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「ちきゅう」の動きにご注意

縄文人(なわふみひと)氏のブログ(日記)から転載。
「カルマの法則」とか「サタンのシナリオ」という言葉を除けば、井口博士あたりが常々言っていることと一致している内容である。つまり、「3.11」は人工地震であり、その設定(海底への原爆埋設)をしたのが大型掘削船「ちきゅう」である、ということだ。
これは誰かが既に言っていることかどうかは知らないが、福島原発事故は、その海底原爆の放射能が検出された時に「ちきゅう」への疑惑が起こらないように意図的に起こされた小事故が、東電が頑なに福島原発廃棄処分を承認しなかったために思いがけない規模の大事故になったのではないだろうか。つまり、「3.11」首謀者たちは、東電首脳がそこまで阿呆だとは予測もしていなかったということだ。
「3.11」が人工的に起こされた地震と津波であったとして、ではその目的は何か、というと、日本経済を弱体化し、買取価格を底値にした上で日本企業を外資が乗っ取る、というところだろうか。それに加えてTPPもあるという二段構えである。もちろん、TPPも日本(企業)乗っ取りのための法的整備が第一の目的だと私は考えている。農業や保険や医療といった個別分野の問題ではなく、日本の「法」を無力化し、日本の国家主権を奪うのが最大の目的だ、ということだ。
だから私はTPPは「3.11」以上の政治的大津波だと言っているのであるが、前回の衆院選でそれを争点にできなかったのが「日本未来の党」「社民党」「共産党」などの敗因だろう。もちろん、表マスコミの圧倒的な情報支配力(あるいは不正選挙)の前に敗れたわけだが、それらの政党そのものも、なぜもっとTPPの危険性を声を大にして訴えなかったのか。
まあ、それはともかく、「ちきゅう」が紀伊半島沖の海底を掘削しているということは、かなり臭う話だ。下記記事に言うようにマスコミが「大地震が近いうちにやってくる可能性が高い」、と昨年ずっと大騒ぎしていたのは、西日本直撃の人工大地震をこれから起こすための布石と思われる。たしか昨年前半にその手の記事がやたらに週刊誌や新聞を賑わせ、現在は一段落しているが、だからこそ、「D-day」(これは死語か?)は近いのかもしれない。そして、それが起こったら、「ほら、我々はちゃんと警告していたでしょう」と言うわけだ。
私は、「首都圏大地震」の話がマスコミを賑わしていた時は、これは関西遷都の布石だな、と思っていたが、遷都の話は立ち消えになっている。その後「南海トラフ」がどうのこうのという話が出てきて、これも全週刊誌的話題になった。つまり、意図的に操作された話題である。誰も意味の分からないような「南海トラフ」の話に、全週刊誌が一斉に飛びつくこと自体がおかしいではないか。そして、現在は大地震の話がマスコミから消えている。そして「ちきゅう」は伊勢半島沖をせっせと掘っている。
というわけで、関西の(あるいは東海地方もか)太平洋側に住む人々は、井口博士ではないが、「備えあれば憂いなし」の気持ちで、これから半年乃至1年くらいは日々用心しながら暮らすのがいいかと思われる。まあ、べつにびくびくしろというのではない。どうせ人間誰でも一度は死ぬし、一度しか死なない(笑)のだから、いつ死んでも悔いの無いように生きればいいだけだ。





(以下引用)



● 次の人工地震は東南海地震になる?  2013年1月7日(月)

  サタンのシナリオの一環として我が国を対象に実施された最近の事件といえば、やはり東日本大震災ということになると思います。この地震と津波および原発事故が人工的に実施されたものであることを、私は確信していますが、ほとんどの日本人は偶然起こった自然災害だと思っていることでしょう。「人工地震なんかであるはずがない!」と、ご自身のブログで断言している人までいるくらいです。しかし、「人工地震ではない」という理由はまったく述べられていません。要するに「そのように考えたくない」ということでしょう。
  人工地震ということにしますと、それを仕組んだ人間とその目的を特定しなくてはなりません。誰が(どのような勢力が)、何のために、日本に対して人工地震を仕組んだのかについての証明が必要となります。しかしながら、あのような大規模な災害を人工的に引き起こせる連中が、その証拠を残すようなことは考えられません。
  実際、アメリカの「9.11」などのように、どうみてもアルカイダの犯行とは思えないものでも、それをでっち上げ、マスコミを操作してアフガニスタンへの侵攻を正当化できる連中のやることです。日本の政府を黙らせ、東日本大震災は自然災害だというアナウンスをさせることなど朝飯前なのです。地震後すぐに日本を訪れたアメリカのクリントン前国務長官が、そのことを元首相の菅さんに釘を刺しに来たのだと、私は見ています。
  このことの説明も必要だと思いますが、皆さんが最も知りたいと思われるのは「では、次の人工地震は計画されているのか」ということではないでしょうか。このことについて私は「東南海地震がすでに準備に入っています」と答えざるを得ません。

  その第一の理由は、東日本大震災後におけるマスコミの地震や津波に関する報道姿勢です。政府や政府関係機関からのアナウンスを受けて報道されているのはわかりますが、最近では津波を伴った大地震や首都直下型地震の発生は避けられないといったトーンの報道が相次いでなされています。実際にそのような巨大地震が起こっても、だれもそれが人工地震だとは思わないように、周到に国民を洗脳しているとしか思えないような報道姿勢です。それを受けて、地方の行政や各企業では、BCPと銘打って震災後も事業を継続できるようにするための様々な対策が打たれています。
  日本の社会全体が、巨大地震と津波を想定しての準備を着々と進めているのです。私が力説してきたカルマの法則からすれば、まさに震災を生み出すエネルギーが異次元に急ピッチで蓄積されつつあると考えられます。そして、対策が完了し、人々の関心が地震や津波の襲来から離れてしまったころ、(それはもしかしたら、自民党の安倍政権のもとで始まったこの国の第二のバブル景気の中で、多くの人が再びお金の魔力に翻弄され始めたころ)、それに冷や水をかける形で、津波を伴う巨大地震の引き金が引かれるのかもしれません。
  私の言う「サタンのシナリオ」では、この国の崩壊にとどめを刺すという最後の手段が間違いなく準備されていると思うからです。その最後の手段となる物理的な処置が、首都直下型地震と東海地震、東南海地震、南海地震になるのではないかと見ています。
  そんな矢先、先の震災後長い間東京湾の付近で掘削作業を続けていた「ちきゅう」が、今度は南海トラフで掘削作業を始めているというニュースが新聞で報じられたのです。
  それも、日経新聞の「SUNDAY NIKKEI」という欄で、下の写真のようにイラスト入りでかなり目につく記事になっていました。

         

  地震の巣 南海トラフ掘る
  掘削船で地殻変動解明へ

  東海沖から日向灘にかけての「南海トラフ」は、地震の巣だ。内閣府は最大マグニチュード(M)9.1の地震が起き、32万人が亡くなる可能性があるとの想定を公表した。ここで地震が起きる仕組みを解明するため、海洋研究開発機構の大型掘削船「ちきゅう」が空前の作戦を進めている。暑いベールに包まれた巨大地震の正体を突き止め、防災に役立てられるのか。

  紀伊半島沖の熊野灘。海原に全長210㍍の船体が浮かぶ。船上には海面区から高さ121mにも達する掘削装置のやぐらがそびえ立つ。水深2500mの海底まを7500mまで掘削できる能力は世界最高だ。
  (中略)
  南海トラフでは2007年度から断続的に調査を続けている。海底の断層や周辺をドリルで貫き、穴の底から岩石を採取。堆積物や岩石の種類からはプレート境界面の滑りやすさや圧力がわかる。地震や津波の規模や発生期を特定したいと研究者らは意気込む。
  10月1日から、紀伊半島沖の熊野灘で掘削を始めた。調査は昨年1月以来。
  来年1月13日までに海底下3600mまで掘り下げる。来年度には海底下約5200mまで掘る計画だ。
  「ちきゅうは大学の研究室に匹敵する実験室を備える」(海洋気候の東垣地球深部探査センター長)。海底から引き上げた岩石は船上ですぐに写真を撮影。設備がより充実した陸上での解析に向けた準備に入る。帰港後に岩石の成分や土中の微生物を調べる。
  南海トラフでは直近の100年間でM8級の昭和東南海地震(1944年)と昭和南海地震(46年)が津波を伴って起き、それぞれ1000人以上が亡くなった。1707年には、東海、東南海、南海の3領域が連動し、西日本最大と言われる宝栄地震(M8.6)が起きた。M9級地震が起きる危険性もある。
  これだけのエネルギーを蓄える地震の巣への潜入が14年度以降の作戦だ。ちきゅうが開けた穴の底に地震計や傾斜計をおろし、巨大地震の兆候を観察する。うまくいけば地震や地殻変動をその場で見届けられる。
  (中略)
  調査の最終目的は防災だ。東センター長は「東日本大震災せを予測できず、悔しい思いでいっぱいだ。従来の地震学に加え、掘削調査の地学的な知見を防災に生かしたい」と力を込める。地震や津波を多方面から調べることで、救える命が増えるかもしれない。

