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新コロワクチンと心筋炎

正直言って、ワクチン被害者というのは「自業自得」、つまり、自分の無知や知的怠惰の結果だと思うが、それはネット情報に触れている人間の傲慢かもしれない。テレビや新聞だけが情報源という国民は膨大にいるだろう。
しかし、中日の選手が新型コロナワクチン接種直後に(確か心筋炎だったと思うが)急死したニュースを聞いても、何も考えずにワクチンを打った人というのは、どういう知能の人間なのだろうか。まあ、芸能やゴシップ、娯楽情報にしか興味の無い人間も膨大にいるのだろう。そして、自分の頭で考えない人間が大衆のほとんどなのだろう。(あえて、自分の経験からの「偏見」を言えば、若者と高齢者が、新聞やテレビに騙されやすいと思う。いや、超高齢者は、あの戦争で騙された経験があるからまだマシだろうか。)

(以下「大摩邇」から引用)もはや「耳タコ」の話題だろうが、文章が論理的で面白い。

心不全パンデミックの原因がコロナワクチンだと思う理由

とある民間救急ドライバーの日常さんのサイトより
https://ameblo.jp/namachocoponzu/entry-12839779197.html
<転載開始>

TODAY'S
 
心不全パンデミックの原因がコロナワクチンだと思う理由

 


こんにちは!生チョコぽん酢です。

心不全については時々取り上げていますが、本日投稿する内容は以下の記事の続き?になると思います。


 


まずは関連記事からお読み頂ければ幸いです。


 


1)なぜ心不全パンデミックが起こるのか?

 


2)既に心不全パンデミックが起こっている?


尚、私は医師でもなければ看護師でもないので、その前提で読んでください。



なぜ心不全パンデミックが起こるのかについては、詳しくは(1)の記事をご参考頂きたいのですが、

理化学研究所が、新型コロナウイルスに感染した場合、人によっては心臓が持続的にウイルスに感染することで、心不全のリスクが高まるという研究結果を発表した事に始まります。

 

  相次ぐ心不全が、自然コロナ感染に起因しないと思う理由

 

しかし、以前この記事で触れたことですが、そもそもウイルスが血液に乗っている状態というのは普通の状態ではありません。


 


新型コロナウイルスは上気道感染症だと理解しており、飛沫等から呼吸器を通して感染する一般的なウイルスや細菌による風邪と同様のものです。

そこから自身の免疫機能が働き、その免疫機能が負けてしまうと、血液にまで巡ってしまい危険な状態になるわけですが、

これはいわゆる重症例であり、例えば皆さんの身近で風邪をひいて”菌血症”や"敗血症"になったという話をあまり聞かないように、殆どの人間でそのようなことにはなりません。


 


 


本来血液というのは無菌状態ですから、心臓がウイルス感染するという状況にはならないハズなのです。

 

つまり、新型コロナに感染して無症状や軽症の人の血液が、新型コロナウイルスに汚染されているとは思えないということになります。

先日紹介した(2)女性のケースを見れば明らかですが、元々コロナ単体では重症化などしていないのですね。

 
これについて考えられるのは2点です。


A)完全に免疫不全に陥っている

人間は免疫不全に陥ると、ウイルスや細菌の温床となることが考えられます。

いくら体内で増殖をしても、免疫が反応しない為です。

このような状況下では、確かに血液も汚染されやすくなるように思います。


 


しかしなぜ免疫不全に陥っているのかと考えると、結局またコロナワクチンが疑わしくなるわけですが。



B)そもそも自然感染に起因しない

つまり、コロナワクチンの作用によるものだという考えです。

なぜコロナワクチンに心不全を引き起こす要因があるのかについて、私なりの解釈を書かせてもらうと、

コロナワクチンというのは皆さんもご存知の通り、従来型とは違いmRNAという技術を用いられています。

簡単にそのmRNAのメカニズムを説明させてもらうと(疑わしい場合はご自身でも調べてみてください)、


①新型コロナウイルスの一部のコードを人工的に改変&コーティングし、それを注射によって大量に体内に入れます。

②体内に入ったこれらの物質は血液に乗り、全身を巡るわけですが、その過程でどこかの細胞に入り込みます。

(どこの細胞に入り込むのかは運任せです)

③入り込まれた細胞は新型コロナウイルスのRNAを取り込み、自身の細胞がウイルスの断片を生成し始めます。

④ウイルスの断片は体にとっては異物ですから、自身の免疫がそれに反応し、そして抗体を得ようとする技術です。


つまり、自身の細胞を、自身の細胞が攻撃するという、ある意味自傷的な作用であり、



また②で述べた通り、注射で打ち込まれたmRNAは最終的にどこに結合するのかはランダムなのですね。

しかし、血液が何によって巡っているのかと言えば、心臓という唯一のポンプによるものです。

ですから、mRNAが心臓の細胞と結合する可能性はかなり高いと私は思います。


 

  再生する細胞、再生できない細胞

 


人間の体は、傷つけば再生します。

だからどんなに炎症が起こっても、治癒するのです。

しかし、そんなすごい人体でも、一部で再生不可能な細胞があるのですね。

代表的なものは、脳細胞、生殖細胞、そして心臓細胞です。

この細胞達は特殊な働きをしてくれている最も重要な細胞と言えます。


 


