「大摩邇」所載の井口博士のブログ記事の一部だが、非常に示唆的である。
白人言語を「動物語」、日本語を「人間言語」としたのは卓見かもしれない。
いずれにせよ、「祖国とは言語である」と誰かが言っていたが、日本語の滅びる時、「日本人」も消滅しているだろう。外貌は日本人でも、それはもはや日本人ではない何かなのだ。言葉(心内語含む)が人格を作るのは当たり前の話である。
(以下引用)誤字が多いのは毎度のことで、そのままにしてある。
白人言語を「動物語」、日本語を「人間言語」としたのは卓見かもしれない。
いずれにせよ、「祖国とは言語である」と誰かが言っていたが、日本語の滅びる時、「日本人」も消滅しているだろう。外貌は日本人でも、それはもはや日本人ではない何かなのだ。言葉(心内語含む)が人格を作るのは当たり前の話である。
(以下引用)誤字が多いのは毎度のことで、そのままにしてある。
いずれにせよ、白人種、特にアングロサクソン人は動物を手懐けるのがうまい。
それは、平文と命令文と疑問文しかない言語上、人間に対してと動物に対してとまったく同じ言葉を発するからである。
いわば、動物の言葉だからである。
むろん、そこで語られる言葉や概念は動物には理解できないほど込み入って複雑で難しくはなるが、言語体系事態は至って動物言語に近い。
その点、人間言語である日本語とは全く異なる。
人間言語を話す日本人が、動物言語の英語でものを考える場合、日本人は自然に人間性が退化する。
したがって、その人の魂が濁り、劣化する。
主語は日本人には無数にあり得るが、英語では1個しかない。
だから、日本語では人間の男女や地位や人格や犯罪の誰が話すかを主語の違いで区別できる。
したがって、文章に話す人物の魂のレベルの違いを表現できる。
しかし、英語や西洋語の場合には、犯罪者も聖人も君子も一般人も男女も動物の犬猫の区別なく、たった1個の主語でしかない。
だから、文章だけでは何者が話すか理解できない。
こういう言語による大きな性格の違いから、日本人がアメリカで英語で生活していくと、一種の催眠状態のような不思議な気分を味合うことになる。
自分の微妙な違いを性格に英語に表現するすべがないから、相手の米人のいうがままにならざるを得ない。
こうして、いつの間にか、相手が動物を手懐けるように話すその話し言葉により、その米人のポチに育てられてしまうわけだ。
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