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「カラマーゾフの兄弟」第一回はどうだったか

「ドラマ@見取り8段実0段」というブログから転載。
うまい批評である。文章に芸がある。
私の就寝時刻はだいたい夜の6時から7時ごろ、つまりほとんど日没と同時に寝るので、「深夜」11時台のこのドラマは視聴不可能だし、テレビに録画機能も無いのだが、こうしたブログを読むことで大体の内容を知ることができるから、実に結構な時代になったものである。実は「純と愛」の進展も、こうしたネット記事で知ることが多い。それで、何回か見落としても、ドラマの進行についていくことができるわけである。
下記記事で読むかぎり、これは成功したドラマになりそうな予感がする。
第一回の段階ではグルーシェンカもスメルジャコフも出てきていないようだが、どういう俳優がどういう演技をするか楽しみだ。そして、一番の不安材料であった父親(フョードルと言ったか?)役の吉田鋼太郎はなかなか素晴らしい演技であったようで、安心した。彼の演技(殺されても仕方のない奴を演じられるかどうか)如何によって、このドラマを見る側の生理的好悪の念が左右されるという重大な役であったので、まずは一安心である。
しかし、自分で見てもいないドラマについてこんなに熱心に書く自分も何だかなあ、と思わないでもない。(笑)



*もしかして長男の同棲相手の遠藤加奈子とやらがグルーシェンカ役か? 同棲ねえ。それだと、父親との関係はどうなるのだろうか。原作では、先に父親の愛人であったというのがおおっぴらに知られているからこそ、その女に目くら滅法に惚れこむ長男の狂気的情熱や父親への殺意が際立つのだが、はたしてこのドラマはどうなのか。同棲相手とは別に、「グルーシェンカ」がこれから登場するのだろうか。





(以下引用)



【カラマーゾフの兄弟】 第1話 初回感想 【 ドラマ@見取り八段・実0段 】この記事に含まれるタグ :
カラマーゾフの兄弟 市原隼人 斎藤工 林遣都 高梨臨 松下洸平 渡辺憲吉 安藤サクラ 吉田鋼太郎 芳賀優里亜

【カラマーゾフの兄弟】 第1話 初回感想
↑ 2013/01/13 (日) カテゴリー: 2013年「カラマーゾフの兄弟」
そのとき、お父さんへの殺意が芽生えたのではないんですか?


殺意?
んなもん、もっと前からだよ。

…でも殺しませんよ。
   だって親ですから。


カラマーゾフの兄弟 第1話

   
 
原作はドストエフスキーの長い長い長い小説である。
学生時代に読んだ記憶はあるけれども、内容はそれほどくっきり覚えてはいない。

しかし、キャストを見た時点で犯人が誰だかは解っちゃっているので、
ネタバレしないレビューを心掛けたいと思います。(原作通りなら…ね)

そう、原作通りなら…キャスティングの妙を感じる…。
え、理由は言えないけど。


原作は、もっともっと宗教臭い話だった気がする…。

何せ、原作の三男は修道僧だ。
それをドラマでは精神科の医学生にするのね、そうなのね。
宗教世界を取っ払って精神世界に話を持っていくのは、日本の現代のドラマとして
上手い改変の仕方だと思う。

しかし、父上のご遺体は思いっきりキリストだった。


ストーリーは、事件後の取調室から始まり、事件前へと遡る。

長男・満の借金申し出…いや、遺産の生前贈与申し出を機に父親から「家族会議」
として招集された3人の兄弟。

長男・満は、放蕩息子で定職に就かず遊び歩いているダメンズ。斎藤工さんの定番とも言える。
原作でも兄はこんな感じのしょーもないダメンズなので、ほぼ合ってる。

次男・勲は、堅物の弁護士。イッチーには珍しい堅い職業かな…。
しかし、スーツ姿は決まっていた。落ち着いた喋りもハマってる。
原作では、もう少し厭味ったらしい感じ。

三男・涼は、医学生で精神科医を目指している。
繊細で優しく清々しく…のイメージが林遣都くんにピッタリ。
先ほども書いたけれども、原作では修道僧である。

刑事は3兄弟の誰かが犯人だと決めて尋問していく。
冒頭では3人がそれぞれスパゲティ・カレー・オムライス…と、お子様っぽいメニューを
食べている。しかも、警察で。


それにしてもよく食べられますよね。お父さんが殺されたというのに。

腹減ってんだからしょうがねえだろ。

何があったって人間、食べないと生きていけませんから。

黒澤文蔵さんは息子からさえ愛されなかったということですか。
烏目町の有力者でありながら周囲の誰からも死ねばいいと恨まれていた。

…そのお父さんを殺したのは、あなたですか?


その「愛されるはずもない」ような人格の父親を演じている吉田鋼太郎が、とにかく凄いわ。

黒澤の酒好き、金好き、女好き。

と、作中でも言われていたけれども、最低オヤジである。

二言目には「俺の金」「俺の金で教育を受けさせてやった」「俺の金は渡さん」。

子どもの頃の回想シーンではDV親父だし、子どもにも妻にも愛情の欠片もないらしい。

その結果、満の母は男と駆け落ちし、勲と涼の母は自殺した。

この慈悲深く優しい母を安藤サクラが演じている。これは新境地では~。

なのに、父の言う事が酷いんだよねーー。


あのな、お前たちにもこの際はっきり言っとくぞ。
俺の遺産をもらえると思ったら大間違いだよ!

俺はな、お前たちに1円たりとも残すつもりはない。
あのバカ女どもの血を引いたお前たちに俺の金をやると思うとむしずが走るよ。

特にあのくそ女!詩織だよ。

俺の家を血で汚しやがって!

手首を切って死んだ母親の部屋は血まみれだった。
それを悲しむどころか家を汚したと言い切るクソ親父…。

殺されて当然!
みたいなこの役を、本当に憎々しく演じている吉田鋼太郎さん。凄い。


そのとき、お父さんへの殺意が芽生えたのではないんですか?
と、刑事は聞く。

殺意?
んなもん、もっと前からだよ。

目が座っている満。


そして、

…でも殺しませんよ。
だって親ですから。


と、静かに言い放つ勲。

微笑みをたたえたような目で。
でも、決して笑ってもいないし、怒ってもいない。

それが不気味。


ここからEDに入っていくのが、何かカッコ良かった。

演出、上手いなぁ…そして、みなさんの演技も素晴らしい。


今時「カラマーゾフの兄弟」やるって、「Wの悲劇」みたいになるんじゃね…。
と、不安に感じていたんだけど、重々しい映像と演出で安っぽくないドラマに仕上がった。

BGMの選曲も面白い。


もう、とにかくドロドロと真っ黒な内容でカラスもバサバサ飛んでたりしますが、
「カラマーゾフ」が「真っ黒」のような意味なので、黒くて当然なのです。
「Paint It, Black」だよね。


なかなか面白かったです。
今期もこの枠は期待できそう。


原作:「青空文庫」にもありますよん。もちろん無料→「青空文庫/カラマゾフの兄弟」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

黒澤家当主・黒澤文蔵(吉田鋼太郎)は、海沿いの町・烏目町一帯に多くの土地を持ち
“クロサワ"という会社名で不動産業と建設業を営んでいた。
町の経済は“クロサワ"中心に回っており、町内で文蔵に盾突く者はほとんどいなかったが、
文蔵のビジネスは利益最優先の自己中心的な取引ばかりで恨みを買うことも多く、文蔵は
“クロサワの酒好き、金好き、女好き…"と町中で揶揄されていた。

その文蔵には3人の息子がいた。
前妻・梓との間に生まれた長男・満(斎藤工)と、梓が文蔵に愛想を尽かして出ていった後に
結婚した詩織(安藤サクラ)との間に生まれた次男・勲(市原隼人)と三男・涼(林遣都)。
長男・満は失業中の身で借金も抱えていたが、遠藤加奈子(高梨臨)と同棲しながらヒモのような
生活をしていた。
次男・勲は東京の一流大学法学部、法科大学院を卒業後、司法試験にも一発で合格して東京の
法律事務所で働いていた。
三男・涼は医大生で、寮で暮らしながら精神科医の道を目指していた。

そんなある日、文蔵が自宅の寝室で殺されているのが発見される。
死体はなぜか奇妙な形をしていた…。
間もなくして3兄弟は“文蔵殺し"の容疑者として連行され、刑事(滝藤賢一)から取り調べを
受けることになる。
刑事は、3兄弟それぞれに父・文蔵を殺す動機があることをつかんでいた。

それは文蔵が殺される2週間ほど前、黒澤家で開催された家族会議が発端だった…。

(あらすじは「Yahoo!TV」より引用)


よろしければ→【2013年1月期・冬クールドラマ何見ます?】ラインナップ一覧とキャスト表と展望






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「体罰」問題の基礎考察 (1月16日追記)

私の一生の思想的課題は、「この世から悪を無くすことはできないか」という質問に答を出すことだが、おそらく世間の99.999……%の人は、それは不可能だ、と最初から決め込んでいると思う。だが、私はへそ曲がりだから、全世界の人がこの問題を考えていけば、いつかこの世から悪を消せ、「地上の天国」が実現する可能性はある、と能天気に考えている。(私の少年小説『天国の鍵』はそれを扱ったものなので、お暇ならどうぞ。)
もちろん、これは悪の定義をどうするか、どの程度までの悪なら認容するかという「放射能基準値」みたいな部分があり、福島原発以後は「放射能基準値」を引き上げれば放射能被害は「無い」ことになる、というずるい手もあるのだが、まあごく常識的な範囲で「悪は、理想的な法と理想的な行政と理想的な社会道徳によってこの世から消せる」という解答を何とかして出したいと思っているわけだ。

さて、「体罰」は「悪」だろうか。
もちろん悪だ、と言う人が多いとは思うが、「体罰は必要だ」という意見の持ち主もたくさんいる。いわば「必要悪」という考えだろうか。それとも、積極的に「体罰によって根性が鍛えられ、選手としてのその後の成功にも結びつくのだから、完全に善だ」という考えだろうか。案外、スポーツ関係者には後者の考えの人が多いような気がする。だからこそ、スポーツの世界は「体罰社会」のモデルみたいになっているわけだ。
まだ私自身、体罰の是非についての最終結論は出していないが、その考察のための材料として、二つほど引用をしておく。

