忍者ブログ

人工知能の可能性と人間の未来の生活

ながたかずひさ氏のブログ「犀角抄(旧ユルネバ!)」から転載。
非常に面白い思考素がたくさん入っている文章なので、とりあえず保存のみ。


(以下引用)

2016年04月11日

AIがとまらない? よろしい、ならばBIだ。


 いやAlphaGoは衝撃的でしたね。


 チェスや将棋のソフトの強さは、原理的に人間にも理解できる強さでした。総当りで良さそうな手を深く読んで、評価関数の高い手を選んでいく。評価関数の作り方のところに一応機械学習は入っているのですが、まあ理屈はわかるし、わかるからこそ三浦八段(当時)みたいなトッププロが負けても納得はいく。
 ところがAlphaGoは、僕も後追いダイジェストでしか見てないのですがトッププロが「なんだその手」という手を放ってそれが後になって効いてくる。あるいは囲碁では難解な、中央からの攻めに果敢に取り組む。観戦してる人間も知らないうちに形勢が逆転されて負ける。
 慌てて解説とか読むと、どうもまだ秘密のベールに包まれている部分も多いそうですが、どうやら「読んで」戦っているのではなく、「感覚で」、
「この絵から勝ちの絵に向かうにはこのへんに打つのが良さそう」
というのを見出して、打っているらしい。まず現状認識からしてどこに石があるか論理的に把握しているのではなく、画像として「こんな感じ」と把握してるらしい。
 つまり理屈は無い。勝ったら勝ったで(たぶん)AlphaGoも「なんで勝ったか」はわかってない。

 そう言われてみるとそれは非常に「人間くさい」行動パターンであり、ということは逆に、「知性の限りを尽くしている」と思い込んでいる囲碁の対戦においても人間は勘に後付けで理屈なすりつけてるだけで、そうであるならば日常などもっとそう。いやむしろ「知性」という言葉は
「直感で感じた方向性(これだ!)に、理屈を捏ね付ける感覚・行為」
と言い換えるべきかもしれない。
 ここにおいてデカルト以来の「近代」が崩壊してですね(笑)

「どこまで人間に似ているか」というのは結局わからないのでさておいて、擬似的にでも「かなり人間みたいなことができる」となると、具体的には「『判断』も人間に近いものができそうだ」となると、「AIにいろいろ任せよう」という考え方も加速します。
 自動運転が最たる例ですが、
「機械なんか危なっかしくて任せてられない」と
「機械の方が人間よりずっと優秀」の
垣根はある日突然外れる。現にABS(アンチロック・ブレーキ・システム)でもDSC(横滑り防止装置)でも既に人間なんか逆立ちしたってかなわない芸で人間を助けてくれているんだから、これもう一壁越えると、
「人間が運転するバスなんか危なくて乗ってられるか」
になる。75ぐらいの目の下にクマできてるおじいちゃんがヨボヨボと運転席に乗り込んで「えーっと」とか言いながらシフトレバー弄ってるバスと、同じマシンなら鈴鹿でセバスチャン・ベッテルに勝てるAIが運転するバスと、どっち乗ります?

 ウチも電力自由化で別のところから電気買ってみようかなと画策中で、電気のメーターをスマートメーターに換えてもらったのですが、これあるともう「検針員」という仕事要らないわけですよね。
 ホントは今までもそうやってコツコツ人の仕事が「コンピュータ」に剥ぎ取られていってたわけですが、「判断」まで取られちゃうとこりゃ大変。いままでよりずっと「高度だ」と信じられていたジョブが、上の例のように「むしろ」AIに取られる。
 薬剤師とかねえ。弁護士とか。
 学校の先生とか。
 AIきっと我慢強く丁寧に教えてくれるし、世界中のビッグデータで「だいたいの詰まり方」とか持ってるから「ここがこうわからないんじゃないんですか?」みたいなところもヘタな先生より詳しいよきっと。
 むしろ師とか士とか付いてる方が危ないですね。
 複雑な条件から判断せねばならぬほど、AIの方が強い。
 つまり今まで「高度」という言葉は「知性が必要」を表現していたわけですが、その知性とやらが上述のように実はたかだか「直感にあとから色を付ける行為」だとすると(あるいは実際にはそうでないにせよ、現実へのアウトプットとしてはそうであってもさほど差がない場合)、AIで十分。いや、AIの方がいい。

 奥さん翻訳者なんでわりと顔面蒼白になってるんですが、うん、AlphaGoのように本気で取り組まれると、特に産業系とか、論文とか、ニュースとか、だいたいフォーマットが決まってるものはなんかもう、人がチェックする必要もないぐらいの翻訳AIがすぐにでも出てきそうです。
 幸か不幸かGoogleや最先端のAI研究者にとって「英語を他言語に訳す」という行為そのものにほぼ価値が無いから放置されてるだけで。
 もちろん「翻訳」という仕事がある日全部無くなるわけではなくて、責任主体として「私がチェックしました」という判子を押す役が人間に残るんでしょうけど、量も変われば質もまったく違う仕事になりますね。あるいは文芸系ならばしばらくは大丈夫でしょうし。できれば「この訳者さんの訳で読みたい」までいけてれば、その人が現役の期間ぐらいは持つかも。

