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混沌の美化という妄想

「混沌堂主人雑記(旧題)」と書き続けてきたが、今回の引用記事は、混沌堂主人氏が真面目に「天皇否定論」を書いているので、その姿勢に敬意を表し、現在のブログ名を明記したいが、覚えていないので、御免蒙る。うろ覚えだが「春曲丼より混沌麺」だったか。混沌麺は「広東麺」の洒落だろうか。(私は、混沌状態があまり好きではないが、氏が「混沌堂」を名乗るのは謙遜なのだろうか自賛なのだろうか。)

引用した氏の議論は、戦前・戦中の日本には見事に当てはまるとは思うが、今の「象徴天皇制」にはまったく当てはまらない議論だと思う。
もちろん、「上司無答責」という悪習慣は今の日本にも瀰漫しているだろうが、それは天皇とはまったく無関係な話だ。他国には部下の「抗命権」があるというのも神話だろうと私は疑っている。つまり、名目的にはあるが、実用は不可能だというわけだ。だからこそ軍隊が馬鹿な戦闘をする事例が膨大にある。企業でも同様だ。むしろ、西洋社会こそ「上司の権限の絶対性」があるからこそ、欧米企業が馬鹿な行動ばかりしてきたのだろう。

天皇や天皇家を「殺し尽く」せば社会が良い方に変わることなどありえない。むしろ、アナーキズムと思想的殺人免責の非人道的社会が生じるだけだろう。つまり「春曲丼(ハルマゲドン)」が来る。そして、混沌(カオス)状態がそれよりいいとも思えない。不死鳥が焼き尽くされて新たな不死鳥が生まれるのは、神話か妄想でしかない。ついでに言えば、不死鳥が焼き尽くされるとは、現在の社会が完全に亡びることであり、全人類、あるいはひとつの社会の現在の成員すべてが死ぬことでしかない。あまり、詩的に陶酔しないことだ。