  この記事の言っていることを要約しますと、いまマスコミ等でしきりに話題にされている東海・東南海・南海地震の発生に備えて、地震の巣である南海トラフを莫大な費用をかけて掘り進み、岩石を掘り出して微生物等の調査をすれば、多少は救える命が増えるかも知れない、ということです。そして、「ちきゅうは今日も海底を掘り続ける」と結んでいます。

  「ちきゅうの掘削エリアが東日本大震災の震源地とぴったり一致していた」という情報がネット上で広がっているため、その疑念を打ち消す目的で、最近では完全にある筋のコントロール下にあると思われる日経新聞が、提灯持ちの記事を書いたとしか思えない内容です。
  ちきゅうの持つ世界一の深海掘削技術を駆使して、海底の岩石を掘り出し、微生物の調査をしているというのです。さすがに、「これで地震の予知ができる」などというでっち上げの記事は書けませんので、「地震や津波を多方面から調べることで、救える命が増えるかもしれない」といった弱々しい表現で、ちきゅうの動きを正当化しようとしているのです。なんのニュースバリューもない記事と言わなければなりません。
  この「ちきゅう」のことに関しては「東日本大震災 ちきゅう」でネットを検索していただけば参考になる情報が得られますので、ぜひご覧になってください。
  要するに、海底に穴を開けて、そこに時限爆弾(原爆?)を埋め込み、それを同時に爆発させることで複合津波を引き起こそうとしていると考えられるのです。東日本大震災の津波が想像を超える高さまで達したのは、3つの地震が同時に起こり、日本列島に向かう津波がぶつかることでその勢力を高め合った結果だと見られているのです。ですから、津波は日本列島だけに押し寄せ、ハワイ諸島やアメリカ西海岸などには何の被害も及ぼさなかったのです。
  いまそのときと同じ形で、今度は日本の工業の中心とも言える太平洋ベルト地帯を津波によって壊滅させようという計画が、文字通り水面下で進められている、というのが私の見解です。






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「現代の古典」を大切にしよう(付:「レ・ミゼラブル」のこと)

何の気無しに自分の書いた過去記事を読み返していたら、2010年4月27日の記事で美輪明宏の「ヨイトマケの唄」のことを書いてあったのを見つけた。
我ながらいいことを書いているし、なかなか先見の明があるではないか、と思ったのだが、世間に埋もれているいい物を発掘紹介するという行為は、これは社会への貢献の一つではないだろうか。
このついでに、書かないでいると忘れそうなことを今書いておく。

今の日本は娯楽が消耗品化していて、大衆芸術の優れた作品が生まれても、わずかの間に記憶から消えていくことが多い。これは悲しむべきことであり、無数のゴミ作品の中にある宝石のような名作を、「現代の古典」つまり、永遠に残し、次代に伝え、世界に広める作品としていくべきだと私は考えている。
「魔法少女まどか☆マギカ」などはそうした作品の一つであり、私はこの正月、それをDVDで再見して、感動の涙で充実した時間を過ごしたのであった。
ほかに、「デス・ノート」実写版の第一巻の海賊版がユーチューブで見られたのも思いがけないお年玉であった。ついでに海外の「デス・ノート」ファンの作った動画なども面白く見た。この「デス・ノート」(原作漫画、実写版映画、アニメ版、それぞれに良い。)や「まどか☆マギカ」などが、私の考える現代の古典だが、日本ではこれらが「オワコン」(終わったコンテンツ)扱いされていなければ幸いである。

なお、昨日は偶然に時間の都合がよかったので、映画の「レ・ミゼラブル」を見たが、評価は微妙だ。力作だし良心作だが、セリフを全部歌にしたために曲に時間が膨大に使われ、ドラマがかなり薄くなっている印象である。もちろん、「民衆の歌が聞こえるか」が歌われた時には涙が流れそうなくらい素晴らしかったのだが、全体としては、ミュージカル耐性の無い人にはかなり辛い作品だったかもしれない。そして、原作のデティールの味わいは、わずか数時間の映画で表すのはもちろん不可能であり、映画を見ただけでこの作品を理解したつもりにはならないほうがいい。(追記:ネットでの感想を見ると、大絶賛が多く、年末にこのブログで自分では未見のこの映画をお勧めした責任上、少しほっとした。現在、この映画は大ヒットしているようだ。)
実は昔の良心的アニメ番組「ハウス家庭名作劇場」(と言ったと思う。「フランダースの犬」や「赤毛のアン」などの秀作や「トム・ソーヤーの冒険」「足長おじさん」などの愚作が混在していた。もちろん、原作ではなく、アニメとしての愚作ということだ。)の末期に作られた「レ・ミゼラブル(少女コゼット)」は、原作の優れたアニメ化であり、女性キャラが幼稚な少女漫画絵であったために内容も低レベルと思われているが、内容自体は実に見事に原作の精神を伝えている。稀有なアニメ化の一つである。機会があれば鑑賞することをお勧めする。









(以下、私自身の過去記事の再掲載)









ヨイトマケの唄

  (父ちゃんのためなら エンヤコラ
  母ちゃんのためなら エンヤコラ
  もひとつおまけに  エンヤコラ)


1 今も聞こえる ヨイトマケの唄
  今も聞こえる あの子守唄
  工事現場の昼休み
  たばこふかして 目を閉じりゃ
  聞こえてくるよ あの唄が
  働く土方の あの唄が
  貧しい土方の あの唄が

2 子供の頃に小学校で
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙に暮れながら
  泣いて帰った道すがら
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

3 姉さんかぶりで 泥にまみれて
  日にやけながら 汗を流して
  男に混じって ツナを引き
  天に向かって 声をあげて
  力の限り 唄ってた
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

4 なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってはきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も忘れ果て
  帰って行ったよ 学校へ
  勉強するよと言いながら
  勉強するよと言いながら


5 あれから何年経ったことだろう
  高校も出たし大学も出た
  今じゃ機械の世の中で
  おまけに僕はエンジニア
  苦労苦労で死んでった
  母ちゃん見てくれ この姿
  母ちゃん見てくれ この姿

6 何度か僕もぐれかけたけど
  やくざな道は踏まずに済んだ
  どんなきれいな唄よりも
  どんなきれいな声よりも
  僕を励ましなぐさめた
  母ちゃんの唄こそ 世界一
  母ちゃんの唄こそ 世界一


  今も聞こえる ヨイトマケの唄
  今も聞こえる あの子守唄
  (父ちゃんのためなら エンヤコラ
  子どものためなら エンヤコラ)


丸山明宏、現美輪明宏の「ヨイトマケの唄」である。この中に出てくる「土方」という言葉が放送禁止用語であるために、この唄をマスメディアの中で聞くことはできない。これほど倫理観にあふれた高潔な歌が放送禁止歌であるということに釈然としない気持ちになるのは私だけではないだろう。
丸山(美輪)明宏はオカルトチックなところは敬遠したくなるが、作詞家としての才能、歌手としての才能は大変なもので、彼が訳したシャンソン「アコーディオン弾き」の歌詞は大傑作である。一度、聞いてみると良い。

現在の日本では、マスメデイアの中でシャンソン、カンツォーネなどを聞く機会がほとんど無い。ずいぶんいびつな音楽状況だと思う。これによる若者たちの「機会損失」はずいぶん大きいだろう。本当に良いものを知らず、ただ日本国内とアメリカで生産される文化の中だけで生きているのである。いわば、文化的鎖国の状態ではないか?

