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原爆投下の目的

(「徽宗皇帝のブログ」に載せようとした記事だが、なぜか掲載できないので、こちらで掲載できるかどうか試してみる。あちらの方にも載っていたら重複になるが、まあ、どうせ一日に複数の記事を書くことも多いのだから、そのうちの一つくらい無視してくれればいいだけのことだ。)


「大摩邇」から転載。
私は、そのうち「戦争・革命・テロ」という題名の小論文、あるいはエッセイを書こうかと思っているが、戦争も革命もテロの中に包摂される、というのが私の考えだ。(ただし、「無血(非暴力)革命」というものも稀に存在するが。)そして、テロとは、「政治的目的を達成するために使用される暴力」というのが私の定義である。ただし、暴力とは何か、という定義も必要かもしれない。それについて「力・権力・暴力」というエッセイでも書こうかな、と思っている。
昨日は広島と長崎への核攻撃を正当化するウォールストリートジャーナル紙の記事に対し、私はカッとなって感情的な文章を書いたが、もともと戦争自体が、「政治的目的を達成するための暴力の使用」である以上、どこで歯止めをかけようが被害者は必然的に出る。その度合いが、核攻撃では度外れに大きいというだけで、元来、戦争そのものが「絶対に起こってはならない」ものなのである。そのためには最終的には「絶対非暴力」つまり、軍隊の存在しない世界を作るしかないかもしれないと私は今のところ考えている。そんなのは空想だ、と言う人がいるかもしれないが、EUだって空想だったのである。EUによって少なくとも欧州内部の戦争は(内乱を鎮圧するためという名目の軍事攻撃以外は)無くなった。その代わり、経済的不平等が加速したが、それは別の話だ。そしてEU内の軍事産業はEU以外に対する戦争(対ロシアの軍備や「テロとの戦争」への軍事品供給)に活路を見出したのである。つまり、軍隊が存在する限り、戦争は「作り出される」ということである。
さて、広島・長崎は人類最大の非人間的行為であったと私は考えている。それが「戦争終結のために必要な行為であった」という米国で作られた「米国の常識」がナンセンスなものであることは、少し考えれば誰でも分かると思うが、「信じたいものを信じる」のが人間である以上、米国人はこの「米国の常識」への反論を絶対に受け付けないだろう。しかし、米国内部でも、この「常識」に異論を出す人が出てきている、というのは朗報だろう。もっとも、この種の異論は原爆投下時からあったはずであり、定期的に噴出してはすぐに立ち消えてしまうものだろう。私は、「原爆投下への謝罪」無しに、日米同盟は不可能だ、と考える者である。

補足記事として、私自身の昔の文章の一部を転載しておく。これは、原爆投下が「戦争終結」のためではなく、その後の冷戦の布石であった、つまり冷酷な政治的意図の下の大量殺人であったということは、日本人なら誰でも(私のような中学生頭脳の人間でも)直感的に理解できる、ということである。


(以下引用)



09:55

広島原爆投下に関するアメリカの残酷な論理は70年続いている

マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/70-d618.html
<転載開始>

Finian Cunningham


2015年8月4日
"SCF"


日本の迅速な降伏をもたらし、太平洋戦争を終わらせる為、原子爆弾の広島と長崎への投下についての、もっともらしい軍事的必要性を、たとえ受け入れたにせよ、無警告空爆を受けた二都市における一般市民死亡者数の恐怖は、「目的の達成は手段を正当化する」とされるものに関する気掛かりな疑問を思いおこさせる。


だが、もし、アメリカのハリー・トルーマン大統領や彼の政権が喧伝した公式の軍事的論拠が、でっちあげであることが分かったらどうだろう? つまり、70年前の1945年8月6日と9日、広島と長崎に原子爆弾を投下した本当の理由が、大日本帝国を打ち破り、アメリカ軍兵士の命を救うこととほとんど関係がなかったら? 本当の理由が、アメリカによる戦後の世界覇権画定をソ連に警告する為の、ワシントンによる、計画的かつ冷酷な、むき出しの軍事力の実演だったとしたらどうだろう?


そうなれば、アメリカ公式説明が我々に信じ込ませようとしてきた結論より、遥かに酷い、極めて恐ろしい結論に到ることになる。なぜなら、それは、200,000人もの日本人一般市民を絶滅させる行為が、ひたすら政治的な狙いの周到に準備された大量虐殺事件であることを意味するからだ。あるいは言い換えれば、アメリカ合州国がおかした言語に絶する国家テロ行為だ。


アメリカによる対日本原子爆弾投下の本当の狙いに関して長年憶測がされてきた。1995年1月、ニューヨーク・タイムズはこう報じた。“実際、歴史学者達の中には、原爆投下は、戦時の敵日本を狙ったものというより、戦時の同盟国ソ連を狙って、戦後の対立関係に対する警告として行われたのだと主張する人々がいる”。


無頓着な曖昧な表現で、ニューヨーク・タイムズは、一体なぜ原子爆弾が投下されたのかについて、自ら一部認めた身の毛もよだつ意味あいを徹底的に追求することはしなかった。もし公式のアメリカの計算が、実際、ソ連に対する“戦後の対立関係に対する警告”だったならば、行為は、速やかに戦争を終わらせるという道徳的要請とは無関係な、弁解の余地のない政治的決断となる。それは上述の通り、究極のテロ行為だったことになる。



ガー・アルペロビッツ教授は、トルーマン政権は、実際 ソ連に対する政治的兵器として、原子爆弾を使用する決断をしたのだという説得力のある主張を、何十年間もかけて、まとめ上げたアメリカ人歴史学者の一人だ。


‘原子爆弾使用の決定’の筆者は、こう書いている。“大半のアメリカ国民は、事実を知らずにいるが、益々多くの歴史学者が、今や、アメリカ合州国は、1945年に日本に対する戦争を終わらせる為に、原子爆弾を使用する必要はなかったことを認識している。しかも、この根本的判断を、陸軍、海軍と、陸軍航空隊、三軍すべてのアメリカ軍部幹部指導者達の圧倒的多数が、戦争が終わった後、長年表明してきた”。