桜宮高校の「体罰自殺事件」について、

「引用1」は「ライブドアニュース」の自由人という人の記事の一節。どちらかというと「体罰容認派」のようだが、今回の桜宮高校の場合は、体罰ではなく「いびり」だ、という意見である。こういうように分析的な意見には私などすぐに、なるほど、と感心する傾向があるのだが、「ちょっと待てよ」と考えてみると、体罰といびりは、現象は同じであり、この論法で体罰を容認したら、いびりをする側が「これはいびりではなく体罰だった」と主張したら、すべて無罪になるのではないか。(1月16日の追記参照。予感が当たったようだ。)
むしろこのような「言葉の付け替え」で悪を容認する手法こそが悪を存続させる一因ではないかと思うので、その点だけ留保すれば、言っている意見自体には私はほぼ賛成である。つまり、「物理的な力の行使」によってしか制御できない悪が社会には溢れている、ということだ。だからこそ警察という「暴力装置」が社会には必要なのだが、暴力とは制御されない力のことだから、「暴力装置」は言いすぎか。問題は、この「装置」が実際には使う側の恣意によって悪の擁護機関にもなっているという現実である。もともと警察や軍隊自体が「体罰社会」の縮図のような部分もあるし。
なお、この自由人氏の文章の中で「しごき」は事例が不適切である。「しごき」は運動能力向上の目的で度外れた訓練を課すことだから、「試合に遅刻した」ことを理由とするなら、それは「しごき」ではなく「体罰」だろう。しかし、「体罰」と「しごき」と「いびり」という区分けを提唱したのは、今後の議論に非常に有益である。
「引用2」は「BLOGOS」の猪野亨という人の記事の一節。体罰否定論者のようで、記事全体はよくある意見なので省略するが、最後のこの部分は「体罰」そのものよりも「体罰社会」が問題だ、という、問題の根本を見据えた意見なので転載した。





(引用1)

毎度思うことながら、現在の報道を観ていると、なにやら「体罰」という言葉だけが独り歩きしているように感じられる。今回の事件の場合、「体罰という言葉を使用するのはおかしい」という比較的冷静な意見も聞かれるものの、では何がおかしいのかということになると、「暴力だ」「虐待だ」と言う意見が多いようだ。
しかし、肉体への体罰を「暴力」だとし、それが生徒を自殺に追い込んだ原因であるから体罰を禁止しなければならないと言うのであれば、少しお門が違っている。
暴力には、暴力を伴わない「言葉の暴力」というものがある。もし、今回の事件が物理的な暴力を伴わずに「言葉の暴力」のみで自殺問題に発展していた場合は何と言うのだろうか?
この質問に対して「体罰だ」と言う人はおそらく誰もいないだろう。つまり、今回の問題は「体罰」ではなかったということになる。
では何と言うべきなのか?答えは「いびり」である。
既に多くの人が述べていることだが、そもそも論として、「体罰」というものは、何か悪いことをした生徒に対して罰を与える行為を意味するので、単に試合に負けたとか、能力が足りないといった理由で生徒に暴力を振るうことは「体罰」では有り得ない。なぜなら、生徒を殴ったり蹴ったりしても、その生徒の能力が向上するわけではないからだ。こういう因果関係を無視した暴力行為は特訓的な意味合いの「しごき」にも該当しない。
いじめを行ったという理由で、
「顔面を平手打ち(ビンタ)」・・・・体罰
試合に遅刻したという理由で、
「校庭を100周走らせる」・・・・しごき
能力が足りないという理由で、
「生徒を殴る・蹴る」・・・・肉体的いびり
「生徒を罵倒する」・・・・・精神的いびり
簡単にまとめると以上のようになると思うが、教師が生徒に対して、その行為を行うことによって、事態の改善に繋がることであれば、体罰やしごきを特に問題視する必要もない。鼻血が出るとか骨折するような体罰や、健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題だが、通常の体罰であれば、有っても構わない…と言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だと言える。
例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がない。それは必要悪というものである。
まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないが、言葉で言っても解らない人間には、暴力をもって教えるしかない。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がない。
正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要だ。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきだ。
まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめによる自殺問題は更にエスカレートすることになるはずだ。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪であり、もう必要無いということになってしまう。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えない。
家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もない。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことである。
今回、自殺した生徒も、おそらくは多くのいじめ自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思う。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名のいびりが重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察する。
実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないだろう。


(引用2)


未だに根性論が蔓延っているスポーツ界。
学校現場で体罰禁止が一般的になる中で、まるで別世界です。
しかも、スポーツ界とは無縁の管理職や教員までもが黙って見ているだけという、いかにも日本的な風潮。
このような場合に、声を上げると必ず異端視されてしまうのですから、ただただ何事も起こらないように、あるいは問題が表面化しなよう、時だけが過ぎ去っていって欲しいと願う浅はかさ。
これは、もちろん体罰以外の組織内の違法行為についても言えることです。

今回の事件は体罰が問題なのはもちろんのこと、体罰という違法行為が蔓延していたのは何故か、体罰を擁護するような声が恥ずかしげもなく表明できるのは、どういうことなのかなど、検討すべきことは多々あります。

①体罰に限らず違法行為が蔓延し、しかも、それを指摘する声を、ことさら敵視し、かえってその声を押し潰そうとする社会のあり方そのものが問われているのではないか。

②体罰であろうと違法行為であろうと結果ばかりが求められはしていないか。そして、その結果さえ出せば、それに至った経緯などは不問に付されてしまってはいないか。

③そのような体罰という違法行為を擁護する声が大きくなりがちなのは、やはりその声にも同様に恫喝的な傾向があるのではないか。あるいは学校に限らず、職場、家庭などで暴力を容認する人たちが少なくないのではないか。








(1月16日追記) 「小田嶋隆ツィッター」から転載。私はもともとこの「ヤンキー先生」という奴は大嫌いだったんだが、その本性がここからも見えるようだ。だいたいが、この義家(元ヤンキーの元教師、現代議士)のように、自分の過去の悪事を「反省」してみせることで社会的に上昇できるという手段が社会的に許容されていることがおかしい。それなら、悪事は「したもの勝ち」ではないか。むしろ、過去の悪事が売名に利用されている。まあ、どの程度の「ヤンキー」だったかは知らないが。
バルザックの作品中の哲学的悪党ヴォートランの名言を借りれば、「美徳というものは切り売りできないんだぜ」、つまり、道徳的な意味では、一度なされた悪は取り返しはつかない、ということだ。法的な処罰とは別の話である。最初からそのつもりで生き、悪を遠ざけるのが世間一般のまともな人間というものだ。元ヤンキーであるだけで、すでに人間として終わっている、と見るのが当たり前の感覚だろう。
まあ、本人の人間としてのレベルの話はともかく、「体罰」と「暴力」を区別してみせることで結果的に体罰が温存されるという、この誤魔化しはよくよく注意する必要がある。
これもある種の「東大話法」「官僚話法」つまり、「詐欺的話法」として国民の間に周知徹底させることが必要だろう。




小田嶋 隆‏@tako_ashi

「体罰とは生徒へ懲戒として行われるものだが、今回は継続的に行われた暴力という認識を持つべきだ。物事を矮小(わいしょう)化して考えるべきではない」と言う義家文科政務官は、生徒を自殺に追いやった体罰を「体罰とは別の個人的な暴力」と定義することで、問題を矮小化している。




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

文科省の政務官は「体罰は暴力」と言うべき立場であるはず。だが彼は「体罰と暴力の線引きをすべき」と言っている。つまり両者は別のものだと。なんだこいつ。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』』 http://bit.ly/104083n




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

この人が強調しているのは「体罰≠暴力」ということ。体罰と暴力を切り分けることで体罰を擁護しています。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』 http://bit.ly/104083n







(1月17日追記) 「2ちゃんねる」から拾った記事だが、義家とは要するにこういう人物であるわけだ。
権力亡者のクズ人間だから、その自分の権力が無視されるとファビョる(発狂する、ヒステリーになる:もう死語か?)わけである。



(以下引用)


神奈川16区選出の自民党衆院議員で、
文部科学政務官の義家弘介氏が地元の神奈川県厚木市の成人式に出席した際、
比例復活した民主党議員より後に紹介されたため、
「民意を否定する話ではないか」などと同市に抗議していたことが16日、分かった。


義家氏の事務所によると、成人式は14日に開かれ、
国会議員は義家氏と民主党の後藤祐一氏の2人が出席。
司会者が後藤氏から紹介した。


義家氏の抗議を受け、厚木市は「担当課長が会場の司会者に指示を出さなかった。
二度とミスがないようにする」と回答したという。


選挙区内の伊勢原市などほかの自治体の成人式では義家氏が先に紹介されたという。
義家氏が成人式後に自身のフェイスブックで明らかにした。


義家氏の事務所は「与党議員で政務官に就いていることを重視してほしかった。
申し訳ないとの返事があったので、この問題は終わっている」と話した。


[2013年1月16日22時42分]
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20130116-1072880.html









