忍者ブログ

廊下の奥に立っているもの

「さてはてメモ帳」から転載。
フランシス・ベーコンという画家についての記事の後半部分に、この記事があった。たぶん「晴耕雨読」からの転載だと思う。同タイトルの記事をそちらで見た記憶があるが、その時は読まなかったので、中身は知らない。
なぜ読まなかったのかというと、こういう「いかにも」という感じの政治思想俳句を私は好まないからだ。もちろん、俳句の題材に何を扱おうが自由だが、私の好む類の俳句ではない、ということだ。
だが、反戦思想のキャッチコピーとしてならば、なかなか優れたコピーであるとは思う。廊下の奥に立っているのはもちろん幽霊的な存在であろうという、日本人の集合的無意識に訴えかけ、いつのまにか忍び寄る戦争というものの不気味さをうまく暗示している。
なお、記事の下から二つ目の関連記事の、福島の除染作業員の不審死の件は私も「徽宗皇帝のブログ」で取り上げたが、この事件の続報が聞こえてこないところがまた不気味である。




(以下引用)




http://sun.ap.teacup.com/souun/12575.html#readmore




戦争が廊下の奧に立っていた

1939(昭和14)年、京都大学俳句会で活躍していた、

渡辺白泉という学徒が詠んだものです。

白泉はとくに政治に関与していたわけではありません。

もちろん、左翼でもありませんでした。

戦争を嫌い、平和と文学を愛するごくふつうの大学生だったのです。

ところが、特高警察はこの俳句にまで目をつけ、

「反戦思想の持ち主だ」

と言って、渡辺白泉に治安維持法違反の嫌疑をかけ、投獄しました。

仲間も俳句を作れないほどの言論弾圧を受けました。

いまに伝わる「京大俳句事件」です。(新興俳句弾圧事件)

たった一句の俳句にまで弾圧が及んだ暗黒の時代。

そのおぞましい暴力は、まだ大丈夫だろう、と思っている矢先に、

突然に襲ってきたのです。

国民の目と耳と口をふさぎ、

自分たちの思うがままに独裁的な政治をしようという勢力が

居丈高に振る舞っているいま、

すでに不気味な圧力は

あなたの背後にしのび寄っているかもしれないのです。

戦争が廊下の奧に立っていた

戦前、京大生・渡辺白泉がこの俳句を詠んだときには、

もう戦争は廊下の奧どころか、茶の間に軍靴で侵入していたのです。



TPP"秘密文書"をWikileaksが暴露「著作権侵害の非親告罪化」に10カ国賛成 The Huffington Post | 投稿日: 2013年11月14日 16時01分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2013/11/14/tpp-copyright_n_4271586.html?utm_hp_ref=japan

【不審死】福島の除染作業員がゴミ箱の中で炎上して死亡!しかも、ゴミ箱の外からは留め金!警察「事件性はない」

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1196.html


日本が戦争をできるようにしたい安倍首相とオバマ大統領
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-f1e9.html




拍手

PR

愛無き世界

「播州武侯祠遍照院」経由で、「バカ国民帝国日本の滅亡」の記事を転載する。
日本人を人間化しようとする試みが成功すれば、日本は今のような酷薄な社会から、愛に満ちた社会になるだろう。愛とは言っても、たいしたことではない。我欲を少し減らし、その分、他人と分け合うだけのことだ。
「汝の望むところを他人に施せ」「汝の望まざることを他人に為すなかれ」この二つで社会は健全なものになる。その反対が新自由主義の目指す競争社会、闘争と略奪(そのために虚偽がフル活動する)の世界であることはこれまで何度も書いてきた。
だが、人は生きるために闘争するのは当たり前だ、と人々は洗脳されている。(そんなのは野獣の世界であり、人間の世界ではない!)そして、下層階級のその闘争と競争から生まれる剰余としての富を吸い上げるのが社会の上位層である。何もマルクスを待つまでもなく、こんなのは遥か昔から多くの人が知っていたことだ。
グローバリズムと新自由主義は同じものの二つの顔である。
それは、略奪と闘争と不平等を世界に拡散する醜い思想である。



(以下引用)*赤字部分は夢人による強調。



天は、慈悲を以て助ける。 今の日本は愛が無い結果。 渾沌堂



バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画 より  


上記文抜粋


・・・・・・・・・・・



”愛”とはいうけれど…




たとえ、ビジネスであったにせよ、「宗教」の拡大期は人々がその”教え”を共有し、または共有しようとするので、それが「常識」みたいになります…





バブル、バブル崩壊以前は、まだそんな雰囲気がどこかにありました。組合も強かったし…





レーガンだのサッチャーだの、あいつらがしゃしゃりでてきたあたりから、世の中おかしくなりました。





以前もマトモとは言えませんでしたが、今日レベルの状況は「漫画の世界」に限られていましたよ。





この前のNHKは、ユニクロの特集でグローバル競争がどうこうとやってましたが、こういうのがいけないのですよ。ゲームになっちゃってんだもの…ビジネスが…仕事が…命を賭けた”ゲーム”ですよ…





