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民族や国民としての「無意識(潜在意識)」

「播州武侯祠遍照院」に載っていた文章の一部である。「国際秘密力研究」というサイトもしくはブログの文章らしい。
全体的には私には理解するのが難しい仏教哲学の話で、ほとんど斜め読みしただけだが、私が興味を持っている「阿頼耶識」の部分だけは興味深く読んだ。
阿頼耶識とフロイトの「無意識」はよく似ている、というのは誰でも思うことだろうが、フロイト理論の欠点と私が思っている「性的抑圧」や「性的衝動」への偏執という部分への批判がここでは適切になされていて、そこも面白い。実際、人間の無意識的欲望は性的なものだけではない。暴力や殺人や破壊への欲望もあれば、創造への欲望もある。動物的本能だけではなく、その人間の属する社会によって植え付けられた「文化的偏向」も、その無意識の中にある。つまり、あらゆる「種子」が無意識の中に取り込まれ、それが「現行」となり、「現行」もまた「種子」となっていくという無限運動が人間の精神生活なのである。
「阿頼耶識」説は、フロイト説より優れた説だと言えるだろう。もちろん、フロイトの功績は、「無意識」の存在を広く知らしめたところにある。
ユングの「集合的無意識」は、逆に話を「人類全体の共通の無意識」と広げすぎたために、これも間違ってしまったようだ。これが、「民族や国家の集合的無意識」ならば、それは確実に存在する、と私は思う。それこそ、民族や国民という概念の土台ではないか。我々は日本人としての無意識によって常に思念させられ、判断させられ、意思させられ(「思念し、判断し、意思し」、ではない!)、行動しているのである。
これが、先日書いた文章中に引用した「国体の本義」の抜粋部分に相当するだろう。
さて、そうした日本人としての無意識は、古来から受け継がれてきた「日本語」や「日本文化」というローカルなものから生まれる。日本というローカルを否定すれば、日本人ではなくなる、ということだ。(当たり前の話である。)で、現在の安倍政権や新自由主義者が進めている国際化というものが「日本否定」行為であることは言うを待たないだろう。つまり、彼らは反日主義者である、という結論になる。(笑)
今の自称右翼諸君の好みはAKBなどであり、日本の古典や日本文化や日本語を守る、という話はまったく出て来ないのである。橋下などに至っては、古典文化を憎悪すらしているようだ。



(以下引用)



次に②の「阿頼耶識説」について述べる。

阿頼耶識とは、五感=前五識=眼識・耳識・鼻識・舌識・身識 と
第六意識(主に言葉を伴った認識を担う)の根底となる深層心理のことである。

この説も元々は大乗仏教の瑜伽行者の体験が元になっているらしい。
近代で現れたフロイトやユングの深層心理学のはるか以前の古代インドにおいて
既に深層心理が発見されていたのが興味深い。

この阿頼耶識の阿頼耶とはサンスクリット「アーラヤ」(ālaya)の音写で、
「蔵」という意味である。
何を納める蔵かと言えば、人間が、考え、話し、行動(身・口・意)した時に生ずる影響力の
残滓=種子を蓄える貯蔵庫のようなものとされる。

人間が何かを、心の中で考え、言葉を使って話し、身体を使って行動する、
その影響力が阿頼耶識=深層心理に蓄えられる(現行熏種子)。
そして一端蓄えられた影響力は、阿頼耶識中で刹那滅しつつも相続する(種子生種子=種子の非実体性=空)。
そして蓄えられた影響力の残滓は機縁を得て新たな行動として表面化する(種子生現行)。
行動し、行動力の影響力が深層心理に残り、その影響力がしかるべき機縁を得てまた行動となる。
人間存在をこのサイクルとして捉える。
これが「阿頼耶識縁起説」である。

現行熏種子・種子生種子・種子生現行のサイクル=阿頼耶識縁起

これが阿頼耶識説の要諦である。要するに、行動とはその場限りのものではなく、
確実に深層心理に影響を残すから、一瞬一瞬の「こころ・言葉・行動」のあり方に
気をつけよ、という実践哲学と言える。
一瞬一瞬の行動が善であれば、それだけ阿頼耶識を清め、
一瞬一瞬の行動が悪であれば、それだけ阿頼耶識を汚す。
だから常に自分の表層意識に気を付けて、自らの行動を戒めていかなければならない、
そういう趣旨のようである。