 というようなことで、世の中の「仕事」の総容量がものすごい勢いで減っていったら、失業者で溢れかえるわけです。
 大変ですね。
 とりあえずワークシェアみたいな、「労働は1日3時間、週3日まで」と決めてみんなで分け合う。あるいは以前は「仕事」ではなかった、たとえば「家事」とか「留守番」みたいなのをネットのマッチングと補助金かなんかで「仕事化」してコツコツばらまく。さらにはお家の前でたこ焼きを焼くような小商いに精を出す。街の人が寄り集まって小銭を落とす、じゃ明日は○○さんの立ち呑みで一杯、とみんなでくるくる小銭を回してですね。
 結局経済って回ってりゃいいので、本来的にはまったく無価値なモノやコトやサービスでも「お金を回すための手段」だとみんなが納得してりゃそれでいいわけです。『ザブングル』のブルーストーンがそうですな、なんて例を出さなくても、現在の日本の公共投資とかたぶん8割方そういうためのものです。
 それが気持ち悪い・あるいは環境や次世代からスティールしてるだけだ、と叫ぶならはっきり地域通貨みたいな、地域独立経済圏を小さく区切ってその中と外で「貨幣」の価値を変えてもいいかもしれません、けどこれはちょっと僕にはよくわからない。昔の中国はそれに似てて、ある人が使う通貨が何十種類もあったりしたそうです。日々状況に応じてレートが変わっていたそうで、わりと人間もそういう環境ならそういうものとして動けていたようです。ただ、それが結局統一通貨になっていくのはその方が便利だからで、まあ貨幣って物々交換より便利だから流通してる面が大きいわけで、そんな状態だと物々交換とあまり変わりませんもんね。
 明示的に地域通貨みたいなことをしなくても、人間の社会的活動から「貨幣仲立ち」を剥がしていく手もあります。「経済成長」というのは貨幣仲介ではなかった人間活動を貨幣仲介にするってことですから、これを逆回しにする。保育園に入れるんじゃなくておばあちゃんに預ける。葬式は地域みんなで出す。
 はい、無理ですね。
 まあ一部取り返した方が幸せなコトもきっとあるでしょうけども。

 などなど、そういう弥縫策でも足りなくなったら最後はBI、ベーシック・インカムかなあ、と思ったりもします。国民全員に月何万円か渡す、という。「そんな財源どこにあんねん」とお思いでしょう? 渡す額にもよりますが、年金・健康保険・生活保護など社会保障を大幅に(どこまでかはやり方次第ですが)減らせるので、意外と非現実的なお金が必要なわけでもないようです。
 月5万×1.3億人で78兆? 合ってます?
 国家予算96兆で社会保障32兆(地方交付税交付金を加えると47兆)なので、工夫すればなんとかいけそうですよね。
 社会というのは(あたりまえですが)構成員が居ないと成立せず、かつ構成員ができるだけしあわせでないと暴力が支配して崩壊する。そうすると「儲けている」人々もその基盤を喪って元も子もないわけですから、そのぐらいだったらまだ税金を払って「社会」を維持した方がいい。
 Appleが困った時にJobsはMicrosoftにお金借りに行って、Gatesも機嫌よく貸したわけです。
 これ。
「働かざるもの食うべからず」
は資本主義では嘘で、資本転がしている方が労働するより儲かる仕組みになってるのは皆さんご存知のとおり。「働く働かない」と「食う食わない」は独立事象なんですな。だからもし国内に十分なリソースがあるなら、とりあえず「食う」を全員満たす、のは倫理的にもそんなに無茶な話ではない。
 経済的な不安や不満が小さくなると、だいたい国家に要求することなんて治安維持と安全保障、あと災害対策ぐらいになるでしょうから国(や地方自治体)としても本来は大助かりだと思うんですが。

「AIに人類は滅ぼされないか」
といえば、我々だって犬猫を滅ぼしてないわけで、彼らが知性から進んで意思みたいなものを持ったとしても、持ったならばこそ、滅ぼすというエネルギーに対して見合うメリットが無ければ放置されるんじゃないでしょうか。SFなどでよく言われることですが、私達だって飼い主としてネコを飼ってるのか、使用人としてこき使われてるのかわかりませんで。エサ用意して寝床あっためてグルーミングしてさあ。人間相手にだってしないのに。