グローバル競争というのは、国境を越えて素潜りで人々が魚を獲っていた地域などに、大資本が超ハイテク船で船団組んでやってきて、そこの魚をぜ~んぶ独り占めにしていくって話と同じなのです。





大資本は確かに大儲けするでしょう。「雇用」も生じるでしょう。「経済」も「成長」するでしょう…





しかし、大量の資源の収奪と文化や環境の破壊と、失業が、富の収奪、貧困の拡大が生じている…






「どうして彼らははたらかないのか?」





…と、自称「先進国」のパー民どもはいう…





あなたがたパー民国の大資本がやってきて、市場も仕事も資源も奪っていったからですよ…





戦争、内戦、自由競争…それらをパー民国が「よいもの」であるかのようにもちこんできた結果ですよ。






その自覚なき加害者たちは、「貧困を救おう」というと、被害者みたいなことを言う…





「なんでおれたちが稼いだカネを、怠け者に分配しなければいけないのだ!」






こーゆー連中は死刑にすべきです。






”愛”とは、分け隔てなく、財物を分配することです。ですから…





貧富の格差が生じるのは、「努力の結果」ではないのです。





”愛”の不実践の結果です。”愛”と反対のことをやっているから、富を蓄えるのです。





それを「努力の結果」?…狂ってますわ…サルが「努力」して、どれだけの結果が出ると思っているのか?






インチキ三昧やって、生活保護の受給者になる者もいるかと思えば…





総理大臣になってるやつまでいるじゃないですか?大金持ちでしょ?庶民からすれば…






もてはやすパー民がたくさんいれば、バカでも総理大臣になれるという見本が現実に存在する!!





インチキ三昧やってても、総理大臣になれる平和な国がニッポンなのです…






レーガンやサッチャーのようなクルッパーが出てくる以前は、「人間は平等」をみんな信じていました。





ある種の「信仰心」がみなにあり、それを追い風に宗教や政党が組織を拡大できたときだった。





時代は変わる。人類は進歩する。





多くの人が、そう信じられる”なにか”がまだあったのです。






中国でも、宗教が大流行ということで、ある種の”目覚め”があることは確かでしょう…





でもね…そんなことを、人間は繰り返しているんですよ…





宗教ブームも、「ビジネスチャンス」ととらえている人々はすでに少なからず存在しているんです。






そして人々は再び間違える…





隣人にではなく、教祖様や教団や政治家に「分け与えて」しまう…






人々は結局”愛”ではなく”欲”を求める…





「”愛”がほしい」などといって、貪りのこころをたぎらせ、阻むものを憎むのです…






「”愛”がほしい」…そう言った時点で”愛”は消える…





伝えることはいいのだが、貪ったり、裁いたりしてはいけないのだ…






なぜ”愛”がないのか?





貪っているからだ。それを追い求めるからだ…






無償でなければ”愛”ではない。






見返りを求めた時点で、それはもう”愛”ではない。






「私がこんなに愛したのに…」と言った時点で、もう”愛”じゃない。






イエスも「私が愛したのに」みたいなことを言っていたと思うが、それは「お互いに愛し合え」ということを教えるためで「私をもっと愛せ」という意味ではなかったと思う。






「見返りを求めてはいけない」と言っているのではない。





「見返りを求めた時点で、それは”愛”ではない」と言ったのだ…






”愛”に気づいても、実践のレベルには段階がある。





レーガンもサッチャーも出てこなかった時代…





人々は、そうした”愛”の実践について、学んだり、試みたりしていたのだ。





少なくとも、その時代くらいまでは、戻さねばなるまい…





(付録)


拍手

日本国民の現状は「自業自得」

「馬鹿国民帝国日本の滅亡」という、ブログタイトル自体がすべてのブログ記事内容を語っているようなブログから転載。
実際、このブログに書かれているのは、日本人は馬鹿国民だから、日本馬鹿帝国は滅亡して当然、という内容がほとんどのようだ。私もその意見の前半には賛成だし、私もその馬鹿の一人なのだろうが、日本が滅亡することは何とか阻止したいと思っている。その気持ちが自分のブログで政治的記事を書く原動力の一つでもある。今の大人は(今の社会を作ってきた責任があるのだから)どうなってもいいが、若者や子供や幼児には罪は無いからである。
さて、下記記事は政治的記事ではなく、「哲学」である。かなり高度な哲学だと思う。難解さは少しも無いから、こういう議論は軽視されがちだと思うが、人間性の本質に迫る議論だし、言っていることはほぼ正しいと思う。(まるで自分に「判定者」たる資格があるような偉そうな言い方だが、誰しも自分の読んだ物については自分で判断する資格はある。ただし、その判定が正しいとは限らないのは勿論だ。)