仮にmRNAがこれら再生不能の細胞と結合してしまった場合には、炎症が起こり、そして完全に治ることはありません。


 


同時に、炎症が起これば機能不全を起こすリスクが高まります。


 


これについては、ワクチンキャンペーン当初(2回打てば終わりと言っていた頃)は「量が少ないから問題ない」という事だったわけですが、その後はもう説明するまでもありません。



こうした視点で見てみると、やはりここまで急速に増えている心不全は、コロナワクチンによるものだろうと思うのでした。


 

  裏付けとなる医学的根拠も(査読済論文)

 


尚、つい先日このような査読済み論文が発表されています。

内容も大変興味深いのですが、ここでは長くなるので、ほんの一文だけ紹介しますね。


https://www.cureus.com/articles/203052-covid-19-mrna-vaccines-lessons-learned-from-the-registrational-trials-and-global-vaccination-campaign#!/



 


この論文の中にハッキリとこう書かれております。


 


以下抜粋(太字こちら側)


2021年初頭以来、超過死亡、心臓イベント、脳卒中、その他のSAEは、新型コロナウイルス感染症mRNAワクチン接種によるものではなく、新型コロナウイルス感染症によるものと誤ってみなされることが多かった


そう、世界では既に新型コロナの自然感染によるとされてきた様々な弊害が、コロナワクチンによるものであったという見方が強まっているのです。


 

  なぜこの国の政府や専門家は頑として違う角度から見ないのか

 


しかし冒頭紹介した通り、日本では心不全の急増を認めつつあるものの、


 


あくまで自然コロナ感染に起因するものであり、ワクチンによる弊害は微々たるもの


 


だとする姿勢を崩そうとはしません。

この姿勢は心不全だけではなく、全てにおいて同様です。

口が裂けても、コロナワクチンによるものだと言えないのは、

自分の立場が危うくなるからなのか?

責任が負えないからなのか?

むしろ多くの国民に死んでほしいからなのか?

私には断言できませんが、少なくとも"信じる者は救われる"ような社会構造ではない気がします。

こちらの有名な医師の方のニュース記事を読んだ時に改めて感じるのです。

(記事内容も凄いのですが、上記論文同様ここでは詳しく拾いません)


 


 コロナ禍が収束し、感染症法上の位置付けが「5類」に引き下げられた後の昨年7月、 


 


ニュース記事内ではさらっとコロナ禍が終息と言い切っていますが、私には終息しているとは思えません。


 

まだ終わっていないどころか、本番はこれからなのではないでしょうか。

 

 

ここまで露骨にエリート達が発する言葉と現実に乖離が生じているように思える中で、

 
未だに疑問を持てない人はどのような心境なのか、
 
またそれは妄信や狂気の類なのではないのか、
 
私には思うところが多いのでした。
 

 


おわり


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笑いの権力化という笑えないシステム

私自身の別ブログに載せた記事だと私自身が書いているから、おそらく、この「酔生夢人」ブログのことだろう。再転載する。「笑いの上納」システムwww
なお、私自身はテレビを見ない人間なので、ここで言われているのが的を射ている発言かどうかの判断はできないが、私は小田嶋隆の知性と感性を信じている。惜しい人を亡くした。

(以下引用)

お大尽と取り巻き

私自身の別ブログに載せた引用記事である。

(以下引用)


『災間の唄』出版記念 小田嶋隆・武田砂鉄対談 後編

糸井重里と松本人志を小田嶋隆・武田砂鉄が改めて語る「“機嫌の悪い人って嫌だよね”で糸井村のムードに」「松本に笑いが上納されている」

「松本人志は、織田信長が「あっぱれじゃ」と言うと「ほほー」みたいな世界に入っちゃっている」

糸井重里と松本人志を小田嶋隆・武田砂鉄が改めて語る「機嫌の悪い人って嫌だよねで糸井村のムードに」「松本に笑いが上納されている」の画像2
『災間の唄』を発売した小田嶋隆氏と武田砂鉄氏(写真/尾藤能暢)

──糸井氏の「ユーモアが大事だよね」ということともつながりますが、この本のなかで小田嶋さんはユーモアや笑いが持つ暴力性も繰り返し指摘されています。その代表格こそ松本人志ではないかと。


〈笑いは権力に抵抗するための有効な手段だと言われている。もちろんそういう側面もあるのだろう。でも、テレビ経由で流れているお笑いネタの大半は、強い者が弱い者をナブる時に起こるアクシデントを笑うパターン芸で、むしろ権力の作用そのものだったりする。〉(2017年10月17日)


小田嶋 私が若いころに面白かった人といえばだいたい左側の人で、野坂昭如とか青島幸男とか、あるいは橋本治とか。右側の人たちは喚いてばかりいて、いつも興奮していて、およそユーモアのない人たちだったんです。それで私自身は思想的に左だったわけじゃないけど、左側の人たちのほうが柔らかみや余裕なんかがあってかっこいいよねと思っていたわけです。ところが、吉本が笑いの中心になってから、批評的な笑いが一切消えて、後輩をいびってみんなで笑うような、ほもソーシャルのなかの笑いが主流になってしまった。松本人志はそのチャンピオンでしたからね。松本は地頭が良くて、教室の後ろのほうでときどき面白いことを言って混ぜっ返すタイプ。それが力を持ってしまったということが、なんていうのかな、真面目に考えることをバカバカしくしちゃう空気をつくり出したんじゃないのかな。