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「カラマーゾフの兄弟」テレビドラマ化

おおっ、こいつは凄いぞ、と思ったが、夜の11時台では私は起きていられる時間帯じゃない。たぶん、見られないな。しかし、青少年の皆さんにはぜひ見てほしいし、原作もぜひ読んでほしい。あれほどの長編を読む「読書体力」は、年を取ると無くなるから、読むのは若いうちです。私は高校の図書館の本で、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」とトルストイの「戦争と平和」などは読んだが、あの読書の時間こそが人生最高の至福の時間であった。それにくらべると、現実の自分の人生なんて、何の輝きもない。それは当然の話でもあるのだ。現実人生には、何のドラマも無くて当然だし、その方がある意味では幸せでもある。ドラマらしいドラマとは、心を揺さぶる事件、つまり基本的には人間の不幸を前提としているのだから。ロミオとジュリエットも最初から周囲に理解されて結婚しました、ではドラマになるはずはない。
読書とは、現実人生よりも高次元の人生を我々の頭の中で体験させてくれるものである。
世界最高の作家の提供してくれる「驚異的な人生体験」が味わえるのに、それを知らないままで終わる人生なんて、私にとっては最悪の人生なのであり、ドストエフスキーとトルストイを読めるだけで、我々の平凡な人生は生きるに値する。
まあ、しかし、原作小説を読んで、読者各自が頭の中に創り出す世界とは違い、テレビドラマや映画は生身の俳優が演じるというだけで、もはやかなりな価値低下が起こるのは避けがたい。特に、日本を舞台にし、話も現代の話にアレンジするようだから、ほとんど「カラマーゾフの兄弟」の原案による二次創作ということになるし、二次創作がオリジナルのレベルに達することは、まず滅多に無い。オリジナルがハイレベルであればあるほど、二次創作は残念なレベルになるのは仕方のないことだ。
せめて、脚本や監督が才能のある人間であればいいな、と願うしかない。
虚淵玄あたりであれば、原作をうまくアレンジして別の傑作を作れるかもしれないが、脚本は誰が担当するのだろうか。
写真で見る限り、長男のミーチャ(ドミートリー)役らしい斉藤工は、なかなか下品さや情熱、野蛮な活力のありそうな感じの顔で、悪くはなさそうだ。次男のイヴァン役の市原隼人は、この顔でどの程度の哲学的知性と虚無性を演じられるか、不明。若い頃の仲代達矢なら文句なしだったのだが。三男アリョーシャ役の林遣人は天使的風貌かどうかは別として、まずまず端正な顔だちだから、これも悪くはなさそうだ。父親役にはもっと下品かつひねくれた風貌の役者が望ましいのだが、成否は吉田鋼太郎という役者の演技力如何だろう。昔なら、小沢栄太郎とか金子信男とか、こうした役柄にふさわしいバイプレーヤーがたくさんいたのだが、今の日本テレビ映画界の役者には不案内なので、誰がいいかは分からない。政界ならば、小悪党風貌の政治家は無数にいるのだが。(笑)
私が演技者なら、一番演じてみたいのは私生児スメルジャコフの役だが、卑屈さと高慢さ、鋭い知性と道徳的退廃を併せ持つ複雑な演技ができるのは、まあ松山ケンイチあたりだろうか。悪魔的雰囲気を持つ俳優はけっこういそうな気がするのだが。案外、お笑い界の人間は性格が悪そうだから、この役にぴったりなタレントも探せるかもしれない。
しかし、この作品のドラマの隠れたエンジンは父親と長男の二人に惚れられて、殺人事件のきっかけになるグルーシェンカという女性なのだが、妖婦性と純心さの二面性を表現できるレベルの女優は誰がいるのだろうか。記事では、グルーシェンカ役が不明であるし、スメルジャコフ役も不明である。
まあ、関西での放送があるかどうかも分からないのだが、ドストエフスキーファンとしては、詳細や先行きが知りたい話題である。


(以下引用)



注目ドラマ紹介:「カラマーゾフの兄弟」 ドストエフスキーの名作を市原隼人主演で映像化
2013年01月12日

連続ドラマ「カラマーゾフの兄弟」の会見に出席した(左から)斎藤工さん、市原隼人さん、林遣都さん、吉田鋼太郎さん
写真特集へ
 俳優の市原隼人さんが主演を務めるフジテレビ系連続ドラマ「カラマーゾフの兄弟10+件」が12日、スタートする。19世紀のロシア文学を代表する作家、フョードル・ドストエフスキーの最高傑作といわれる同名長編小説を、舞台を日本に置き換え映像化した作品で、同局のドラマ10+件枠「土ドラ」の第4弾となる。市原さんが同局の連ドラで主演するのは、04年の「WATER BOYS(ウォーターボーイズ)2」以来約9年ぶり。
 ドラマ10+件は、父殺しの容疑をかけられた3人の異母兄弟を中心に、不況、政治混迷、格差社会、教育問題、就職難、先の見えない若者たちといった現代が抱える影を描く。第1部では、事件の日に至るまでの兄弟一人一人の足跡をたどり、父への殺意の芽生えを幼少にまでさかのぼり浮かび上がらせる。第2部では事件当日を描き、第3部では取り調べから判決までの真相解明を描いていく3部構成の心理ミステリーとなっている。
 市原さんは、3兄弟の次男で、ストレートで司法試験に合格し、東京都内の法律事務所で働く若手弁護士の黒澤勲(くろさわ・いさお)を演じる。勲は理知的で理詰め、感傷を嫌うクールなニヒリスト。絶対的な支配力を持っている父に激しい嫌悪を抱いているという役どころ。また、失業中でヒモのような生活をしているいいかげんで夢見がちな性格の長男・満を斎藤工さん、医大4年生の三男・涼を林遣都さん、父親の黒澤文蔵を吉田鋼太郎さんが演じる。
 第1話は、ある海沿いの町で不動産業と建設業を営む黒澤家当主、黒澤文蔵がある日、自宅の寝室で奇妙な置き方をされて殺されているのが発見された。警察はそれぞれに殺す動機がある文蔵の息子たち、満、勲、涼の3兄弟に容疑者として任意同行を求め、取り調べる。警察がつかんだその動機とは、文蔵が殺される2週間ほど前に開催された黒澤家の家族会議が発端だった……というストーリー。
 ドラマ10+件は12日から毎週土曜午後11時10分放送。(毎日新聞デジタル)







(追記)


「カラマーゾフの兄弟」を読んでみたいが、その長大さに恐れをなしている人は、「徽宗皇帝のブログ」の「小説翻案」というカテゴリーに「カラマーゾフの兄弟」をわずか10ページ程度に圧縮した「業(カルマ)家の兄弟」というのがあります。もちろん、無茶な試みだが、そのエッセンスは味わえるかと思うので、お暇ならどうぞ。
(「酔生夢人=徽宗皇帝」より)







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体罰を容認する日本社会の狂気

「ライブドアニュース」に転載された秋原葉月の「BLOGOS」所載記事の一部である。特に注意したいのは、スポーツ部員や、そのOBによる体罰教師擁護や体罰容認論がなぜ存在するのか、という分析であり、これが自分のアイデンティティを守るための精神メカニズムから来ているという指摘は実に鋭いと思う。自らの過去を否定することは自分の存在価値を否定されることであり、それが耐え難いために、自らの過去の一部を形成していた体罰的指導までも容認するようになるわけだ。
そして、その体罰社会の根底にあるのが「絶対的上下関係」である。特に、スポーツ特待生などは、指導教師への反抗はほとんど自己の全存在を失う結果になるために、反抗は不可能である。指導教師への反抗によってチームから落伍した場合の家族からの非難、周囲の軽蔑を考えれば、精神的に不安定な年齢の青少年が自殺を選択することも当然ありうる。
当人が自殺を選んだことについて、「精神が弱すぎる」という批評をするのは、おそらく体罰容認派や体罰教師擁護派の人間だろう。また、「子供を支えてやれなかった家族に問題がある」という批評も同様の責任転嫁作戦である。こうした一見もっともらしい議論は、世間のB層にはなかなか有効なので、それが結果的にはこの体罰社会を延々と存続させているのである。
後で、元ジャイアンツの桑田による体罰全否定論を追加掲載する予定である。

もっとも、まだ「人間」になっていない幼児が危険な行為をした時に、お尻を叩いて教えるという程度の「体罰」は、これは絶対に必要であり、周囲に危害を与える青少年の不良行為には体罰どころか刑事罰が相当である。教師は、そうした不良行為が教室内で行われた場合には「体罰」よりも「教室からの退去」を命じるべきであり、それは即座にその生徒の親にも通告すべきである。そして、そうした行為が続くようなら退学にするのが当然であり、これによって「教室崩壊」は防止できる。それを社会的合意にすればいいのである。なお、「教室退去」については小田嶋隆の考えを参考にした。




(以下引用)






この事件に関するいくつかの報道を、末尾の[続きを読む]の中に記録しておきますので、よろしければ目をとおしてくださいませ。
顧問の教師は「気合を入れるため」に殴り、ほかの部員にも「発憤させるため」殴ったそうです。
悪いことしてないのに殴られるのが続いたら、心に傷を負って人格歪むのが普通です。
人倫に反する悪行をしたわけでもないのに、些細なことですぐに平手打ちが飛んでくるのが常態になってるって、ホントに70年前の日本軍を想起させます。
こんなのは断じて教育ではありません。「調教」といったほうがいいかも。

しかし、父兄や卒業生の中にも「厳しい指導で手が出るのは当たり前」と、軍隊式のしごき、根性主義を良いことだと肯定する風潮があるのですね。ある意味とても日本的だと思います。


高2自殺 厳しい意見の一方、擁護する声も
日本テレビ系(NNN) 1月10日(木)19時27分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130110-00000049-nnn-soci

 先月、大阪市立桜宮高校バスケットボール部のキャプテンだった2年の男子生徒(17)が、顧問の男性教諭に体罰を受けた翌日に自殺した問題で、9日夜、保護者説明会が行われた。部活動での指導について、保護者から、疑問や要望など厳しい意見が次々と上がるなど、学校側の対応に不満の声が多くを占める中、擁護する声もあった。

 保護者「僕も卒業生。正直、僕らの頃はもっと厳しかった。先生だけの責任じゃなくて、親の責任だと思う。友達を作ることも大事ですし、そういう友達がいたら、手を差し伸べるように言ってやるのも親の役目。先生はこれからも大変だと思いますけど、頑張ってください。僕は応援します」

 学校側「謝罪するしかありません。今度こそしっかりとやっていきたいと思います」
「自分は理不尽な仕打ちに耐えた、もうこんな仕打ちはなくそう」ではなく「自分は理不尽な仕打ちに耐えた、だからおまえも耐えろ」というのは、日本の社会のありとあらゆる場面で見られる負の思考回路ですね。
それにしても、子どもを自死で失ったのに「親の責任」という言葉を出すのはちょっと酷くないでしょうか。
軍隊的しごき、暴力を肯定する人が被害者である遺族の親御さんを傷つけるような発言をするのは、軍事優先思考な人が沖縄で米兵に女性が暴行されても被害者の女性の方を責める傾向にあるのと共通しているな、と感じます。


「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-00000578-san-soci

桜宮高校の男子バスケットボール部顧問は、高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、16歳以下の男子日本代表チームのアシスタントコーチも務めていた。以前から体罰も含めた“熱血”指導で知られ、同部を全国大会の「常連校」に育てたという。
(略)
 顧問は平成6年4月から保健体育科教諭として勤務。学校での評判について、顧問を知る卒業生からは「先生がやってきたことは間違っていない」などと擁護する声も聞かれた。