「自己実現」とは何か



2013-11-15 22:56:00
テーマ:神(真)言・魔(真)言


「自己実現」ということばは、マズローの欲求五段階説に基づいて日本に流入してきた舶来モノですが…


これを「自己実現」と訳すところに、仏教の影響があるように感じます。


「自我実現」でもない、「自分実現」でもない… 「自己実現」!!…


「自己」ってなんでしょう?「自我」って?「自分」とはどう違う?…



「自分探し」とは言うが…「自我探し」とか「自己探し」とはいわへんな~…



「自我探究」「自己探求」というのはあっても「自分探究」というのは、ちょっと特殊な感じだし…



簡単にいえば、「自分」とは、他者とはちがうもので、姿かたちやポリシーなどでしょうか…


キャラクターとかパーソナリティーとか、ペルソナといったことばが浮かびます。



「自我」というと、もう少し「いま、ここ」で、いままさに「自分」をこの瞬間瞬間に生成しているものという感じがします…


西洋の心理学では「超自我」なんてのも出てくるんですが、いまいち正体が定かではありません。



シュタイナーなどの西洋神秘思想になると、肉体、エーテル体、アストラル体、の三層構造によって「自我」を規定し、これにさらに「霊体」という「超自我」みたいなものを設定するのですけどね…



おもしろいですが、これなら西洋占星術だって似たような「自我構造モデル」をつくっていて、人格を上昇宮、太陽宮、月の入っている宮の三つでとらえるってやつがあるわけです。



それぞれに「私」というものを、どう分析し、どう描くかという点で共通のツールとして興味深いものです。



で…それらは、どんな服を着て、どんな鏡に自分を映してみるかということであり、好みでやればよいわけですが、きょうのテーマは、仏教でいうところの「本当の自分」というやつについてです。



「自分」って、なんだろうかと…内観してみると、いろんな「自分」がいるじゃないかと…


日本人は単純に「タテマエ」と「ホンネ」の二元論でシンプルに「理解」しようとするのですが…


矛盾するふたつの「願い」や「自分」が、両方とも「ホンネ」だったりするわけですね?


「どっちが本当の自分?」と問うても迷うような…「どっちも自分やんか!」みたいな…


こういうのを”葛藤”というのですがね…「自分」のこうした「分裂」は、昔からあることなんです…



しかし、どれも「タテマエ」ではない「ホンネ」ではあるものの、「本当の自分」はどっちなのだと…?