──2019年にも〈松本人志がヤンキーのヒーローたり得たのは、勉強漬けのインテリの知的武装をワンフレーズのボケで無効化してしまうその地頭の良さにあったわけなんだけど、この20年ほどのていたらくを見ていると、「勉強しない地頭」の劣化サンプルみたいなことになっている。〉とツイートされていましたよね。


小田嶋 松本人志がすごく面白かった時期は、とにかく不思議なアドリブの冴えがあったんですけど、でも、あそこから何も成長していない。


武田 たぶん、いまの小田嶋さんのたとえで言うと、これまで、教室の後ろでやんややんや騒いでいた人たちが、いまはもう、教壇に立っているわけですよね。で、その教壇から生徒に対して何を求めるかといえば、同調です。教壇でやっていること、言っていることの面白さに気付けとか、あるいは、いい感じに揺さぶってみろと迫る。僕はナンシー関さんのコラムが大好きでしたが、ナンシー関さんは生前、松本さんのことを高く評価されていた。それは、業界の仕組みに突っかかっていく一匹狼的なところへの評価だったはず。いま彼を見て一匹狼と思う人はいないでしょう。一匹狼ではなく、群れの長です。


小田嶋 それはビートたけしも同じで、軍団つくっちゃったでしょう? たけしがすごくつまんなくてもみんな笑う。松本周辺に起きている笑いも同じ。いつもパターンが一緒なんですけど、同じことを混ぜっ返すだけなのにすごく笑いをとるんです。ある若手芸人が「これ美味しくないですね」って言ったとすると、「それ『美味しくないですね』か?」って言うだけなんですよ。オウム返しするだけで笑いがとれる。あれはなぜ笑いがとれるかと言えば、その立場にいるからなんですよ。


──教壇に立っているから、と。


小田嶋 中小企業の社長がなんか言うとどっと受けるとか、織田信長が「あっぱれじゃ」と言うと「ほほー」みたいな。その世界に入っちゃっている。お笑いの世界じたいがそういうピラミッド構造のなかで、下の者は「私は笑っていますよ」というサインを出す。あれは権力関係の笑い。笑いが上納されているんですよ。


──視聴者もそこに組み込まれていますよね。


小田嶋 これを笑わないと笑いのセンスがないって言われてしまうことへの同調のなかで笑うという動作が発生している。


武田 EXILEグループの皆さんは、一斉に笑いながら、手を叩いて立ち上がります。全体で同意しているぞ、というのを作る、見せる、というのが大事なんでしょうかね。


小田嶋 彼らはTRIBEって言っていますからね。「部族」「種族」ですよ。


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経済学的に見た「正義」と「公正」

昔書いた文章をフラッシュメモリーから発掘したので、載せておく。面白い内容だと私自身は思うし、「経済学」的意義もあると思うので「徽宗皇帝のブログ」向きだとは思うが、本文に書いてあるように、末尾がぐずぐずなので、ここに載せておく。繰り返すが、これは現代社会の根本的な間違い(か?)を指摘していて「面白い」と私は思っている。

(以下自己引用)文中の菅総理は菅直人。私は鳩山・小沢へのクーデターの一員として菅総理を嫌っていたし、今も好感は持っていない。


まるでまとまっていない文章だし、結論もグズグズだが、読み手自身の考察のきっかけくらいにはなるだろうから、ご笑覧を願おう。


 


 


 


経済学的に見た「正義」と「公正」


 


 


「これからの正義」について私も考えてみようというわけだが、まず話を経済的側面に限定しておく。そして、正義ではなく「公正」について論じることにする。


正義と公正に違いがあるかと言えば、多分ある。それは「公」という字が冠についているかどうかという違いである。「公」の字がつくとなると、「正義とは個々人の主観にすぎない」という議論は排除されることになる。すなわち、「最大多数の人間が許容する正義」が「公正」だと定義できるだろう。


誰が何と言おうと俺こそが正義だと主張するのは個人の勝手だが、それが多くの人の賛同を得なければ公正のレベルには達しないわけだ。


では公正は正義より上かというと、そうでもない。これは、客観が常に主観より価値があるわけではないのと同様であり、話が面倒だから、ここでは正義と公正の価値の上下は論じない。


 


さて、経済学的に見た公正の問題とは、当然ながら「分配の問題」である。内田樹風に言えば「社会的リソース」の配分の問題だ。すなわち、様々な社会的資源をどのように配分するのが公正であるかということだ。


わかりやすい例を言えば、「働かない人間を社会が養うのは公正か」という問題がある。実は、この問題こそが、社会全体に常に多くの軋轢を生んでおり、生んできたのである。富裕層や「有能な人間」はそうした「穀潰し」を社会が養うのは不正義だと常に主張してきた。政治は時には福祉政策によって「穀潰し」を養い、時には福祉削減政策を行って「穀潰し」を死に追いやってきた。