 ある関係者は、顧問の指導方法について「いいチームをつくることで評価されているが、古いタイプ」と指摘。中高の運動部では「叱られ役」を意図的につくる場合があり、主将がその役になるケースが多いという。「強く叱ったとしてもフォローは絶対に必要。コーチもいたはずで主将がそこまで思い詰めていたことになぜ気付けなかったのか」と残念がった。
(引用ここまで)
全国大会の常連校にまで育て上げることこそ大事、そのためなら暴力だって許されるという教育を私は支持できません。(実際、体罰とチーム強化に因果関係があると思えませんし)
「叱られ役」を意図的につくる場合があり、主将がその役になる~こういう見せしめの生け贄を吊し上げるやりかたもチームが強くなるための必要悪だと納得してしまうようでは、残念ながら教育が失敗した事例だといえるでしょう。

生徒は部活を続けたかったら本当は全否定したい暴力の環境を受け入れざるを得ません。ですからそれをなんとか合理的に肯定しようとしてしまいます。
「先生がやってきたことは間違っていない」と教師を擁護する声が卒業生からあがるのは、そうやって自分が置かれていた環境を肯定しないと自分の三年間が否定されてしまいそうになるからだと思います。
で、その鬼のような先生がたまに優しかったりすると益々「ああ、ホントは良い先生なんだ」と先生を肯定する気持ちが強化されます。
これ、典型的なマインドコントロールですよね
そしてその肯定感をいだいたまま、何の疑問もなく暴力をふるう側に回る大人になる卒業生も出てくるでしょう。
こうして世代を超えて悪しき軍隊精神は伝統として継承されていきます。




中村 真美子@MAAMIK0


「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺(産経新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-… 暴力で支配された者たちは支配されてきたことを間違っていると否定出来ないのです。自己否定に繋がるので認めたくないのです。

2013年1月10日 返信
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ウサギ@nekotausagi


そう言わないと耐えた自分のアイデンティティが崩壊RT @KuroU_Usagi: そう言う卒業生と、現状の認識とのズレは何だろう?〓「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺(産経新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-…

2013年1月9日 返信
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学校は軍隊であってはなりません。自分の三年間を否定されるかも知れない苦痛と向かい合っても、間違っていると認める勇気を持つところから始めなくてはいけないと思います。
子供達個人個人の人格を尊重し民主的な教育をしなければならないはずのこの日本で、いまだに軍隊的スポ根的なしごきが横行する、そんな「悪しき伝統」はいりません。
以前、日本の企業は体育会出身の学生を好む傾向にあるけど、それは上からの命令に従順な傾向があるからだと書きました。
こんな悪しき伝統が生き延びているのも、日本の社会にニーズがあり、パワハラを許容する土壌があるからでしょう。
学校から体罰をなくすには私たち一人一人が、社会が古き悪しき価値観から脱皮する必要があると思います。
そして、もちろん先生一人一人も、子どもを独立した人格として尊重し、教育とは暴力と恐怖による支配ではないという民主的な価値観、教育観をしっかり学んで欲しいと思います。

ちなみに「このような悲劇を繰り返さないために、自分が学校から体罰を無くします!」とは絶対言わないんですよね、橋下市長は。
そりゃ、言わないでしょう、だって体罰の背景にあるものはまさしく「子どもは所詮、恐怖心でしかコントロールできない」「教育は20000%強制」という橋下氏の教育観なんですから。
軍隊しごき式経営のワタミ社長を教育アドバイザーに打診するようなパワハラ市長が条例でもって直接陣頭指揮をとれるようにしても、体罰問題の解決など絶対に無理なのです。


おまけ




ひまわり(^o^)@meimi0814


「君が代条例」なんて作る位なら、「体罰禁止条例」を作る方がまっとうだろうが!!憲法にも学校教育法にも合致している。

2013年1月10日 返信
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げに。







(引用2)




「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ

朝日新聞デジタル 1月11日(金)20時51分配信



体罰について語る桑田真澄さん=11日午後、東京都新宿区、越田省吾撮影


 【岡雄一郎】体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。








 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。

 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。

 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。

 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも、肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。

 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。

 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。

 「練習中に水を飲むとバテる」と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。でも今、適度な水分補給は常識です。スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。

 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。
.
朝日新聞社








(追記) 以上を一言でまとめた名言を見つけたので、転載する。「笑点」なら「うまい、座布団一枚!」というところだ。これこそ伝統的スポーツ名門校の実態だろう。




殊能将之‏@m_shunou

殴られて指導された奴が殴って指導するんだよなあ






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「ちきゅう」の動きにご注意

縄文人(なわふみひと)氏のブログ(日記)から転載。
「カルマの法則」とか「サタンのシナリオ」という言葉を除けば、井口博士あたりが常々言っていることと一致している内容である。つまり、「3.11」は人工地震であり、その設定(海底への原爆埋設)をしたのが大型掘削船「ちきゅう」である、ということだ。
これは誰かが既に言っていることかどうかは知らないが、福島原発事故は、その海底原爆の放射能が検出された時に「ちきゅう」への疑惑が起こらないように意図的に起こされた小事故が、東電が頑なに福島原発廃棄処分を承認しなかったために思いがけない規模の大事故になったのではないだろうか。つまり、「3.11」首謀者たちは、東電首脳がそこまで阿呆だとは予測もしていなかったということだ。
「3.11」が人工的に起こされた地震と津波であったとして、ではその目的は何か、というと、日本経済を弱体化し、買取価格を底値にした上で日本企業を外資が乗っ取る、というところだろうか。それに加えてTPPもあるという二段構えである。もちろん、TPPも日本(企業)乗っ取りのための法的整備が第一の目的だと私は考えている。農業や保険や医療といった個別分野の問題ではなく、日本の「法」を無力化し、日本の国家主権を奪うのが最大の目的だ、ということだ。
だから私はTPPは「3.11」以上の政治的大津波だと言っているのであるが、前回の衆院選でそれを争点にできなかったのが「日本未来の党」「社民党」「共産党」などの敗因だろう。もちろん、表マスコミの圧倒的な情報支配力(あるいは不正選挙)の前に敗れたわけだが、それらの政党そのものも、なぜもっとTPPの危険性を声を大にして訴えなかったのか。
まあ、それはともかく、「ちきゅう」が紀伊半島沖の海底を掘削しているということは、かなり臭う話だ。下記記事に言うようにマスコミが「大地震が近いうちにやってくる可能性が高い」、と昨年ずっと大騒ぎしていたのは、西日本直撃の人工大地震をこれから起こすための布石と思われる。たしか昨年前半にその手の記事がやたらに週刊誌や新聞を賑わせ、現在は一段落しているが、だからこそ、「D-day」(これは死語か?)は近いのかもしれない。そして、それが起こったら、「ほら、我々はちゃんと警告していたでしょう」と言うわけだ。
私は、「首都圏大地震」の話がマスコミを賑わしていた時は、これは関西遷都の布石だな、と思っていたが、遷都の話は立ち消えになっている。その後「南海トラフ」がどうのこうのという話が出てきて、これも全週刊誌的話題になった。つまり、意図的に操作された話題である。誰も意味の分からないような「南海トラフ」の話に、全週刊誌が一斉に飛びつくこと自体がおかしいではないか。そして、現在は大地震の話がマスコミから消えている。そして「ちきゅう」は伊勢半島沖をせっせと掘っている。
というわけで、関西の(あるいは東海地方もか)太平洋側に住む人々は、井口博士ではないが、「備えあれば憂いなし」の気持ちで、これから半年乃至1年くらいは日々用心しながら暮らすのがいいかと思われる。まあ、べつにびくびくしろというのではない。どうせ人間誰でも一度は死ぬし、一度しか死なない(笑)のだから、いつ死んでも悔いの無いように生きればいいだけだ。





(以下引用)



● 次の人工地震は東南海地震になる?  2013年1月7日(月)

  サタンのシナリオの一環として我が国を対象に実施された最近の事件といえば、やはり東日本大震災ということになると思います。この地震と津波および原発事故が人工的に実施されたものであることを、私は確信していますが、ほとんどの日本人は偶然起こった自然災害だと思っていることでしょう。「人工地震なんかであるはずがない!」と、ご自身のブログで断言している人までいるくらいです。しかし、「人工地震ではない」という理由はまったく述べられていません。要するに「そのように考えたくない」ということでしょう。
  人工地震ということにしますと、それを仕組んだ人間とその目的を特定しなくてはなりません。誰が(どのような勢力が)、何のために、日本に対して人工地震を仕組んだのかについての証明が必要となります。しかしながら、あのような大規模な災害を人工的に引き起こせる連中が、その証拠を残すようなことは考えられません。
  実際、アメリカの「9.11」などのように、どうみてもアルカイダの犯行とは思えないものでも、それをでっち上げ、マスコミを操作してアフガニスタンへの侵攻を正当化できる連中のやることです。日本の政府を黙らせ、東日本大震災は自然災害だというアナウンスをさせることなど朝飯前なのです。地震後すぐに日本を訪れたアメリカのクリントン前国務長官が、そのことを元首相の菅さんに釘を刺しに来たのだと、私は見ています。
  このことの説明も必要だと思いますが、皆さんが最も知りたいと思われるのは「では、次の人工地震は計画されているのか」ということではないでしょうか。このことについて私は「東南海地震がすでに準備に入っています」と答えざるを得ません。

  その第一の理由は、東日本大震災後におけるマスコミの地震や津波に関する報道姿勢です。政府や政府関係機関からのアナウンスを受けて報道されているのはわかりますが、最近では津波を伴った大地震や首都直下型地震の発生は避けられないといったトーンの報道が相次いでなされています。実際にそのような巨大地震が起こっても、だれもそれが人工地震だとは思わないように、周到に国民を洗脳しているとしか思えないような報道姿勢です。それを受けて、地方の行政や各企業では、BCPと銘打って震災後も事業を継続できるようにするための様々な対策が打たれています。
  日本の社会全体が、巨大地震と津波を想定しての準備を着々と進めているのです。私が力説してきたカルマの法則からすれば、まさに震災を生み出すエネルギーが異次元に急ピッチで蓄積されつつあると考えられます。そして、対策が完了し、人々の関心が地震や津波の襲来から離れてしまったころ、(それはもしかしたら、自民党の安倍政権のもとで始まったこの国の第二のバブル景気の中で、多くの人が再びお金の魔力に翻弄され始めたころ)、それに冷や水をかける形で、津波を伴う巨大地震の引き金が引かれるのかもしれません。
  私の言う「サタンのシナリオ」では、この国の崩壊にとどめを刺すという最後の手段が間違いなく準備されていると思うからです。その最後の手段となる物理的な処置が、首都直下型地震と東海地震、東南海地震、南海地震になるのではないかと見ています。
  そんな矢先、先の震災後長い間東京湾の付近で掘削作業を続けていた「ちきゅう」が、今度は南海トラフで掘削作業を始めているというニュースが新聞で報じられたのです。
  それも、日経新聞の「SUNDAY NIKKEI」という欄で、下の写真のようにイラスト入りでかなり目につく記事になっていました。