どれも「本当の自分」ではあるけれども、そのなかでももっと究極的な「真の自分」ってのがあるじゃないか…


仏教では、それを「自己」と呼んでいる…


それは慈しみのこころであり、悲しみを知るこころである…


儒教では”仁”と呼び、キリスト教などが”愛”と呼んでいるもの…どんぴしゃりに一致ではなくても…



恐怖し、惑う自分がいる…飢え渇き、貪る空虚なこころが満たされぬ自分がいる…


他人や世間と引き比べ、いつも外見や体裁を気にするだけの自分がいる…


ただ感情のままに快楽に浸り、嫌悪感に相手を憎悪する自分がいる…


常に「敵」や「課題」をみつけ「戦って」いる自分がいる…



まあ、どれも「自分」には違いないが「本当の自分」はそれらではないよ…



ちょうどNスペが「病の起源」というので「うつ病」をやっていた。


何でも平等に分け与える狩猟社会では、うつ病はなかったと…


階級が生じ、富に独占が生じ、階級が生まれてから、うつ病は増大したのだと…


仏教もキリスト教も「分け与える」ことを奨励する…


貪ること…つまり、効率や利益を追求することは、否定しているといってもよいくらいだろう。



「本来の自分」は、分け隔てなく、財物を分け合う「自分たち」なのだから…



競争ではない、むしろ協力…戦いではない、むしろ慈愛…


実際、そうした”人間の本性”にしたがうほうが気持ちがいいし、健康的なのだ。



こうした”本来のこころ”を、人間はだれしももっている…


自他を分け隔てすることなく、自然と一致している調和した「自分」を…



これを「人間だれしも仏性をもっている。地獄鬼畜生といえども、それをもっている」と仏教は説く…


その「仏性」が、宇宙と生命と調和して一致する「自分」…それが「本当の自分」だと…



だから、そういう感じがもてたとき、「自分」は自分の中にある気がしない…



それは、むしろ天から「降りてくる」感じがする…


「自分」もまた「ある」ものではなく、一瞬一瞬天から与えられているような…そんな感じがするのだ…



これを…


「真の自分を取り戻す」


…と言ってもよいのだろう…または…


「神との合一」


…と言ってもよいのだろう…



そして、その”本当の自分”というのは、天地生成以前からと言ってもいいくらい昔から悟っていた…


初めからすべてを知っていた…



「即身是仏」というのだが、実は我々は生まれながらに”仏”なのだと…


お釈迦様も悟ったときには、自分は大昔から悟っていたという確信を覚えたという。


それだけ”悟り”というのは実感するものだし、悟ってみれば、バカに当たり前のことということなのだ。



しかし、ほとんどの者は悟ることなく地獄へ落ちる…


「本当の自分」に波長を合わせず、貪る自分や妬む自分に同調してしまうからだ…



ネットには、そうした鬼畜生に同調している者たちがウヨウヨいて罪を重ねている…



自分が積み上げた罪業の報いは必ず受けることになる。


今日の日本の惨状も、よくよく思い起こせば、すべて日本人が自らの悪行三昧で招いたものなのだ。



たとえば…だよ…「人を殺した者は死刑だ」と言う者がいる…


だが、その者は無批判に原発にただただ賛同していたとする…


じゃあ、東電と同罪ではないか…


東電が”人殺し”であるならば、それに盲従してきた者たちも”人殺し”だ。


ならば、自分が宣言した法にはしたがわねばならないから、みな「死刑」である…



…で、奇しくも現実はそれが実現しつつある…



簡単に言えば、こういうことだ。



「本当の自分」を偽ってきた者たちは、必ずその報いを受ける。


「本当の自分」を思い出せ…仏の自分に回帰せよ…



これが「即身是仏」の教えだ。



死者のために仏教はあるのではない…



たとえば、反原発の市民運動をしていたとする…


広瀬隆とか、講演に来てもらう…(けっこう高額だってね…)


そして、学習を重ねながら「反原発」というムーブメントをつくっていくわけだ。



仏教も、もともとは、この教えを広め、実践しようという者たちが集まって”檀家”となり…


僧を呼んで学んだり、儀式を執り行ったりしてきたわけである…



昨今は、全然そういう”本来のかたち”になっていない。


坊さんも坊さんだが、一番酷いのは”檀家衆”である。


な~にもわかっていない…



こういうことが国政レベルでも生じていて、民主主義をまったく理解していないチンパン国民が結局は現在のデタラメな政治を引き寄せているのである。


すべては”自業自得”…


天罰なのである。




拍手

ひ~らひ~ら♪

暇つぶしにネットを見ていたら、「めぞん一刻」結末部の総集編みたいな動画があって、なかなか感じがいいので、ここに取り込んでおく。
「ひ~らひ~ら♪」のあたりは、あのアニメを見ていた人なら、この真面目な動画ではなく、例のアホダンス(登場人物たちが並んで、ガニ股で横歩きする奴)を思い出すだろう。(一番の歌詞では「き~らき~ら」だが、二番では「ひ~らひ~ら」。アニメでは二番の歌詞が使われていた。)

昭和は遠くなりにけり、である。





拍手

肉体的な美と精神的な美の一致

「文殊菩薩」に皇后様の記事が載っていたが、その一部だけ転載する。他の部分も皇后様の人柄を表すエピソードであるが、この部分に特に私は感銘を受けたからだ。中でも赤字部分が、それだ。最初の手話の件は、皇后様が、この障害者大会を参観するに際して、あらかじめ、称賛を意味する手話を覚えた上で参観なさったことを意味している。果たして、他の来賓にそれほどの心配りのできる人間はいただろうか。おそらく、ほとんどいるまい。
次の、知的障害者の子供たちに皇后様の印象を訊ねた時の彼らの答えは、相手が皇后様であることは知らなくても、「きれいな人」「やさしい人」という印象はそのまま伝わったということだ。これが人格の力である。
私は皮肉な人間だから、女性が「幾つになってもきれいでいたい」などと言うのを聞くと、「きれいな婆あがいるもんか」と憎まれ口をききたくなるのだが、ある種の人間は、人格の力が外面まで美しくするのではないか、とも思う。はっきり言って、洒落ではないが、皇后様はまさしく「皇后しい」いや「神々しい」美しさだ。女優などの、骸骨の上に肉で化粧しただけの表層的な美しさとは別種の美しさである。だから、年齢を超越した美しさなのだろう。
若いころの美智子妃も美しかったが、今の美智子妃の方が、ある意味、若いころよりも美しいのではないだろうか。




(以下引用)



10月6日、東京都文京区であった「第15回日本太鼓全国障害者大会」を訪れた時もそうでした。

 この大会には、耳が不自由な人や知的障害がある人たちが参加。熱のこもった演奏が披露され、皇后さまは身を乗り出すようにして鑑賞していました。演奏が終わると、両手を高く上げ、ステージに向かってひらひらと左右に振り続けました。関係者に聞いたところ、「称賛」を意味する手話だったそうです

 帰り際、皇后さまは、出演を終えた人たちを「立派でしたよ」とねぎらい、これから出演するメンバーには「たくさん練習なさったんでしょう。しっかりね。いつものようにたたいてくださいね」と激励。福島県郡山市から参加した太鼓チームには「被災されなかった?」「太鼓は無事でしたか」と気づかっていました。