ここで私が「穀潰し」という差別語を使うのは、福祉反対論者の心の底には必ずこの観念があると思うので、それを代弁しているわけだ。社会的弱者と言っても、その中には働いている人間が無数にいるのだから、働かずに生きている人間を「穀潰し」と表現するのは不適切ではないだろう。ただし、大金持ちのドラ息子はここでは考慮の対象外とする。あくまで、福祉の対象者としての「穀潰し」を社会が養う必要があるかどうかを考察しようというわけだ。


 


独力では生き切れない人間を社会が制度的に養うのは、それ以外の人間の取り分を奪うから不公正である、というのが「福祉否定論者」の考えだろう。


その考えへの批判は簡単だ。


我々の社会は、「穀潰し」を養うのに十分以上の余力がある。


人類の科学の進歩は、食物生産能力の面でも、エネルギー獲得の面でも、人類全体の人口をさらに二倍にしても養えるだけの能力を持っているはずだ。これはべつに証明された事実ではないが、世界の姿を虚心坦懐に眺めれば、そう推察できる。


つまり、マルサスの主張(人口増加に食糧生産は追いつかない)は、科学の進歩の前に破綻した、というのが私の主張だ。何の数字的根拠も資料的根拠も無いが、それは直感的に分かる。直感で分かることは数学的前提のようなもので、証明の必要もないことだ。


 


では、なぜこれほどの貧民が世界におり、これほどの飢餓があるのか。


すべては配分の問題である。配分があまりに異常であり、富裕者の優位性を維持するために下層民への配分が意図的に異常に低く抑えられているからである。


しかも、富裕者は、その持っている富を必要とすらしていないのだ。当たり前の話だが、生活のためだけなら、年間に1000万円もあれば優雅そのものの生活ができるはずだ。では、年収が何十億円とある人間は、その金をどう使うのか。使いようなどないのである。死蔵するだけだ。つまり、世界の富は流通などしていないのだ。もちろん、帳簿の上で移動するマネーゲームの金は別の話だ。


実体経済の上で流通すべき巨額の金が、超富裕者の懐に入ることで、残りの人間が貧困生活を送ることになる。


これが世界の現実である。


で、私はこれを不公正だと見るが、法律上はこの状態が公正と見做されているわけだ。


こんなのは公正か?


 


いや、彼らはそれを自分で稼いだんだから、それを死蔵しようがどうしようが勝手だ、と言われるだろうが、果たして、それは本当に自分の手で稼いだと言えるのか。詐欺だろうが何だろうが、法的に許容される手段であれば問題ない、というのが社会的合意のようである。で、私はそれを不公正と見るわけだ。


要するに、100人の人間が利用する資源が100あって、それをその中の一人が99独占したら、残りの人間にとってそれは公正か、という話である。「手続きが正しければ、それでも公正だ」というのが法律家的判断だろう。そんな法律など、糞喰らえである。では、その法律とやらが、その99を独占するためにその男が作ったものならどうなる? 実はこれが各国の中央銀行の起源であり、自由貿易制度や金融システムの起源だというのが私の考えだ。法律など、法律を作る人間を抱きこめば、いくらでも作れる。その程度のものだ。経済システムも国家財政も然りである。


我々が見るべきことは、現在の科学水準から見れば、全世界の人口を養うのは実に容易なことだ、という事実だ。工場などの生産能力は、商品価格維持のためにその半分以下に抑えられ、過剰生産された農産物は、これも価格維持のために廃棄される。全世界の工業製品が、本当に必要な機能だけに限定された堅牢な製品になれば、あらゆる国の国民に安価な工業製品が行きわたり、収穫された農産物や漁獲物を無駄なく加工して配分すれば、全世界の飢餓など解消されるはずだ。


つまり、ここにも配分の誤りがある。


仮に、世界政府を作ろうという人間が、そのように貧困や飢餓や戦争の無い世界を作ろうというのなら、私はNWOだって受け入れる。だが、全世界から血と汗と涙を絞り取ってきた悪魔が、世界に奉仕することなど絶対にありえないことである。


 


さて、話が飛躍したが、こういうわけで、「穀潰し」を養うかどうかが問題になるのは、社会に余力が無い場合であり、社会に余力があれば、こんなのは問題にすらならないことだし、むしろ社会的弱者を救うのは大いに褒められることだ、と私は考える。


 


考えてみればいい。あなたの前に可愛い子猫がいる。これは生産性ゼロの存在だ。では、あなたはわざわざ足を上げて、それを踏みつぶすか?