当時のアメリカ陸軍大臣ヘンリー・L・スティムソンや、ドワイト・アイゼンハワー将軍や、統合参謀本部のウィリアム・D・リーヒ提督等の軍指導者達は、日本に対する原子爆弾の使用に、はっきりと反対していたことをアルペロビッツはあげている。アイゼンハワーは、それは”全く不必要”だと述べる一方、リーヒこう言っていた。“広島と長崎におけるこの残酷な兵器の使用は、日本に対する我々の戦争において何の物質的支援にもならなかった。日本は既に敗北し、降伏しようとしている”。


これは、極めて重要なポツダム会談(1945年7月17日-8月2日)から、日本への原子爆弾投下までの三週間における、秘密の政治的意思決定を暗示している。その期間中に、トルーマンと側近達は、秘密裏に、当時は戦争同盟国だったソ連を、これ以降、戦後の、敵にすると決めた様に思われる。冷戦が形成されつつあったのだ。


ポツダム会談前の何カ月もの間、アメリカとイギリスが、ロシア指導者ヨセフ・スターリンに、ナチス・ドイツ打倒後、すぐに太平洋戦争に参戦するよう訴えていたことを銘記しよう。第三帝国が、1945年5月に打ち負かされてから、二カ月後、三大連合国間のポツダム会談で、赤軍を日本に向けて移転させるという、スターリンによる待望の確約を勝ち取った。ソ連は、8月15日に、太平洋戦争に公式に参戦する予定だった。後で分かったことだが、スターリンは予定されていた攻勢より一週間早く8月8日に、赤軍に満州進撃を命じていた。


ポツダム会談中に、ハリー・トルーマンが私信で上機嫌で書いた通り、ソ連のこの約束は“ジャップは、おしまいである”ことを意味していた。


ところが、ポツダム会談開始のわずか一日前、7月16日のニュー・メキシコ州の砂漠における、アメリカ合州国による最初の原子爆弾実験成功は、引き返し限界点だった。このすさまじい新兵器で、ソ連の太平洋戦域への参戦無しに、原子爆弾投下によって、対日戦争を終わらせられることを、アメリカの立案者達は速やかに理解したに違いない。


しかし、アメリカの主要目的は、太平洋戦争それ自体を終わらせることではなかった。アメリカとイギリス軍幹部と諜報部隊は、ロシアが対日戦争に参戦するだけで、日本の降伏を促進するだろうと確信していた。しかも、アメリカの日本本土上陸は、1945年11月まで実施しない予定だった。


当時、アジア-太平洋におけるソ連のいかなる前進を制限することが、この政権の懸念だったので、トルーマン政権が日本に対する新たな核兵器使用を急いでいたことは明らかに思える。赤軍は満州と朝鮮半島のみならず、日本本土をも占領しようとしていた。


軍事的価値の無い、二つの大都市、広島と長崎は、かくして、完膚無きまで打ちのめされていた日本に対してではなく、ソ連に対する、最もうっとりとするようなテロ行為を実演する現場として選ばれたのだ。日本への原爆投下は、それゆえ、アメリカの公式説明が主張するように、太平洋戦争の最後の行為ではなく、むしろ、発生期冷戦における、ソ連に対する、アメリカによる最初の残虐行為だったのだ。


これにより、恐ろしい出来事の、全く違う犯罪的側面を明らかにすることになる。原子爆弾攻撃は、地政学的ライバルとなる恐れがあるモスクワを恫喝するというひたすら戦略的な理由による意図的な大量虐殺行為と見なすことができるためだ。


70年後、アメリカ支配エリートのこの残酷な論理が、いまだに続いていることを、歴史が示している。ほぼ四半世紀前に冷戦が公式に終焉した後も、ワシントンが、核兵器備蓄を捨てる意図は明らかに皆無だ。実際、バラク・オバマ大統領の下で、アメリカ政府は、それぞれが、最初に日本に投下された原子爆弾の何倍も強力な、約5,000発の核弾頭備蓄の性能を高める為に、今後十年間で、3550億ドルを費やす予定だ。


しかも、ワシントンは、つい今月ペンタゴン幹部を通して、ロシアと中国は戦略上最高の敵だと公式に宣言した。


2002年の、弾道弾迎撃ミサイル制限条約からのアメリカの一方的離脱と、続行しているアメリカ・ミサイル・システムのロシア国境と太平洋への拡張と、中国に対する挑発的な言辞は、ワシントンに内在する生来の好戦的意図の証明だ。


70年前の最初で、しかもたった一度の核兵器使用で、広島と長崎でのホロコーストを引き起こしたアメリカの論理は、今日まで続く残虐な論理だ。核兵器は、70年前と同様、いまだにロシアに向けられている。


平和な国際関係は、このアメリカ独自の残酷な論理を完全に暴き出し、根絶することによってしか実現されまい。


Strategic Culture Foundation


記事原文のurl:http://www.strategic-culture.org/news/2015/08/02/america-barbaric-logic-hiroshima-70-years-on.html





(引用2「酔生夢人のブログ」所載「高校生のための『現代世界』4」より)


1943年、イタリアは降伏し、45年5月にドイツも降伏し、日本の降伏も目前になってきた同年8月、アメリカは日本に原爆を投下します。この行為は、今にもノックアウト負け寸前のボクサーの頭をピストルで打ち抜くような残虐な、そして表面的には無意味な行為であり、その真意は、新しく発明された原爆の威力を実験することにありました。原爆の威力はすでに予測されていましたが、それを世界に知らしめるためには、実際の戦争でそれを使ってみせる必要があったのです。それが戦後のアメリカの世界経営にとって必要だという判断によるものでしょう。さすがに、白人の国を相手には原爆を使うことはできなかったので、東洋の猿どもを相手にためしてみようということです。では、なぜ東京ではなく地方都市がその対象として選ばれたか。それは、たとえ敵国でも、そのエスタブリッシュメント(支配層)まで絶滅させた場合、それが歴史的な先例となり、自分たちが別の機会に同じことをされる可能性があるからでしょう。あるいは、政治経済的支配層やその配下を残しておいたほうが、占領後に彼らを自分の手足として使うことができるという計算かもしれません。あるいは、東京のお偉方とアメリカのお偉方の間に秘密の約束があったのかもしれません。どうせなら、東京に原爆を落としてくれていたほうが、日本を悲惨な戦争に追いやった張本人たちが掃除されて、日本はもっと良くなっていたかもしれませんが。