 主催した日本太鼓財団の塩見和子理事長が話してくれたエピソードも印象的でした。皇后さまがお出ましになった際、大会に参加した知的障害のある子どもたちに「どなたかわかる?」と聞くと、皇后さまのことは知らないようでしたが、口々に「きれいな人!」「やさしい人!」などと話したといいます。「皇后さまはいつも本当に障害者福祉のことを気にかけてくださっています」と塩見さんは話していました。



拍手

国家による大量・長期的殺人

「wantonのブログ」から転載。
凄い話である。
「将来、君たちの二人に一人は癌になり、三人に一人は癌で死ぬ」と福島では小学生に教えているそうだ。そして、「癌は国民病だ」、と教えているそうだ。
つまり、福島周辺でこれから頻発することが確実な、癌の発症は、福島原発由来の放射能のせいではない、ということにしよう、ということである。明らかな洗脳行為、宣撫工作である。
これが日本政府である。これが厚生省であり、それに従う医学産業界である。
岡山博氏のツィッターの内容も凄い。首の超音波検査で結節が見つかっても、所見や写真などの記録を残すな、という通達が出ているそうだ。
国家挙げての、放射能による甲状腺異常の隠蔽工作である。
国家による大量殺人行為と言っていい。
それに従っている医療界も、国家犯罪の共犯者である。
日本史上、国家がこれほど無茶苦茶になった時代は存在しなかったのではないか。
いったい、日本国民にとって日本政府とは何なのだろうか。

いやはや、政治的な話はこのブログでは書かない方針にする予定だったが、こういう記事を見ると、つい義憤に駆られて書いてしまう。心が子供なのだ。それとも「やむにやまれぬ大和魂」か。




(以下引用)*記事の一部は写真版なので転載できない。(できるかもしれないが私には面倒。元記事参照のこと。)*赤字部分は夢人による強調。




【郡山発】~どうせ僕もみんなも、ガンで死ぬんでしょ~
テーマ:ブログ
【郡山発】
~どうせ僕もみんなも、ガンで死ぬんでしょ~





郡山発~クラスの2人に1人はガンになり、
3人に1人は死ぬ国民病だと教える小学校


niko さんの記事より

☆最大の国民病だけどさ・・・!?
http://ameblo.jp/mtkyc/entry-11677995033.html


郡山市に在住の方のツィートによると、
小学生にこうした資料を配布してるそうです。






将来クラスの二人に一人はがんになる!?がんは最大の国民病


30人クラスだったら将来がんになるひとは15人。
がんで死ぬ人は10人になることに。

がんになるのは放射能じゃないよ。
国民病だよって意図的に植えつけている。

千葉市でも311以後、早々に外部被ばくと内部被ばくは同一だ
という安全プロパガンダ資料を小学生、幼稚園に配布していた。

税金を使って安全神話振りまく前に
血液検査や尿検査をやったらどうなのか。

郡山市で起こされた集団疎開裁判こそ本来は自治体としては
住民と共に向き合うべきではないのか。

子どもの被ばくや健康問題と向き合おうとしないで、
人口流出を止めたいがための大本営発表をやめるべきだ。


転載おわり



どうせ僕もみんなも、がんで死ぬんでしょ。


ずっと忘れてた言葉を思い出してしまった。
長女と一緒によちよち歩きのころから育った男の子が震災後言った言葉。

子どもなのに、未来が見えない。
でも未来を見せたい。

福島に住んでいるからって、被曝を受け入れてるわけじゃない。
まだまだ諦めていない。

小学生に貴方たちの半分はがんになって、
その中のほとんどは死ぬのよ、
なんて絶対言えない言葉だと思う。

人としての心持っていますか。
この資料を作った人の神経を疑います。

怒りと悲しみがこみ上げてきます。


<転載終わり>


以上の記事の続編記事 ↓ 必見です。

☆bebeさんへ
http://ameblo.jp/mtkyc/entry-11679846725.html



管理人

元々、福島の人達を助ける意思が無いのは分っていました。
福島棄民政策が堂々と行なわれたことを誰も知らない
とは言わせません。
金が無いからだそうである。
しかもその挙句、復興予算は利権屋によって食い物にされた。

金はあります。
安部総理は、紙屑同然の米国債を5兆円買い、しかも更に、
米国の為に50兆円を用意すると公言しています。

そんなお金があるのなら、
何故、福島の子供たちを助けないのか!
何故、多くの福島県民の為に使おうとしないのか!
その理由は、極めて明快です。

米国は、日本のお金は自分達のものだと思っています。
日本の主だった政治家や官僚は、彼らの道具に過ぎませんし、
実は、彼らは日本国民の最大の敵なのです。
日本国民の真の敵が、実質的に今の日本を支配しています。

しかもそれだけではありません。
彼ら、売国政治屋や売国官僚どもは、人口削減を指示されており、
それを忠実に実行しているのです。
食べて応援なんてのは、その典型的な一例です。
マスコミは、最もタチの悪い共犯といえるでしょう。

放射能汚染地帯に住まわせて、線量計を子供や大人につけさせる
国が一体どこにあるというのか!
酷い、あまりにも酷過ぎる・・・
その事実が、何故、国民に理解出来ないのだろう!?