子猫が例として不適当なら、では汚らしい老人がいたとしよう。援助すればあと数年は生きる。援助しなければ数日で死ぬ。これを死ぬに任せるというのが現在の福祉削減の方向である。子猫は「可愛さ」という能力があるから生かしておくが、汚い老人は殺してもいいな、というのが大方の人間の気持ちだろう。そんなものである。まあ、私もそう思うし、私自身がそう見られている可能性もある。では「可愛い老人」を目指すか? それくらいなら死んだ方がましである。要するに、金のない老人は社会的に存在価値がない、というわけで、多くの人々は老年が近付くにつれて、必死で蓄財に励むのである。そしてますます嫌悪すべき存在になるのだが、まあ、それはどうでもいい。


子供は可愛いから保護し、援助するが、老人を保護し、援助するのは金の無駄だなあ、と大半の人は心の中で思っているだろう。それは無理からぬことではあるが、少し立ち止まって考えよう。


どんな人間であれ、少なくとも社会的に無害な存在なら、生かしておくだけの人情味のある社会こそが、人間らしい社会と言えるのではないか? それが野獣の世界とは違う人間の世界ではないか? 福祉削減や福祉の廃止というのは、私から見れば野獣の世界に戻るということなのである。


また、人間の価値を能力や効率性だけで考えるというのも問題がある。簡単な話、仕事などまったくしたことのない陽気なプレイボーイと、仕事一筋で趣味などまったくない仕事人間と、女ならどちらを選ぶか。人間の生活は、仕事だけではないのである。私はプレイボーイなど大嫌いだが、後者のタイプが定年離婚という目に遭うのも自業自得だと思う。


では、老人の価値は何か。別に老人であることに価値などない、と言えば話はそれまでだが、実は(体力の低下と体の脆弱化はどうしようもないが)、頭の中身に関しては、老人でもそれほどの能力低下は無いのである。多少、新しいものへの対応力が鈍くなったり、記憶するのが苦手だったりするが、今の時代、記憶だけならパソコンという外部記憶装置がある。つまり、知的にすぐれた人間なら、老人になっても十分な生産性がある場合もある、ということだ。いや、私まで生産性で人間を量ってしまっている。


ともあれ、人間の価値は、生産性だけではないし、老人でも生産性が高い場合もある、という話である。


 


で、福祉というものが、「与えるだけ」であることに我慢ができない、というのが実は世の中の福祉否定論者の本音だろうと思う。


あの「穀潰し」どもは、社会的にまったく貢献していない、そんな連中に金など出すな! ということだが、そういうご本人たちが実は社会から搾取するだけの存在であったりする。つまり、「穀潰し」よりも社会的害悪になっているわけだ。


しかし、それはともかく、社会的貢献をしなければ、存在価値はないか?


 


先ほども書いた、「可愛さ」によって貢献する存在や、未来の可能性を持った存在である子供たちを保護したり援助したりするのはいいが、汚らしい老人に金を出すのはいやだ、という議論にまた戻ろう。


とりあえず言えるのは、「社会に貢献しない存在でも保護し、援助して何が悪いの?」ということである。前に書いたように、それで誰かが損をしているという考えもおかしいのであり、もしも損をしているとすれば、100あるものをその99まで奪っている連中が存在するからである。社会的配分が1しかないから、そのうちの0.00000001の配分さえ許せない気持ちになるわけだ。


「有能さを自負している人間」の他人への冷酷さを見れば、そういう人間のほうが社会に不要だと私などは思う。そういう人間がいなくても、他の「有能な人間」の代わりはいくらでもいるのである。官僚やら陣笠代議士や会社社長などもそうで、取り換え不可能な人間などいないというのは、あの菅総理でさえ総理は務まるし、野田総理でさえ総理は務まるのを見ればわかるだろう。


東電の清水社長など気の毒なくらいで、原発事故さえなければあっぱれ有能なコストカッター社長として偉そうな老後を送れたはずなのである。どこかの製紙会社の御曹司にしても、いい大学を出ているし、ハンサムだしで、ああいう馬鹿なことさえしなければ、一生安泰だったのだ。つまり、本来たいしたことのない人間が、高い地位にいるために後光がさしているだけだ。


逆に言えば、その辺の係長を社長の座に就けても、まったく問題ないのであり、一般的に言って、ちょっと口がうまくてその場をごまかす能力さえあれば政治家も重役も務まるものである。あまり自分は有能だなどと自惚れないほうがいい。要するに、人間の能力など大差はない。ただ図々しい人間や野心的な人間は出世しやすいというだけだ。これは恐ろしいことに学問の世界ですらそうで、学問的実績よりも政治力で上に行く人間はあきれるほど多いという。


なんで長々とこんなことを書いてきたかというと、「無能な人間」と「有能な人間」の差などたいしてないし、能力による人間評価など、評価者の主観が半分だと言いたいのである。


野球なら3割打者と2割8分打者は1億円プレーヤーと5000万円プレーヤーの差があるが、実は、年間の安打数ではせいぜい20本程度の差しかない。いや、10本程度の差でも、打数次第ではもっと打率の開きが出る。では、この給料の差は妥当だろうか?私は、レギュラー選手である限りは、給与の差がこれほど開くのはおかしいと思う。


守備の下手な三割打者と、守備の上手い2割5分の打者と、どちらがチームに貢献しているか、簡単には言えないだろう。だが、後者の給料が前者を上回ることは、まずない。


では、会社社長や重役というものは、平社員の百倍の給料を貰う資格があるか?


