で、何より本の背面に十字架が描かれているなど福音書としてあるまじき姿という理由であった。皮肉なことにこの山羊皮本の出現によりバルナバスの福音書自体がイスラーム誕生後にイスラム教徒によって書かれた偽書であるとの評価がさらに高まった。この山羊皮本は2000年に摘発された古美術品窃盗団から押収されたがそのまま警察で眠っていたという。バルナバスの生地キプロスにその名を冠した聖バルナバス教会があり(バルナバスの墓所として知られているが信憑性は薄い)、実際に1996年に聖バルナバス教会はキプロス軍(トルコ軍の出先機関)の将校によって荒らされている。そしてこの事件を調査していたキプロスの新聞記者は同年何者かに殺害されている。結果を俯瞰すればこの山羊皮本をめぐる一連の事件はバルナバスの福音書を貶めるための謀りごとと考えられる。(トルコ軍の行動は常に不可解であるがイスラエルとの関係が緊密であることを考えれば理解しやすい。)

ハムザ師はバルナバスの福音書の全文を読んだおそらく唯一の生存者ではないかと思われる。そのハムザ師に対してもモサドをはじめその他正体不明の組織からの脅迫が止むことはなかった。研究を放棄することを要求され、従わなければ生命はおろか地位・学歴・職歴・出生証明・国籍の全てを白紙にすることもできると脅された。解読作業に関わる出版社や新聞社の人間が相次いで不慮の事故に遭い、さらに師は2003年ごろから癌を患い現在も闘病中である。イスタンブールの自宅から一歩も出ることなく暮らしているが訪れる取材には応じている。またテレビにも何度か電話を通して出演している。命などは惜しくないが身近な人々に事が及ぶのは耐えられないとする師は、すでにその全容を知りながらも福音書の訳文を発表することなく関連の執筆も一切行わず、取材を通してその内容の断片を語るのみである。


堕落したユダヤ教社会に生まれたイエスが広めたのはユダヤ教の原点に還らんとする教えであり「キリスト教」なるものを広めたというのは間違いである。イエスの昇天の後になって一神教の道から逸れ、ローマ帝国領土内の土着信仰―多神教的偶像崇拝―の鋳型に嵌められたのが「キリスト教」である。その種を撒いた者こそがタルソスのパウロであった。イエスと使徒を激しく迫害したパウロは突然回心し偶像崇拝者たちにイエスの教えを説きはじめる。それまで荘厳な、時には禍々しい姿をした「神々」を信じ、犠牲を捧げてその御心に適えば死後にこの世に生まれ変わると信じていた人々にとり目に見えぬ唯一神というものは想像に及ばぬ存在でしかなく、この世の人生は一度きりで肉体が蘇ることはないとする教えはとても認められるものでなかった。そこでパウロはイエスが「神の子」であるという主張を以って布教を行った。つまりイエスという媒体に神性を憑依させ神を物質化=偶像化したのである。

それによれば、信徒の全ての罪を背負うイエスを十字に架け、父なる神にそれを犠牲として捧げ、イエスの復活は罪が許されたことを意味し、信じるものは同様にこの世に生まれ変わることが出来る―イエスの教えから遠く離れたこのパウロの教えは瞬く間に多くの信徒を得た。論述に長けたパリサイ人であるパウロの影響力は強かった。パウロが使徒たちの中で着実に地位を固める中、それと争おうにも到底敵わぬバルナバスは去ってイエスと過した日々を振り返り「イエスの教え」を書きしたためた。それがバルナバスの福音書であり、逆ににローマ帝国の国教に上り詰めたのがキリスト教という名の「パウロの教え」である。


ヴァチカンのみならず全てのキリスト教会はバルナバスの福音書に光が当たることを望まない。教会の権威に亀裂が走ることは避けられない。亀裂はさらにキリスト教を政治の道具として、社会価値の礎として、イデオロギーの源泉として、非道の方便として利用してきたキリスト教社会つまり「西洋」に及んでその破壊すら招きかねない。二千年来この福音書は西洋の命取りであった。たとえ天からイエスが舞い降りようと変えられないという彼らのシステム、それはヴァチカンの体質などに非ず中世から近代にかけて築いた西洋中心の世界支配体制を指している。そして「西洋」を後ろ盾にするシオニスト、あるいは隠れ蓑に使うユダヤ人がいる。

現代の世界の枠組みの中、イスラームは「仮想敵」として想定されている。文盲、貧困、飢餓、女卑、暴力の先入観を植え付けたこの仮想敵をひたすら批判し攻撃を加えることで自らの正義を貫き、その影で行う搾取により資本主義帝国を築いた西洋としては、炎にくべた素顔のイエスの教えがイスラームに生き写しであり、しかもその預言者の誕生を予示していたことを表沙汰にされては非常にまずい。



