渡辺京二の「逝きし世の面影」を斜め読みしているのだが、いろいろ示唆的で面白い。
ここでは、「日本人と嘘」というテーマを出発点に、倫理における「嘘」の問題を考察してみる。
もちろん、どんな倫理でも道徳でも宗教でも嘘は罪であり有害だとされている。
では、嘘はなぜ有害なのだろうか。
それは、その嘘が聞いた人の判断を狂わし、何かの害(損失)につながるからだろう。そうでない嘘は許容されてしかるべきだ、というのが私の考えだ。そうした嘘の代表的事例が冗談であり、小説などのフィクションであるというのは納得されるはずだ。冗談を聞いて本気にする人間はよほど幼稚な人間か馬鹿であり、冗談を言うほうも、相手が本気にしたら大急ぎで誤解を解消する努力をするだろう。小説に書かれたことを事実だと思う人も、まず、いない。
つまり、嘘というのは他者に害を与えない限り許容されていいはずだが、世間の道徳はすべての嘘を頭から否定するわけだ。まあ、嘘を細分化することを面倒くさがる無精さの結果だろう。あるいは「嘘はすべてダメ」、と教えるほうが「愚民支配」には都合がいいという判断だろう。
などと考えたのは、「逝きし世の面影」の中に、書かれた次の部分がきっかけだ。
「(欧米人の日本観察者は)日本人の道徳水準に高い評価を与えるのが一般だった。ところが一方、彼らの多くは日本人の道徳の質について深刻な疑念を抱かないわけにはいかなかったのである。」「彼らをまずなやませたのは、十六、十七世紀のイエズス会士の報告以来、もはや伝説と化した観のある『日本人の嘘』であった。」「オールコックやハリスが許すことができなかったのは幕吏の常習的な『嘘』だった。」
最後の部分は、日本人なら誰でもピンとくるはずである。日本の組織でよく見られる、「判断責任を与えることもせずに外部との交渉任務を与えられた人間」が「その場しのぎの嘘」をつくパターンだろう。
(追記)こういうツィートを今見つけたので転載する。
それはともかく、私が言いたいのは、「日本人は嘘をつくことに罪悪感がない」としたら、それは何か悪いことなのか、ということだ。これは大胆な言葉ではあるだろうが、嘘をつくことで「嘘を言わない場合より悪い事態が起こることを防ぐ」意図の嘘は咎めるべきものだろうか。言い換えれば、嘘というのはいかなる場合でも許容されないものか、という疑問だ。そんなはずはない、というのが最初の「冗談」や「小説」で説明したとおりだ。
要するに、嘘が害悪であるのはビジネスや外交交渉などの場合(カネや組織責任が絡む場合)であり、そういう場面で嘘が許容されたらすべてが滅茶苦茶になる。それ以外の場合は、嘘はむしろこの世の潤滑油として容認されるべきで、それが常識となるべきだろう、というのが私の提言だ。もちろん、世間に害毒を流す類の嘘が許容されるべきではない、というのは当然で、政治家やテレビ芸人(御用評論家、大学教授含む)が嘘をついて世間に害毒を流しているのは言うまでもない。私が言うのは、市井の日常世界の話である。ちなみに、社交辞令というのが、誰でもすぐに目につく無害な、あるいは有益な「嘘」である。午後近くなって「お早うございます」と言う挨拶ですらすでに嘘である。
ここでは、「日本人と嘘」というテーマを出発点に、倫理における「嘘」の問題を考察してみる。
もちろん、どんな倫理でも道徳でも宗教でも嘘は罪であり有害だとされている。
では、嘘はなぜ有害なのだろうか。
それは、その嘘が聞いた人の判断を狂わし、何かの害(損失)につながるからだろう。そうでない嘘は許容されてしかるべきだ、というのが私の考えだ。そうした嘘の代表的事例が冗談であり、小説などのフィクションであるというのは納得されるはずだ。冗談を聞いて本気にする人間はよほど幼稚な人間か馬鹿であり、冗談を言うほうも、相手が本気にしたら大急ぎで誤解を解消する努力をするだろう。小説に書かれたことを事実だと思う人も、まず、いない。
つまり、嘘というのは他者に害を与えない限り許容されていいはずだが、世間の道徳はすべての嘘を頭から否定するわけだ。まあ、嘘を細分化することを面倒くさがる無精さの結果だろう。あるいは「嘘はすべてダメ」、と教えるほうが「愚民支配」には都合がいいという判断だろう。
などと考えたのは、「逝きし世の面影」の中に、書かれた次の部分がきっかけだ。
「(欧米人の日本観察者は)日本人の道徳水準に高い評価を与えるのが一般だった。ところが一方、彼らの多くは日本人の道徳の質について深刻な疑念を抱かないわけにはいかなかったのである。」「彼らをまずなやませたのは、十六、十七世紀のイエズス会士の報告以来、もはや伝説と化した観のある『日本人の嘘』であった。」「オールコックやハリスが許すことができなかったのは幕吏の常習的な『嘘』だった。」
最後の部分は、日本人なら誰でもピンとくるはずである。日本の組織でよく見られる、「判断責任を与えることもせずに外部との交渉任務を与えられた人間」が「その場しのぎの嘘」をつくパターンだろう。
(追記)こういうツィートを今見つけたので転載する。
「よきにはからえ」と言って、本当に怒らず結果を受け入れるなら、そりゃあOKだけど、結果が悪いと「お前が悪い」って怒りだすからなあ。現場に責任を押しつけるな、の一言に尽きる。
それはともかく、私が言いたいのは、「日本人は嘘をつくことに罪悪感がない」としたら、それは何か悪いことなのか、ということだ。これは大胆な言葉ではあるだろうが、嘘をつくことで「嘘を言わない場合より悪い事態が起こることを防ぐ」意図の嘘は咎めるべきものだろうか。言い換えれば、嘘というのはいかなる場合でも許容されないものか、という疑問だ。そんなはずはない、というのが最初の「冗談」や「小説」で説明したとおりだ。
要するに、嘘が害悪であるのはビジネスや外交交渉などの場合(カネや組織責任が絡む場合)であり、そういう場面で嘘が許容されたらすべてが滅茶苦茶になる。それ以外の場合は、嘘はむしろこの世の潤滑油として容認されるべきで、それが常識となるべきだろう、というのが私の提言だ。もちろん、世間に害毒を流す類の嘘が許容されるべきではない、というのは当然で、政治家やテレビ芸人(御用評論家、大学教授含む)が嘘をついて世間に害毒を流しているのは言うまでもない。私が言うのは、市井の日常世界の話である。ちなみに、社交辞令というのが、誰でもすぐに目につく無害な、あるいは有益な「嘘」である。午後近くなって「お早うございます」と言う挨拶ですらすでに嘘である。
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