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中曽根元総理「先のアジアとの戦争は侵略戦争」と発言(読売に寄稿)

歴史的価値がある、とまで言えば大げさだが、右翼の目からは驚天動地の発言だろうから、記録をここに残しておく。
さて、大方の目からは右翼の親玉の一人と見られていた中曽根が、これでネット右翼などからどういうバッシングを受けるか、それともこの発言と安倍右翼路線の所業の間にどういう折り合いをつけ、どういうインチキな合理化・正当化を図るか見ものである。
なお、マスコミが安倍批判解禁に向かった(らしい)のは、ナベツネの意向のようだ、とカマヤンのツィートで書かれていたが、読売新聞に中曽根がわざわざこういう寄稿をした、というのを見ると、その可能性はあるのかもしれない。私はナベツネは大嫌いだが、ナベツネも「戦争嫌い」ではあるという話である。もしそうならば、その点では彼を認めたい。


(以下「読売オンライン」から引用)

対アジア「侵略だった」…中曽根元首相が寄稿


 戦後70年にあたり、中曽根康弘元首相(97)は読売新聞に寄稿した。



 アジアとの戦争は「侵略戦争だった」と認め、先の大戦を「やるべからざる戦争であり、誤った戦争」と総括した。こうした否定的な歴史を直視しなければ、近隣諸国から信頼を得ることはできないと指摘した。


 戦時中は海軍に所属し、1982~87年に首相を務めた中曽根氏は、戦後政治とともに歩んできた宰相経験者として、寄稿の中でこの70年間を振り返った。


 先の大戦を「帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦い」と評する一方、アジア諸国の国民に対しては「侵略戦争でもあった」と言及した。特に対中国では、大隈内閣が日本の権益拡大を求めた1915年の「対華21か条要求」以降、侵略的要素が強くなったとし、「中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない」と記した。

2015年08月07日 03時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

中曽根元首相、終戦70年寄稿の詳報


 ◆先の大戦



 まもなく戦後70年を迎える。巡り来る季節の中で、我々は戦没者の御霊みたまに深い鎮魂の祈りをささげ、平和への誓いを新たにする。戦争はその悲劇性とともに人間の尊厳や国家の在り方を教えた。戦後復興と今日の繁栄は、我々がその教訓を心に刻みながら、尊い犠牲に応えようとした日本人の良心と責任が成し得た結果でもある。この70年は、その成果の上に立って国の歩みを検証し、未来を展望する節目でもある。


 第2次世界大戦は、帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦いであり、欧米諸国との間の戦争もそのような性格を持ったものであった。


 他方、アジア諸国に対しては侵略戦争でもあった。特に中国に対しては、1915年の「対華21か条要求」以降、侵略性が非常に強くなった。軍部による中国国内への事変の拡大は、中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない。資源獲得のための東南アジア諸国への進出も、現地の人からすれば日本軍が土足で入り込んできたわけで、まぎれもない侵略行為だった。

2015年08月07日 03時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun






(追記)「カマヤンのツィッター」から転載。


カマヤン1192 @kamayan1192  
  1. ナベツネ一人の意志で今まで日本国皇帝様扱いだった安倍晋三がこれだけ叩かれるようになるのは、日本はどんだけ統制しやすい国なんだと思う

 


 


  1. どの雑誌だったか忘れたが週刊誌記事で読んだんだけど、「安倍叩き」の発信源は、戦争嫌いのナベツネだそうだ。ありそうな話だが、ナベツネも不思議な人間だ。


 

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エアコンの経済的使用法

「ライブドアニュース」から転載。
エアコンは、起動時に大量の電気が流れるという話である。つまり、つけたり消したりは経済的には良くないわけだが、古い型のエアコンだとつけっぱなしもどうなのか、という疑問は残る。最近のエアコンは自動的に「送風・送風停止」をするエコ運転機能があるから、つけっぱなしの方がコストは低くなるのではないか。(送風停止は、電気そのものの停止とは別だろう。)
まあ、エアコンの使用法で少し悩んでいる人もいるだろうから、こんな記事も時にはいいか、というわけである。だが、こういう情報は、家電の説明書に載せておくべきかと思う。私自身は家電の説明書は読まない人間だから、書かれてもどうせ読まないが。(笑)



(以下引用)


「つけたり消したり」or「連続運転」?エアコンの使い方、どっちが正解?


エアコンはこまめにつけたり消したりか、連続運転か。どっちが省エネ?

写真拡大



毎日暑い日が続きますね。今住んでいるところの最高気温をネットの記録から調べてみたところ、

8月1日:35度
8月2日:35度
8月3日:35度

でした。室温だと31度~32度くらいです。頭痛がするので、エアコンはこの際我慢しないことにしました。

冷房はとても快適ですが、吹き出し口からの冷気が直接体にあたると寒く感じることもあります。

冷え過ぎ→エアコン停止→やっぱり暑い→冷房運転→冷え過ぎ

というような繰り返しになりがち。暑くなってエアコンのスイッチを入れると、かなり運転音が大きい=負荷がかかっている様子です。

そこで、寒すぎないように設定温度を27度→28度に上げ、連続運転をしてみました。

8月3日(連続運転)、8月2日(運転―停止の繰り返し)で、大体午前10時過ぎから夜10時ごろまでと、夜中暑い時に短時間運転しています。使用電力量は、

8月2日:19.7kWh
8月3日:16.7kWh

でした。おお! 連続運転のほうが減っています。

ちなみに、どちらも運転―停止をしていた8月1日と8月2日の使用電力量は、

8月1日:21.0kWh
8月2日:19.7kWh

でした。8月はおそらく1年で一番エアコンを使う月なので、しばらく連続運転を試してみます。1日だけではまだよくわかりません。

それにしても、30分ごとの電力使用量がわかるこのシステム(スマートメーター)、なかなか便利です。やはり目に見えると、電気製品の使い方を工夫しようと思うようになります。