 これ、AIにジョブを奪われる、は決して他人事ではなくて、誰にでも起こることなんです。AlphaGoが考えもしなかった手を打ってくるように、彼ら彼女らは思いつきもしなかったやり方である「仕事」を自分たちの物にしてしまうかもしれない。
 芸術家とかいちばんヤバイ。
 少なくとも「ウケる」とか言い出したらディープラーニングの出番でしか無いですやんか。
 いや、もう実はラノベとかPixivの絵とか、AIが作ってるのがポツポツあったりして。マッドサイエンティストが、というか、デミス・ハサビスがニヤニヤしながら閲覧数とか評価とか眺めていたり。あの人アニメ好きそうだしなあ。
 上の「知性」の定義が実は違いそうだ、というのと同様、「創造性」の定義が実は間違ってるのかもしれません。
 でもそういうAIが活躍するようになって、それでも対抗できるアーティストが居て、そこではじめて「美とはなにか」「快感とはなにか」「おもしろいとはなにか」みたいな難問にあるていど輪郭のある答えが見えてくるのかもしれません。

 ぼく思いますに、極端に言うと「美しい」とか「おもろい」とかって「それが好き」の表現バリエーションに過ぎないんじゃないかと。
 で「好き」ってなにかというと、それはよくわからない。
 よくわからないままにAIが各人の「好き」なものをたくさん作ってくれるでしょうから、それをずらり並べてようやく「ははあ、好きってこういうことか」と腑に落ちるのかもしれない。

 いったい本当にはどのようになるのか検討もつきませんが、AIの時代になるとガラッと社会が変わりそうで、ちょっと楽しみではあります。
 社会は変わっても世界は変わらない。
 とりあえず人間は、桜の花を愛でていればいいのではないですかね。

拍手

PR

何でもない日万歳!

「我が名はアラム」という題名で、本屋では見た記憶があるが、読んだことはない。アメリカのどこかの田舎町の、ある少年の生活を連作短編の形で書いたものではなかったか。とすれば、「我が名はアラム」という、威張った感じの言い方は、内容にふさわしくない、とは言える。だがまあ、猫のくせに「我輩」と自称する威張った猫だっているのだから、子供が「我が名は」と名乗ってもいいのではないか。少なくとも、「我が名はアラム」のほうが、「僕の名はアラム」よりは読みたくなる気持ちにさせそうだ。誤訳の名訳、ではないか。

サローヤンが描いたアメリカは、戦争前のアメリカ、あるいは戦時中のアメリカだったと思うが、今なら読んでみたい気も少しある。現在の殺伐とした、抑圧的なアメリカ(だと私は推定しているのだが)と比べるならば、まだ戦時中(第二次大戦中)のアメリカのほうが牧歌的だったのではないか、と勝手に空想しているのである。

「何でもない日万歳!」と、「不思議の国のアリス」のアニメの中でキチガイ帽子屋と三月兎が歌うが、「何でもない日」がいかに素晴らしいものか、非常時になって分かる。いや、自分で体験しなくても、ニュースなどで大事件を見ると分かる。子供というものは、毎日が「何でもない日」であり、また「毎日が冒険」でもある。大人でも本当はそうなのだが、大人は感受性が鈍化しているから、それを忘れてしまう。小説などを読むと、その失われた感受性を少し取り戻せるようだ。それは、世界が再び輝きを取り戻すということである。(なお、「何でもない日」は、「アリス」の原作では「非誕生日」で、誕生日以外の364日のことである。)



(以下「日々平安録」から転載)、




2016-04-20

[]W・サローヤン「僕の名はアラム」Add Startomatina23

 村上春樹柴田元幸のコンビの企画で、昔文庫にあったがいつの間にか消えてしまった作のいくつかを復活させようとするものの一冊らしい。確かにサローヤンという名前も昔きいたことがあったが読まないままにいつの間にか消えてしまった。柴田さんの訳はJ・ロンドンの焚き火の話が圧倒的に面白かった記憶があり、それで書店で手にとってみて、柴田氏の解説が面白くて買ってきてしまった。


 といっても実は、面白かったのはそこで引用されている同じサローヤンの著「人間喜劇」を訳した小島信夫氏の訳者あとがきなのである。いわく「小説は悪人を書いてきた。悪人でないまでも悪的要素をこれでもか、これでもかと書くためにこそ、あらゆる手法を発展させてきたのである。・・個性とは悪のバライエティだといってもいいくらいなのである。」 日本の私小説なども、人間がいかに酷い醜い存在かということの暴露合戦だったのかもしれない。


 しかし、さらに凄いのはその先。「いったいバイブルというものを読むと、私の偏見からもしれぬが、キリストでさえも、善人とは思えない。天と地の間にある、この特殊な位置が、おそらくキリストを、いいようのないきびしさと孤独と逆説とに満ちさせたにちがいないが、時に悪人の相さえも呈する気がする。キリストには寛容の精神などない。寛容と見える場合にも、私たちは油断することが許されない。次に寛容は別の人に向けられる。寛容にさえもきびしさがつきまとうからなのだ。私たちは寛容をあたえられた場合にも、次におびえなければならぬことになりかねない気がする。」 うーん。