         

  地震の巣 南海トラフ掘る
  掘削船で地殻変動解明へ

  東海沖から日向灘にかけての「南海トラフ」は、地震の巣だ。内閣府は最大マグニチュード(M)9.1の地震が起き、32万人が亡くなる可能性があるとの想定を公表した。ここで地震が起きる仕組みを解明するため、海洋研究開発機構の大型掘削船「ちきゅう」が空前の作戦を進めている。暑いベールに包まれた巨大地震の正体を突き止め、防災に役立てられるのか。

  紀伊半島沖の熊野灘。海原に全長210㍍の船体が浮かぶ。船上には海面区から高さ121mにも達する掘削装置のやぐらがそびえ立つ。水深2500mの海底まを7500mまで掘削できる能力は世界最高だ。
  (中略)
  南海トラフでは2007年度から断続的に調査を続けている。海底の断層や周辺をドリルで貫き、穴の底から岩石を採取。堆積物や岩石の種類からはプレート境界面の滑りやすさや圧力がわかる。地震や津波の規模や発生期を特定したいと研究者らは意気込む。
  10月1日から、紀伊半島沖の熊野灘で掘削を始めた。調査は昨年1月以来。
  来年1月13日までに海底下3600mまで掘り下げる。来年度には海底下約5200mまで掘る計画だ。
  「ちきゅうは大学の研究室に匹敵する実験室を備える」(海洋気候の東垣地球深部探査センター長)。海底から引き上げた岩石は船上ですぐに写真を撮影。設備がより充実した陸上での解析に向けた準備に入る。帰港後に岩石の成分や土中の微生物を調べる。
  南海トラフでは直近の100年間でM8級の昭和東南海地震(1944年)と昭和南海地震(46年)が津波を伴って起き、それぞれ1000人以上が亡くなった。1707年には、東海、東南海、南海の3領域が連動し、西日本最大と言われる宝栄地震(M8.6)が起きた。M9級地震が起きる危険性もある。
  これだけのエネルギーを蓄える地震の巣への潜入が14年度以降の作戦だ。ちきゅうが開けた穴の底に地震計や傾斜計をおろし、巨大地震の兆候を観察する。うまくいけば地震や地殻変動をその場で見届けられる。
  (中略)
  調査の最終目的は防災だ。東センター長は「東日本大震災せを予測できず、悔しい思いでいっぱいだ。従来の地震学に加え、掘削調査の地学的な知見を防災に生かしたい」と力を込める。地震や津波を多方面から調べることで、救える命が増えるかもしれない。

  この記事の言っていることを要約しますと、いまマスコミ等でしきりに話題にされている東海・東南海・南海地震の発生に備えて、地震の巣である南海トラフを莫大な費用をかけて掘り進み、岩石を掘り出して微生物等の調査をすれば、多少は救える命が増えるかも知れない、ということです。そして、「ちきゅうは今日も海底を掘り続ける」と結んでいます。

  「ちきゅうの掘削エリアが東日本大震災の震源地とぴったり一致していた」という情報がネット上で広がっているため、その疑念を打ち消す目的で、最近では完全にある筋のコントロール下にあると思われる日経新聞が、提灯持ちの記事を書いたとしか思えない内容です。
  ちきゅうの持つ世界一の深海掘削技術を駆使して、海底の岩石を掘り出し、微生物の調査をしているというのです。さすがに、「これで地震の予知ができる」などというでっち上げの記事は書けませんので、「地震や津波を多方面から調べることで、救える命が増えるかもしれない」といった弱々しい表現で、ちきゅうの動きを正当化しようとしているのです。なんのニュースバリューもない記事と言わなければなりません。
  この「ちきゅう」のことに関しては「東日本大震災 ちきゅう」でネットを検索していただけば参考になる情報が得られますので、ぜひご覧になってください。
  要するに、海底に穴を開けて、そこに時限爆弾(原爆?)を埋め込み、それを同時に爆発させることで複合津波を引き起こそうとしていると考えられるのです。東日本大震災の津波が想像を超える高さまで達したのは、3つの地震が同時に起こり、日本列島に向かう津波がぶつかることでその勢力を高め合った結果だと見られているのです。ですから、津波は日本列島だけに押し寄せ、ハワイ諸島やアメリカ西海岸などには何の被害も及ぼさなかったのです。
  いまそのときと同じ形で、今度は日本の工業の中心とも言える太平洋ベルト地帯を津波によって壊滅させようという計画が、文字通り水面下で進められている、というのが私の見解です。






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「現代の古典」を大切にしよう(付:「レ・ミゼラブル」のこと)

何の気無しに自分の書いた過去記事を読み返していたら、2010年4月27日の記事で美輪明宏の「ヨイトマケの唄」のことを書いてあったのを見つけた。
我ながらいいことを書いているし、なかなか先見の明があるではないか、と思ったのだが、世間に埋もれているいい物を発掘紹介するという行為は、これは社会への貢献の一つではないだろうか。
このついでに、書かないでいると忘れそうなことを今書いておく。

今の日本は娯楽が消耗品化していて、大衆芸術の優れた作品が生まれても、わずかの間に記憶から消えていくことが多い。これは悲しむべきことであり、無数のゴミ作品の中にある宝石のような名作を、「現代の古典」つまり、永遠に残し、次代に伝え、世界に広める作品としていくべきだと私は考えている。
「魔法少女まどか☆マギカ」などはそうした作品の一つであり、私はこの正月、それをDVDで再見して、感動の涙で充実した時間を過ごしたのであった。
ほかに、「デス・ノート」実写版の第一巻の海賊版がユーチューブで見られたのも思いがけないお年玉であった。ついでに海外の「デス・ノート」ファンの作った動画なども面白く見た。この「デス・ノート」(原作漫画、実写版映画、アニメ版、それぞれに良い。)や「まどか☆マギカ」などが、私の考える現代の古典だが、日本ではこれらが「オワコン」(終わったコンテンツ)扱いされていなければ幸いである。

なお、昨日は偶然に時間の都合がよかったので、映画の「レ・ミゼラブル」を見たが、評価は微妙だ。力作だし良心作だが、セリフを全部歌にしたために曲に時間が膨大に使われ、ドラマがかなり薄くなっている印象である。もちろん、「民衆の歌が聞こえるか」が歌われた時には涙が流れそうなくらい素晴らしかったのだが、全体としては、ミュージカル耐性の無い人にはかなり辛い作品だったかもしれない。そして、原作のデティールの味わいは、わずか数時間の映画で表すのはもちろん不可能であり、映画を見ただけでこの作品を理解したつもりにはならないほうがいい。(追記:ネットでの感想を見ると、大絶賛が多く、年末にこのブログで自分では未見のこの映画をお勧めした責任上、少しほっとした。現在、この映画は大ヒットしているようだ。)
実は昔の良心的アニメ番組「ハウス家庭名作劇場」(と言ったと思う。「フランダースの犬」や「赤毛のアン」などの秀作や「トム・ソーヤーの冒険」「足長おじさん」などの愚作が混在していた。もちろん、原作ではなく、アニメとしての愚作ということだ。)の末期に作られた「レ・ミゼラブル(少女コゼット)」は、原作の優れたアニメ化であり、女性キャラが幼稚な少女漫画絵であったために内容も低レベルと思われているが、内容自体は実に見事に原作の精神を伝えている。稀有なアニメ化の一つである。機会があれば鑑賞することをお勧めする。









(以下、私自身の過去記事の再掲載)









ヨイトマケの唄

  (父ちゃんのためなら エンヤコラ
  母ちゃんのためなら エンヤコラ
  もひとつおまけに  エンヤコラ)


1 今も聞こえる ヨイトマケの唄
  今も聞こえる あの子守唄
  工事現場の昼休み
  たばこふかして 目を閉じりゃ
  聞こえてくるよ あの唄が
  働く土方の あの唄が
  貧しい土方の あの唄が

2 子供の頃に小学校で
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙に暮れながら
  泣いて帰った道すがら
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

3 姉さんかぶりで 泥にまみれて
  日にやけながら 汗を流して
  男に混じって ツナを引き
  天に向かって 声をあげて
  力の限り 唄ってた
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

4 なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってはきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も忘れ果て
  帰って行ったよ 学校へ
  勉強するよと言いながら
  勉強するよと言いながら


5 あれから何年経ったことだろう
  高校も出たし大学も出た
  今じゃ機械の世の中で
  おまけに僕はエンジニア
  苦労苦労で死んでった
  母ちゃん見てくれ この姿
  母ちゃん見てくれ この姿

6 何度か僕もぐれかけたけど
  やくざな道は踏まずに済んだ
  どんなきれいな唄よりも
  どんなきれいな声よりも
  僕を励ましなぐさめた
  母ちゃんの唄こそ 世界一
  母ちゃんの唄こそ 世界一


  今も聞こえる ヨイトマケの唄
  今も聞こえる あの子守唄
  (父ちゃんのためなら エンヤコラ
  子どものためなら エンヤコラ)


丸山明宏、現美輪明宏の「ヨイトマケの唄」である。この中に出てくる「土方」という言葉が放送禁止用語であるために、この唄をマスメディアの中で聞くことはできない。これほど倫理観にあふれた高潔な歌が放送禁止歌であるということに釈然としない気持ちになるのは私だけではないだろう。
丸山(美輪)明宏はオカルトチックなところは敬遠したくなるが、作詞家としての才能、歌手としての才能は大変なもので、彼が訳したシャンソン「アコーディオン弾き」の歌詞は大傑作である。一度、聞いてみると良い。

現在の日本では、マスメデイアの中でシャンソン、カンツォーネなどを聞く機会がほとんど無い。ずいぶんいびつな音楽状況だと思う。これによる若者たちの「機会損失」はずいぶん大きいだろう。本当に良いものを知らず、ただ日本国内とアメリカで生産される文化の中だけで生きているのである。いわば、文化的鎖国の状態ではないか?