1人しか家にいないのにエアコン使えないよーという場合は、図書館などの公共施設や、商業施設、カフェなどに避難する「クールシェア」もいいですね。

夏休みということもあり、近所のスーパーのフードコートも賑わっているようです。健康第一、あまりガマンはしないようにしましょうね。

(小池 富美江)

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「合掌」の謎

私の趣味は「分析と解釈」であり、それも、誰も気にも留めないような些細な事柄の中に潜む謎を分析したり解釈したりするのが一番好きだ。であるから、下のような記事は大好きである。
合掌という動作の持つ意味は、おそらく宗純氏が言うとおりだろう。死者の冥福を祈る、もしくは謝罪し自らの命乞いをする、というものであり、食事の際の合掌も、これも宗純氏が言うように、食べ物となった生命体の冥福を祈ることであり、謝罪の気持ちだろう。
そう考えると、滝川クリステルのオリンピック招致プレゼンでの合掌が、何の冥福を祈り、あるいは何に謝罪したのか、ぜひ本人に聞いてみたいものだ。
だが、もちろん正解は、「日本文化について無知な帰国子女」が、西洋式の誤解で「単なる挨拶」と思い込んで合掌したにすぎないのだろうが、そういう人物にプレゼンをさせた日本政府の責任は大きい。世界中に「日本人は挨拶で合掌する」という西洋式の誤解を確定させたようなものだ。まさに「売国政権」にふさわしい所業である。

ところで、合掌という動作がなぜ祈りや謝罪や、インドや東南アジアでの感謝の動作となったのか、空想してみるのも面白い。頭を軽く下げる動作も、同様な意味を表すことが多く、こちらはもっと世界的な広がりがあるのではないか。こちらも、なぜそうなったのか、誰にも分からない、つまり「日常の些細事の中の謎」である。動物も同じ動作をするだろうか。まあ、感謝の動作はしないだろうが、謝罪(命乞い)の動作として、頭を下げることはやりそうな気もする。相手の目を見て、あるいは相手を睨んで威嚇の声を上げる、というのが攻撃意思を表すのなら、頭を下げることは、その威嚇に屈したポーズ、つまり命乞いの動作となるわけだろうか。
さて、合掌はどうか。片手だけを前に立てる、「片手拝み」というのもあるが、そちらは「手刀」を額の前まで立てるのに対し、合掌は胸の前で手を合わせ、軽く頭を下げるのが普通だろう。その際、瞑目することも多いと思う。いや、たぶん、ほとんどの人は合掌と頭を下げることと瞑目は無意識のコンビネーションで行うのではないか。それに対し、「片手拝み」は頭を下げることも瞑目も伴わないのが普通ではないか。いや、伴うのかもしれないが、それは「武士が相手を殺した場合」くらいのものだろう。少なくとも、たとえば原爆慰霊祭などで「片手拝み」などするのは相当に失礼な動作になる気がする。これは単なる「略式」なのか、それとも「片手拝み」は、実は合掌とは全然別の起源なのか。
これはあるいは武士を起源とする動作かもしれない。つまり、片手には刀を持っている、という前提での動作。よく考えると、私は日本人以外では「片手拝み」をしているのを見たことが無い気がする。(「手刀」を頭の右横に持っていく「敬礼」の姿勢は西洋起源だと思うが、これもまた、その動作がなぜ「敬」や「礼」を表すことになったのか、よく分からない。)
合掌は両の手を合わせることで、「武器を持たない」ことを示す意図から来たのではないか、というのが取りあえずの私の仮説である。(ならば、両の手の平を相手に見せる動作でもいいではないかと言われそうだが、こちらは「降参」の姿勢に近い。合掌は降参を意味するものではないだろう。)あるいは、「武器を持たない」というよりも、もっと積極的に「武器を放棄する意思」「戦いをしない意思」を示すものとして生まれた動作ではないだろうか。
想像すればすぐに分かるとおり、合掌しながら相手と戦うのは不可能である。戦うには、少なくとも拳を作るか、手指が自由に使える状態でなければならない。合掌しているとそれが不可能になるのである。頭を下げ、瞑目すればなおさら闘争は不可能だ。
つまり、合掌はまさしく「平和」を暗示する姿勢であるわけだ。これが祈りや感謝の姿勢となったのも当然かもしれない。
話が長くなるので、とりあえず、この問題はここまでとしておく。


(以下「逝きし世の面影」から転載)