これは全く神秘なところは無い、ごくごく良識的で理に適った教えという気がする。
体験的にも、日ごろ思っていたり、繰り返している行動が咄嗟の場合にも無意識に
出てきたりする。一瞬一瞬になされた行動の積み重ねが自分自身の人格を形成していき、
良くも悪くもなるのは確かだと思う。気を付けたいものである。

これは陰謀追及の視点からも応用できる。「洗脳」の問題である。
洗脳とは基本的に潜在意識をターゲットになされる。
それは単に言葉による刷り込みだけではなく、映像や音楽を使った刷り込みなど
媒体は多岐にわたる。食物や薬物による味覚を通じた刷り込みも洗脳の一種と言えるだろう。

こう考えると、洗脳は潜在意識をターゲットにするとは言うものの、
潜在意識を支配する為には、「五感」という「関所」を通らねばならないことに
気付く。さらに五感のみならず、五感と共に働いたり、五感と無関係に働いたりする、
表象作用や思考作用など仏教の認識論で言う「第六意識」も潜在意識に至る「関所」である。
(五感と共に働く意識を「五倶の意識」、五感と無関係に働く意識を「独頭の意識」と呼ぶ)

つまり、潜在意識への支配を防止するには、五感と思考(前五識と第六意識)を通じて
入ってくる情報に常に気を付けておくことが重要になってくると思われる。
見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりしたことの影響力が
もれなく潜在意識に影響を受け付けるのだとしたら、潜在意識を汚され、支配されない
ためには、常に六識のあり方に気を付けることがシンプルだが着実な道だと思われる。
(古来これを「六根清浄」と言った。「六根清浄」は現代においては洗脳防止の指針に
なりうる標語であると思う)

最古の仏典スッタニパータから引用する。


1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」


「気をつけること」と言われると「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれないが、
このシンプルな戒めこそ、「煩悩克服」のみならず、「洗脳防止」のための普遍的な
指針であり、金言に思えるのである。参考にしてまいりたい。
確かに、一瞬一瞬気を付けていれば、刷り込み洗脳の侵入する余地はない。
とはいえ、無意識の内に誘導してくるのが洗脳のプロなので、
なかなか難しいことだが、指針として心がける事が重要であると思う。
現代人は常に心理戦の脅威にさらされているという事を忘れるべきではない。

ちなみにだが、この唯識で言う阿頼耶識と、フロイトの深層心理学でいう「無意識」、
ユングの分析心理学でいう「集合的無意識」の違いについて述べておく。

まずフロイト心理学の「無意識」との違い。
フロイト心理学でいう「無意識」とは、理性とは対立する、抑圧された欲望が渦巻く
何か衝動的なカオスとして捉えられている。
多少語弊があると思うが、どちらかと言えば理性の力で制圧・制御されるべき「悪」として規定される。

一方、唯識の「阿頼耶識」は、そのような善と悪という価値からは中立な「無記」の性質とされる。
善行を行なえば善の種子が、悪行を行なえば悪の種子が植えつけられ、その植えつけられた
種子の性質に応じて清められたり、汚れたりする、とされる。
しかし、阿頼耶識そのものは善でも悪(不善)でもない無記性なのである。
阿頼耶識がもし善ならば、人間は善しか行わないから、悪を行なうことは無いはずである。
(従って、仏になろうと修行努力する必要が無くなる。)
阿頼耶識がもし悪ならば、人間は悪しか行わず、善を行なうことは不可能である。
(従って、いくら修行しても仏になることはできないから無駄な努力という事になる。)
このいずれも人間のあり方と矛盾する。人間は善も行えば、悪も行うからだ。
心の根底である阿頼耶識を「無記性」と規定するからこそ、善を行ない、悪を避ける
倫理的実践の根拠が得られると考えるのである。これは大変理に適っていると思う。