酔生夢人
2010-04-27 08:49
随想(ノンジャンル)
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(付録)アニメ「レ・ミゼラブル」のネット評価。肯定論否定論区別せずに載せておく。子供が見ても大人が見ても楽しめるアニメだが、親が子供と一緒に見て、人間の善悪や、優れた人格とは何か、社会の不合理や悪と戦う勇気などについて話し合うのもいいかと思う。






作品紹介(あらすじ)

■ 名劇№24 ( 全52話予定 ) ■


人は何の為に生き、何の為に愛するのか…
心の暗闇を照らし出す美しい魂の輝き。

革命のパリ、ジャン・ヴァルジャンを追い続ける冷酷なジャベール警部からの手に汗握る逃亡、
情熱に燃える青年マリユスと成長したコゼットの美しい恋の物語。

幼いコゼットを連れパリからやってきた母・ファンティーヌは、仕事を探してモンフェルメイユ村までやって来ました。

[詳細]


放送:BSフジ (CSチャンネルでも放映予定) 配信:BIGLOBEストリーム


原作

ビクトル・ユーゴー 「レ・ミゼラブル」より



監督

桜井弘明



脚本・シリーズ構成

金春智子



キャラクターデザイン

渡辺はじめ 吉松孝博



美術設定

伊藤主計



美術監督

中村光毅



音響監督

早瀬博雪



音楽

松尾早人



アニメーション制作

日本アニメーション


[詳細]


日本 開始日:2007/01/07(日)


公式サイト
1. 世界名作劇場「レ・ミゼラブル 少女コゼット」







【良い点】
話の内容がよくできている

【悪い点】
絵が他の名作劇場シリーズと違って今風すぎる。昔の平凡なシンプルな絵の方が親しみやすかったと思います。

【総合評価】
昔から好きだった名作劇場シリーズが復活して期待していた作品でした。最初は絵がどうしても苦手でしたが、見ているうちに気にならなくなりました。
絵でこの作品を判断されている方、多いと思いますが、この作品は本当に面白いです。
中盤、少しダラダラした展開になるところがありますが、革命前辺りからなんかは、夢中になりました。

全体的に飽きないストーリーで、序盤は見るのも辛い展開だったのが本当に終わりの方では、悲しい出来事なども多くありましたが見ているだけでこちらも幸せを感じるほどのハッピーエンドだったと思います。

また、他のレ・ミゼラブルと違い、コゼットを主人公にしているのもこのアニメの特徴です。

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2012/02/13

BSの民放で放送された作品なので知名度はかなり低い作品だと思います。かく言う私も本放送時は全く知りませんでした。
絵柄はかつてやっていた名劇のそれとは大きく異なり、いわゆる現代風の萌えアニメ的な感じです。ですが、内容は本格的な
名劇作品であり、多くの人々が織り成す見ごたえのある重厚な歴史アニメになっています。最初から最後までドラマチックな
展開が待っており、飽きることなく最後まで観ることが出来ました。また、作画のレベルも高く10年ぶりに再開した関係者の
意気込みが伝わりました。個人的に見て名劇の中でもトップクラスの作品であると思います。

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【総合評価】

原作は文庫版を既読で、少女コゼットは全話視聴しています。

ヴィクトル ・ ユゴー著であるレ ・ ミゼラブルと言えば、不朽の名作として有名な作品ですが、ミリエル司教様の素晴らしさが延々と書かれており、歴史的な事実説明や文化説明なども長く、また、話が前後したりしますので、読み易いとは言い難いかと思います。 勿論、不朽の名作と言われるだけあって面白いのですが、ユゴー爺さんの語りが長く苦痛に感じたりします。 勿論、これは個人的な感想ですので、読み易いと言う方も居られると思います。

本来はジャン ・ ヴァルジャンを主人公とした群像劇ですが、この作品はコゼットを主人公としているのが特徴だと言えます。 コゼットを主人公としたのは、世界名作劇場だからと言う理由かもしれませんが、時系列がスッキリしていて観易いと思います。

パリ編以降、コゼットの存在感が薄くなってしまうのは、「群像劇」 ですので許容範囲ではないかと思います。 そもそも序盤から、コゼット、ファンティーヌ、ヴァルジャン、ジャヴェールと複数の視点で描かれています。 この作品の視聴後に、何故、今までコゼットを主人公としたレ ・ ミゼラブルがなかったのかと不思議に思った程です。

コゼットを主人公としただけではなく、良い変更だと思える部分が多々見られます。 トロミエスを登場させず、コゼットの実父は死亡扱いとしたことで、ファンティーヌを母として持ち上げることに成功しました。 ヴァルジャン、マリウスがテナルディエに金銭を渡さなかったこと、オリジナルキャラであるアランが市長代理を務め、モントルイユ ・ シュル ・ メールが廃れなかったこと、ガヴローシュとシュシュの存在と結末、特にジャヴェールの結末の変更は素晴らしかったと思います。

原作では、コゼットはファンティーヌの記憶がなかったのですが、アニメ版では記憶がありますので、ファンティーヌが亡くなったことを知る話や墓参りに行く話など、多数の感動的なオリジナルエピソードが生まれました。 細かい部分を挙げればキリがない程、沢山あると思います。


気になった点と言いますか、トロミエスを登場させなかった為、コゼットをワーテルロー亭に預ける件の説得力が欠けることです。 時系列がスッキリした為、コゼットとファンティーヌの苦境が過去ではなく、現在進行形となっています。 それ故、コゼットをワーテルロー亭に預けたまま、一度も会いに行かなかった (本当は行けなかった) ことが、何故 ? と疑問に感じてしまう方がいるかもしれません。

特に黒硝子工場を解雇された時などは、良い機会だから会いに行けば良いのに…、と言った具合に、より顕著に感じてしまうのではないでしょうか。 まあ、モントルイユ ・ シュル ・ メールからコゼットの居るモンフェルメイユまでは、かなり遠いですので簡単に行き来は出来ないのですが…。 時代背景などの説明を、作中でするべきだったのではなかったのか ? と思っています。

また、六月暴動において、ABC (アベセ) の友のメンバーが次々倒れていく中、一滴の血も流れないのは拙かったのではないかと思っています。 如何に子供向けとは言え、まるで演劇のような雰囲気で優雅に人が倒れていく描写は、流石にどうかと思ってしまいます。 過度な表現は控えるべきだと思いますが、適切な描写をするべきだったのではないかと思っています。


OP ・ ED 共に良い曲だと思います。 どちらも最後まで曲も映像も変わりませんが、序盤の展開などを忘れさせない為、総集編のような役割を OP ・ ED の映像が果たしていたと思っています。 BGM も良く、作中でコゼットやガヴローシュが歌う 「魔法の子守唄」 は、切なくて、もう堪らないと言う感覚にさせられ、特に良かったと思っています。

雰囲気を壊さないように、A パート、B パートの展開に合わせてアイキャッチの音楽を使い分けているのも好印象です。 最終話が 「銀の燭台」 とは、何と心憎いサブタイトルでしょうか、制作サイドのセンスの良さを感じます。

好意的に観ると 「彼女は犬を愛した」 と言う一文から、「シュシュ」 が登場したのではないかと思えるのですが、恐らくは世界名作劇場の名物だから登場したのでしょうね。 しかし、この 「シュシュ」 はガヴローシュと共に、コゼットの苦境をマイルドにする効果があり、この作品には欠かせない存在だったと思います。

もう一つ世界名作劇場の名物と言えば、「食べ物が美味しそうに見える」 と言うのがありますが、この作品も例に漏れず、とても美味しそうに見えました。 ああ言うシチュエーションだからこそ、美味しそうに見えるのでしょうね。

「レ ・ ミゼラブル 少女コゼット」 是非、ご覧になってみてはいかがでしょうか。 原作未読の方は勿論、原作既読の方にも、十分満足の行く作品に仕上がっているのではないかと思います。

評価は 「最高」 とします。



[共感]
2012/02/13 本作への分析が非常に素晴らしいです。特に作品への魅力が引き出せており、私もリアルタイムで視聴しましたがこのレビューを読んで懐かしさが込み上げてきました。 by 墨汁一滴


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2009/06/30

原作は読んでません
絵は萌えというよりも、なんかカレイドスター思い出しました。キャラデザ的に。

1話1話がちゃんと作られていると感じた物語は言うまでもなく、声優の演技もかなりよかったですね
52話と長く楽しめるのもいいですね。
OPEDも良い曲です。EDはかなり好きでした

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2008/10/01

ジャン・バルジャンではなくてコゼットをメインにっていうのがこの作品のコンセプトであった筈であるが、そうでもなかったね。余り変えすぎても原作の原型を留めなくなってしまうし、それは名作劇場としても避けたかった所であろうから、しょうがないといえばしょうがないか。

映画やら舞台で散々視聴してきた作品なので真新しさみたいなのは全く無かったのも楽しめなかった要因であるのかな、他のレ・ミゼラブルと比較しても余り上手くいってなかったと思うし、アニメとしてもそれ程面白いと感じなかったっていうのがこの作品の感想である。

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2008/09/21

まず、私は、この評価をつけるにあたって、原作との比較は、なしにした。
【良い点】
opとedである。また、1830年代のフランスの状態を良く表していた。(ヨーロッパと違う表現などもみられたが)

また、よいシーンが多かった、心から泣けるシーンもあった。(あげるときりがないが)

最後に、私たちが生きている今にも考えさせるないようもふくまれていた。

【悪い点】
コゼットの主人公としての薄さ、後半の修道院のあとから、マリウスとジャンがほとんど主役になってしまったこと。

【総合評価】
本当は、文句のつけようのないアニメである。昨今のアニメでも、こんなストレートなのは、ないだろう。コゼットは、主役として、薄かったが、エポニーヌとの対決、母親に報告に行く話、ある程度の見せ場は、あったはずだ。最後にopとedの映像が変わって欲しかったのと時間の進みがわかりにくい感じがしたのは、残念だが、このアニメは、何度見ても良いアニメだと思う。

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2008/07/19

これ、途中から観たのですが
「運命の糸」を感じさせられるシンプルでピュアな物語。

その糸を乱すもの、たぐり寄せるもの、この二つがこの作品の大きなテーマの「人は変われるか」に結実している。昨今の作品ではなかなか真正面から描かれないもの。さすが長尺。さすが名劇。
作中で盗賊団の一人が「あいつらは俺たちには一生わからんものを知っているらしい」といったような事を口にしてましたが、そういうものが描かれている。ヴァルジャンを始め、エポニーヌやジャヴェールの結末もそうした意図に即したものに。