日本の一番長い日から70年目 日本の最も暑い日に

2015年08月08日 | 政治
『2年前のアルゼンチンのオリンピックの最終プレゼンで、本音が(無意識に)思わず出てしまった滝川クリステルの大失敗(合掌)』

150年前の欧米の知識人は、日本的挨拶(お辞儀)を『情報』として知っていたが、お辞儀で腰を曲げる時に手をぴったりと体に添えるとまでは知らなかったので、当時の新聞の挿絵に登場する『お辞儀する日本人』は、頭を下げた時にラジオ体操のように肩から垂直に手をだらり下げて描かれている。
この150年前の勘違いに似た間違いでは、ハワイなど日本人観光客が多い場所では少ないが、世界では今でも『仏教徒は挨拶で合掌する』と信じているので、イギリスなど欧州諸国でも相手が日本人だと分かると、礼儀正しく親切の心算で両手を合わして合掌してみせる例が良くある。
日本人は死人に対しては手を合わせるが、生きている人間に向かっては決して合掌しない。
相手の英国人は礼儀正しい心算なのですが、日本人にとっては逆に実に失礼である。
人間相手にも合掌するヒンズー教のインドとか上座部仏教の東南アジアなどと、神仏以外には合掌しない日本や中国の大乗仏教を混同しているのです。
滅多にないが、我々日本人でも偶には生きている人間に手を合わせる場合がある。
オリンピック最終プレゼンで滝川クリステルが思わずやった『合掌』の正体ですが、日本では例外的に、命乞いとか、究極の謝罪として土下座と共に両手を合わせる。
平身低頭『すみません。すみません』の究極の謝罪なら合掌する時が有るが、『おもてなし』の気持ちで合掌する例は無い。
(話は少し横道にそれるが、)
ところが、何故か日本でも食事を始める時の『いただきます』には両手を合わせて(オリンピック最終プレゼンの滝川クリステルのように)合掌する。
今の文明化した日本人はすっかり忘れ果てているが鶏肉を食べる為には先ず飼っていたニワトリを殺す必要があり、実は日々の食事とは(他者の生命の一部を)『いただく』という厳粛で少しだけ残酷な『神聖な行為』だったので合掌していたのでしょう。(肉食に限らず植物食でも動物食でも同じで『食べる』と『殺す』とがコインの裏表、一体不可分の関係にある)
ドイツ生まれの生物学者ルドルフ・シェーンハイマーが指摘したように『生命』とは機械の様な『不動のもの』では無く、持続する『動的平衡』(変化のバランス。破壊と生成とが絶え間なく変化する流れ)のことだったのである。

『へらへら笑いながら手を合わせるな。このバカ者が』

日本人なら滝川クリステルの『お・も・て・な・し』のあとの合掌には違和感を持って当然であり、2年前のインターネット上では、
『だから、合掌なんかしねえんだよ』
『見てるこっちが恥ずかしくなるよな』
『あの合掌は誰も止めなかったのかな』
『あれが日本式かと勘違いされるよな』
『おもてなしで合掌するとかやめろボケ』
『どちらかというとお辞儀だよね 合掌して挨拶や御礼はしない』
『外人的には合掌挨拶が日本人が公式に認める挨拶ってことになっちゃったんだな』
『おもてなし 合掌ってなんか違う おもてなし お辞儀の方が日本らしい』
との声が噴出。
滝川クリステルもネイティブな日本人以上に自分の大失敗は熟知しているのでマスコミで『お・も・て・な・し』の動作の再現を求められても、最後の合掌部分は絶対に人前では行わない。
失敗しないように何遍も何遍も事前に練習したのだろうが、本番では極度の緊張状態で思わず隠していた本心(羞恥心やら謝罪やら罪悪感やら)が無意識に動作に表れて、滝川クリステルは『お・も・て・な・し』の最後に合掌して仕舞ったのである。
オリンピック最終選考会での滝川クリステルの『合掌』の意味とは、フロイト心理学の無意識が動作に表れた大失敗でないとしたら、日本の田舎の選挙戦の最終盤では良くある一票欲しさに恥も外聞もかなぐり捨てて行う保守系候補の土下座の浅ましいパフォーマンスである。何れであるかは不明だが、恥ずかしい事実に変わりはない。
ところが、合掌と『お・も・て・な・し』の珍妙な組み合わせから2年が経過して、やっと隠されていたトンデモナイ意味が判明する。(暴いたのは8月8日の毎日新聞)


『なんと!2020年東京オリンピック開会期間の日付は酷暑の7月24日から8月9日だった』

『2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会計画』

オリンピック競技大会開催概要
正式名称第32回オリンピック競技大会(2020/東京)
英文名称The Games of the XXXII Olympiad
開催期間2020年7月24日(金)~8月9日(日)
競技数28競技

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「他人の死」への想像力

二つの記事を並べて転載する。同一内容だが、二つ目の記事は、前の記事の前半部分に広瀬すずを嘲笑するタイトルを付けたものである。
広瀬すずは、少し前にテレビ局の裏方を貶めるような発言をして以来、ネットでは「広瀬くず」と呼ばれたりしている。そして彼女が「特攻隊隊員の心情が理解できない」という趣旨のことを言ったために右翼が頭に来て「広瀬くず(17)『特攻とかバカじゃないのw』」という、ありもしない発言に捻じ曲げたタイトルを付けたわけである。つまり、右翼としては、日本国民ならば特攻隊を無条件に賛美すべきであって、それを「理解できない」という人間は非国民である、と言いたいわけだろう。
だが、私としては、ここは広瀬すずを擁護したい。
17歳の子供(私の記憶では、通常の17歳の人間は、社会意識政治意識の面ではまったくの無知であるか、少しは社会認識があっても、教科書で得た知識と現実社会の乖離によって意識が混濁しているのが常である。つまり、精神的にはまったくの子供なのである。)が70年前の特攻隊隊員の心情や意識が「理解できる」という方が嘘だろう。つまり、彼女は実に正直なのである。(少し前の「裏方仕事をやる大人の心情が理解できない」発言も同様の「正直な発言」だったわけである。つまり、「空気が読めない」し、「うまく立ち回ることができない」子供なのだ。そして、私は子供はそうであってほしいと思う。)

 「命を捨てて特攻に向かう人のことが、やっぱり想像できなくて。わからないことが多すぎて、話を聞くだけで必死でした」

というのは、まともすぎるくらいにまともな言葉だ。それどころか、「話を聞くだけで必死でした」というのは、理解し難い対象を理解しようとする誠実さに溢れた態度だと思う。
その一方で、私が疑問を感じたのは、当時特攻隊員を「笑顔で見送った」と記事中に書かれている女性である。朝日の記者も同じ疑問を抱いたのか、


「戦争は、教科書に載っている昔の話。死に行く特攻隊員を笑顔で見送るなんて、想像できない。」


と、広瀬すずの「想像できなくて」が、特攻隊員の心情だけでなく、それを見送った側の心情のことでもあるのではないか、と勝手に忖度した一文を記事の最初に置いている。あるいは、実際の広瀬すずの言葉の中に、そう思わせるものがあったのかもしれない。
で、私もこの女性が死に行く人を「笑顔で見送った」心情が「理解できない」。
いや、実は理解できる。「何も考えていなかっただろう」と推定できる。彼女にとって、それは「他人の死」でしかなかったからだ。
当時、出征兵士を見送った人々が、兵士たちの運命を悼み、同情している人々ばかりだったとは私は思わない。特に、当時15歳の女の子にとって、凱旋兵士ならともかく、これから死ぬ運命しか無い人間など、恋愛の対象にも結婚の対象にもならないから、本当の関心など持ち得ないのが当然だろう。
私は、彼女の「みんな元気ででかけていきましたよ」に、そういう恐るべき無関心と冷酷さを感じるのである。
もちろん、私が(男女の違いはあるにせよ)同じ立場の子供なら、同様に「他人の死」には無関心だっただろう。