 わたくしなどはウッドハウスのジィーヴスものなどを読んでも、なんで西欧の人士があれほどウッドハウスを賞賛するのかよく理解できないけれども、それは、西欧を覆う罪の意識の重さを実感として感じることができないためなのだろうと思う。西欧の人たちはおそらくウッドハウスの描く罪の意識のない世界を読んで救われるのである。キリストの眼差しのない世界に憧れるのである。すべての人が罪人である世界はつらい。それで、このサローヤンの短編集は悪人のいない世界、「善人の部落」を描くものらしい。


 ところで、この短編集は原題が「My name is Aram」で、まさに「僕の名はアラム」なのだけれど、「僕の名はアラム」というのは日本語としてどうもしっくりこない気がする。「ぼくはアラム」「アラムって名前」「おいらはアラム」・・なんでもいいけれども、「僕の名はアラム」といういい方はしないような気がする。漱石の「我輩は猫である」を「I am a cat」と訳したら変である。福原麟太郎氏は確か「Here am I, a cat」と訳していたように記憶する。


拍手

政治家という上級国民

「カレイドスコープ」から転載。
熊本大地震発生後の安部官邸の「高等遊民」ぶりを見事にまとめている文章である。こんな政府は国民にとって百害あって一利なしだろう。
パナマ政府に3000億円、ウクライナ政府に2000億円、
そして、熊本支援に、なんとわずか23億円である。
安部は、「総理は国民のためにあるのではなく、国民は総理のためにある」と考えていることが明白だ。こんなキチガイ、小児病総理をトップに持つ日本国民もまたキチガイなのだろう。

なお、「高等遊民」は漱石の「猫」に出てくる言葉で、社会の無駄飯食い、ということだ。「猫」の高等遊民たちは知的で愛嬌があるが、官邸や国会、あるいは霞ヶ関の高等遊民たちは本来「公僕」であるべきなのだから、許しがたい。



(以下引用)



Wed.2016.04.20  
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加 Twitter はてなブックマークに追加 文字サイズ変換

安倍晋三、菅義偉が「激甚災害指定」しない理由

熊本大地震は「大震災級」ではないので、消費税10%は生きている。
この間に、オスプレイの必要性を徹底的に国民に植え付けよう。
さらに、新しい原発を再稼動させよう。
「日本を破壊するためなら、何だってやります政権」だ。

安倍内閣が、激甚災害指定を延期しているオゾましい理由

安倍晋三という男が、異常な人格をもった危険な人物であることは、すで海外メディアによって世界中に周知されている。
それは、晋三が、自分の評判に対して、一般国民のささいなツイートにまで過激な攻撃性を見せてきたことでも自明である。

ところが、晋三の「人としての」人格的欠損要因は、それだけではない。

任期中に憲法改正を」・・・己の腐りきった我欲の強さゆえ、官邸の面従腹背の連中に利用されていることに気が付かないほど致命的な知性の欠落が見られるのだ。

つまり、状況判断がまったくできないのだ。
つくづく、日本に核ミサイルがなくて良かったと、胸をなでおろす。

この「安倍小心病」は閣僚全員に転移したらしく、アルツハイマー・二階俊博も民進党のツイートは気になるらしい。

「ぶつぶつ言っている人は現地に見舞いに行け」と言ってるが、政権与党の閣僚の誰一人も、いまだに現地に行っていないことの方が異常事態である。

まず、「なぜ、いつまで経っても「激甚災害指定」を行わないのか」・・・

国民の命にかかわる情報を官邸の菅義偉の圧力に屈していっさい報じない無法者の集団である犯罪放送局・NHKが、「政府 早ければ来週にも激甚災害指定へ」と、信じられない見出しをつけて報じた。

「信じられない見出し」とは、「早ければ」と言っているだけで、「遅ければ」再来週になるかも知れないのだ。いや、政治日程の都合で、さらに引き延ばされるかも知れない。

その間に、二次三次災害が起こるだろう。多くの被災者が力尽きてしまうかも知れない。後藤、湯川両氏と同様に「政府に見殺し」にされようとしているのだ。

政府の激甚災害指定は、「内閣府の最近の激甚災害の指定状況について」によれば、平成18年、平成21年、平成24年についてだけは、3件から4件と少ないものの、それ以外の年では7件以上指定されている。

平成23年3月11日の東日本大震災の時は、その2日後の3月13日に政令第十八号として、「激甚災害及びこれに対し適用すべき措置の指定に関する政令」として制定された。

これを機に、被災した事業者には銀行からの借り入れ資金の返済猶予、個人では住宅ローンの支払い延期などが決定された。
一時期は、住宅ローンの借入残高の返済を免除するという話まで国会で検討された。

