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新コロ詐欺で試される「言論者」の資質と品性

小田嶋隆氏(新コロ問題に関しては「師」ではないので、「氏」と書く。)のツィートだが、この文章自体が詐欺的である。氏自身が、「論敵の主張を極端化したうえで論破」する論法を使っているわけだ。もちろん、それは相手の論法の事例を出しているとも言える(そう見える)わけだが、問題は、それによって新コロ詐欺を擁護していることだ。
だいいち、「ゼロコロナはありえない」→「だから怖がるのは無駄」という「二段論法」をしている人間が本当にいるのか。
実際は
「ゼロコロナはありえない」→「新コロ自体、さほどの危険性はない」→「だから怖がるのは無駄」
というのが通常の新コロ詐欺批判者の論法ではないか。その途中を飛ばして「相手の論法事例を勝手に作っている」わけだ。
つまり、ここで小田嶋氏がやっていること自体が「論敵の主張を極端化したうえで論破する手口」ではあっても、その事例としている
「ゼロコロナはありえない」→「だから怖がるのは無駄」は、適切な事例ではない。
まして、その事例を「どんな病気だって完璧に根絶はできない」→「医療はまるごと無意味」と同一視するのはまさに詐欺的である。新コロ詐欺批判者が「医療はまるごと無意味」と主張しているはずがないではないか。「論理構造が同じなら、言っていることが同じ」ということになるはずがないし、しかもその批判している論理構造事例自体が捏造に近いのである。
そう言えば、このような「相手の言っていないことを相手の主張だとして議論に勝つ」論法を「ご飯論法」とか何とか言って批判していたグループに小田嶋氏も属していたのではなかったか。
新コロ詐欺で在マスコミ言論者が難しい位置に立たされたのは分かるし、ポジショントークに走るのも仕方が無いだろう。ただ、「言説によって無辜の人々を害しない」ことは言論者の最低限の心がけだと思う。難しいポジションにいる人間は、こういう場合は「黙っている」のが一番だ。得意分野で無害なことを言っていればいいのである。




(以下引用)

「論敵の主張を極端化したうえで論破する手口」をけっこうな大人が大得意で振り回していることに驚愕している。「ゼロコロナはあり得ない」→「だから怖がるのは無駄」とか。とすると、どんな病気だって完璧に根絶はできないわけだから、医療はまるごと無意味てなことになるぞ。それでいいのか?

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