あるとすれば、その経営判断が常に正しく、会社が常に大儲けをしている場合であり、会社がうまくいかないならば、平社員よりも給与は低くていいはずだ。彼の経営者としての無能性は会社の不業績で証明されたのだから。だが、経営不振で会社社長や経営陣が自分たちを減給したという話は聞いたことがない。まあ、オーナー社長なら仕方がないが、雇われ社長ですら減給されないのが不思議である。


要するに、我々の社会の能力主義とやらはあまりに度を越しており、野球のチームであれば、レギュラー全員の給与差が数千万も開くのはおかしいということだ。


逆に、能力でばかり人間を見る見方というのが現代社会を毒していると思うから、わざと極端な言い方をしてきたのである。


 

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「バカ国民」の代表は誰か

たまに面白いことを言うので、(心の中では半分馬鹿にしながら)よく読む「バカ国民帝国日本の滅亡」だが、孔徳秋水氏の馬鹿さは、この「反わく」批判に凝縮されている。論理の根本が狂っている。薬害批判を基本理念としているくせに、薬害の最たるものであるワクチンを擁護し、「反わく」を馬鹿だ阿呆だと叫んでいる。まあ、小学生ではないが「人を馬鹿だと言う奴が一番馬鹿なんだぞー」と言いたいくらいである。
とりあえず、記事タイトル「『ワクチン薬害』は存在しない」だけでも、彼の阿呆さは絶望的である。明白そのものである「新コロワクチン被害」を知りながら、ワクチンを全部ひとまとめにして「『ワクチン薬害』は存在しない」というのが馬鹿でなくて何か。しかも、「物事は分けて理解すべきだ」という主張と、この言葉は完全に矛盾しているではないか。

(以下引用)
2024-02-06 11:53:59
テーマ:

近藤誠医師と論争していた「ワクチン推し(?)」の岩田健太郎さん…


 


彼が「感染症は実在しない」と言っていたのですが…


 


⇒ 感染症は実在しない (インターナショナル新書)


 


 


⇒ 新型コロナも実在しない&新コロワクチンに御用心


 


 


(-∇-)b この話を当ブログが取り上げるのは、2回目っつうか…


 


「両手をパーンと打ち鳴らして、さあ、いま鳴ったのは左手か、右手か?」…


 


…という話も含めると3回目になりますね。


 


 


このリクツでいくと…


 


ワクチン症というのも存在しない…のです。


 


ここが、「反わく」がとくに理解していないところで…


 


そもそも彼らには、論理的思考力というか、


 


日本語を理解する能力すらないのです。


 


 


(--)b ちゃんと本を読んで勉強してほしい。


 


厚労省の文書を読んでも、アメーバの連中は、ホントに読解力がなく…


 


(TT) でも、そんなクズブログが、高アクセスという…


 


ほんとに、オワッテますね…この国は…


 


 


まあ、「西洋医学と東洋医学の考え方の違い」という観点で話してみますと…


 


西洋医学は、「病原菌」などの「原因」にフォーカスし、


 


それを「悪」とみなして徹底排除するという思想です。


 


東洋医学は、人間の身体の状態を大きくとらえ、自然と気の流れを踏まえ、


 


全体のバランスを整えていくという思想なのです。


 


 


それで、西洋医学では「病気の原因をやっつけよう」とするので、


 


人体にもダメージを与えてしまう。


 


(--)b その思想の最たるものが、暗殺やクーデターや空爆なんですよね~


 


この世に地獄を作り出してしまう悪魔の思考です。


 


 


西洋医学では、だから「毒」をせっせと患者に処方する…


 


だから、コロナ後の超過死亡は、


 


「みなが医者にかかるようになったから」である可能性も十分にあるのです。


 


 


そして、「症状」自体を「悪」として…クスリで抑えてしまうのですが、


 


「症状」の多くは、からだの自然治癒力による「好転反応」であることも多い。


 


 


それをクスリで抑えれば、「治るちから」が阻害される。


 


 


だから、内海聡さんも「薬は飲むな」とさんざん言っていたわけです。


 


…とはいえ…今回のコロナ騒ぎは、予め製薬会社が備えていたとか…


 


「軍人オリンピック」が実に都合よくコースを惹かれ、武漢で行われていたとか…


 


意図的に人工ウィルスがばら撒かれたという…


 


リアル『20世紀少年』の陰謀が疑われています。


 


目障りなトランプを失脚させ、ワクチンの人体実験を正当化し、


 


さらには、ITによる個人単位での人民支配のシステムを完成させる…


 


そうした懸念があるわけですが、


 


その懸念に対して、国際権力は疑問に答えることもなく、言論を封殺し、


 


勝手にどんどん事業を進めているのです。


 


 


しかも、m-ワクチンは、読売が「人体を薬の工場にする」と紹介していまして…


 


それは同時に「人体を毒の工場にする」技術でもあるわけですね…


 


もっといえば、ワクチン自体が、人工ウィルスみたいな化学物質であり、


 


それゆえ、癌をそれで殺すこともできるわけですが…とはいえ、やはり…


 


未知のリスクが大変大きいわけです。


 


 


それでもペストやコレラなみの致死性の高いウィルスがばら撒かれるなりしたら、


 


クスリもワクチンも使わない…というわけには、いかないのです。


 


 


どの国もワクチンを接種しましたが、


 


これが「核戦争」よりも恐ろしい「バイオ戦争」に関わるからで、


 


各国がそのような攻撃にも耐えられるようにということで追随したと思われます。


 


ある種の軍事演習だったのでしょう。


 


 


そもそもワクチンを含め、クスリは状況に応じて是非が判断されるものです。


 


思想として「ワクチン、是か非か」って話ではないのです。


 


 


「反わく」は「現状判断」をまったくしませんね?