フロイトの理論には、フロイト自身の心の病理や、
フロイトが主に診療した患者が(恐らくキリスト教的モラルに
よって)性的抑圧を強いられていた19世紀末のオーストリア社会
の上流階級の女性だったことが影響を与えている、という趣旨の解説を
読んだ記憶がある。この説明が正しいとすると、理論構築の原点に
特殊な文脈が存在するのかもしれない。
その点を差し引くとフロイトの理論は必ずしも普遍妥当的とは
言えないように思う(もっとも「理論」というのは皆そういうものであるが)。

唯識の理論からすれば「性的抑圧」なるものは、「現行熏種子」の
一つに過ぎず、たとえば、性的抑圧以外の権力欲や名誉欲、
金銭欲あるいは暴力衝動、闘争心などが強く、その欲望を抑圧している人だったら、
フロイトが診療した患者とは別の説明が可能かもしれない。
抑圧と言っても必ず表層意識によって繰り返しなされたことが
深層心理に影響を与える(現行熏種子)わけだから、
常なる表層意識のあり方如何によって深層心理のあり方も決定される、
という唯識の考えの方が、なんでもかんでも性的抑圧で一元的に説く
ように見えるフロイト理論よりも合理的に見える。人間の中に渦巻く
「欲望」というのは多様なのである。唯識はそれを冷静に観察している。
(ちなみに唯識では、六つの根本煩悩との二十の随煩悩を数えている)

次にユング心理学の「集合的無意識」との違い。
ユングは個々の人間の心理の根底に人類全体に共通する「集合的無意識」があるとする。
これは人類という種レベルの一つの根底的無意識の想定である。
一種の形而上学と言えるだろう。

唯識の「阿頼耶識」はこれとは異なる。「人人唯識」と言って、あくまでも阿頼耶識は
個人個人の深層心理であって、個人を超えた共通の無意識のようなものとは性質が
異なる。個人個人のなした心の働き・言葉の働き・身体の働きの影響力を留めるのが
阿頼耶識とされているから、当然、阿頼耶識は個人単位のものなのだ。

そもそも「集合的無意識」は「個人的無意識」とは違う、人類共通の「元型」が備わっている
という想定だが、これは五感には対象を感受する能力が人類に普遍的に備わっているし、
意識には表象能力や判断能力が備わっているわけであるから、これらも「人類に共通」と言える。
(どの民族にとっても聴覚は「聞く」機能を持ち、民族によって言語は様々あれど
言語能力が備わっていること自体は共通している)
従って、集合的無意識というのを敢えて立てなくても、人間の意識現象には「人類に共通」の
形式が備わっていると言える。だが、現象としてはあくまでも個々別々の意識現象である。
何が「共通」なのかと言えば、あり方、法則、機能といういわば「理」が共通なのである。
事=現象、理=法則であり、理においては共通でも事においてはあくまでも個別なのである。
これは華厳の四法界説を取り上げた時に言及した。
集合的無意識という「人類に共通の無意識」を立てる発想は、事と理の峻別をせず、
理の同と事の異が同時に成立する事を見誤ったがゆえにたてられた説だと考える。
かりに「集合的無意識」のようなものがあったとしても、「人類に共通」というのはあくまでも
他の五感や表層意識と同じように「理」においてであって、「事」においてはあくまでも個別のものだろう。
(例えば、母なるものをふっくらした土偶でイメージしたり、父なるものを老賢者でイメージする傾向。
そのような「理」としては共通性があったとしても、実際にイメージしたり、潜在的イメージを
保持したりするのはあくまでも個々の意識・無意識=事である。
もっとも実際にはこのようなイメージは文化的な文脈に依存すると思われる。
ある人間が生まれた文化共同体によって繰り返し刷込まれた共同主観的イメージ。
これもまた「現行熏種子」の機制と言えるかもしれない)
そうでないと、形而上学的実体としての「一者」を立てる新プラトン主義のような形而上学説になる。
理の共通性に過ぎないものを事の共通性とはき違えるとオカルトになる。

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