酔生夢人
2010-04-27 08:49
随想(ノンジャンル)
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(付録)アニメ「レ・ミゼラブル」のネット評価。肯定論否定論区別せずに載せておく。子供が見ても大人が見ても楽しめるアニメだが、親が子供と一緒に見て、人間の善悪や、優れた人格とは何か、社会の不合理や悪と戦う勇気などについて話し合うのもいいかと思う。






作品紹介(あらすじ)

■ 名劇№24 ( 全52話予定 ) ■


人は何の為に生き、何の為に愛するのか…
心の暗闇を照らし出す美しい魂の輝き。

革命のパリ、ジャン・ヴァルジャンを追い続ける冷酷なジャベール警部からの手に汗握る逃亡、
情熱に燃える青年マリユスと成長したコゼットの美しい恋の物語。

幼いコゼットを連れパリからやってきた母・ファンティーヌは、仕事を探してモンフェルメイユ村までやって来ました。

[詳細]


放送:BSフジ (CSチャンネルでも放映予定) 配信:BIGLOBEストリーム


原作

ビクトル・ユーゴー 「レ・ミゼラブル」より



監督

桜井弘明



脚本・シリーズ構成

金春智子



キャラクターデザイン

渡辺はじめ 吉松孝博



美術設定

伊藤主計



美術監督

中村光毅



音響監督

早瀬博雪



音楽

松尾早人



アニメーション制作

日本アニメーション


[詳細]


日本 開始日:2007/01/07(日)


公式サイト
1. 世界名作劇場「レ・ミゼラブル 少女コゼット」







【良い点】
話の内容がよくできている

【悪い点】
絵が他の名作劇場シリーズと違って今風すぎる。昔の平凡なシンプルな絵の方が親しみやすかったと思います。

【総合評価】
昔から好きだった名作劇場シリーズが復活して期待していた作品でした。最初は絵がどうしても苦手でしたが、見ているうちに気にならなくなりました。
絵でこの作品を判断されている方、多いと思いますが、この作品は本当に面白いです。
中盤、少しダラダラした展開になるところがありますが、革命前辺りからなんかは、夢中になりました。

全体的に飽きないストーリーで、序盤は見るのも辛い展開だったのが本当に終わりの方では、悲しい出来事なども多くありましたが見ているだけでこちらも幸せを感じるほどのハッピーエンドだったと思います。

また、他のレ・ミゼラブルと違い、コゼットを主人公にしているのもこのアニメの特徴です。

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2012/02/13

BSの民放で放送された作品なので知名度はかなり低い作品だと思います。かく言う私も本放送時は全く知りませんでした。
絵柄はかつてやっていた名劇のそれとは大きく異なり、いわゆる現代風の萌えアニメ的な感じです。ですが、内容は本格的な
名劇作品であり、多くの人々が織り成す見ごたえのある重厚な歴史アニメになっています。最初から最後までドラマチックな
展開が待っており、飽きることなく最後まで観ることが出来ました。また、作画のレベルも高く10年ぶりに再開した関係者の
意気込みが伝わりました。個人的に見て名劇の中でもトップクラスの作品であると思います。

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【総合評価】

原作は文庫版を既読で、少女コゼットは全話視聴しています。

ヴィクトル ・ ユゴー著であるレ ・ ミゼラブルと言えば、不朽の名作として有名な作品ですが、ミリエル司教様の素晴らしさが延々と書かれており、歴史的な事実説明や文化説明なども長く、また、話が前後したりしますので、読み易いとは言い難いかと思います。 勿論、不朽の名作と言われるだけあって面白いのですが、ユゴー爺さんの語りが長く苦痛に感じたりします。 勿論、これは個人的な感想ですので、読み易いと言う方も居られると思います。

本来はジャン ・ ヴァルジャンを主人公とした群像劇ですが、この作品はコゼットを主人公としているのが特徴だと言えます。 コゼットを主人公としたのは、世界名作劇場だからと言う理由かもしれませんが、時系列がスッキリしていて観易いと思います。

パリ編以降、コゼットの存在感が薄くなってしまうのは、「群像劇」 ですので許容範囲ではないかと思います。 そもそも序盤から、コゼット、ファンティーヌ、ヴァルジャン、ジャヴェールと複数の視点で描かれています。 この作品の視聴後に、何故、今までコゼットを主人公としたレ ・ ミゼラブルがなかったのかと不思議に思った程です。

コゼットを主人公としただけではなく、良い変更だと思える部分が多々見られます。 トロミエスを登場させず、コゼットの実父は死亡扱いとしたことで、ファンティーヌを母として持ち上げることに成功しました。 ヴァルジャン、マリウスがテナルディエに金銭を渡さなかったこと、オリジナルキャラであるアランが市長代理を務め、モントルイユ ・ シュル ・ メールが廃れなかったこと、ガヴローシュとシュシュの存在と結末、特にジャヴェールの結末の変更は素晴らしかったと思います。

原作では、コゼットはファンティーヌの記憶がなかったのですが、アニメ版では記憶がありますので、ファンティーヌが亡くなったことを知る話や墓参りに行く話など、多数の感動的なオリジナルエピソードが生まれました。 細かい部分を挙げればキリがない程、沢山あると思います。


気になった点と言いますか、トロミエスを登場させなかった為、コゼットをワーテルロー亭に預ける件の説得力が欠けることです。 時系列がスッキリした為、コゼットとファンティーヌの苦境が過去ではなく、現在進行形となっています。 それ故、コゼットをワーテルロー亭に預けたまま、一度も会いに行かなかった (本当は行けなかった) ことが、何故 ? と疑問に感じてしまう方がいるかもしれません。

特に黒硝子工場を解雇された時などは、良い機会だから会いに行けば良いのに…、と言った具合に、より顕著に感じてしまうのではないでしょうか。 まあ、モントルイユ ・ シュル ・ メールからコゼットの居るモンフェルメイユまでは、かなり遠いですので簡単に行き来は出来ないのですが…。 時代背景などの説明を、作中でするべきだったのではなかったのか ? と思っています。

また、六月暴動において、ABC (アベセ) の友のメンバーが次々倒れていく中、一滴の血も流れないのは拙かったのではないかと思っています。 如何に子供向けとは言え、まるで演劇のような雰囲気で優雅に人が倒れていく描写は、流石にどうかと思ってしまいます。 過度な表現は控えるべきだと思いますが、適切な描写をするべきだったのではないかと思っています。


OP ・ ED 共に良い曲だと思います。 どちらも最後まで曲も映像も変わりませんが、序盤の展開などを忘れさせない為、総集編のような役割を OP ・ ED の映像が果たしていたと思っています。 BGM も良く、作中でコゼットやガヴローシュが歌う 「魔法の子守唄」 は、切なくて、もう堪らないと言う感覚にさせられ、特に良かったと思っています。

雰囲気を壊さないように、A パート、B パートの展開に合わせてアイキャッチの音楽を使い分けているのも好印象です。 最終話が 「銀の燭台」 とは、何と心憎いサブタイトルでしょうか、制作サイドのセンスの良さを感じます。

好意的に観ると 「彼女は犬を愛した」 と言う一文から、「シュシュ」 が登場したのではないかと思えるのですが、恐らくは世界名作劇場の名物だから登場したのでしょうね。 しかし、この 「シュシュ」 はガヴローシュと共に、コゼットの苦境をマイルドにする効果があり、この作品には欠かせない存在だったと思います。

もう一つ世界名作劇場の名物と言えば、「食べ物が美味しそうに見える」 と言うのがありますが、この作品も例に漏れず、とても美味しそうに見えました。 ああ言うシチュエーションだからこそ、美味しそうに見えるのでしょうね。

「レ ・ ミゼラブル 少女コゼット」 是非、ご覧になってみてはいかがでしょうか。 原作未読の方は勿論、原作既読の方にも、十分満足の行く作品に仕上がっているのではないかと思います。

評価は 「最高」 とします。



[共感]
2012/02/13 本作への分析が非常に素晴らしいです。特に作品への魅力が引き出せており、私もリアルタイムで視聴しましたがこのレビューを読んで懐かしさが込み上げてきました。 by 墨汁一滴


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2009/06/30

原作は読んでません
絵は萌えというよりも、なんかカレイドスター思い出しました。キャラデザ的に。

1話1話がちゃんと作られていると感じた物語は言うまでもなく、声優の演技もかなりよかったですね
52話と長く楽しめるのもいいですね。
OPEDも良い曲です。EDはかなり好きでした

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2008/10/01

ジャン・バルジャンではなくてコゼットをメインにっていうのがこの作品のコンセプトであった筈であるが、そうでもなかったね。余り変えすぎても原作の原型を留めなくなってしまうし、それは名作劇場としても避けたかった所であろうから、しょうがないといえばしょうがないか。

