ついでに言えば、1962年の文章(こういうのを例に出すところを見ると、記事筆者は80歳以上だろうか。)は論理的におかしい。「一度読んだものは忘れない」と書きながら、探偵小説は即座に忘れるのか。こういう文章を参考書として読まされた、当時の受験生が気の毒である。この文章を「漢文や古文由来の表現が多い」事例とするのも不適切だろう。私の見た限りでは漢文や古文由来の表現はほとんど無い。(漢字熟語自体が漢文由来だという屁理屈は無しでの話だ。)
まあ、英語的文体として「非人称主語」や「物の複数形」(両者を含む文をでっちあげるなら「思い出たちが私を襲撃する」とか)を指すなら、そういう英語化はかなり普通になってきているとは思う。また漢文的語彙が激減しているとも思う。
(以下引用)
■日本語の英語化が進んでいないか?
私は記憶が良い、名前や顔については別だが。私は一度読んだものは忘れはしない、然しこれには不都合なこともある。――私は世界の傑作の小説なら二三度は皆読んだがもうそれを興味をもつては読み得ないのだ。近代の小説には私の興味のわくようなものは殆どない。そんなわけで数限りなくあるあの探偵小説がないとしたら私は娯楽に途惑うであろう。読む人を魅了し去つて時の経つのを忘れしめるがさて一旦読み了ると記憶から忽ち去るあの探偵小説がなかつたとしたら。
いまやビデオゲーム市場はメンタルクリニックの待合室のようだ。
そこでは制作者が直面した憂鬱や病や困難が吐露され、主として「『MOTHER』シリーズに影響を受けた奇妙なビジュアル」*3の形式で打破されたり抱擁されたりする。憂鬱はアートとなり、不安は商品になる。この世界ではあなた固有の絶望はあなたに固有のものではない。「個人的なことはすべて政治的なことである」という現代アクティヴィズムの魂は狡猾に収奪され、末尾に不可視の一文を書き添えられた。「そして、なにより、商業的なことでもある」と。(中略) 振り返ってみればインディーゲームの歴史は、常にメンタルヘルスと象徴的な関連を有していた。
上に載せた1962年の文章を読めばわかるように、明治や昭和においては漢文や古文由来の表現を文章に盛り込むことが教養の証とされていた。
現代ではそうした教養の証が「いかにカタカナ外来語を盛り込むことができるか」に取って代わったことは、「カタカナ語の氾濫」がたびたび話題になることからも明らかだ。(小池百合子の「アウフヘーベン」やコロナ禍における「オーバーシュート」など)
2021年の文章(あるブログから勝手に拝借させていただいた)においてもカタカナ語の積極的な使用が見受けられるが、それ以上に顕著なのは「翻訳文体の自己内在化」であろう。
この2021年の文章は翻訳文ではない。にも関わらず、あたかも英語から日本語へと翻訳したかのような雰囲気を感じるのは私だけだろうか。
例えば英語特有の皮肉っぽい筆致や、直訳調の日本語(「あなた固有の絶望はあなたに固有のものではない」「象徴的な関連を有していた」)など。
さらに言えば、1962年の文章はある英語参考書に載っていた「翻訳文」である。昔の翻訳文よりも、一から日本語で書かれた現代の文章のほうがかえって翻訳文らしい、そう思うのは私だけだろうか。
思うに、これまでは単語レベルでの英語化が進んできたわけだが、現在に至っては「文体レベルでの英語化」が進んでいるのではないだろうか。
そしてそれは全く不思議なことではない。現代の日本人は海外のネットサービスに頼り切っている(グーグル、アマゾン、ツイッター、ネットフリックスなど)。
そうしたネットサービスでは、英語から翻訳された翻訳調の日本語がはびこっている。
コロナ禍の自粛生活も相まって、ネット漬けになった日本人は知らず知らずにこうした日本語を吸収し、内在化しつつあるのではないか。
とはいえ、こうした傾向を私は批判したり悲観したいわけではない。
かつて日本語は漢文を手本にしていたし、それが現在は英語に変わっただけであって、むしろ日本語の歴史に鑑みれば正統な進化だといえる。
日本語と英語の距離が近くなればなるほど英語学習の負担が軽減されるだろうし、英語難民の日本人にとってはむしろ喜ばしいことだと言えるかもしれない。
追記:この種の翻訳文体について言及している人がすでにいました
https://twitter.com/tera_sawa/status/1214451516641169408?s=20&t=J7ox5uBkdsprDDWwftFjrA
追記2:どうせ誰も読まないと思ったら伸びててびっくり
念のため付け加えると、引用させていただいたブログの文体も個人的には好きなので決してディスっているわけではないです