いずれ近い将来に、被爆症状が多発して来ると懸念されます。
その時の為に、国民病だと刷り込んでいる訳です。
被爆した市民が医者に行ったら、レントゲンなどの証拠を
残すなと指令が厚生省から出ています。
裁判で不利になるからです。
彼らにとって不利な判決が出ると、訴訟を起した原告に
多額の賠償を払わなければならなくなります。
彼らは、国民の為にお金を使いたくないのです。
それが真相です。

日本の血税は、米国と官僚組織が山分けって寸法です。

そして、原発利権は如何なることがあっても死守する!
国民が数百万人死のうが関係ないって腹積もりでしょう。

まことに残念ではありますが、それが真相です。

それともう一つ、保健所から出されている子供達洗脳用の
資料は大ウソばかりです。
その一つを説明します。

自然の放射線と原発からなる人工の放射線は同じだと説明して
いますが、まるで違います。
元々、自然放射能に対して耐性があるから生き残って来れた訳です。
しかも、これらは体内では蓄積されないのです。

原発からなる放射線は、超微粒子の放射能物質なんです。
それらを吸い込んだり、飲み込んだら体内に蓄積します。
それだけではありません。
プルトニュウムは、4000万分の1グラムを肺に吸うと
確実に肺ガンへと発展します。
日本国民を全滅させるのに、角砂糖6個分あれば足りると
云われているほど恐ろしいものなんです。
こんなものが、安全である訳がありません。
プルトニュウムやストロンチウムは、セシウムの数百倍も
危険な核種なのです。
こんな事は、説明すれば子供にだって分かります。

いずれ、次々と倒れていった場合を想定して
今から、洗脳をしているというのが真相です。
無論、子供たちだけではなく、寧ろ、親達が本命でしょう。
あなたたちがガンになったとしても国民病なんだから
文句は言いなさんなと・・・

これを指揮している大元は厚生省に間違いありません。
保健所は厚生省の管轄下にあります。
厚生省を実質支配しているのは、人口削減委員会です。
その事に気づかない人があまりにも多過ぎます。

子供に絶望を教えるより、希望を伝えなければいけません。
それが、国としての本来の役目なのですから。
福島の親達は、何故、目を覚まさないのか!
今なら、まだ間に合う可能性があるというのに・・・





皆さん!
是非、これを目に焼き付けておいて下さい!
http://ameblo.jp/64152966/entry-11330554317.html




福島の子供を護らない代わりに送られてきた積算線量計
http://ameblo.jp/64152966/entry-11393803274.html


拍手

長いものには巻かれろ主義の国民

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」から転載。
さすがにプロの物書きらしく、面白く、警抜な文章である。私のような素人の垂れ流す駄文とはレベルが違う。とは言っても、最近のプロの多くは素人以下だし、素人の中にも非凡な人は多いのだから、昔とは「プロの中の本物のプロ」の比率が違ってきた、ということだろう。科学者の中にも本物のプロは稀少だろうし、マスコミ人や政治家の中の本物のプロはほとんどゼロに近いことは多くの国民が今では分かっていることだ。まあ、利権政治家も、ある意味ではプロとは言えるかもしれないのだが、それはヤクザもプロだ、というレベルの話だ。だが、問題は、国民の側の話だ。
我々はこの国で行われる虚偽や悪事をすべて黙認してきたではないか。
それを今さら正義漢ぶって詰問し、些細な悪事や欺瞞を問い質すという、昨今の「食品偽装問題」の様相には、割り切れないものを感じていた人は多いはずだ。
些細な悪事や欺瞞だからいい、というわけではないが、それより巨大な国家的犯罪がこの国では明らかに進行中だというのに、マスコミは何をしているのか、という話だ。まあ、例によってスピンとかスピン・オフとかいう目くらましであろう、とは多くの人が感じているだろうが、善良なる大衆はこれまた例によって目を眩まされてしまうのである。
いや、目を眩まされているのではないかもしれない。多くの人は、分かっていて、斜めに眺めて冷笑しているのかもしれない。だが、それでいいのだろうか。それを永遠に続けるのだろうか。
「社会とはそういうものさ」という訳知りめいた「大人」が「空気を読んで行動する」社会が日本である以上、この国が変わることは非常に困難だろう。つまり、国民の自業自得、ということだ。もちろん、私もその国民の一人として、子孫にそういう社会を残してしまうことを謝罪しなければならないのだが。


(以下引用)