さて、「The Gospel of Barnabas」に書かれていた「預言者ムハンマドの予示」は果して「ハッカリ文書」「ゴラン写本」にも存在した。ハムザ師の解読によれば

―我(イエス)の後にもう一人の預言者が続くであろう、それに従う者たちは熟れた麦の穂のごとくになろう―

そう表現されているという。
もとより旧約聖書(申命記)にも新約聖書(マタイ記)にも後に大預言者が現れるであろうということは書かれている。ただしキリスト教側はそれをムハンマドであるとは見ておらず、彼らに言わせれば旧約にあるのはイエスの誕生であり、新約にあるのはイエスの復活がそれに当たるとされている。

「熟れた麦の穂」をどう解することが出来るか、ハムザ師によればそれは繁栄や増殖を示すとされる。しかし僭越ながら筆者が付け加えさせてもらえば、たわわに実り穂をたれて地を覆う熟した麦が一斉に風になびくその様子がイスラム教徒の集団礼拝の光景を暗示していると思えてならない。ハムザ師は文字の世界に生きる人間であるがゆえ視覚からの安易な発想は避けているのかもしれない。凡人である筆者にはわからない。が、イスラーム特有と思われている頭を垂れ額を地につける礼拝の形がユダヤ教の古くからのそれであり、それはイエスと使徒たちに受け継がれ、そして今もアッシリア東方教会やエチオピア・コプト正教会に残ることをここに付け加えておきたい。



日本には縁のない話、と思われる方々も多いはずである。遠い国の昔話に聞こえるかもしれないが、「西洋」に無体を受ける筆頭の国として是非お気に止めていただきたい。神の御心のままに生きていたのでは物質の豊かさの中で歓喜することが許されぬことを知り、神ではなく物質をを礼賛する世界をひそかに築こうと目論んだ西洋は、福音を改竄して偶像つまり手製の神を祀らせたのである。

物質へのその凄ざまじい欲望を原動力に彼らは近代までに世界の大部分を支配下に置く。その後は武力による支配に加えてイデオロギーによる支配がはじまる。
イデオロギーとは疫病である。人はこれに侵されると物質界の価値に盲執し、虐殺が正義に、庇護が差別に、搾取が取引に見えてしまう。そしてよそから借りてきた言葉と脳で主張を始める。別の病人とは意思の疎通が全く出来なくなる。時として胸に涌くいくばくかの疑いも借り物の脳は受け付けない。
何も疑うことなく西洋の価値基準にあわせて自らを作り変えたある国はいま何もかもを吸い尽くされようとしている。それでもまだ西洋の発明したイデオロギーを疑うことができず西洋の政治や制度に規範を見出そうと腐心している。

これもまた西洋がその手で作り上げた神々であり、偶像である。その偶像の御心に沿うため、近づくため、人々は物質と精神を犠牲として捧げ続けている。犠牲の血を吸う土は穢れ、新たな犠牲を生み出す。紀元前から戒められていた偶像は、姿を変えて今も人の世を狂わす。




イスラームはそれまでにこの世に現れた預言者たちをすべて神の使徒であるとし、それぞれに託された預言は対立することはないと、モーゼも、イエスも、ムハンマドも同じ道を歩むものであると断言している。

セルマンは6世紀の終わりにうまれたユダヤ人であり、後にキリスト教に入信しアンティオキア教会で学ぶ。祈りの日々の中、遠い砂漠の国に預言者が現れたという噂を聞き是非会ってみたいと旅に出た。アラビア半島のメディナに至ったセルマンは人買いに囚われ奴隷の身となるが、彼を買い取り解放したのは預言者ムハンマドであった。セルマンはムハンマドの言行に触れ、まさしく神の遣わした預言者であることを認めイスラームの門をくぐる。しかし問わずにはいられなかった。アンティオキアの教会のかつての同胞たちは天国に行けないのだろうか、と。イスラームを知らねば天国も知り得ぬとするムハンマドの答えにセルマンは眠れぬ夜を過ごした。神への感謝と祈りをささげる心優しき同胞たちに救いはないのだろうか、セルマンはふたたび、みたびその問いを投げかけた。するとムハンマドにひとつの預言が降りた。

―疑うなかれイスラームと共にある者、モーゼと、イエスと共にある者、そして偶像を戒めるあらゆる教えと共にある者は、その教えの中で神と審判の日を畏れ、神の名の下に善行に勤しむならば、審判の日に恐怖と悲しみはおとずれぬ(クルアーン 雌牛の章62節)―



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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