映画やら舞台で散々視聴してきた作品なので真新しさみたいなのは全く無かったのも楽しめなかった要因であるのかな、他のレ・ミゼラブルと比較しても余り上手くいってなかったと思うし、アニメとしてもそれ程面白いと感じなかったっていうのがこの作品の感想である。

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2008/09/21

まず、私は、この評価をつけるにあたって、原作との比較は、なしにした。
【良い点】
opとedである。また、1830年代のフランスの状態を良く表していた。(ヨーロッパと違う表現などもみられたが)

また、よいシーンが多かった、心から泣けるシーンもあった。(あげるときりがないが)

最後に、私たちが生きている今にも考えさせるないようもふくまれていた。

【悪い点】
コゼットの主人公としての薄さ、後半の修道院のあとから、マリウスとジャンがほとんど主役になってしまったこと。

【総合評価】
本当は、文句のつけようのないアニメである。昨今のアニメでも、こんなストレートなのは、ないだろう。コゼットは、主役として、薄かったが、エポニーヌとの対決、母親に報告に行く話、ある程度の見せ場は、あったはずだ。最後にopとedの映像が変わって欲しかったのと時間の進みがわかりにくい感じがしたのは、残念だが、このアニメは、何度見ても良いアニメだと思う。

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2008/07/19

これ、途中から観たのですが
「運命の糸」を感じさせられるシンプルでピュアな物語。

その糸を乱すもの、たぐり寄せるもの、この二つがこの作品の大きなテーマの「人は変われるか」に結実している。昨今の作品ではなかなか真正面から描かれないもの。さすが長尺。さすが名劇。
作中で盗賊団の一人が「あいつらは俺たちには一生わからんものを知っているらしい」といったような事を口にしてましたが、そういうものが描かれている。ヴァルジャンを始め、エポニーヌやジャヴェールの結末もそうした意図に即したものに。

作中でコゼットが成長しているにも関わらず、バルジャンから幼いコゼットへ手が差し伸べられる OP、 幼いコゼットが母への想いを綴る ED は最後まで変わりません。そこには変わらんとする中で決して忘れることのない変わらぬ想い、という主張を感じます。

コゼットとマリウスが守られる存在であまり活躍できないのですが、二人には先人からの愛と恩恵を受け継ぐ者という役割が持たされている。二人の得た幸せは、平和な時代に生きる我々の幸せについて考え直してもらう存在に思われます。その意味ではコゼットが主役の位置付けになるのですが、物語としての主人公はやはりヴァルジャンでしょう。彼の一生を描き切ったのですから。
あと、ヴァルジャンの窮地を脱する知恵と経験が際立ってましたね。それと、やはり金の力は大きい、ということ。あの頃の馬車って今で言えば専属タクシーみたいなもので結構お代は高そう。

裏を返せば、この作品は「持てる者」へのメッセージ的色彩が強い。終盤はそうした色を出そうとするあまり引っかかるものを感じたのも事実(特にマリウスと彼の老父…彼らも変われてはいますが、その質は異なる)。
あと、多少近視眼的に見ないとつらい部分も。例えばヴァルジャンの警戒心やジャヴェールの彼への執着…それ自体は人物像として内容にきちんと役立てられていますが、状況との整合性が不自然でこじつけっぽく感じる所もしばしば。学生達の革命蜂起バリケード戦にしても同様。
原作は未読なのですが、人物は善人寄りに振られているようです。また、パリの街の描写もおそらく相当に口当たりが軽いものにされている筈。汚水処理とか。この辺の綿密さは原作とは比べるべくも無さそうですが、そもそもメディアも受け手層も異なりますし。

ただ、これはピュアな願いを伝える物語であり、そうした突っ込みをはねのける輝きは感じ取れるものでした。
名劇自体評価する尺度を持ち合わせていないですし、過去の名作群との比較では多少持ち上げ過ぎな気もしなくはないのですが、昨今では異色の存在という部分も加味して「とても良い」にしておきます。ランク付けは気が引ける、というのが本心。

(余談)
野暮な突っ込みなど入る余地もないくらい超絶ピュアな恋話…こいつには悶絶させられた。
何せ<花>通信ですからね。今の時代じゃ奥手も古風もいい所です。調べてみた所、中世の恋愛観は男性優位は無論のこと、特に上流階級では恋愛ドキドキは危険なものとして否定的な考えが支配的だったそうです。(だとするとマリウスがテナルディエの脅しに屈しなかったのも実は大変勇気の要る行為だった筈。)
んまぁ、マリウスでなくとも我々ボンクラはコゼットにイチコロですよ。そのぶん、女性層からは微妙に受け取られるのかな。名塚先生は偉大です。ファンは必見…義務ですよ、義務。

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[推薦数:1] 2008/07/17

世界名作劇場復活オメデトデス
実に泣けるSTORYだね。コゼット・・
こういうAnimeは久々だよ

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[推薦数:1] 2008/06/10

DVDで全部見ました。
世界名作劇場・復活記念作品という事で、期待していましたが…

復活最初の作品だからなのか、後に残した課題が多くあった気がします。
本作最大の問題点は何より、主役である筈のコゼットが空気であった事ですね。
元々原作の主役はジャンであった事も目立たなくなってしまった理由なんでしょうけど、特に終盤はジャンとマリウスだけで物語は成り立っていました。
コゼットがここまで目立たなくなったのは、原作を無視すると、個性のなさが最大の理由でしょう。
彼女に持った印象は正直、『ごく普通の女の子』。
ジャンに救われてからは悲劇のヒロインではなくなるし、ポルフィのような明るさ、無邪気さもない。
笑ってもどこか暗い印象。…そんな感じでした。
特にジャンに救われてからは、不幸でもなんでもなくなります。
コゼットは決して悲劇のヒロインなんかじゃない、というのが私の意見。
エポニーヌの方が作品における悲劇のヒロインではないのか、って思った程です(だから私は今でもエポニーヌの方が好きです)。
また、原作でもそうでしたが、コゼットとマリウスがくっつくのはやっぱり嫌でした。
だってマリウス、第三者から普通に見ればただのストーカーじゃないですか(^^;)
時代が違えば、彼は間違いなく犯罪を犯している事になります。
悲劇の最期を迎えたエポニーヌが最後まで救われないのが、本当に許せないんです。
ストーカーとごく普通の女の子が結ばれる展開は…共感得にくいと思います。
結局、コゼットは最終回直前に母の事を知る為に色々しますが、これがなければ本当に印象がないままでした。
それと、マスコットのシュシュに至っては完全にいらない存在。
名作劇場シリーズに動物は当たり前のようにいますが、シュシュは動物の役割を果たしているように全然見えませんでした。
最終回もジャンが主役のようでしたし。
何よりも『人は変わる事が出来る』という物語根本のテーマがコゼットにとって最後まで無縁だったというのも…

それから、主題歌にも難があります。
歌はとても良い曲です。名曲扱いしても全く問題ありません。
しかし…問題は映像です。
物語の途中でコゼットは成長するのに、映像は幼い彼女のまま。
それにもう一度言いますが、コゼットはジャンに助けられてからは不幸ではなくなります。
この辺が、作品らしさと非常に矛盾している気がします。
エンディングに至っては、コゼットの母・ファンティーヌは10話程で退場にも関わらず、そのまま最後まで『大好きよ、ねぇお母さん♪』ですからね…
もう少し作品の空気を読むべきではないかと(誤解のないように言っときますが、私、一応この歌好きですからね)…。

しかし、内容はとてもいい仕上がりになっています。
元々原作も長く、オリジナルが作りにくいからなのか、1話1話は重厚な仕上がりです。
名作劇場最大の特徴である、日常のあるがままの姿も忠実に描かれていますし、作品のクオリティはかなり高レベルである事は間違いありません。
近年はこのような1年かけて作るアニメはなくなってますから…かなり貴重です。
ガヴローシュやジャヴェールが最後には助かり、テナルディエが警察に捕まる展開はむしろ誉めます。
これも一応原作を無視している展開ですが、子ども向けアニメでは、このような勧善懲悪はある程度守らなければいけませんから…。

クオリティは高く評価しますが、細かい違和感をマイナスして、評価は限りなく普通に近い『良い』です。
本作が残した課題を、『ポルフィ』を始め、これからの作品が解決する事を願います。



[共感]
2008/10/15 第2段落と第4段落の指摘がとても的確です。原作通りで仕方がないのですが、この作品のヒロインはエポニーヌの方がふさわしい気がします。 by coinboard