亀井静香が震災前に決めた「モラトリアム(返済猶予)」によっても、多くの中小企業が倒産から免れた。(安倍政権になってから、それは打ち切られてしまった)
GDPは、震災翌年から、じわじわ上がり出した。

巨大直下型地震の被害状況が日に日に甚大であることが明らかになっていく最中、今日になって、官房長官の菅義偉が信じられないことを言い出した。

熊本大地震は大震災級ではない」と言ったのである。
どこをどうみても、新潟中越沖地震より被害は大きい。

これで、外資は逃げていくだろう。「こんな危険な政府の国には投資できない」と。
すでに日本のメガバンクをはじめとする金融関係者からも、正面切っての非難の声が上がっていることは報じられている。

やっていること、言っていることのすべてが支離滅裂、デタラメなのである。どんどん国が破壊されていく。

いったい全体、何が起こっているのか。

300%「ありえないこと」が、この国では日常的に起きているのだ。
そして、多くの国民の命が、この男と菅義偉のような凶悪な閣僚によって、さらに奪われようとしているのである。

被災地には最低限の物資さえとどいていない。自民党は民主党に「想定外は二度と許されない」と言っていたのではなかったのか。

赤ちゃんのおむつ、重篤な病人のケア(人工透析など)・・・NHKは、こうした肝心なことを報じない。凄まじい秩序の崩壊が起こっているのだ。

晋三が、激甚災害指定しない理由は、今月末からの外遊にある。

晋三が議長を務める、5月26日から始まる主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)で、大花火を打ち上げるための好材料を海外から仕込むために、今月末からの外遊を最優先にしたいとの考えを崩さないからだ。

まず、今月下旬から欧州各国の訪問のほか、5月初めにロシア・ソチで、プーチン大統領との非公式首脳会談が予定されている。

震災対応すっぽかしにしてこの両方のスケジュールをこなしたところで、破綻寸前の安倍政権はなんら成果は得られないだろう。

しかし、安倍晋三にとって、そんなことなど、どうでもいいのだ。GPIFの年金投資によって株価を見かけ上げたように、伊勢志摩サミットで欧州とロシアとの関係が、あたかも良好であることをアピールするのが狙いだからだ。

特に、北方四島返還については、首の皮一枚という状況にある。
オバマだけでなく、とうとうプーチンも安倍晋三に引導を渡す寸前まで来てしまったからだ。


北方四島返還交渉が危ない状況になっていることは、いずれ分かるだろう。

総理大臣が激甚災害指定した場合、「緊急対策本部」が設置されることになるが、そのとき災害対策本部長には内閣総理大臣が就くことが決められている。


防災担当相である河野太郎では、
「緊急対策本部」の責任者にはなれないのだ。

そうした裏事情を国民に悟らせないようにするために、被災地の地元自治体の首長は、中央キー局の報道にはいっさい出て来ない。
地元ローカルのテレビ局では熊本県知事などの声明は出ているはずである。

伊豆大島の三原山噴火、北海道有珠山山麓噴火、もちろん東日本大震などでは、連日連夜、被災地の首長が出ずっぱりだった。

官邸の菅義偉が、ここでも圧力をかけて報道させないのである。どこまで愚劣で凶悪な男なのだろう。

激甚災害指定してしまえば、4月下旬からの欧州への外遊、プーチンとの非公式会談も延期となって、5月26日からの伊勢志摩サミットでは、中身がスカスカの不毛なものとなってしまう。

今の安倍内閣には、悪材料しかない。

「アベノミクス」は海外のメディアによってボロクソに叩かれているし、国際的に著名投資家たちからは、ペテン師とまで言われてしまった。

それでも、「読売巨人軍は永遠です」と言った長嶋茂雄のごとく、「アベノミクスは永遠です」と言うつもりか。


福島第一原発の放射能汚染水問題は、東電に丸投げ状態で放ったらかしたまま大震災が起こった。

オバマのシリア空爆に真っ先に賛同の意を表明したかと思ったら、シリアの同盟国のロシアのプーチンに尻尾を振る。

そのロシアに敵対するウクライナのシオニスト大統領に2000億円の拠出を約束したり、エジプトにイスラム国対策のために200億円を出すと言いながら、その反対のイスラエルと武器の共同開発を含む準同盟を結んでしまう、という、世界の誰も理解不能なことを平気でやり続けているのである。

さらに、ジョセフ・スティグリッツとポール・クルーグマンの二人のノーベル経済学賞受賞者の重大な提言を無視するかのように、「熊本大地震は大震災級ではないから、現時点では消費税を10%に上げる」と公式に言ってしまうなど、すでに外交などできない状態になっている。

それでも、あたかも外交成果があったかのように喧伝しているのは、寿司ともメディアだけである。
実態は安倍晋三と彼の内閣は、鼻であしらわれているのである。国内メディアしか見ていない国民は何も知らないのだ。