 


「ワクチン=悪」ということだけを言いたいのですよ。


 


 


こういった連中のせいで「BAN」もやむなきものとされ…


 


ちゃんと議論されるべきことが、彼らのノイズとイルミのBANで阻害され、


 


民主主義的議論が封殺されてしまっている。


 


 


なので、「反わく」は基本的に「工作員」だとして警戒すべきブロガーです。


 


いまのマスコミ同様、大変、危険で有害な人たちですので、ご用心。


 


 


コロナのようなものに対しても、ワクチンのようなものに対しても…


 


最も大事なのは、


 


本人の「自然治癒力」であり、それを最大化するのが生活習慣です。


 


 


からだをわるくすることで、却って


 


からだの出しているサインに敏感になれたりします。


 


 


ならば、それは、長期的には「よいサイン」なのです。


 


自分の体の状態や生活習慣について見直し、健康法を学ぶ契機になるからです。


 


 


コロナやワクチンで、からだがおかしくなったというのであれば、


 


自分のからだについて、いまいちど、根本から学んで、


 


健康的な生活習慣を身に着けていくことです。


 


 


ただ、本人の体質というのは、とても大きな要素で…


 


コロナだろうと、ワクチンだろうと、へっちゃらの人はへっちゃらなのです。


 


 


毒と言われるインスタントラーメン、動物性脂肪、タバコ…


 


さらには、手洗いなどの感染対策一切しないでも、健康で長生きする人はいるのです。


 


 


だから、まず大事なのは、自分の体質をよく知ることなのです。


 


予防法や健康法は、個人によって「最適解」が異なるのです。


 


 


なので、他者が、ああだこうだと指図するのがいちばんよくない。


 


「ワクチンを打て」と社会的に強要するのも、


 


「打つな」とギャーギャーさわぐのも、やってることの本質はおなじなのです。


 


 


ホントに、いまの日本は、バカとキチガイとヘンタイでできていますよね?


 


⇒ 食事でこんなに変わる、脳の発達や病気 / 京都女子大学 辻 雅弘先生


 


 

 


 


⇒ 「食事が脳と遺伝子を変える」 生田 哲先生 元気の学校 2022年2月号


 


 

 


(-∇-)b 女性は特に好きみたいですが…


 


スパゲッティ―は、乳癌などのリスクを「爆上げ」するそうです。


 


小麦がまず毒だし、ソースも毒…


 


 


「食べるな!」な~んて言いません。


 


どうぞ食べてください。


 


自己責任で…


 


 


あなたは、食べても問題なく長生きできるゲノムの持ち主かもしれませんしね…


 


 


 


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井口博士の問題記事

「大摩邇」2月7日所載の井口博士のブログ記事だが、私のところのような無料ブログにはブラウザー(閲覧ソフト)管理システム(AIだろう)の手が入って、或る種の記事は転載不可能らしいので、記事タイトルだけ載せておく。ぜひ、ご自分で一読することをお勧めする。「ビッグ・ブラウザー(ブラザー)は君たちを見ている」www(「1984」で有名なフレーズ)

(以下引用)

【人工地震】掘削船地球は能登半島東沖を掘削していた!決定的証拠を提示しよう!

井口博士のサイトより
https://quasimoto4.exblog.jp/33674275/
<転載開始>
みなさん、こんにちは。
さて、今回は最近では最も議論を引き起こしそうな事実をメモしておこう。
結論から言うと、
掘削船地球は能登半島東沖を掘削していた!
という事実である。
これが何を意味するかはここを見てきた皆さんなら明白だろう。
では、これについて詳細をメモしておこう。

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「夏の名残りの薔薇」と「イノック・アーデン」

この前、恩田陸の「夏の名残りの薔薇」という小説を読み始め、「夏の名残りの薔薇」という曲がクラシック曲であるのを知って、ユーチューブで聴いてみると、日本の学校唱歌「庭の千草」の曲である。で、「夏の名残りの薔薇」は、「イノック・アーデン」というテニスンの物語詩に関係するとも、民謡だとも言う。よくわからないが、テニスンの詩はなかなか哀切な話なので、とあるサイトの紹介文を紹介する。
「夏の名残りの薔薇」は田中芳樹の「銀河英雄伝説」のひとつの章の題名にも使われていた記憶があるが、確かにいいフレーズだ。ディーリアスあたりの楽曲にありそうな題名である。(リヒャルト・シュトラウスが「イノック・アーデン」をオペラにしているようだ。)

(以下引用)

『イノック・アーデン』 のテニスン


今日8月6日は、ビクトリア朝時代を代表するイギリスの詩人テニスンが、1809年に生まれた日です。


 アルフレッド・テニスンは、リンカンシャー州のサマズビーに牧師の子として生まれました。幼い頃から詩を作るのが好きで、ケンブリッジ大学に入学後の1827年には、2人の兄といっしょに『兄弟詩集』を刊行しました。