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[推薦数:1] 2008/03/11

地上波からBSフジへ乗換え、10年ぶりの再開を果たした世界名作劇場の近作。
きっかり1年間、休みなく52話が定時に放映されたのは、BSデジタルのイマイチ浸透してなさ加減がもたらした恩恵かも(年末年始の特別編成やスポーツ中継の影響がほぼない)。

本邦においても馴染み深い「レミゼ」を原作通りオッサンの物語とするのではなく、養女となるコゼットの側から描いた点がまず評価できる。
これを見てしまうと、なぜ今までこういう翻案がなかったのかと思えてしまう(もしかするとアニメ以外の作品にはあったかもしれないが)。なにせ過去には主人公の性別を変えたことさえある名作劇場、この程度のアレンジはかわいいものだ。
絵柄はカレイドスターのまま、なんとも萌えキャラ然としたコゼットのインパクトは絶大。
そんなコゼットが成長し、マリウスと結婚して初めて本格的にジャンの過去(それこそがレミゼ本来の導入部)が語られる。
この倒置構成は、ジャンの人生の秘密といった趣を生み、彼のモノローグやジャベールとの因縁などに垣間見える断片から謎を解き明かす楽しみを、本作で初めてレミゼに触れた視聴者に与えた。
最終話に付けられた「銀の燭台」というサブタイトルの何と心憎いことか。

コゼット視点であるため、テナルディエ一家との関連性が強調され、後半での彼らの描写に奥行きと説得力が備わった。
それぞれが、あってもなくても大勢に影響ない一エピソードに埋没することなく、後々までリフレインされ、そのこと自体にも意味がある。
完結した小説を元にしているからこそ可能となる構成なのだろうが、と言って誰しもできる芸当でもあるまい。
学校に通えないコゼットが学ぶことの喜びを知るくだりは、パリ編でのジャンの学校建設という目標へと繋がっていく要点だった。
絵的には最も華やかだった修道院での暮らしは数話にとどまり、やや物足りなさを覚えたが、コゼットの結婚式で再び彼女たちが姿を見せてくれたのは嬉しい配慮だ。

エポニーヌのコンプレックスはひょっとすると視聴者の大半が抱いているかも知れないから、特に念入りに演出されていたと感じる。
微妙に揺れる感情を演じきった笹本優子の実力もあって、とりわけ成長したエポニーヌは秀逸なキャラとして完成した。
マリウスの部屋に少々強引に上がり込み、法律書(だろう)を開いてみても読み取ることができなかった彼女の、哀愁あふれる苦笑がたまらなく心をうつ。
「コゼットとエポニーヌ」は二人の最後の邂逅を桜井監督自らのコンテで物語った屈指の名編であった。

本作と原作との大きな違いはキャラの生死にある。
バリケードで撃たれ、原作ではそのまま息絶えたガブローシュが、アニメオリジナルの愛犬シュシュに救われる。
ジャベールは自殺することなく、かつてのジャンのように生まれ変わる道を選択した。それゆえクライマックスにおいてテナルディエの動向に決着をつけることができたのは大きな成果。
ここでもやはり、なぜ原作はそういう展開ではなかったのかと疑問が起きてしまう。単に価値観の差だと片付けられはしないと思うのだが…。

要所要所で改案・補足を実践してきた本作だが、疑問を覚える箇所もなくはない。
例えばマリウスに対し、コゼットとエポニーヌが一目惚れと相成っても、成就するのはコゼットである。
どちらかと言うと先にマリウスがコゼットにモーションを掛けていたのは事実だが、彼のエポニーヌに対する態度がどこかしら上流気取りに感じられてならない(それが演出意図かも知れないが)。
対比としてマブーフがエポニーヌを「妖精」と評した一連のシークエンスにすこぶる好感を抱くのは必然。
この愛すべき二人がバリケード最初の犠牲者となる運命は、過酷に我々に訴えてくる。
またアベセの友の蜂起についても、庶民の自由獲得という目的とバリケードという手段とが、どうしても結び付かない。ここはアニメなりの解釈があっても良かったのではないか。

ジャンの逝去をもって物語は完結したが、ジャベールとガブローシュが生き延びたことで新たな意義と希望が生まれた。
アランたちが建てた施設を「コゼットのお母さんの革命だ」と表現したガブローシュのセンスを真似るとすれば、本作は「レ・ミゼラブルの革命」と言ったところか。
「人は変わることができる。人類もだ」というジャンの提言は、それ単独では大袈裟に聞こえかねない。だが1年間に渡るこの物語を見届けたなら素直に受け入れられる。
原作を、名作劇場を、日本のアニメを、そして視聴者を、本作はどう変えることができたのだろうか?
たとえ市民が立ち上がらなかったとしても、革命が失敗したわけではない。



[共感]
2008/06/11 感嘆しました。 by せんぬき


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2008/01/20

【総合評価】

子ども向けアニメとは思えないほど、ていねいに原作に向き合っていたと思います。子ども向けゆえのさまざまなアレンジがあり、仮におとな向け番組という視点から見たとすると、そういった点は気になるものかもしれませんが、子ども向け番組としてみた場合には必要なアレンジをしつつ原作の中核を生かしたものになっていると感じます。
とくに、この原作は映画化されると、ともすると、ジャン・バルジャンの英雄譚にされてしまいがちで、市長としての活躍、逃走劇、地下下水道の場面などがジャンを中心に感動的に描かれるケースが多いのですが、このアニメでは、コゼットを主役にしたことによって、ジャン・バルジャンだけでなく、ファンティーヌやマリウス、エポニーヌなど、多くの「主役」が「脇役」に貶められることなく、生きたことが何よりもよかったと思います。とくにファンティーヌは、ほかの映画などでは「ジャンに助けられる哀れな母親」のようにしか描かれませんが、このアニメでは、身を落としながらも我が子との再会を希望に、正しく生きようとした母親のせつないまでのけなげな生き方が浮き彫りになっています。これこそ、ビクトル・ユーゴの描きたかった「レ・ミゼラブル」(惨めなる人々)の世界ですし、それが捨象されずに描かれたのは、ほかの映画版「レ・ミゼラブル」にはない優れた点だと思います。セリフには、その後のフランスの変化を感じさせる歴史的な視点が入っており、革命の敗北の物語であるにもかかわらず、明るい未来を予感させるつくりになっているところもいいですね。1832年の革命以降、フランスは48年の革命やパリ・モミューンを経験し、二度の大戦のあと、いまの生活者中心のフランス社会へと変遷を遂げますが、そういった歴史の中の一ページとしてこの作品を見ると、また違った楽しみ方ができるのではないかと思います。ユゴーはフランスの現代を知りませんが、アニメスタッフは革命のその後のフランスをよく知っているわけで、ファンティーヌたちの犠牲の上に、やがては保育所や学校がつくられ、社会保障が充実していくという歴史の流れを頭に置きながら作品を見ると、歴史の一断面を子ども向けに描いたよくできた作品だなあとしみじみと思ってしまいます。

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2008/01/04

まだ4話しか見ていませんが、一応コメントだけ残しておきます。

とりあえず、作画が今風になったことは別に気にしてないです。
名作劇場だって、少しは今風になってもいいと思いますし(ただ、ジャヴェールの悪人面したあの顔は…彼は本物の悪人ではないのですよ)。
ただ、内容がちょっと苦しいかな、と。
原作は今読んでいるところですが、かなり難しいです。
そんなアニメを、果たして子どもたちに理解することができるのでしょうか?
これはかなり製作するにあたってしっかり考えてほしいと思います。

それから、主人公・コゼットの個性が全然感じられないかな、と。
声もかなり浮いてますし。あの声、成長してもそのままなのでしょうか…?
これもどうなるか…こっちに関してはかなり不安の要素のほうが多いです。

子ども向けアニメとしてふさわしいのか、私としては『NO』な気がしますし、そこだけでも悪い寄りにしてもいいのですが…
名作シリーズの復活は素直にうれしいので、それをプラスして、普通寄りで。

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2007/10/21

名劇復活したんですね。
見ていないのでコメントだけ。

しかし絵面がまたえらい「イマ風」になりましたなぁ・・・(HPで確認)。
コゼットちゃんのお目々がおっきい。
「少女漫画絵」でないのが名劇のよさだったと思うんですが・・・
(細めの目が多かったので、作品によって作画が違うのに気付かなかった小さい頃)。
んでジャベールが極端に悪役っぽい顔なのが不満です。

