惰弱なる日本に残された時間はあとどれくらいあるのか
自分も含めて、日本人は全体的にわずか数年前の過去のことをすぐに忘れてしまうのだろうか。これに比べてユダヤ人は数千年も前のことを忘れずに子々孫々に言い伝えている。例えば“マサダ”である。マサダとはヘブライ語の要塞という意味で、イスラエルの東部にある歴史的な遺跡である。そこは自然に切り立った崖からできている峻険な岩の砦である。
西暦66年にユダヤとローマ帝国との戦いが始まり西暦70年にエルサレムは陥落した。避難民の兵士と女子供を含む967名はマサダに籠城した。マサダは峻厳な自然要塞であっためにローマ軍は攻めあぐねていたが、大勢の捕虜と奴隷の人海作戦で崖を埋め、突破口を築いたという。西暦73年、ようやく避難民の陣地に突入したローマ軍は、戦う相手が一人もいないことをすぐに悟った。967名の内、女性2名と子供5人を除いて960人全員が集団自決していたのである。
約2000年前のこの遠いできごとをユダヤ人は昨日のことのように決して忘れないという。ところが日本人はどうだろうか。わずか70年前の集団自決、玉砕死、特攻死について、ほとんど何も記念しないし何も決意しない。それどころか大勢の人がまるで唾棄すべきできごとであるかのように、そのことを記憶から消し去ろうとしている。
同じ血が流れていた直近の先祖たちを、まるでエイリアンか何かのように異邦人扱いして恥じない。このような忘恩の徒に変節しているからこそ、日本は貪り尽くすアメリカに心まで牛耳られ、亡国のとば口に立たされているのだ。
マサダの自決例と、今村仁(いまむら ひとし)起草の戦陣訓にある「生きて俘囚の辱めを受けず」が同質のものかどうか、浅見にして判断できないのだが、少なくとも平安時代から武士階級には戦時における心構えがあったのであり、それは江戸時代の常朝の「葉隠」などにもあったものだ。人間だれしも死ぬことは恐怖であり、第一に避けるべきは自死である。
しかし、場合によっては死ぬことが不可避のことや、死ぬよりも耐え難いことがあるのも事実だ。日本人は全てではなかったにしろ、一千年以上も死生観を研ぎ澄ましてきた歴史があった。それがわずか70年に満たない月日の東京裁判史観や戦後教育で死滅してしまったのだ。先祖たちはさぞかし無念ではないのかと、凡愚の身ながら時折斟酌(しんしゃく)する。
神州の泉の母は満州北部の開拓団にいたが、ソ連兵に追われて家族と離れ離れとなりながら、命からがらハルビンまで逃避行をした。空腹と疲労で参っていた母たちの集団へ、満人(中国人)の子どもたちが握り飯を売りに来たという。
その時、母たちとは別の集団でハルビン市にたどり着いたある武家血筋の奥さんが、やおら懐刀を抜いて高く差し上げ、空腹で握り飯に飛びついた日本人たちに向かって、『いやしくも日本人であるなら、浅ましい振る舞いだけはするものではない!』と喝破したそうである。周囲が押し黙ってしまうほどの大音声だったそうだ。
母はこの奥さんも空腹で疲れきっていたことを知っていた。また、母は「武家の女性はほんとうに肝が据わっている」と、このとき強く感じたそうだ。母が伝えようとしたことは何だったのだろうか。この当時は決然たる死生観を持っていた日本人がまだいたんだよということだったのか。今となっては分からない。
生前、母は何度もこの話を自分にしてくれたのだが、それを思うと、若かった母にはよっぽど印象深いことだったのだろう。ふと思う。今、このような凛冽(りんれつ)なる日本人がどこかにいるのだろうか?鼻水とよだれを垂らし、惰弱なる平和に埋没した日本は、今、グローバル資本によって、富だけではなく精神も未来も奪い去られようとしている。
戦後は、アメリカの価値観とアメリカの核にすがりつきながら商魂だけはたくましい日本人となった。だが、何か大事なことを置き忘れているような気がしてならない。いつまでも戦勝国を飼い主として崇め奉り、先祖たちを軽視する日本人はもう先がないのでは。