 わたくしたちが暮らしているのは、一票の格差が2倍を超える設定の選挙で国会議員を選出することを、もう何十年も放置している国だ。
 そういう意味で、わが国の平均的な国民の遵法意識は必ずしも厳格なものではないのであって、それらは、いまさら法が守られていないことに驚いてみせている人々のカマトトぶりと、好一対を為しているのである。
 われわれは、法が適正だからそれを守るのではない。
 処罰が厳格だから法を遵守せんとしているのでもない。
 多くの日本人は、「みんなが守っているから」という理由で法を守っている。
 であるからして、「みんなが守っていない」法律は、時に、軽視される。
 当然の展開だ。
 かかる観察を踏まえて、私は、この度の食品偽装の問題は、遵法精神や倫理の問題であるより、横並び思想の結果だというふうに考えている次第だ。

幸い、食品を偽装していた関係者は、一斉に表沙汰になることによって、是正の機会を得た。
 大変に良い機会だと思う。
 こういう展開になれば、われわれは、法を守れるようになる。
 これまで、不承不承に法を軽視していた人たちも、ようやく、正々堂々と法の内側で暮らせるようになる。
 そういう意味で、このたびのこの馬鹿げた事態は、大筋からすれば、望ましい展開なのである。
 おそらく、これから先何年か(あるいは何十年か)の間は、誤った表記を顧みない態度や、食材の生産地を偽ろうとするタイプの商売はカゲを潜めることになるはずだ。われわれは、「みんなが守っていれば」どんなにくだらない決まり事であっても、驚くほど律儀に守り通すことができる国民だからだ。
 焼香のマナーと同じだ。
 参列者は、線香の粒に畏怖の念を抱いてアタマを下げているのではない。
 単にみんながそうしているから、似た仕草をしているだけなのだ。
 同様にして、われわれが法を犯すのは、法を軽視しているからではない。国家権力に対して害意を抱いているからでもない。法の成り立ちに疑問を持っているからでもないし、その有効性を疑っているからでもない。うちの国の人間が法を守らないのは、多くの場合、「みんなが守っていないから」だ。
 国道を走ってみればすぐにわかる。
 制限速度を忠実に守っているドライバーはほぼ皆無だ。
 誰もが、10キロ程度は制限速度を超過したスピードで巡航している。
 と、こういう状況では、かたくなに制限速度を守る態度の方が、どちらかといえば忌避される。
 事実、遵法運転者は、交通の流れを阻害する混乱要因として、しばしば、周囲のクルマに無用なブレーキを踏ませる。
 だからこそ、ドライバー間で共有されている不文律の中では、道路交通法を字義通りに遵守することよりも、「周囲の運転者の円滑なドライビングを妨げない運転」を心がけることの方が重視されているのである。
 で、以下は、私個人の憶測であることをお断りした上で書くのだが、この「制限速度を10キロ程度上回る速度で走る」というわが国の運転者の間で共有されているアンリトン・ルールを、実は、交通警察の側も、ある程度は含み置いた上で交通の取り締まりをしている。