それはさておき、「少女コゼット」という案は悪くないですね。
昔、岩崎書店から出ていた名作シリーズでは、アニメ同様「少女コゼット」となっていましたし。
子供向けにしようと思ったら、コゼット主役でもどうにかなるもので・・・
(ちなみに、他の子供向けの本では、前半ばっさり切ってマリウス主役になってたので、それに比べれば無理は随分少ない)。

何はともあれ、名劇が復活したのは嬉しいことです。
最初にやるのが、何で「レ・ミゼラブル」なのかは謎ですが・・・。

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2007/04/30

現在17話まで完了しました。オンエアにリアルタイムで付いていく作品は久しぶりです。
今年になって少々ヒマになったってこともありますが。
録画消化でも3話か4話で挫折することの多い私がこれだけフォローしているということで、つまり
現時点での感想は「素晴らしい ! 」です。もう手放しで褒めてしまいましょう。
作画はあまり気にする方ではないですが、この点も一貫して高いレベルで安定しており感心します。
さすが名劇の面目躍如といったところかと。地上波でないのが惜しまれます。

名塚コゼットの破壊力と名劇のネームバリューで観始めたのですが、ストーリーも十分に楽しんでます。
原作を読了していますが (とにかく大長編で大変でした・・・) そこはそれ名劇ですから
どんどん改変されるわけで、読んでいるから先の予想がつくとは言えません。
原作の冒頭はミリエル司教関連の記述が延々と続くのですが、本作ではザックリ端折られた(数分で終了 w )のが
少々呆気なかったなぁ、というくらいですね。
ファンティーヌの凄まじいまでの悲惨さが薄められたのは、まあ子ども向けアレンジとして妥当でしょう。
とにかく、どの年齢層でも、原作を読んでいてもいなくても楽しめる作品になっていると思います。
16話ではいい年こいて滂沱の涙・・・ベタベタな演出にすっかり乗せられました。

この先もっとも気になるのは、マリウスとは一体何者でどのように登場するのか、ですね。
当初、アラン (原作に登場しないオリジナルキャラ) とマリウスは同一人物なのだろうと思っていましたが
公式サイトの紹介文によればそうではない様子。しかし未だに同一人物説を捨てきれません。
アランはいい奴ですから、コゼットは何処の馬の骨ともわからないマリウスなんかよりアランとくっ付けばいい。
・・・なんて、単なる願望・妄想ですね。それもこれもコゼットが可愛すぎるせい。

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2007/04/11

可もなく不可もなくといったところ。
原作からすれば、随分削られた部分が多いのも世界名作劇場としては珍しい部類。

コゼットを主人公にしてしまった部分が凄まじい気がする。
返って原作とは異なったレ・ミゼラブルの新しいストーリーが誕生した。と評したい。

前半はとても直視できないような内容が多く、小公女セーラに匹敵するほどつらい内容だったが、
やっとそこから脱却し、少しずつ、「幸せ」という「永遠のテーマ」に近づいていくという視点から見れば、

不幸というテーマはあるものの、土から芽がでて息吹をあげて最後に花を咲かせるという王道のストーリーというコンセプトが成り立ち、見るものを引き立てる形になりそう。

今後、どういう内容になるかが見もの…。
最終的な評価は下せませんが、現時点では、"良い"で






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マグロの腹の中は真っ黒か

「ネットゲリラ」から転載。
これは明らかに政府による「景気回復」の小芝居演出のようだ。1億5千万の小芝居。(笑)
それで見ると官房機密費の額がどれほど巨大なものか、また政府の表支出に計上されない金がどれだけあるかも分かる。つまり、政府予算など虚構であり、実はまったくの丼勘定なのだろう。もちろん、これは「組織は上に行けば行くほど丼勘定になる」という「酔生夢人の定理」(w)によるものであり、下っ端役人はボールペン1本持ち出しただけでも汚職扱いされかねない、いや、事務用品などは自弁になっていると思う。
銀行なども同様で、窓口での金の出し入れは1円違っても残業してまで計算やり直しだが、肝心の資金貸し付けや上の方の給与などは、上層部の腹一つの丼勘定だというのが私の推定である。
世の中はだいたいそういうものである。


(以下引用)



官房機密費で15500万のマグロ購入疑惑

野次馬 (2013年1月 8日 10:14) | コメント(16)





安倍晋三にマグロ疑惑です。

 それにしても「すしざんまい」は良くやった。支那人のライバルに競り勝ったのは国威発揚の点でも「殊勲甲」だ。ひょっとして「国策」として官邸筋からの秘密指令があったのかと思っていたら、今朝の朝刊の「首相動静」を見て仰天した。
 <首相動静―1月6日>
 <「午後」1時30分、すしチェーン店「すしざんまい」を運営する「喜代村」の木村清社長。>
 おいおい(笑)。しかしこんなつながりに気付くのは私くらいかな。マグロ落札は社会部、首相動静は政治部だから、かかる面白い話を大きな記事にしない。
 う~ん、縁起ものだから一部を安倍晋三首相にお届けしなくては、ということだったにしても、よほどのルートがないとなかなかできることではない。この日、他に会っているのは麻生太郎副総理だけですぜ。まさか落札の裏に官房機密費があるとか(笑)。

勝谷誠彦メールで書かれているんだが、史上最高値で落札されたあのマグロが、安倍首相に献上されたらしい。官房機密費と書いてあるんだが、インフレ誘導のために、官房機密費を使ってわざわざ高値に釣り上げて落札したんじゃないか、ついでに、カネにあかせてマグロを買い漁る支那人にもひと泡吹かせられるし、という疑惑。税金使って、物価高騰のために猿芝居w アホな政権だw




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出口ナオの予言の実現は目前にある

少し前に「徽宗皇帝のブログ」に引用した出口ナオの「お筆先」(自動書記現象による「神のお告げ」かと思う)の一部をここにもう一度引用しておく。
まあ、年の初めにこれでも読んで、日本の現状と行く末に思いを馳せるのも無意味ではないだろう。
ついでに、「Darkness」の記事を転載しておくので、併せて読むと、この二つがぴったりと符合するのが分かるはずである。





(以下「2012年の黙示録」より引用)


外国は獣の霊魂になりてあるから、悪が強いから、心からの誠ということがなきようになりて、人の国まで、弱いと見たら無理に奪ってしもうて、奪られた国の人民は、あるにあられん目に遭わされても、何も言うことはできず、同じ神の子でありながら、あまり非道いやり方で、畜生よりもモ一つ惨いから、神が今度は出て、世界の苦しむ人民を助けて、世界中を桝掛け引きならすのであるぞよ。

  外国人はだんだん世が迫りて来て、食い物に困るようになりたら、日本の人民を餌食にいたしてでも、とことんやり抜くという深い仕組みをいたして、日本の国をとろうといたして、長らくの仕組みをしておるから、日本の人民はよほどしっかりと腹帯を締めておらんと、末代取り戻しのならんことが出来(しゅったい)して



(以下「Darkness」より引用)





グローバル経済は企業の形を変えた。2000年初頭には、製造業にも派遣労働が認められて非正規社員化が進んだ。

多くの企業は若者を正社員ではなく、派遣として雇うようになった。その結果、若者は不安定な生活を余儀なくされ、とても結婚や子供を産み育てる環境ではなくなってしまった。

それが少子高齢化につながるのだが、この少子高齢化はますます国の歳入を減らす。若者が減って老人が増えるのだから、年金制度も成り立たなくなる。

こんな状態では国内消費が増えるはずもないから、そうするとさらに企業は窮地に陥り、政府も歳入を失って一緒に窮地に落ちていく。

「負のスパイラル」に落ちている日本の姿を見て、いまだ日本は大丈夫だと言っている人の気が知れない。

2009年から2012年まで、民主党という史上最悪の政党が政権を握って日本の衰退は一気に加速していったが、民主党がいなくなったら衰退が止まるという単純な話ではない。