(以下引用)

特攻を見送った時代、やはり知らないと 広瀬すずさん

上遠野郷


2015年8月5日15時26分


【動画】広瀬すずさんインタビュー
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■継ぐ記憶:5


 戦争は、教科書に載っている昔の話。死に行く特攻隊員を笑顔で見送るなんて、想像できない。

 俳優の広瀬すずさん(17)は、福島県南相馬市の八牧(やまき)美喜子さん(86)を訪ねた。70年前、八牧さんは近くの基地で訓練を受けた特攻隊員を何人も見送った。「みんな元気に出かけていきましたよ。『特攻したら新聞に名前が載るから、必ず読んでね』って」


 隊員たちが残した50通ほどの手紙や和歌がテーブルに並ぶ。「御奉公の一途に邁進(まいしん)致します」。広瀬さんは紙片を手に取り、びっしり書き込まれた文字に目を落とした。言葉が見つからなかった。


 「命を捨てて特攻に向かう人のことが、やっぱり想像できなくて。わからないことが多すぎて、話を聞くだけで必死でした」


     ◇


 南相馬市には、操縦士の養成学校が置かれた「陸軍原町飛行場」があった。当時15歳の八牧さんは基地近くにあった牛乳店の看板娘。店は20歳前後の隊員らのたまり場になり、八牧さんは皆にかわいがられた。


 毎晩のように家に遊びに来る隊員がいた。久木元(くきもと)延秀少尉、21歳。豪快に笑う九州男児で、自分に恋心を抱いてくれているのを感じていた。


 1944年12月1日朝、久木元さんから自宅に電話がかかってきた。「これから出撃することになりました」。いつもの元気な声。八牧さんは言葉に詰まった。死に行く人に「お元気で」とも言えない。沈黙に耐えかね、自分から「さようなら」と電話を切ってしまった。



2015/08/06 20:37


【衝撃】 広瀬くず(17)「特攻とかバカじゃないのw」


1: 名無しの捨て猫さん 2015/08/06(木) 07:40:10.017 ID:ZktEDcoap.net

広瀬すず


http://www.asahi.com/articles/ASH8403YMH83TIPE03S.html


俳優の広瀬すずさん(17)は、福島県南相馬市の八牧(やまき)美喜子さん(86)を訪ねた。70年前、八牧さんは近くの基地で訓練を受けた特攻隊員を何人も見送った。「みんな元気に出かけていきましたよ。『特攻したら新聞に名前が載るから、必ず読んでね』って」


隊員たちが残した50通ほどの手紙や和歌がテーブルに並ぶ。「御奉公の一途に邁進(まいしん)致します」
広瀬さんは紙片を手に取り、びっしり書き込まれた文字に目を落とした。言葉が見つからなかった。


「命を捨てて特攻に向かう人のことが、やっぱり想像できなくて。わからないことが多すぎて、話を聞くだけで必死でした」


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「両論併記」的教育

「逝きし世の面影」から抜粋転載。(大阪市の「社会的実験」の記事が、「天皇系統問題」で分断されているので、その部分は略。長崎の殺人事件の記事も略。)
私は、この「教科書が二つ」は、面白いと思う。どうせなら、概して中立性の高い、これまでの歴史公民教科書よりも、思い切って左寄りの教科書(そんなのがあれば、だが)と、超右翼の行く放射、じゃない、育鵬社の教科書の二つを与えて、生徒を混乱させ、そこから「自分で情報は選択するものだ」という姿勢、「自分の頭で考える」姿勢、そして「理系も文系も含め、教科書内容はすべて現在採択されているだけの便宜的仮説であり、絶対的に正しい教科書など無い」という姿勢を身に付けさせるのがよかっただろう。日本に民主主義が根付かない根本は、何よりもまず「教科書を信じる」「(先生や組織のボス、有力者など)上の人の言うことを信じる」という盲従性にあるからだ。(この盲従性は、軍隊やスポーツでは集団全体としては威力を発揮するが。)
宗純氏の言うように、この「教科書が二つ」は、教育長の自己保身、小役人根性の結果だと思うが、逆に考えれば、橋下へのささやかな抵抗と見えないこともない。さすがに、育鵬社の右翼教科書で無垢な中学生を洗脳することへの罪悪感があればこそ、こういう「逃げ道」を作ったのだろうし、それはけっして悪いことではない。「面従腹背」は、上が悪党や人間のクズの時は正しい行為なのである。


(以下引用)


朝日新聞『大阪市教委、育鵬社の歴史教科書採択 来春から使用』

大阪市教育委員会は5日、市立中学校129校(在校生徒約5万4千人)が来春から使う歴史と公民の教科書に「新しい歴史教科書をつくる会」の元幹部らが編集した育鵬社版を、教育委員6人の多数決で採択した。「歴史観や社会観が異なる教科書を通じて多面的な見方を知る」などとして、次点で採択されなかった教科書を副読本として使うことを検討することも決まった。
この日の会議で、歴史は育鵬社と帝国書院を、公民は育鵬社と日本文教出版を評価する声が多く、多数決の結果、いずれも育鵬社版を4人が支持した。昨年の市立小学校の教科書採択から市内8カ所に分割していた採択地区を一本化し、市内全域で共通の教科書が使われる方式になった。4年前の前回は育鵬社版を採択した地区はゼロだった。
市教委の育鵬社版の採択決定後、大森不二雄委員長が2番目に高評価だった教科書の副読本化を提案。5対1の賛成多数で認められた。保護者負担ではなく公費負担による購入をめざす。
2015年8月5日朝日新聞