であるから、10キロ以下の速度超過で違反切符を切られることはまず無い。
 憶測ついでに、もうひと押し邪推を重ねるなら、行政側は、典型的なドライバーが、ある程度の速度超過をおかすことをあらかじめ織り込んだ上で速度規制を設定している。つまり、彼らは、60キロ以下で走ることが望ましいと考えられる道路には、50キロ以下の速度制限標識を設置することにしているのである。
 私は善悪の話をしているのではない。
 速度標識を無視することを推奨しているのでもないし、軽微な速度超過を看過している警察官の怠慢をなじっているのでもない。
 ただ、「そういうふうにして世間は動いている」ということを申し上げているだけだ。
 で、われわれの社会は、「そういうふうにして世間は動いている」という世間の人々の思い込みを上書きするべく運営されることになっている。
 ある日、新米の板前が板場に入ってくる。
 たとえ話だ。
 その厨房経験半月に満たないド素人の小僧が、ある日
「板長、これ、クルマエビじゃないっスよね?」
 と、尋ねたとしたらどうだろうか。
 板場にはどんな革命が起きるのだろう。
 彼は、シャープな質問をする切れ者のルーキーとして、板場の先輩たちの賞賛を浴びるだろうか?
 浴びない。
 断じて、愛されない。
「何言ってんだタコ助」
「出すぎた真似をするんじゃねえ」
「仕入れのネタを勘ぐるなんざ十年早い」
「空気読めクソガキ」
 ぐらいなことで、彼は、黙殺されるはずだ。
 というよりも、返事すらしてもらえず、包丁の背でアタマを叩かれて終わりかもしれない。
「いいか。おやっさんが峰で叩いたのは温情だぞ」
「なあヒロイチ。オレたちが心をこめてエビのカラを剥いて背わたを取るのは何のためだと思う?」
 親切な先輩が諭してくれたら、むしろ幸運な展開といえるだろう。
「ベトナム生まれのエビ君をクルマエビに変えてあげたいからだよ」
 とか。
 ともあれ、昨日今日やってきた新人が、長年にわたって板場で守られてきた伝統を打ち破ることは、不可能に近い話だ。
 では、ベテランの板前になら、それができるのかというと、もちろん簡単ではない。
 業界全体が、クルマエビでないエビをクルマエビと呼ぶことを常態化させている中で、自分たちだけが、「ブラックタイガーの黄金焼き」なんていう間抜けな一品をメニューに載せたら、なんのことはない、正直者だけが損をするデキの悪い寓話になってしまう。
 何年か前に読んだ『みんなのプロレス』(ミシマ社)という本の中に、テリー・ファンクが著者に語った言葉として、印象的なフレーズが引用されていたのでご紹介する。
「プロレスを見る上で一番大切なのは」
 と、テリーは言ったのだそうだ。
「サスペンション・オブ・ディスビリーフだよ」
 なるほど。
 Suspension of Disbelief
 なんと味わい深い言葉ではないか。
 直訳すれば「疑念を棚上げにすること」ぐらいになるのだろうが、テリーの真意に寄り添って思い切った意訳を試みるなら
「そこ、突っ込まんといてや」
 ということだ。
 トップロープからのニードロップの時に膝と反対側の足が先に着地してるんじゃないかとか、パイルドライバーで、頭頂部はマットに当たってないんじゃないかとか、そういう野暮なツッコミは、プロレスを殺す、と、テリーは言いたかったはずだ。疑う心は、レスラーに失礼なだけじゃなくて、興行主にとって災難だし、なにより観客であるキミ自身にとって自滅の道だよ。だって、自分がプロレスを楽しめなくなるじゃないか、と。
 厨房の人間も、似たようなことを考えていた。
「エビの本名とか、野暮なこと言うなよ」
「クルマエビだと思って食った方があんたらも気持ちが良いだろ?」
 しかし、プロレスの時代は、終わった。
 われわれは、ブラックタイガーとガチで闘わなければならない。
 おそらく、偽装の慣習は今回の一連のケースのように、「業界が足並みを揃えて謝罪会見をする」流れを経ずしては、決して根絶できなかったはずだ。
 なんとなれば、われわれにとっては、法が法であることよりも、法が守られているかどうかの方が重要で、誰も守っていない法は、誰も守ろうとしないからだ。
 われわれは「法を守ること」よりも「職場の秩序を乱さないこと」や「伝統を毀損しないこと」を重視することになっている。ずっと昔からそうだ。帝国陸軍も清和源氏もみんなそんなふうな人たちだった。
 だから、うちの国の集団に秩序だった行動を求めるためには、遵法精神に訴えるよりは、同調圧力に委ねたり、前例踏襲力学に訴えた方が適切だったりするわけで、もしかしたら、われらの遠い祖先はイワシかペリカンだったのかもしれない。

つい昨日、さる大学が校内で展開している禁煙キャンペーンのコピーが、ツイッター上でちょっと話題になっていた。
 コピーは以下のようなものだ。
《「金がない」とボヤく友だちに限って、タバコを吸っている。》
《卒業までに、空気の読める大人になろう。》
《マナーも守れない学生に、内定を出せますか。》
《カッコつけて タバコを吸っていた。 カッコ悪かった。》
 特に、二番目の「卒業までに、空気の読める大人になろう」が、集中砲火を浴びた。
 これは、タバコの煙で「空気」が汚れることを、「空気を読む」という21世紀の流行語に上乗せして表現したコピーで、技巧上は、なかなか凝った作品だと思う。
 ただ、大学側が、「空気の読める大人」になることを学生に求めているように解釈できる点が、ツイッター雀の反発を買ったようで、そう思って読んでみると、たしかに、いやな圧力がある。
 私自身は、コピーの出来不出来はともかくとして、この種の学内規則に類する事柄を広告代理店の手に委ねてしまった大学の姿勢に失望を感じた。具体的言うと、校内禁煙という方針自体への賛否は措いて、「規則」よりも「空気」で学生を動かそうとした点がどうにも気持ちわるいのだ。
「長いものには巻かれろ」
 ということわざの続きを、権力者の側から言い足すと
「すべての長きものは汝らを縛る捕縄なればなり」
 ぐらいのフレーズになる。
 実にいやな感じだ。
 日本中の少なからぬ数の厨房でエビが経歴詐称を繰り返すようになったのは、おそらくバブルからこっちのこの20年のことだ。
 こういうことが起きたのは、「前例」が「踏襲」されたからであり、板場の人々が「空気」を「読んだ」からだ。
 この先、われわれの国を誤らせるものがあるのだとしたら、それは、おそらく「法」や「イデオロギー」や「悪意」ではない。
 「空気」みたいな、一見なんでもなく見えるくだらないものが、人々に虚偽の申告を促し、あるいは沈黙を強制し、抵抗力を奪い、そうすることで、この国を後戻りのできない道程に導くことになるはずだ。
 そう思うと、たかがエビと笑ってばかりもいられない。
 エビの次は死。
 あ、これ、ABCのシャレね。ショボいオチですまない。
 空気読んで笑ってください。

(文・イラスト/小田嶋 隆)




拍手

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析