日本の衰退は構造的なものであり、政治的なものではない。
今のうちに身の振り方を考えておく必要がある

グローバル経済は、格差を増長する。企業は儲けた分を従業員に回すのではなく内部留保する。あるいは、配当で株主に還元する。

その結果、企業のオーナー、経営陣、株主と言った資本主義の上層階級のみが潤って、労働者は切り捨てられていく。

かつての日本企業では労働者は「人材」だったが、今や労働者は単なる「コスト」扱いだから、賃金は低ければ低いほどいいのである。

だから、サラリーマンという職業は危険なのだ。日に日に、サラリーマンは足元が切り崩されていき、企業からも捨てられ、国家からも収奪されるという二重苦に陥っていく。

日本人の8割がサラリーマンなのだから、日本人の8割が苦境に陥って、どうにもならなくなる社会が、これから確実にやって来るのである。

いくら働いても豊かになれない。サラリーマンにはまったく未来がなく、今のうちに身の振り方を考えておく必要がある。

サラリーマンよりも、もっと悲惨な末路を迎えるのは、家に引きこもってしまった若者たちだ。

長く引きこもれば引きこもるほど単純労働しか働き口がなくなるので、自分で事業を興すような才覚を見せない限りは生きていくことはできなくなる。

もっとも、事業を興せば成功するのかと言えば、それも確約できないのは誰もが知っている。起業は3年以内に8割が消えていくという厳しい世界でもある。

格差のどん底に落ちていくというのは、そういう絶望的な世界である。誰もあなたを助けてくれない。政府でさえ、あなたから収奪しようとしているのだから、注意深く生きる必要がある。
最後のセーフティーネットすらも消失する

格差はさらに拡大していく。アメリカと同様に、日本も1%の特権階級と、99%の貧困階級へと分離して、大多数の国民がその99%に追いやられることになる。

日本はかつて世界で最も成功した「社会主義国家」と揶揄されていた。国民のほとんどが「自分は中流階級だ」と思っていた時代もあった。

しかし、もうそんな牧歌的な時代は終わったのだ。

グローバル経済が加速すればするほど格差社会となり、生活保護を受ける世帯も急増している。

2012年後半からは、毎月1万人が生活できない状況に陥っているという凄まじい状況になってしまっていた。

今では211万人が生活保護にすがっているが、2013年も引き続き増えていくだろう。いずれ政府は生活保護さえも払い渋ることになるが、そうなると貧困層の最後のセーフティーネットすらも消失する。

超格差はアメリカや中国の話ではなくなった。

今、あなたの目の前でそれが起きており、あなたがサラリーマンであれば、いずれは火の粉が自分に降りかかってくるという危機的な状況になっているということだ。

もし、あなたが財産を持っていなければ、そのまま地獄に突き落とされる。

もし、あなたが財産を持っていれば、それは国家に収奪されてから地獄に突き落とされる。

財産が奪われた挙げ句、最後に国も破綻するのである。

誰がトップになっても、国家の債務が消え去るわけではないのだから、いずれ追い込まれた日本政府は、国民の財産を収奪しにかかる。

あなたは持っているものを奪われないために、とにかく必死で守るべきだ。破綻していく国家に「自分の持ち物」を収奪されていいはずがない。






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年頭所感(日月神示を参考に)

ウィキペディアから「日月神示」の内容の一部を転載する。
「日月神示」を信じているわけではないが、ここに書かれたことは人生訓として聞くに値するものだと思うから、年の初めにふさわしいかと思って今日の記事にするわけだ。
その内容について、最初に少し論評しておく。

我々は自然を尊び、人事においても自然であることを評価するのに、なぜか「奇跡」を凄いこと、素晴らしいことのように思う傾向がある。自然が素晴らしいなら、「反自然」である奇跡は、悪のはずだ。しかも、新興宗教の教祖などが起こす奇跡とやらは、たいていが集団催眠の類である。

下記記事中で特に現在の日本の状況から懸念されるのが、「神国から生まれる食べ物頂きて」がTPPによって不可能になりそうなことだ。農薬や化学肥料で作られた作物が「正しき食物」であるかどうかも問題だろう。せめて節食するくらいしか我々凡人にはできそうもないが、これも実はむずかしい。まあ、なるべく肉食を減らし、食事の量を減らすように心がけるしかないだろう。実際、現代医学の教えから言っても、それは健康を保つ重要なポイントのようである。

我々の体(精神も体の一部だ)が、神からの頂き物だというのは、現代人にとっては、その「神」が何なのかの定義をまずして欲しいと思うところだが、そういうのが理屈に汚染された思考なのかもしれない。とりあえず、我々が偶然的にこの世界に生まれた、本来どうでもいいような生命であると考えるよりは、神からの頂き物だと考える方が、自分自身をも、他者をも尊重する気持ちになれそうである。これは、「我々自身の中に神はある」という私の考えと、そう大きく隔たってはいない。

「明日のことに心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」というあたりは、「気を使うな。頭を使え」という私のモットー(これは私の兄から習った)とほぼ同じである。我々は考えているつもりで、実は頭が空回りし、感情エネルギーを消耗しているだけ、という状態がよくある。グルジェフ流に言えば、知性のセンターを発動させるべきところに感情のセンターが働いている、ということだが、知性(論理思考)と感情をはっきり区別する習慣をつけるのは、人生のさまざまな局面で役に立つはずである。

「日月神示」の記述は癖の強い文体だし、そもそもそういう神がかった事を嫌う人には無縁の話題だが、その言っていること自体には、我々の日常生活にも役立つ叡智の言葉もかなりあると言えそうだ。






(以下引用)




同様に既成宗教では神の「しるし」や「証し」として重要視、神聖視されている奇跡であるが、これについても完全に否定、いくつかの帖で言及され、奇跡やこれらを求め信じる人に大きな警鐘を鳴らしている。「二日んの巻」第十三帖では「地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであること知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。」や「黄金の巻」第二十二帖でも「奇跡では改心出来んのであるぞ」また、「龍音の巻」第十八帖では「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか。」と語られている。
また、他の多くの宗教が修行の一環や、神への自己犠牲のしるしとして断食の必要性やその意義を説いているが日月神示では断食すること自体を厳しく戒めているのも注目される。「日月の巻」第三帖では「滝に打たれ断食する様な行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ。」と述べられ、滝に打たれたり、断食するような行は低い世界の行に過ぎず全く必要がないのだとされる。更に、「正しい食生活について」では「食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふへて弥栄へるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ。」(春の巻第五帖)と語られている。
しかし、一方で多食や肉食についてはこれを戒めており、次のような帖もある。「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。」(冬の巻捕帖)[14]「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう、臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ。」(碧玉の巻第八帖)。なお肉食についてはそれを戒めつつも、次のようにも書記させている「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ」(天つ巻第五帖)。
「人間の生き方」に関しては次の記述が代表的なものであろう。
「臣民にわかる様にいうなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ」(富士の巻第十四帖)。「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語られている。
更に夫婦のありかたについては次のように述べられている。
「愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。」(春の巻第二十六帖)。「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。」(黄金の巻第七十二帖)、また「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二(富士)晴れるぞ。」(黄金の巻第九十九帖)、更には「夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。」(月光の巻第九帖)とあり、お互いに信頼しきった夫婦関係が大切で真の信仰の礎であると語られている。



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普通人の心理を知らないと選挙には勝てない

「スロウ忍」ブログから記事の一部だけ転載。
こういう、自分の目や耳で実際に見聞きした話というのは貴重である。わずかな事例であっても実はそれは世間の普通の(大半の)人間のサンプルなのだ。商品の品質検査をするのに、全商品の梱包を解いて調べる必要はない。アトランダムに、100個から1個程度の割合で調べれば、全商品の品質は確率的に分かる。
要するに、不正選挙などしなくても自民党は勝っていただろう、ということだ。もちろん、あれほどの大勝はしなかっただろうが、200議席は軽く超えていただろう。それは、下の記事にあるようなB層が日本国民の大多数だからだ。(私自身がそうかどうかは今は問題にはしない)
後で、今日の徽宗皇帝のブログに転載した記事から、この記事に関連する「日本国民の選挙時の空気」に関する部分を追加転載しておくが、藤島利久候補は、原発脱却に対する国民の冷ややかな空気を選挙中に感じていたらしい。一般国民にとっては、「国民の生活」ではなく、「自分の生活」が第一なのである。「未来」よりも「今」が大事、「目の前のこと」が何より大事なのである。
少し考えれば、それが当然であることは分かる。

(問題1) あなたと、まったくの他人の二人が飢え死にしかかっています。そこに一人分の食料が投下されました。あなたはこれを他人に与えますか。

(問題2) 二つの選択があります。Aは「今から20年間、裕福に暮らせるが、20年後には死ぬ確率が5%から50%くらいあります」。Bは「今から20年間貧乏な生活が続きます。20年後に死ぬ確率は5%から20%くらいです」。あなたはどちらを選びますか。