官邸と防衛省制服組は、この大震災を好機ととらえて、ここぞとばかりオスプレイのデモを展開している

安倍官邸と戦争大好きの防衛省・制服組は、ここぞとばかりオスプレイのデモンストレーションをやっている。

当初、中谷元・防衛相は18日の参院決算委員会で、「米側から協力の申し出があった」のでそれを受けたと言っていたが、事実は正反対であったことが判明した。

この大震災を利用して、オスプレイが日本になくてはならない航空機であることを国民に強く印象付けるために、オスプレイを災害支援に要請したのは官邸であったことが判明したのだ。

しんぶん赤旗が、米軍の機関紙「ストライプ(日本名 星条旗新聞)」に確認して分かったことだ。

さらに、熊本県八代湾沖に停泊している海自の大型護衛艦「ひゅうが」にオスプレイを着艦させ、給油拠点に使うとの計画があることを中谷防衛相「調整中」と否定しなかったのである。

まるで、この震災が日本の航空母艦とオスプレイの強さをアピールできる絶好のチャンスといわんばかりだ。

安倍内閣のすべてが「嘘、嘘、嘘」なのである。

震源は断層に沿って北東と南西に広がっている。

それでも、規制委の田中俊一委員長は18日、「不確実性があることも踏まえて評価しており、想定外の事故が起きるとは判断していない」と、川内原発を止めない。

環境省の丸川珠代は、「原子力規制委員会が独立性を保つために、いかに機能するかということが問われている」と答弁。

よく確認してくださいな。
丸川珠代は、「規制委員会の独立性を保つために原発を停止させない」と言ったのだ。

まったく本末転倒。いかに頭の悪い大臣か、すで海外メディアでは既報となっていることではあるが。

そんな中、規制委員会は、伊方原発3号機の再稼働に向けて必要な全審査を終え、すでに40年を超えている老朽原発の高浜原発1号機と2号機について新しい規制基準に適合しているとして延長運転を可能にする審査書を決定した。

被災者が困窮して、次々とエコノミー・クラス症候群になっている事態にも全く関心を示さず、国民が何人死のうとも痛痒を感じない酷悪非道の閣僚たちのエネルギーの源泉は、「ワタチの任期中に憲法を改正して、いつでも戦争のできる国にしちゃいましょう」という、ならず者の論理である。

だから、激甚災害指定は、さらに延期されるかもしれない。

そのせいで、多くの被災者が、彼らによって殺されていくのである。熊本大地震の災害関連死が11人になって死者は合計59人に増えた。

悪いことに、次の大災害が迫っている。それは原発災害と大規模な経済災害だ。
今度は、私たちが安倍政権とこの政府に殺される番だ。

たまりかねたのか、民進党は19日、官邸に一刻も早く被災地の熊本に「災害対策本部」を設置するよう申し入れをした。つまり、民進党は、早く激甚災害指定しろ!と言ったのである。

そして、やはり19日、山本太郎議員が官邸に「川内原発の停止申し入れ」を行った。

20160420-2.jpg

なんと、官邸はノラリクラリとたらいまわしにして3時間以上も浪費させたという。結局、官邸は正式な受け取りを拒否し、外で受け取ったのである。

都合の悪い人間は遠ざける。
聞きたくないことは、耳をふさいで知らんふり。

それでも抵抗する奴には、一般人であろうが執念深く報復する。

精神異常者の安倍晋三は、そういうことだから、激甚災害指定をグダグダ言いつつ引き延ばすだろう。

「ワタチの任期中に憲法改正するためなら、国民を見殺しにしたった構わないやい」と考えているからである。

安倍晋三の政府は、震度7の巨大直下型地震が襲ったその日、パナマにモノレール建設事業費として2800億円の円借款を拠出することを決定した。

その同じ日、熊本の被災地支援には、14日の発災から6日経って、ようやく23億円が充てられることになった。

ウクライナへの2000億円といい、パナマへの3000億円といい、実質的にはどうせ返ってこないお金である。

あれだけオーストラリアの首相に尻尾を振って、潜水艦の受注を目論んでも早くも日本が外されてしまった。これも予想どおり!
インドネシアの高速鉄道計画で競り負けしたときと同じパターン。

安倍晋三が本当は何をしたいのか、まだ分からない人は助からないだろう。
この馬鹿が、わずかのヒントを与えてくれた。

拍手

カルリクレスに対するソクラテスの議論

「ゴルギアス」の中の、ソクラテスの主張の要約を先ほどまで書いていたのだが、どこかのキーを触ったとたんにそれが全部消えてしまったので、1時間ほどかかった仕事がパーである。まあ、誰も求めていない仕事だから、それはウィキペディアなどに任せることにする。今は、その気力も出ないので、その報告だけにする。報告しないと、言ったこともやらない無責任な奴だ、ということになるだろうから。やらなかったのではなく、アクシデントで、やったことが消えたのである。