『今年中に引退する維新の橋下徹の迷惑な最後っ屁』

大阪市の純真な子供達に対して、極右歴史修正主義の『新しい歴史教科書を作る会』の御バカ教科書を無理やり押し付けるルサンチマンの権化橋下徹ですが、同和でヤクザで自殺した実父の恨みを晴らしたいのか、今まで自分を差別した社会全体を不幸にしたい愉快犯なのかは不明だが、はた迷惑な話である。
しがない宮使えの悲しさで、上司である大阪市長の橋下に逆られない市役所職員の大森教育長としては『作る会教科書』の採択は、止むを得ない選択だったのである。
4対2の多数決で『御バカ右翼教科書』を採択した大森教育長ですが、その直後に今度は5対1でまともな普通の教科書を『副読本』との口実で採択する。
なんと、大阪市だけは一つの教科に対して教教科書が二冊もある異常事態が発生したが、少し考えれば当然で、数ヵ月後には右翼御バカ教科書をごり押しした橋下徹はいなくなる。
それなら、当然『二冊目の教科書が必要になるだろう』との、今回の(権力の横車には絶対逆らわないが、失敗の責任も取りたくない小役人)大森教育長的な発想は、誰でもが考え付く。
まさに賛成反対両方を一応提示して公平を装うが、結果的には常に権力べったりの池上彰の姑息な何時もの手口の真似なのである。(電波芸者池上彰の反対意見の提示は、責任逃れのためのアリバイ作りだった)
橋下徹が大阪市にいる間は批判は直接橋下だけに向かう。ところが風除け(弾除け)の橋下がいなくなれば責任は全て採択した教育長一人(+5人の教育委員会)にぶつけられる。
批判が多い低脳右翼が作った教科書以外に事前にまともな教科書を用意して、(しかも購入は公費なので保護者の負担はゼロ)自分が叩かれないように工作するとは見上げた役人根性である。(日本が負けることを予測して、敗戦直前に寝返った吉田茂の様な策士中の策士)



『吉と出るか、凶と出るか。5万4千人が参加した大阪市の教育大実験』

疑うことを知らない子供達の前に、唐突に内容が違っている『正しい教科書』が同時に二つも提示されたら、今の学校教育について行くだけでいっぱいいっぱい。必死で努力しても落ちこぼれ寸前の崖っぷち状態なら間違いなく最後の止めを刺されて仕舞うだろう。
正しいモノが一つでも精一杯なのです。それなら、二つも同時に存在して自分で『正しい』を選択しなければならなくなった場合、知的負荷が能力の限界を超えてしまうので落ちこぼれる。
逆に今の大人たちの欺瞞や二重基準の存在を口には出さないが内心では疑っていた子供なら、瓢箪から駒で今回の大阪市の『二つも有る、正しい教科書』以上に素晴らしい教材は無い。
子供達にとっては『目から鱗』であり、今まで何がなんだか分からずに悶々として苦しんでいた真実の断片が明らかになります。
今回の大阪市教育長の判断ですが、今までの日本の教育の大改革。コペルニクス的な革命である。
成功するか大失敗するかの境目ですが、これは一にも二にも社会に対して『少しでも疑問に思っている子供』と『何も疑っていない(完璧に信じている)純真無垢の子供』との比率で結果が大きく左右されるでしょう。
それなら答えはもう出ている。
大人や社会を無条件で正しいと信じているのは小学校の低学年までであり、今回対象となる中学生では全員が何らかの疑問を感じている。
今の安倍晋三を信じているのはアベノミクスの成功を願っている一部の大人だけで、他は大人も子供の一人の例外も無く全員が疑問に感じているのです。



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信無くんば立たず

「晴耕雨読」から転載。
憲法解釈の変更による実質的改憲、つまり解釈改憲は、本物の改憲以上に害が大きい。それはつまり法の根本が成り立たなくなることだからだ。言い換えれば「法的安定性」を失うからだ。その法的安定性を軽視する発言をした磯崎補佐官は、罷免されて当然だろう。公務員の役目は法を遵守し、遵守させることにあるからだ。政令(行政命令)も、法に違反すれば成り立たないし、法は憲法に違反すれば成り立たない。つまり、国家の土台は憲法にある。その憲法が時の政権の一存で勝手に解釈できるならば、国家が成り立つはずがない。
「論語」の言葉で言えば、「信無くんば立たず」、国家に「信」というものが無ければ、国家は成り立たない、ということだ。その「信」を与党政治家たちはことごとく投げ捨ててきた。そんな国家が成り立つはずがあろうか。


(以下引用)



「「馬鹿」の起源・・・法的安定性を損なう「馬鹿」の所業:川口創弁護士」  憲法・軍備・安全保障
https://twitter.com/kahajime

法的安定性を軽視する政府は国民からの信用を失う。

政府が今日言っていることを明日も同じように言うとは限らない、と思われてしまうからだ。

たとえば、法的安定性を軽視している政府が「徴兵制は憲法違反」と断言しても、信用されるはずがない。

是非ご一読を。「法的安定性を損なう、『馬鹿』の所業」⇒篠原さんのツイッターまとめ

http://togetter.com/li/835871



仮に法廷だったら、裁判長から「余計なことを言わず、質問に端的に答えなさい」と言われまくるだろう。

安倍首相の答弁。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
http://togetter.com/li/835871