まあ、こんなもってまわったような事を言わなくても、「他人より自分が大事」「どうなるか分からない未来より、目の前のことが大事」というのは当然だろう。子供のいる人なら、子供のために自分や現在を犠牲にすることもあるだろうが、余裕の無い庶民であるほど、脱原発の高邁な理想より自分の生活の維持や向上を選ぶはずだ。
要するに、普通の人間の心理を知らなければ選挙で勝つことは不可能だ、ということである。
「マスコミによる洗脳」に不毛な攻撃を加えるより、「いかにして」マスコミと戦うか、あるいはいかにしてマスコミを味方につけるか、を考えるべきである。私は、「新しいマスコミ」を立ち上げることを提唱しているが、それには金も時間も労力もかかる。あまり敗北主義的な観測はしたくないが、このままだと今年夏の参議院選は、おそらく自民党が大勝するだろう。
米兵による東電訴訟が大問題化する、とかいった「外圧」以外には今のところ突破口は無いように思える。
もちろん、安倍自民党が善政を敷けば、何も問題は無いわけだ。(笑)




(以下引用)



新年早々、将来の日本経済に対して絶望感を抱いた。まぁ今になって始まったことでも無いけどな。

以下は、俺の身近な者達の世間話から感じたことである。


(中略)


次に、都内の有名ミッション系大学(笑)で政治経済とやらを専攻するお嬢様の話だ。彼女は今回の選挙で自民党が圧勝したことについて、「消費税増税で財政が安定化し、私達も将来年金が貰えるようになる」など頓珍漢なことを抜かしていた。新自由主義者共の最終目標は社会保障の撤廃なのにな(プ 何処でそんな馬鹿な話を吹き込まれたのかと彼女に問い質して見た処、其の有名ミッション系大学(笑)で“社会福祉関係”の教授とやらがそう曰っていたのだそうだ。日本の大学とは此の程度なのである。矢張り、親御さんは大切な我が子を大学なんぞに行かせるべきでは無いのである。しかも彼女は20代という若さで将来の年金なんぞを異様に当てにしており、将来は良い病院で老後を迎えたいから年金が欲しいそうだ(プ 就職活動をしている彼女の仲間の多くも、会社選びでは、年金や福利厚生の充実(笑)を最も重視しているそうだ。さっきの“住宅ローン”の話と同様、“幻想”にカネを払い続けることを厭わない日本人の奴隷気質が此処にも表れている。

“将来への不安”を煽ることは、支配者が奴隷から“カネ=時間=労働力”を搾取するのに最も有効な手段の一つである。

奴隷製造工場のベルトコンベアに乗せられて飼育された彼等は、身体だけは立派に成長しているが、精神構造は奴隷其の物である。



(引用2「藤島利久」の「選挙無効訴状」より)



原告は、埼玉五区で未来の党公認で出馬し、選挙期間中はJR大宮駅前で「脱原発」一本の街頭演説を続けた。選挙中盤で有権者・国民のおかしな反応に気付いた。駅頭を往来する多くの有権者が「原発が無くなると、エネルギーが足りなくなる。日本の産業がおかしくなる。景気が悪くなる。電気代も上がる。」と、マスコミからニセ情報を刷り込まれて洗脳状態に陥っていたのである。



これには驚愕した。真実は、原発は既に止まっており、エネルギーは余っている。現在、唯一稼働している福井県の大飯原発2基については、関西電力が火力発電所を7基止めて意図的に電力不足を創り出したうえ、マスコミが此れに加担して我々国民を欺き、民意を「再稼働やむなし」に不当に誘引したものである。



マスコミによる「国民洗脳」の恐ろしさが此処に顕著であって、マスコミが脱原発政党への投票を妨害したと言える。








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天皇と「最後の拒否権」

「句の無限遠点」というブログから転載。

「民主主義は逆に言えば、共同体成員が対等に等しく最適な環境で生存する条件を保証し合う制度であって、いまのところこの原理的な「根本合意」以上の観念と制度は他にない。」

という言葉は、まさしく我が意を得たり、という言葉である。私が民主主義の絶対的支持者であることは、過去記事を読めば分かる。そのことと、「尊皇主義」と「漸進的社会主義者」であることは一つも矛盾は無いつもりだ。
私の「尊皇主義」は、日本の文化的伝統の中心に天皇が存在すること、また今後の政治的危機において、天皇の存在があることは、大きな重石、すなわち右にも左にもぶれない動かぬ中心として、日本の貴重な利点であると考えることによる。(天皇とは右でも左でもなく、中心にある存在だ、というのが私の思想だ。これを否定的に言ったのが丸山真男の「中空的存在」という言葉だが、私はこれを「中心の重石」と言い換えたい。)これが私の言う「万世一系の価値」だ。悪意をもって天皇を利用する勢力の台頭にさえ気をつければ、天皇は世界に誇れる国民統合の象徴であり続けるだろう。それだけでなく、優れた政治システムだとさえ言える。

なお、これはまだ熟していない考えだが、私は天皇に「最後の拒否権」を与えるのはどうか、と考えている。憲法改定、および開戦という国家最大の重大事案に関しては、天皇が「ノー」と言えば、ストップできる、という考えだ。これを新たな国家システムとするのである。

これは、国民自体が民主主義を運営できない現状では、国民主権もまた形骸化しており、実は官僚主権となっている、という事実から考えだした過渡的手段ではあるが、選挙すらも当てにならないのなら、最後の防衛線としてこれほど強力なものはない。それが天皇の最終的決定なら、日本国民は従うだろう。
もちろん、天皇の「ノー」とは事案の「国会差し戻し」である。もしもこれに対し、国会が再度同じ議決をしたら、それこそ国会が焼き打ちされると私は見ている。天皇という存在にはそれほどの潜在的力があると私は思っている。すぐれた人格者が「最後のノー」を言うためにいつでも存在してくれる、ということの与える安心感は計り知れない。日本のシンボルは、いざと言う時に日本国民の守り神になるわけだ。
まあ、これは一種の「天皇機関説」であり、ある種の人々には不敬と思われるだろうし、天皇嫌いの人々からも嫌われそうな意見だ。つまり右にも左にも嫌われる。(笑)だが、昭和天皇自身が「天皇機関説」について「それで良いのではないか」とお側の者に答えたという事実を考慮してもらいたい。昭和天皇自身が、自らを国家の一つの機関であると認識していたのである。現天皇の人格の素晴らしさは今更言うまでもないだろう。
私は、国家の最後の命運を預けるならば、人格低劣な秀才官僚や口先だけの詭弁政治家にではなく、徳のある人格者に預けたい。

「漸進的社会主義」についてはこれまで何度か書いてきたから詳しく書かなくていいだろう。政治が結局は一部の人間の利益を中心に動かされようになるというのが自由主義(資本主義)の宿命である。社会主義は本来、社会全体の利益、すなわち一般国民の利益を一部の富裕層の利益より優先する健全そのものの思想である。あらゆる福祉政策は社会主義的政策であり、国民がそれに反対する理由は無いはずだ。社会主義を何か悪の思想であるかのように思う幼稚な反応はもうやめたいものである。




(以下引用)


もう一度、私たちが社会や政治を論ずるのはなぜか?と問わなければならない。
それは、動物が自然環境を生存の条件にしていると同様、社会や政治(人間の作り上げたもの)が人間の生存条件であるからである。
ただそれは自然界と同じように実在物としてシステム論や法理論や経済理論として語られるが、それは仮象であって、人間の幻想が生み出した共同観念であり、絶えず共同の合意によって刷新している観念体系なのである。
そこをよく理解しておかないと、なぜ社会のひとびとがいきなり意見が違うから殺してしまえとならずに、論議を尽くし、多数決で少数意見を尊重し取り込まねばならないという民主主義の手続きができたことも忘れ去られていく。
民主主義は逆に言えば、共同体成員が対等に等しく最適な環境で生存する条件を保証し合う制度であって、いまのところこの原理的な「根本合意」以上の観念と制度は他にない。
自民党公明党維新の会みんなの党の主張する政策は、こうした「根本合意」を忘れて、共同体の劣化と弱体化を図るような話が多すぎる。
どのような世界の歴史をみても、共同体内部の格差と抑圧が激しくなって栄えたためしはないのだ。
共同体が強固なのは、自分も他人も同じ人間だという共感をベースに、「対等である」という実感が他人を支える動機になるのであって、対等にものを言う人間が多いほどいい知恵もでてくるのはいうまでもない。
もっともらしい政治家や知識人の言説も、このような「根本合意」の原理に引き当てて吟味すれば嘘か信か見抜くのもそれほど難しいことではない。
あれやこれやで迷ったら、今年はここに立ち返って考えるとしよう。





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