1832年に発表した『詩集』により詩人としての名声が高まり、友人の死を嘆いた長詩『イン・メモリアル』や叙事詩『王女』などで詩壇に確固たる地位を確立しました。1850年には、ワーズワースの跡を継いで王室付きの詩人で英国詩人の最高位である[桂冠詩人]となってからは収入も安定し、1859年から5年をかけてアーサー王伝説に取材した『アーサー王の死』など数々の詩集を発表しました。美しい言葉遣いと韻律には定評があり、英米人はもちろん、日本でも長い間愛読され続けています。


テニスンの代表作『イノック・アーデン』は、55歳のときに作られた物語詩で、あらすじは次の通りです。


『幼なじみで遊び仲間の3人の子どもがいました。船頭の息子で親を亡くしたイノック・アーデン、美少女アニイ・リイ、粉屋の一人息子フィリップ・レイ。イノックもフィリップもアニイに恋こがれていましたが、やがてたくましい漁師に成長したイノックが、アニイに求婚。二人は結婚して3人の子どもにめぐまれ、幸せな家庭を築きました。しかし、イノックがケガをしたことで家計が苦しくなり、イノックは妻子に楽をさせたいと、アニイが引き止めるのも聞かず、東洋貿易の船に乗りこみました。


つつがなく船旅を続けましたが、帰る途中暴風雨にあって船は沈没、イノックは常夏の無人島に取り残されてしまいました。故郷の妻子を夢見ながら、たった一人で暮らすこと10年あまり。ある日、運よく通りかかった船にすくわれ、港についたイノックは、ひたすら我が家へ急ぎました。ところが、住み慣れた家は、売家の札がかかっているのです。居酒屋のおばあさんは、イノックとは気づかず、アニイの話をするのでした。


イノックがいなくなってから、生まれたばかりの赤ちゃんが死んだこと、悲しむアニイをフィリップがなぐさめ、さらにアニイの苦しい暮らしも支えてあげた上、子どもたちを学校にかよわせたこと。10年経ってもイノックからの音信がとだえたためアニイは、イノックは死んだものとあきらめて、フィリップの求婚を受け入れたこと、そして子どもも生まれたこと──などを。


ある日の夕暮れ、イノックはこっそりフィリップの家を訪ねました。赤々と燃える暖炉のまわりで、楽しげにくつろぐアニイや子どもたちの姿をぬすみ見したイノックは、苦しみに荒野にのがれ、[妻子に帰国したことを知らせずに生きていける強い心を授けてほしい] と、神に祈るのでした……』


イノックが一人で暮らす南海の孤島の明るさ、それと対照的なイノックの望郷の思いの描写は、特に優れているといわれています。夏目漱石 は「イノック・アーデンが孤島に打ち上げられた時の有様を、テニスンは斯う書いてゐる。ここに人間がある。活きた人間がある。感覚のある情緒のある人間がある。是から見るとロビンソン・クルーソーの如きは山羊を食ふ事や、椅子を作ること許り考へている」と評しています。


「8月6日にあった主なできごと」


1945年 広島に原爆投下される…アメリカ空軍B29爆撃機が、人類初の原爆を広島に投下しました。[ 2007年8月6日ブログ 参照]


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北林あずみ氏と「能登復興論」

北林あずみ氏の最新のブログ記事の一節で、記事全体は「二大政党制の幻想批判」という非常に真っ当なものだが、この部分に関しては私は意見が対立する。つまり、能登半島の「復興」より他府県への移住のほうが合理的だという考えである。弱者切り捨てでも何でもない。能登に残りたい人は残ればいい。移住したい人には政府が援助して移住を容易にしてあげればいいだけだ。公営住宅無料貸与と、月額10万円の生涯年金があれば、私なら喜んでどこにでも行く。政府にとっては些細な金額であるはずだ。
そもそも、能登の「復興」とは何か。日本の非都市部に無数に存在する、廃墟のような村を新たに作るだけではないのか。作り立ては新しいだろうが、そこを盛り立てるどんな産業があるのか。金沢のように観光に頼るのか。能登の断崖から海を眺めて絶景かな絶景かなと感心し、すぐに飽きて他の観光地に行くだけの連中に何を期待するのか。そもそも、平地部の少ない地形で、どんな産業が可能なのか。珠洲に原発でも建てて、交付金で生活を維持するのか。もう二度と地震がこないという自信があるとでもいうのか。
北林氏の論考は偏執狂的に緻密だが、立憲民主党批判という、自論の大前提のために、米山隆一の「合理的思考」まで批判したのは勇み足だろう。「僻地と限界集落」切り捨てではなく、「他の土地での新しい人生」も悪くないだろうというだけのことだ。そもそも、「お前は死ぬまでその辺鄙で不便(僻地・限界集落)で危険な土地(地震発生の危険性大)に住み続けろ(そこから逃げ出すなら援助はしないよ)」という意見のどこが弱者への同情か。


(以下引用)

立憲民主党は基本的に「弱者」への眼差しはない。「弱者」に寄り添うような振りをしているだけだ。弱者切り捨ての論理が、立憲民主党が本質にもつ心情だと思う。
 だから、能登半島地震の復興をめぐっての、立憲民主党の米山隆一の「僻地と限界集落切り捨て論」の発想になる。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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