作中でコゼットが成長しているにも関わらず、バルジャンから幼いコゼットへ手が差し伸べられる OP、 幼いコゼットが母への想いを綴る ED は最後まで変わりません。そこには変わらんとする中で決して忘れることのない変わらぬ想い、という主張を感じます。

コゼットとマリウスが守られる存在であまり活躍できないのですが、二人には先人からの愛と恩恵を受け継ぐ者という役割が持たされている。二人の得た幸せは、平和な時代に生きる我々の幸せについて考え直してもらう存在に思われます。その意味ではコゼットが主役の位置付けになるのですが、物語としての主人公はやはりヴァルジャンでしょう。彼の一生を描き切ったのですから。
あと、ヴァルジャンの窮地を脱する知恵と経験が際立ってましたね。それと、やはり金の力は大きい、ということ。あの頃の馬車って今で言えば専属タクシーみたいなもので結構お代は高そう。

裏を返せば、この作品は「持てる者」へのメッセージ的色彩が強い。終盤はそうした色を出そうとするあまり引っかかるものを感じたのも事実(特にマリウスと彼の老父…彼らも変われてはいますが、その質は異なる)。
あと、多少近視眼的に見ないとつらい部分も。例えばヴァルジャンの警戒心やジャヴェールの彼への執着…それ自体は人物像として内容にきちんと役立てられていますが、状況との整合性が不自然でこじつけっぽく感じる所もしばしば。学生達の革命蜂起バリケード戦にしても同様。
原作は未読なのですが、人物は善人寄りに振られているようです。また、パリの街の描写もおそらく相当に口当たりが軽いものにされている筈。汚水処理とか。この辺の綿密さは原作とは比べるべくも無さそうですが、そもそもメディアも受け手層も異なりますし。

ただ、これはピュアな願いを伝える物語であり、そうした突っ込みをはねのける輝きは感じ取れるものでした。
名劇自体評価する尺度を持ち合わせていないですし、過去の名作群との比較では多少持ち上げ過ぎな気もしなくはないのですが、昨今では異色の存在という部分も加味して「とても良い」にしておきます。ランク付けは気が引ける、というのが本心。

(余談)
野暮な突っ込みなど入る余地もないくらい超絶ピュアな恋話…こいつには悶絶させられた。
何せ<花>通信ですからね。今の時代じゃ奥手も古風もいい所です。調べてみた所、中世の恋愛観は男性優位は無論のこと、特に上流階級では恋愛ドキドキは危険なものとして否定的な考えが支配的だったそうです。(だとするとマリウスがテナルディエの脅しに屈しなかったのも実は大変勇気の要る行為だった筈。)
んまぁ、マリウスでなくとも我々ボンクラはコゼットにイチコロですよ。そのぶん、女性層からは微妙に受け取られるのかな。名塚先生は偉大です。ファンは必見…義務ですよ、義務。

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[推薦数:1] 2008/07/17

世界名作劇場復活オメデトデス
実に泣けるSTORYだね。コゼット・・
こういうAnimeは久々だよ

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[推薦数:1] 2008/06/10

DVDで全部見ました。
世界名作劇場・復活記念作品という事で、期待していましたが…

復活最初の作品だからなのか、後に残した課題が多くあった気がします。
本作最大の問題点は何より、主役である筈のコゼットが空気であった事ですね。
元々原作の主役はジャンであった事も目立たなくなってしまった理由なんでしょうけど、特に終盤はジャンとマリウスだけで物語は成り立っていました。
コゼットがここまで目立たなくなったのは、原作を無視すると、個性のなさが最大の理由でしょう。
彼女に持った印象は正直、『ごく普通の女の子』。
ジャンに救われてからは悲劇のヒロインではなくなるし、ポルフィのような明るさ、無邪気さもない。
笑ってもどこか暗い印象。…そんな感じでした。
特にジャンに救われてからは、不幸でもなんでもなくなります。
コゼットは決して悲劇のヒロインなんかじゃない、というのが私の意見。
エポニーヌの方が作品における悲劇のヒロインではないのか、って思った程です(だから私は今でもエポニーヌの方が好きです)。
また、原作でもそうでしたが、コゼットとマリウスがくっつくのはやっぱり嫌でした。
だってマリウス、第三者から普通に見ればただのストーカーじゃないですか(^^;)
時代が違えば、彼は間違いなく犯罪を犯している事になります。
悲劇の最期を迎えたエポニーヌが最後まで救われないのが、本当に許せないんです。
ストーカーとごく普通の女の子が結ばれる展開は…共感得にくいと思います。
結局、コゼットは最終回直前に母の事を知る為に色々しますが、これがなければ本当に印象がないままでした。
それと、マスコットのシュシュに至っては完全にいらない存在。
名作劇場シリーズに動物は当たり前のようにいますが、シュシュは動物の役割を果たしているように全然見えませんでした。
最終回もジャンが主役のようでしたし。
何よりも『人は変わる事が出来る』という物語根本のテーマがコゼットにとって最後まで無縁だったというのも…

それから、主題歌にも難があります。
歌はとても良い曲です。名曲扱いしても全く問題ありません。
しかし…問題は映像です。
物語の途中でコゼットは成長するのに、映像は幼い彼女のまま。
それにもう一度言いますが、コゼットはジャンに助けられてからは不幸ではなくなります。
この辺が、作品らしさと非常に矛盾している気がします。
エンディングに至っては、コゼットの母・ファンティーヌは10話程で退場にも関わらず、そのまま最後まで『大好きよ、ねぇお母さん♪』ですからね…
もう少し作品の空気を読むべきではないかと(誤解のないように言っときますが、私、一応この歌好きですからね)…。

しかし、内容はとてもいい仕上がりになっています。
元々原作も長く、オリジナルが作りにくいからなのか、1話1話は重厚な仕上がりです。
名作劇場最大の特徴である、日常のあるがままの姿も忠実に描かれていますし、作品のクオリティはかなり高レベルである事は間違いありません。
近年はこのような1年かけて作るアニメはなくなってますから…かなり貴重です。
ガヴローシュやジャヴェールが最後には助かり、テナルディエが警察に捕まる展開はむしろ誉めます。
これも一応原作を無視している展開ですが、子ども向けアニメでは、このような勧善懲悪はある程度守らなければいけませんから…。

クオリティは高く評価しますが、細かい違和感をマイナスして、評価は限りなく普通に近い『良い』です。
本作が残した課題を、『ポルフィ』を始め、これからの作品が解決する事を願います。



[共感]
2008/10/15 第2段落と第4段落の指摘がとても的確です。原作通りで仕方がないのですが、この作品のヒロインはエポニーヌの方がふさわしい気がします。 by coinboard


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[推薦数:1] 2008/03/11

地上波からBSフジへ乗換え、10年ぶりの再開を果たした世界名作劇場の近作。
きっかり1年間、休みなく52話が定時に放映されたのは、BSデジタルのイマイチ浸透してなさ加減がもたらした恩恵かも(年末年始の特別編成やスポーツ中継の影響がほぼない)。

本邦においても馴染み深い「レミゼ」を原作通りオッサンの物語とするのではなく、養女となるコゼットの側から描いた点がまず評価できる。
これを見てしまうと、なぜ今までこういう翻案がなかったのかと思えてしまう(もしかするとアニメ以外の作品にはあったかもしれないが)。なにせ過去には主人公の性別を変えたことさえある名作劇場、この程度のアレンジはかわいいものだ。
絵柄はカレイドスターのまま、なんとも萌えキャラ然としたコゼットのインパクトは絶大。
そんなコゼットが成長し、マリウスと結婚して初めて本格的にジャンの過去(それこそがレミゼ本来の導入部)が語られる。
この倒置構成は、ジャンの人生の秘密といった趣を生み、彼のモノローグやジャベールとの因縁などに垣間見える断片から謎を解き明かす楽しみを、本作で初めてレミゼに触れた視聴者に与えた。
最終話に付けられた「銀の燭台」というサブタイトルの何と心憎いことか。

コゼット視点であるため、テナルディエ一家との関連性が強調され、後半での彼らの描写に奥行きと説得力が備わった。
それぞれが、あってもなくても大勢に影響ない一エピソードに埋没することなく、後々までリフレインされ、そのこと自体にも意味がある。
完結した小説を元にしているからこそ可能となる構成なのだろうが、と言って誰しもできる芸当でもあるまい。
学校に通えないコゼットが学ぶことの喜びを知るくだりは、パリ編でのジャンの学校建設という目標へと繋がっていく要点だった。
絵的には最も華やかだった修道院での暮らしは数話にとどまり、やや物足りなさを覚えたが、コゼットの結婚式で再び彼女たちが姿を見せてくれたのは嬉しい配慮だ。

エポニーヌのコンプレックスはひょっとすると視聴者の大半が抱いているかも知れないから、特に念入りに演出されていたと感じる。
微妙に揺れる感情を演じきった笹本優子の実力もあって、とりわけ成長したエポニーヌは秀逸なキャラとして完成した。
マリウスの部屋に少々強引に上がり込み、法律書(だろう)を開いてみても読み取ることができなかった彼女の、哀愁あふれる苦笑がたまらなく心をうつ。
「コゼットとエポニーヌ」は二人の最後の邂逅を桜井監督自らのコンテで物語った屈指の名編であった。

本作と原作との大きな違いはキャラの生死にある。
バリケードで撃たれ、原作ではそのまま息絶えたガブローシュが、アニメオリジナルの愛犬シュシュに救われる。
ジャベールは自殺することなく、かつてのジャンのように生まれ変わる道を選択した。それゆえクライマックスにおいてテナルディエの動向に決着をつけることができたのは大きな成果。
ここでもやはり、なぜ原作はそういう展開ではなかったのかと疑問が起きてしまう。単に価値観の差だと片付けられはしないと思うのだが…。

要所要所で改案・補足を実践してきた本作だが、疑問を覚える箇所もなくはない。
例えばマリウスに対し、コゼットとエポニーヌが一目惚れと相成っても、成就するのはコゼットである。
どちらかと言うと先にマリウスがコゼットにモーションを掛けていたのは事実だが、彼のエポニーヌに対する態度がどこかしら上流気取りに感じられてならない(それが演出意図かも知れないが)。
対比としてマブーフがエポニーヌを「妖精」と評した一連のシークエンスにすこぶる好感を抱くのは必然。
この愛すべき二人がバリケード最初の犠牲者となる運命は、過酷に我々に訴えてくる。
またアベセの友の蜂起についても、庶民の自由獲得という目的とバリケードという手段とが、どうしても結び付かない。ここはアニメなりの解釈があっても良かったのではないか。