shinshinohara氏https://twitter.com/ShinShinohara

「馬鹿」の起源・・・法的安定性を損なう「馬鹿」の所業

「馬鹿」の起源をご存じだろうか。

秦の始皇帝の死去後、絶大な権力を握った趙高は、朝廷に鹿を連れてきた。

鹿を趙高は「馬だ」といった。

鹿だ、と答えた人間は皆殺しにした。

趙高の権力を恐れた秦の大臣たちは口をそろえて「馬でございます」と答えた。

この瞬間、秦の法治は崩壊した。

秦は春秋戦国時代の強国の中でも独特の統治だった。

「法治」。

その他の国は、優れた王や大臣が現れると栄えるが、その人物が死んだ途端に国力が低下する、という盛衰を繰り返した。

孔子は「礼(儀式化)」によって国を治めることを提案し、法治国家へのヒントを提示したが、まだ十分ではなかった。

法治で国が栄えることを示したのが管仲。

ルールを明確に定め、君主の気分で罰せられることがないようにし、豊かな生活を送るにはどう行動すべきかを全国民に示した。

これにより斉は中華一の強国にのし上がる。

しかし管仲の事業は十分理解されず、死後、あっさりと法治は失われ、斉は弱体化していった。

秦は意識的に法治国家となった。

商鞅は秦国の法律を明確に定め、国民はおろか、総理大臣に至るまで法に従うよう定めた。

商鞅は自ら定めた法律により死罪となるという皮肉な結果を招いたが、秦はこの後、着実に国力を増した。

君主や大臣、武将が誰になろうと。

秦の法治主義を完成させたのが韓非子。

のちに始皇帝となる秦王はその著作を読み、いたく感激した。

法によって国を統べることにより、秦は並ぶものなき強国となった。

そのほかの国が君主の能力によって栄枯盛衰を繰り返したのと比べて、好対象であった。

なぜ法治主義だと栄えることができるのだろうか?信賞必罰のルールが明確だからだ。

他の国では、君主の気分次第で罰せられたり褒められたりして、庶民はそのつど惑乱していた。

君主が入れ替わるたび、それまでの努力が水の泡になったりしたのだ。

秦の強国ぶりは、大臣でさえ法に従わなければならぬ、という法治主義によって達成された。

君主が少々愚かでも、大臣がパッとしなくても、法に従って行動すればそこそこのパフォーマンスが得られるよう、法が設計されていた。

秦は法治国家だったからこそ、強国にのし上がれたのだと言える。

国際政治経済学者のスーザン・ストレンジが指摘したのも、まさにこのことだ。

秦以外の王国は、ストレンジが指摘する「関係性権力」で統治されていた。

君主の気分で栄えたり衰えたり。

君主の優劣で盛衰が決まるので、国全体としての継続的発展ができなかった。

しかし秦は法治構造を構築し、その構造の中で人々がどうふるまうべきか、ルールを明確にした。

こうすることで君主が入れ替わっても庶民に迷いがなくなり、今まで通り商売ができるようになった。

ルールさえ明確であれば、努力を重ねることができ、ますます栄える。

これが構造的権力だ。

現代の民主主義国家は、すべて法治による構造的権力で統治している。

どうふるまえば犯罪となり、どうふるまえば正々堂々と豊かになれるのか。

そのルールが明確だから、人々は迷いなく努力を続けられるのである。

だから民主主義国家では、法的安定性をことのほか重視する。

冒頭に戻ろう。

趙高は「馬鹿」事件により、秦の法治主義を葬り去り、権力者の気分で左右される権力主義に転換させてしまった。

このため、秦の人々は何に従うべきか、惑乱するようになった。

始皇帝の死後、わずかな年数で秦が崩壊したのは「法的安定性の喪失」があったからだといえる。

秦ののちに成立した漢は反省に立ち、法治を採用した。

その後、漢は400年もの平和と繁栄を築いた。

以後、どの王朝も法治をとった。

秦末期のあまりに些末な法律への反省もあり、老荘思想を一部導入しおおらかな法律にしたという違いはあれど、法治は国を栄えさせるのに必須だという共通認識となった。

法治を選択し、法的安定性の維持に努めれば、愚かな君主・大臣が現れても国力を大きく損なわずにすむ。

これが、秦とその後の王朝が教えた教訓である。

欧米ではモンテスキューが「法の精神」で訴えた。

ルールが明確だから、人々は迷いなく努力を続けられる。

継続した努力が、国を栄えさせるのである。

しかし法的安定性を損なうと、人々は何で罰せられるか分からなくなる。

何かの秘密を暴いた罪で囚われても、その秘密が何なのか明かされないまま、罰せられる恐怖があれば、人々は萎縮する。

法が法を否定するような矛盾が起きると、法的安定性が失われ、人々はどう生きていくべきか、困惑する。

人々が困惑すれば、どう努力すれば財産を失わずに済むのか、分からなくなる。

権力者のご機嫌を損なわないように、という「関係性権力」で国が支配されるようなる。

愚かな君主になれば、北朝鮮そっくりになる。

君主の気分次第で処刑されてしまうのだ。

現在、安全保障関連法案について、憲法学者の大多数が違憲だと述べている。

これに対し高村氏は砂川判決を根拠として合憲だとするが、それを支持する憲法学者はごく少数にとどまるようである。

与党議員は「合憲」で口をそろえる。

何かに怯えるように。

趙高が「鹿」を「馬」だと言い張ったのと似てはいまいか。

並み居る政治家たちが「馬でございます」と口をそろえるのも。

「馬鹿」がまかり通れば、失われるのは法的安定性である。

法的安定性が失われた時、強国であったはずの秦はあっという間に滅びた故事を、私たちは忘れるべきではないのではないか。

法治を放棄した後、秦ではすぐに陳勝・呉広の乱が勃発する。

自ら法的安定性を損ねておきながら、庶民には些末な法律を押し付ける矛盾に我慢しきれなくなった庶民が、全国で蜂起した。

リーダーが法を守らないのに、なぜ庶民が守らねばならぬのだろう?関係性権力の脆弱さはここにある。

憲法が権力者を縛るのは、法的安定性の要諦だからだ。

もし権力者が憲法を無視し、権力の好むままに法律を乱造すれば、結果として権力者の気分で国が支配されるようになり、法的安定性が揺らぎ、法律を守って行動することがバカバカしくなる。

反乱が起きるのは、権力が法治を否定することから始まる。

日本でも「馬鹿」事件は起きてしまうのか。

我々はどう行動すべきか。

「馬鹿」は法治を損ない、国を亡ぼす。

戦争で自分の国を守る前に、国が内部から瓦解するのである。

今や国は法治によってのみ維持されていることを、失念してはいけない。

法的安定性を損なうことは、国の自殺行為である。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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