簡単にまとめておく。

「カルリクレスは欲望の満足が幸福と言うが、欲望の満足は当人に害悪になることもある。それよりも、正義や節制のほうが、当人にも周囲にもよいものだ」というような話である。
だが、これは、「周囲の満足や不幸などくそくらえ。俺は、自分が満足しさえすればいいし、放埓のかぎりを尽くして身を滅ぼしても満足だ」という人間を納得させる議論ではない、と私は思う。

ざて、あなたはソクラテス派か、カルリクレス派か。上級国民はほとんどがカルリクレス派であることは確かだろう。

拍手

「ゴルギアス」より、カルリクレスの言葉(承前)

(前回の続き)カルリクレスの発言である。

けれども、始めから王子の身分に生まれた人たちだとか、あるいは、自分みずからの持って生まれた素質によって、独裁者であれ、権力者であれ、何らかの支配的な地位を手に入れるだけの力を備えた人たちだったとしたら、およそそのような人たちにとっては、節制や正義の徳よりも、何がほんとうのところ、もっと醜くて、もっと害になるものがありうるだろうか。その人たちには、数々のよきものを享受することが許されているし、しかもそれを妨げるものは何もないのに、自分たちのほうからすすんで、世の大衆の法律や言論や非難を、自分たちの主人として迎え入れるようなことをしたのではね。
いや、彼らは、正義や節制の徳という、その結構なものによって、かえって不幸にされるのだということは、これはどうしても避けられないのではないかね、もしも彼らが、自分たちの味方の者に対して、敵に与えるよりも、何ひとつ余計に分けてやることをしないというのではね。しかも、せっかく自分が支配している国の中において、そのありさまだとしたならばだよ。
いや、ソクラテスよ、真実には―その真実を、あなたは追求していると称しているのだがーこうなのだ。つまり、贅沢と、放埓と、自由とが、背後の力さえしっかりしておれば、それこそが人間の徳(卓越性)であり、また幸福なのだ。しかしそれ以外の、あなた方の言うようなあれらのもの(夢人注:正義や節制の徳)は、上べを飾るだけの綺麗事であり、自然に反した人間の約束事であって、愚にもつかぬもの、何の値打ちもないものなのだ。


(引用終わり)

さあ、どうだろうか。このカルリクレスの言葉は、道徳や倫理や法律の存立基盤を脅かす、明晰な論難ではないだろうか。私だったら、この言葉の前に、何の反論もできず、呆然と立ち尽くすだろう。少なくとも、考えをまとめるのに数十分以上は必要で、即座の応酬が前提の弁論の場では何一つ言えないと思う。そこに、「弁論術」を身につけることの必要性もあるのだが、その「弁論術」も、この「ゴルギアス」の前半部分でソクラテスに存在意義を否定されている。
要は、弁論術は真実追求の目的ではなく、その場の聴衆の賛意や弁論での勝利を得るための「迎合」だという理屈であるが、それは「哲学」や「真理の探究」を絶対視した立場だけに通じる理屈であることは言うまでもない。
そして、上記したカルリクレスの言葉に対しても、ソクラテスは「哲学的理屈」あるいは「純論理性」だけに基づいて反論し、相手を黙らせるのだが、その沈黙が同意の上での沈黙ではないことは言うまでもない。まあ、「言うまでもない」とは、その後の世界の歩みを見れば、権力者はほとんどがカルリクレスの徒であることを見れば分かる、ということである。詳しくは同書を自分で読んでいただきたいのだが、ここで、あるいは『国家』において、プラトンが正義や節制の絶対的意義の証明に「失敗」している(と私は思うのだが)ことが、その後の哲学の展開というか、人類の道徳思想が2000年以上もの間、ほとんど進歩しなかった、どころか低下していった理由がある、と私は思うのである。
何しろ、プラトンですら失敗しているのだから、これを論じるのは哲学者にとって鬼門である、と思われたのではないか。その結果、哲学は無益の学となったわけだ。

なお、ソクラテスがカルリクレスに反論した内容を、そのうち気が向いたら要約するかもしれない。
これも追記しておく。私がカルリクレスの言葉を面白く思うのは、「自由」とはまさに贅沢と放埓のことだ、という、誰もが無意識に思っていることをはっきりと言語化したことである。もちろん、倫理とは束縛の体系(カルリクレスに言わせれば、「自然に反している」もの)であるから、「自由」の対極なのであり、心から倫理を好む人など、ほとんどいないだろう。だが、好むものが当人にとって「よきもの」か、嫌われるものが当人にとって「悪しきもの」かと言えば、「忠言、耳に逆らう」を想起すれば、そう単純ではないことが分かるだろう。ソクラテスの論点も、大方、それに基づくものだ、と私は理解している。