ジャンの逝去をもって物語は完結したが、ジャベールとガブローシュが生き延びたことで新たな意義と希望が生まれた。
アランたちが建てた施設を「コゼットのお母さんの革命だ」と表現したガブローシュのセンスを真似るとすれば、本作は「レ・ミゼラブルの革命」と言ったところか。
「人は変わることができる。人類もだ」というジャンの提言は、それ単独では大袈裟に聞こえかねない。だが1年間に渡るこの物語を見届けたなら素直に受け入れられる。
原作を、名作劇場を、日本のアニメを、そして視聴者を、本作はどう変えることができたのだろうか?
たとえ市民が立ち上がらなかったとしても、革命が失敗したわけではない。



[共感]
2008/06/11 感嘆しました。 by せんぬき


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2008/01/20

【総合評価】

子ども向けアニメとは思えないほど、ていねいに原作に向き合っていたと思います。子ども向けゆえのさまざまなアレンジがあり、仮におとな向け番組という視点から見たとすると、そういった点は気になるものかもしれませんが、子ども向け番組としてみた場合には必要なアレンジをしつつ原作の中核を生かしたものになっていると感じます。
とくに、この原作は映画化されると、ともすると、ジャン・バルジャンの英雄譚にされてしまいがちで、市長としての活躍、逃走劇、地下下水道の場面などがジャンを中心に感動的に描かれるケースが多いのですが、このアニメでは、コゼットを主役にしたことによって、ジャン・バルジャンだけでなく、ファンティーヌやマリウス、エポニーヌなど、多くの「主役」が「脇役」に貶められることなく、生きたことが何よりもよかったと思います。とくにファンティーヌは、ほかの映画などでは「ジャンに助けられる哀れな母親」のようにしか描かれませんが、このアニメでは、身を落としながらも我が子との再会を希望に、正しく生きようとした母親のせつないまでのけなげな生き方が浮き彫りになっています。これこそ、ビクトル・ユーゴの描きたかった「レ・ミゼラブル」(惨めなる人々)の世界ですし、それが捨象されずに描かれたのは、ほかの映画版「レ・ミゼラブル」にはない優れた点だと思います。セリフには、その後のフランスの変化を感じさせる歴史的な視点が入っており、革命の敗北の物語であるにもかかわらず、明るい未来を予感させるつくりになっているところもいいですね。1832年の革命以降、フランスは48年の革命やパリ・モミューンを経験し、二度の大戦のあと、いまの生活者中心のフランス社会へと変遷を遂げますが、そういった歴史の中の一ページとしてこの作品を見ると、また違った楽しみ方ができるのではないかと思います。ユゴーはフランスの現代を知りませんが、アニメスタッフは革命のその後のフランスをよく知っているわけで、ファンティーヌたちの犠牲の上に、やがては保育所や学校がつくられ、社会保障が充実していくという歴史の流れを頭に置きながら作品を見ると、歴史の一断面を子ども向けに描いたよくできた作品だなあとしみじみと思ってしまいます。

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2008/01/04

まだ4話しか見ていませんが、一応コメントだけ残しておきます。

とりあえず、作画が今風になったことは別に気にしてないです。
名作劇場だって、少しは今風になってもいいと思いますし(ただ、ジャヴェールの悪人面したあの顔は…彼は本物の悪人ではないのですよ)。
ただ、内容がちょっと苦しいかな、と。
原作は今読んでいるところですが、かなり難しいです。
そんなアニメを、果たして子どもたちに理解することができるのでしょうか?
これはかなり製作するにあたってしっかり考えてほしいと思います。

それから、主人公・コゼットの個性が全然感じられないかな、と。
声もかなり浮いてますし。あの声、成長してもそのままなのでしょうか…?
これもどうなるか…こっちに関してはかなり不安の要素のほうが多いです。

子ども向けアニメとしてふさわしいのか、私としては『NO』な気がしますし、そこだけでも悪い寄りにしてもいいのですが…
名作シリーズの復活は素直にうれしいので、それをプラスして、普通寄りで。

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2007/10/21

名劇復活したんですね。
見ていないのでコメントだけ。

しかし絵面がまたえらい「イマ風」になりましたなぁ・・・(HPで確認)。
コゼットちゃんのお目々がおっきい。
「少女漫画絵」でないのが名劇のよさだったと思うんですが・・・
(細めの目が多かったので、作品によって作画が違うのに気付かなかった小さい頃)。
んでジャベールが極端に悪役っぽい顔なのが不満です。

それはさておき、「少女コゼット」という案は悪くないですね。
昔、岩崎書店から出ていた名作シリーズでは、アニメ同様「少女コゼット」となっていましたし。
子供向けにしようと思ったら、コゼット主役でもどうにかなるもので・・・
(ちなみに、他の子供向けの本では、前半ばっさり切ってマリウス主役になってたので、それに比べれば無理は随分少ない)。

何はともあれ、名劇が復活したのは嬉しいことです。
最初にやるのが、何で「レ・ミゼラブル」なのかは謎ですが・・・。

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2007/04/30

現在17話まで完了しました。オンエアにリアルタイムで付いていく作品は久しぶりです。
今年になって少々ヒマになったってこともありますが。
録画消化でも3話か4話で挫折することの多い私がこれだけフォローしているということで、つまり
現時点での感想は「素晴らしい ! 」です。もう手放しで褒めてしまいましょう。
作画はあまり気にする方ではないですが、この点も一貫して高いレベルで安定しており感心します。
さすが名劇の面目躍如といったところかと。地上波でないのが惜しまれます。

名塚コゼットの破壊力と名劇のネームバリューで観始めたのですが、ストーリーも十分に楽しんでます。
原作を読了していますが (とにかく大長編で大変でした・・・) そこはそれ名劇ですから
どんどん改変されるわけで、読んでいるから先の予想がつくとは言えません。
原作の冒頭はミリエル司教関連の記述が延々と続くのですが、本作ではザックリ端折られた(数分で終了 w )のが
少々呆気なかったなぁ、というくらいですね。
ファンティーヌの凄まじいまでの悲惨さが薄められたのは、まあ子ども向けアレンジとして妥当でしょう。
とにかく、どの年齢層でも、原作を読んでいてもいなくても楽しめる作品になっていると思います。
16話ではいい年こいて滂沱の涙・・・ベタベタな演出にすっかり乗せられました。

この先もっとも気になるのは、マリウスとは一体何者でどのように登場するのか、ですね。
当初、アラン (原作に登場しないオリジナルキャラ) とマリウスは同一人物なのだろうと思っていましたが
公式サイトの紹介文によればそうではない様子。しかし未だに同一人物説を捨てきれません。
アランはいい奴ですから、コゼットは何処の馬の骨ともわからないマリウスなんかよりアランとくっ付けばいい。
・・・なんて、単なる願望・妄想ですね。それもこれもコゼットが可愛すぎるせい。

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2007/04/11

可もなく不可もなくといったところ。
原作からすれば、随分削られた部分が多いのも世界名作劇場としては珍しい部類。

コゼットを主人公にしてしまった部分が凄まじい気がする。
返って原作とは異なったレ・ミゼラブルの新しいストーリーが誕生した。と評したい。

前半はとても直視できないような内容が多く、小公女セーラに匹敵するほどつらい内容だったが、
やっとそこから脱却し、少しずつ、「幸せ」という「永遠のテーマ」に近づいていくという視点から見れば、

不幸というテーマはあるものの、土から芽がでて息吹をあげて最後に花を咲かせるという王道のストーリーというコンセプトが成り立ち、見るものを引き立てる形になりそう。

今後、どういう内容になるかが見もの…。
最終的な評価は下せませんが、現時点では、"良い"で






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マグロの腹の中は真っ黒か

「ネットゲリラ」から転載。
これは明らかに政府による「景気回復」の小芝居演出のようだ。1億5千万の小芝居。(笑)
それで見ると官房機密費の額がどれほど巨大なものか、また政府の表支出に計上されない金がどれだけあるかも分かる。つまり、政府予算など虚構であり、実はまったくの丼勘定なのだろう。もちろん、これは「組織は上に行けば行くほど丼勘定になる」という「酔生夢人の定理」(w)によるものであり、下っ端役人はボールペン1本持ち出しただけでも汚職扱いされかねない、いや、事務用品などは自弁になっていると思う。
銀行なども同様で、窓口での金の出し入れは1円違っても残業してまで計算やり直しだが、肝心の資金貸し付けや上の方の給与などは、上層部の腹一つの丼勘定だというのが私の推定である。
世の中はだいたいそういうものである。


(以下引用)



官房機密費で15500万のマグロ購入疑惑

野次馬 (2013年1月 8日 10:14) | コメント(16)





安倍晋三にマグロ疑惑です。

 それにしても「すしざんまい」は良くやった。支那人のライバルに競り勝ったのは国威発揚の点でも「殊勲甲」だ。ひょっとして「国策」として官邸筋からの秘密指令があったのかと思っていたら、今朝の朝刊の「首相動静」を見て仰天した。
 <首相動静―1月6日>
 <「午後」1時30分、すしチェーン店「すしざんまい」を運営する「喜代村」の木村清社長。>
 おいおい(笑)。しかしこんなつながりに気付くのは私くらいかな。マグロ落札は社会部、首相動静は政治部だから、かかる面白い話を大きな記事にしない。
 う~ん、縁起ものだから一部を安倍晋三首相にお届けしなくては、ということだったにしても、よほどのルートがないとなかなかできることではない。この日、他に会っているのは麻生太郎副総理だけですぜ。まさか落札の裏に官房機密費があるとか(笑)。

勝谷誠彦メールで書かれているんだが、史上最高値で落札されたあのマグロが、安倍首相に献上されたらしい。官房機密費と書いてあるんだが、インフレ誘導のために、官房機密費を使ってわざわざ高値に釣り上げて落札したんじゃないか、ついでに、カネにあかせてマグロを買い漁る支那人にもひと泡吹かせられるし、という疑惑。税金使って、物価高騰のために猿芝居w アホな政権だw




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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