(以下引用)引用記事中の記事筆者による引用部分は未読。考察材料としての転載である。

「天皇」が日本を滅ぼす理由。

2024 - 01/27 [Sat] - 11:08

事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年)
思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕
見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」す
るという姿勢の反復である。
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 )
これらの原因に「天皇」とその無責任が、大きく関わっている。
日本では自衛隊ですら「上官の命令責任」が曖昧である。
これは、自衛隊が「まともな防衛組織」でなく、「まともな組織」ですら無い証拠でもある。
それを、私なりに説明してみる。
上官の命令で、部下が動く。
その命令で、虐殺等の戦争犯罪を起こしたとしたらどうか・・・
日本では「上官の命令に違背することは、即違法。」と自衛隊でも。旧軍でも「上官の命令は天皇の命令」で違背は、即違法でなんなら処刑だ・・。
それで起こされた戦争犯罪は、部下は抵抗して止めれない。止めたら即死だしな。
なら、それで起きた戦争犯罪の大きな責任は、実行犯の部下よりも、命令を出した上官に多くある。
それが、マトモな論理展開で、世界のどの国家も、この論理で法律・軍法が作られている。
そこで、部下が「これはおかしいし、下手したら軍の信用を失って敗亡の元にすらなる」と「抗命」して、止まれば「戦争犯罪」は予防できる。
また「抗命権」を認めると、それを認めないことで「全部の命令責任」が、上官に掛かるのを、部下が「抗命権」を持つことで、軽減ができるのだ。
「なら、そりゃ、反対したらいいし」って論理が通用し、それが軍隊・組織内で通用していたら、正当な抵抗が可能になる。
またそれでおきた戦争犯罪は、上官に責任が第一に有るが部下も「抵抗しなかった」と、責任の分担が起きて、個々への責任が軽減される。
なら「上官の命令責任」を明確にして、「抗命権」を規定し認めた方が良いはずである。
「上官の命令責任」 を認めて規定しないと、そもそも「組織」が、マトモに機能しない。
上官の命令責任が、明確でないと、それ自体が「忖度」を生む。忖度は「脱法的」であり、責任の所在をさらにあやふやにする。
それで、失態や戦争犯罪が起きても、責任は「部下・実行者」に擦り付けることになる。
だが、そんなことは他国やほかの組織には、「知らんがな。そりゃお前らの管理責任がなってない」って話で。
戦争中の、日本企業が朝鮮人や中国を勧誘や拉致をして過酷な労働をさせていた例が腐るほどあるけど、これも「責任の所在」をあいまいにすることで「逃げ切る」のが、この国の思惑であるが。
そもそもこういうことを認証したり推奨した「国家」の責任も、曖昧なのである。
そりゃ、軍隊の「上官の命令責任」すら明確化してないし、上官の責任逃れに従うのが「忠義」と買う言っていたカルトですから、「責任の所在」など曖昧になります。
それの逆噴射が、戦前の暴走する「帝国陸海軍」なのです。
上官に「責任をとらない・取らせない」ために・・・あるいは「天皇」に責任を取らせないために、同時に自らの勲功を上げるために、勝手に「忖度」し命令を偽造して、暴走して侵略を止めれず、中国大陸の深みにはまって衰亡していく。
そもそも「責任」をとらないのだから「暴走」しても結果がよければ、「無問題」が、横行した。
それは「軍人が傲慢」とかの問題ではなく「そもそも上官が責任を取らない・天皇は無責任」なので、「命令に絶対服従」でも「結果を問わない」のなら、その「意図」を「忖度」して、「結果」を出そうとするのも、当然の話なのだ。
「天皇」が無謬で神聖なら、「天皇」がそれでないのなら、「天皇」の廃位か廃止だが、それではない。
「天皇の無謬」は、現実に対する「無謬」でなく、それに追従する人間に対してだけ「無謬」なのであり、外国人や畜生・仏神・草木瓦石からみたら、相対的な一物でしかないのだ。
事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年)
これが「天皇が無謬=無責任」を日本国の指導者が守り続ける理由であろう。
その「決定した誰か」となって責任を取りたくない、失敗したら。
だが、「成功」したら、その「決定した誰か」が多くの栄光を得るハズなのである。
その「無責任」で「栄光」だけを、指導層・天皇家が得るために「天皇の無謬=無責任」が不可欠なので有り、それに反対する者を、すりつぶしてきたのが、現代日本であり、それが衰亡の最大の原因なのである。
その結果なにが起きたか・・・・
一つは「自己責任論」である。
国家・政府が、基本的に日本人の統治に責任を持たない=天皇は無責任だから、そもそも選挙権を得ても、その国家が「日本人を守る」統治をする保証が無い。
日本国憲法に「国家が日本人を守る責任が有る」と明確に記しては無い。
まして、改正以前の憲法の「天皇」が唯一の統治権者でありながら、前の敗戦に全く責任が無い・・・てことを前提に、法律・法治思想ができあがっていたら、そりゃ、国家が日本人を守る責任が無いか希薄になるのは、当然である。
国民を守らない国家・・・・においては、自分で自分を守るしかない。当然隣人を守るのも躊躇する。家族を守るのも危険になる・・・。
 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。そして、この状況を大本教の教祖である出口なおは「獣の世」(※)と呼んだのです。
「倹約の美徳」を称賛し、将来に備えるため「貯蓄」に励みました。勤労を前提として、社会保障を限定する自己責任型の福祉国家を維持することができたのです。ここでは出口なおの案じた「獣の世」は、限定的にしか現れてきませんでした。
 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。
今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。
日本の協調性の半分は「同調圧力による脅迫」であり、それに背くと「消される」からで、それを避けるための「おもてなし」なのです。
日本人は社会を維持するために悪意ある行動や意地悪な考え方を培ってきた。前近代の村社会において最大の正義は「共同体の維持」だ。手を取り合わなければ生きていけないからこそ、秩序を乱すものには罰を下してきたし、はじき出されれば生きていけない。とすると、日本人の礼儀正しさや親切さは社会から村八分にあわないための同調圧力に起因するものであると言えるのではないか。
「一致団結」とはいうが、内心はいつも面従腹背。
「考えて行動」など、「一致団結」の邪魔になる。
考えて、「責任の所在」を調べ出すと、天皇はじめ指導者=責任者の責任を問われる。
その「自己責任論」で、他の倫理「助け合い」「思いやり」が、軽視され忘れていくと、自然「嘘」「誤魔化し」「奪い合い」が普通になる。
天皇の無謬~国家が国民に責任を持たないことで、あらゆる悪徳が発生していくのだ。
もう少し理屈や文章を練りたいけど・・・
ともわれ「天皇」と「天皇の無謬~無責任天皇」が、日本人を殺し、日本を永遠に破壊し続けて、もうすぐ日本人は死滅します。死体と家畜の二つになって。
コメント欄に
少なくとも「無責任」なので、それを頂点・象徴にする組織・社会の「責任の帰属」やそれに付随している倫理観が、あやふやになる。
そのために社会に「責任忌避」「他人に責任を押し付ける」気風を助長する。
同時にそれゆえに「自己責任論」のような過酷に庶民の自助を強要する一因になる。
責任忌避をするために強者・権威に追従し、それでない弱い人達に、責任や厄災を押し付ける「切り捨て」が社会全体で横行する。
「自助・共助」とか言いながら、自助至上なので、共助すら機能しがたくなる。
その結果は、一種の「権力崇拝」が、天皇~象徴天皇の根本思想となり、その社会は、弱肉強食の殺し合いで、社会と言うよりも、やくざのシマとなる・・。
無論、そんな社会が「国家組織」の法治が機能するわけがない。
日本は防衛組織でも「上官の命令責任」が曖昧なことを伊勢崎賢治氏が指摘されているけど、そのよう組織をまともに機能させることすら、不可能。。
まあ「上官の命令責任」の明確化をすると、前の敗戦に「天皇に責任が有る」と明白ですし。
倫理も破壊し、法治も最初から無い。それが「天皇~象徴天皇~明治帝政」。
てのが私の私見です。
にしても、かなり「欠陥」だらけ「問題だらけ」なのに、日本の知識人・法律家は、平然と受け入れている。
「天皇」システムは、あと前の記事のような「鵜呑みで信じろ!」的詰め込み的教育の精華なのでしょうね。
天皇が、日本人殺戮の最大の主犯である。
天皇家を殺し尽くして 日本人を救う
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。
お読みくださりありがとうございます。




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