拍手

亡者の行進

ネットゲリラ氏のユーモア感覚は私と少し似ているところがあるようで、だからその文章が私は好きなのだろう。こういうところでグルーチョ・マルクスが出てくるのがいい。カール・マルクスよりも私はグルーチョ・マルクスが好きだ。「聖者の行進」ならぬ「亡者の行進」なんてフレーズもいい。銭の亡者。国会なら「政治屋の行進」か。


「欧州連合(EU)域内で事業を行う多国籍企業に納税情報などの開示を求める欧州委員会提案は、二重課税の拡大や企業秘密の流出につながりかねず、反対する姿勢を明確にした。」



だそうで、経団連、論理性めちゃくちゃ。
納税情報を開示すれば、「二重課税」の防止になるはずでしょう。それに、納税情報開示くらいが、なぜ「企業秘密の流出」になるのか。
あっ、「企業秘密」って、脱税の事実のことね。wwww


(以下引用)

犯人「取り調べ反対」

| コメント(7)

経団連がタックスヘイブン規制に反対、というんだが、銭の亡者ですからw オリックス宮内が副会長だったか、タックスヘイブンで名前が出てるしw 銭の亡者が銭を守りたくて政治家にすり寄って、自分に有利な法律を作らせる。政治家もまた銭の亡者なので、和気藹々w 亡者の行進w 

経団連、欧州案に反対=課税逃れ対策で-パナマ文書
が団連が国際課税に関してまとめた提言案が18日、明らかになった。
欧州連合(EU)域内で事業を行う多国籍企業に納税情報などの開示を求める欧州委員会提案は、二重課税の拡大や企業秘密の流出につながりかねず、反対する姿勢を明確にした。19日に発表する。
 EU諸国はタックスヘイブン(租税回避地)の実態を暴いた「パナマ文書」の問題を受けて課税逃れ対策を強化。影響は日本企業の海外事業にも及びそうな気配になってきた。
 経団連の提言案は、欧州委の提案について「懸念する」と指摘。
事業を行う国ごとの所得、納税額といった国別報告事項は「企業の機密情報を含む」ものであり、一般公開を可能な限り回避するとした国際合意に反すると訴えた。

経団連には二軍があるらしいw おいら誘われたので間違いない。「私を入れたがるクラブには入りたくない」("I would never wanna belong to any club that would have someone like me for a member.")と言ったのはグルーチョ・マルクスだが、同じ理由でおいらも断りましたがw


拍手

プラトンの「ゴルギアス」より、古代の新自由主義者、カルリクレスその1

少し長い引用になるが、同書から、問題のポイントとなる部分を抜き出しておく。同書後半にある、カルリクレス(「ル」の字が小文字だが、面倒なので大文字のままにしておく。引用先は岩波文庫、加来彰俊訳。同書p161~p163)の発言である。世界の上級国民のほとんどは彼の意見と同意見ではないだろうか。そして、この世界の悲惨の多くはここに根本原因があるのではないか。


カルリクレス:なんてあなたは甘い人なんだろうねえ! あなたのいう節制家(夢人注:自分で自分自身に打ち勝ち、節制する人。自分の中にあるもろもろの欲望やそれに伴う快楽を支配する者)とは、なあんだ、あのお人好しの、とんま連中のことかね。
(中略)
けれども、人間、およそどんなものにせよ、何かに隷属しているのであれば、どうして幸福になれるだろうか。いや、むしろこういうふうにするのこそ、自然本来における美しいこと、正しいことなのだ。それを今、ぼくはあなたにざっくばらんに話してみよう。

つまり、正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。そして、できるだけ大きくなっているそれらの欲望に、勇気と思慮とをもって、充分に奉仕できる者とならねばならない。そうして、欲望の求めるものがあれば、いつでも、何をもってでも、これの充足をはかるべきである、ということなのだ。

しかしながら、このようなことは、世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う。だから、彼ら大衆は、それをひけ目に感じて、そうすることのできる人たちを非難するのだが、それはそうすることによって自分たちの無能を覆い隠そうとするわけである。そして、放埓はまさに醜いことであると彼らは主張するのだが、ぼくが前の話の中で言っておいたように、こうして彼らは、生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを奴隷(夢人注:道徳や倫理や法の奴隷、の意味だろう。)にしようとするわけなのだ。そしてまた、自分たちは快楽に満足をあたえることができないものだから、それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども、それも要するに、自分たちに意気地がないからである。

(次回に続く)


どうだろうか。現代の新自由主義者や、多くの世界的大企業経営者やその幹部たちの思想はこれではないか。そして、保守主義者や右翼の思想の中に、こうした「力こそ美徳であり、権利である」という思想は無いか。あるいは、ニーチェやラスコリニコフの思想も要するに、これではないだろうか。はたして、プラトン(ソクラテス)はこの思想に対して、有効な反駁はできるのか。その前に、カルリクレスの言葉の後半を次回に載せる。



拍手

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析